酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

法事

入梅前日、嘘のように素晴らしい夏空の一日であった。

ヤーよかった、本日この日は家族の一大イベント、お祖母ちゃんの23回忌の法要だったからね。
 
しかし何故かいつもここにお墓参りに来るときはとっても暑すぎるかんかん照りの青空なんである。
 
で、強い陽射しと濃い影、広い青空非日常のお寺、この異界的な眩い世界に目を細めながらお墓のお掃除をしたりお香を焚いてお花を供えたりなどして墓石を眺める。いつも不思議な気持ちで己のルーツ、ご先祖さまや宗教のことを考える。

しかし暑い。やっと予約した時間になったので粛々とお堂の中へ。

 
表の汗ばむような眩い夏日が嘘のように本堂の中はすうっと涼しい。すべてはきれいに浄められいて、木やお香のほのかな佳い香り。
 
そして一連の儀式。
お坊さんの読経は好きである。これは実にライブパフォーマンスであると毎度しみじみと感じ入る。最初の鐘の音を耳にした途端、心は幽玄の異界に導かれてしまう。

で、いざ始まると意外と激しいライブなのだよな、これが。ちょっとしたロックコンサート並みだと私は思う。木魚パーカスもかなり激しいリズムを刻んでるし、坊様の美声でうねるように高く低く朗々と唄われるお経も妙ちくりんなようでなんだか心に響く歌の歌詞みたいにあれこれ考えてしまう楽しさだったりしてね。
 
仏界を夢見た人々の創造した細やかな細工の施されたお堂の完璧な舞台装置、お香の香り、木魚のリズム、鐘の音、美声で歌い上げるお経。これは五感への罠、まったくのトリップ装置だ。古来からそうだったんだろう、よろづの民を酔わせてきた。(イヤそりゃあまあ眠りそうになったけど。)
 
で、これも毎度のことだけど、キリスト教と仏教の違いについてもしみじみと考えた。まあざっくり言ってしまえばどっちも生活の知恵なんだな、ということなんだが。
 
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帰りはお昼どきである。
車で山道に入って山小屋蕎麦屋へ。

ここは駐車場も素敵な木洩れ陽ゆらゆらの木陰なのだ。
心ときめく山小屋体験、サーヴィスされた熱い蕎麦茶がとってもおいしかった。(おかわりした。)


前菜は厚焼き卵や厚揚げあん肝乗せ、それからチーズと味噌だったかな?お芋サラダやもろきゅう、サクッと音のするかき揚げや魚介サラダ、そして蕎麦とろ、ざる蕎麦。

実になんというか、おいしい蕎麦はおいしいのだ。
(蕎麦大好き。)(蕎麦飲みも大好き。ゆったりと麦酒を飲みながらおいしい料理、窓の外はゆらゆら美しい初夏の緑。この平和で穏やかな時間を楽しんでいるアベックの幸福な風景にほのほのと優しい気持ちになる。)(私もやりたい、と魂を彼‐彼女の物語の中に飛ばしてみたりね。)
 
〆の甘味は蕎麦ケーキ、苺ソースと牛乳寒天。蕎麦には林檎が合うと思うんだけど(煮林檎をしっとり焼きこんだふんわり蕎麦ケーキは、蕎麦の風味と林檎の風味の相性にびっくりで、昔何度も拵えた。)とりあえず蕎麦屋の誇り、さすが外さないとこだな、蕎麦ケーキ。ウム。
 
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そして最後に連れてってもらったのが、
「ワーこれはほんとにほんとな隠れ家カフェ!」
…っていう感じの古民家カフェ。
 
昼下がりの光に鎮められて一層ひっそりと現実感を失った見知らぬ田舎町、菓子屋の横の隙間のような緑金の光ゆらめく路地を抜けたところにある夢の時空。

いつでもこんな秘密のお部屋に通じるどこでもドアが欲しいものだ。

 
その夢見た力が、心の深奥に、永遠にこの記憶を開くチャンネルを、その扉の向こうの無限の夢そのものへとつながるチャンネルをくれることを私は知っている。
 
生きてきた記憶が、夢見る力、夢見続ける力、現実をそこに重ね未来へと生きる力、存在意義そのものなのだ。
そのインテグレードの中にすべての意味が、レーゾンデートルが、個が、個を超えた夢の永遠の無時間の時空、ドリ―ム・タイムが開かれている。(オーストラリア、アボリジニたちの神話にあるアレね。無限の神話的時空。
 
浅煎りブラジル、本格的に丁寧に淹れてくれて大層おいしうございました。