酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

近所のカフェ スイーツ男子とかコロナとか戦争とか

どんより暗い底冷えの朝の氷雨が上がった。
ぱあっと胸の奥を照らすような陽射し。
きらきらと眩い雨上がりの午後の陽射し。

嘘のようだ。
束の間の魂の自由、このひとときがあればこれからも生きられるかもしれない。
こころがすべての現実の牢獄を忘れるひとときが。

…ということで、近所のカフェで渋く深煎りブラック珈琲をキメながら再読中の本を開く。

まぶしすぎるほどの昼下がりの陽射しが不思議なシマシマに切り取られている。壁いっぱいの大きな窓に金色の光に縁どられたブラインドが切り取るシマシマだ。

本の中の世界と私の存在のありようが、想像と記憶の中の風景が、ここに溶け合ってゆく。メディアフィールドの発生。

どこか違う時空に、どこまでも繋がってゆく。焦点の合わない多層の曼陀羅の解放、常に遍在する真理と自由と解放のあるところ。

向こう側のテーブルには、にきび面のちょっと地味な感じの男子高校生3人組。
…昨今の男子はこういうちょっとこぎれいなカフェチェーンなんかに来るんだよね。各々の携帯をいじりながら、もちゃもちゃと彼らの言葉で彼らの世界を会話している。彼らが見えている世界も何もかも我々の頃とは違っているんだろう。あの子たちの見ているものは我々には見えないし我々がみていた世界の風景もあの子たちにはわからない。

けれど同じあのころ、あの世代にいる。アドレッセンス。嘗て我々もいたところ。ミステリーだった男の子たちの世界があのころのような異性に対するさまざまな未知の神秘のヴェールははがされてまた別のものに見える。可愛らしさをも含めて。

なんというか、要するにコンプレックス多めのちょっと地味めの男の子たちで。(後々文学者や芸術家、表現者になったりするようなタイプはこういう高校生なんじゃないかしらんと私は思っているんだが。)
女の子にほのかに幻想抱いてたりあんまり女の子と話できないような。

時代を超えてクラスの中でのさまざまのグループ分け、スクールカーストとかも言われるけどさ、メンバー構成論理の空気の普遍と不変を感じたりするんだな、なんかな。

あの頃の私や私の周りの世界が今の私のそれらとダブってほのかに切なくほのかに辛く、遥か上方にほのかに甘くひとつ柔らかな微笑みを誰かが浮かべているような心持ち。

…ノートパソコンを開いてみるメガネの君、それぞれがスマートフォンを眺めたり見せあったり。

そして、ヲイ。いやいいんだけど。男子高校生が小遣いやバイト代で何を食べようともワシは別に。

でもね、ちょっとビビったの、正直言って。

頼んでたもの。
キャラメルポップコーンフローズンにコテコテ(ものすごく美味しそうな)ピスタチオショコラの君。アイスクリームと生クリームがこってり山盛りのコーヒーフロートに、モンブランクリームにチョコやマロンのアイスクリーム、生クリームにアングレーズソース、キャラメルナッツにグラノーラ、バナナやなんかもうもりもりの憧れモンブランパフェの君。

そして残る一人はダークモカチップフローズンにふわっとろパンケーキ…いやホントに言ってたのヨ、ちゃんとメニュー名。「ふわっとろパンケーキ」…照れるだろう、普通。花もはじらう男子高生が「ふわっとろ」ときちんと発音して。そして蜂蜜入りメープルシロップたっぷりかけてたよ…

もちろん品物届いたときには順番に写メ撮りあいっこ、もう女子高生と一ミリも変わらんのな…

さすがに「わあ~っ♡」っていう可愛らしい歓声を上げあうことなく、そこはかとなくもそもそとした手つきがそこはかとない渋さを醸し出してはいたが。

それにお洒落カフェでコテコテそんだけたべたらおやつだけでかなりな散財だろうに高校生よ。我々の頃は駄菓子屋でガリガリ君がデフォルト、リッチな気分でせいぜいジャイアントコーンマクドナルドにモスバーガーがわくわくスペシャルのせいぜいだったが!(これは都立女子高生)(都立男子高生はまた別の分野で活躍していたらしい。大食いカレー屋やラーメン屋やラーメン屋やラーメン屋や。かっこいい人たちはライブハウスやなんかとかもな。)

そう、最近スターバックスなんかをざっと眺め渡したりすると(電車やカフェの醍醐味は様々の人々の生きてる物語がしばし異種交錯している不思議なメディア空間となっているところだ。私は銀河鉄道のモチーフはこれだと思っている。カフェでは特に風景となって見られる自分と見る自分の意識の分離と交錯が鳥瞰と内的意識のアマルガムとなる現象が顕著となる。巴里のカフェ文化なんかでよく言われてるとこだけどな。そう、ここが醍醐味なのだ。)(巴里のカフェ文化はもっともっと根付いた歴史と文化が深いけどな。芸術や文学や政治、哲学なんかのサロン的なとこがあるし。)話題のスイーツやフラペチーノなんかを頼んでる客層が想定されやすい女性たちや女子高生よりもむしろ男の子3人組とかばかりだったりするのには結構ジェネレーションギャップ・ショックで驚いてるんである。

ほんにご時世ですなあ、の一言。
そして楽しげにスマートフォンで写真を撮っているさまざまな男の子たちの風景というのもなかなかいいものなのだ。

我々の頃はなんか思春期自意識とかもあって恥ずかしがる男の子のが多かったもんね。逆に女の子のくせに、も多かったけど。(その方がずっと激しく厳しく深刻に多いケースであった。)(大学のときのゼミで、ゼミで一番の親父面とゼミで一番の強面ふたりがホテルのデザートビュッフェでケーキ食い放題してくるからってものすごく愛らしいほほえみを浮かべていたとき、ごめんだけどゼミ女子みなが激しく腹筋を震わせたのは私たちが時代に囚われていたお育ちのせいであり内面化された権力に加担していたという事実は敢えて認める。)

なんかね、でも本当に、皆なんのきまり悪さもないご時世、純粋に楽し気なのっていいなあ。

世の中、びっくりするほど息苦しく悪くなったところも大きいけど、逆に息がしやすくなったところもある。多様性の蠢き、グローバルの巨大資本の一面化の蠢き。抑圧されていた者たちとそれに対して鈍感に搾取していた者たち。おおわれ隠されていた歪みが噴出し、両者が叫びながらがくがくと不協和音を奏でて衝突している。これらはどう止揚されうるか。

たとえばね、コロナ禍と世代交代の困難、手軽なチェーンカフェ勢力やなんかのご時世で地元で長く愛されてきた老舗のカフェが、その歴史と趣を生かした形でスターバックスが敬意を込めた徴を店跡に残していたり、同じチェーンとはいってもご当地性を強く打ち出してその土地の文化への敬意を示すことが両者の利益と愛というかたちに変わっていったりもできる。折り合い地点を探るということだ。何のために経済があるのか?をすべての個人が、大企業の中の個人も個人として問い直すことがただ当然のこととして受け入れられてゆくわかりやすい生きやすい社会の形に。理念のために正義のために人が犠牲になることが通るようなよくわからないことがおこらないために。

コロナ。戦争。災害。試練と胎動の時代なんだろなあ。