新しい時代の新しい元号の発表された記念すべきエイプリルフール、今日この日に、何もこんなしょうもないことを書くこともないのだが、なんとなく。(元号発表に関してはあれこれ思いはあるのですが。令和。)
ゴボジン。
このくだらなさがどうしてか忘れられなくて一生モノの記憶になっているのだ。子供のころ読んだ実にナンセンスなエンタテイメントSFであったような記憶。
きんぴらごぼうが大好きなのに貧乏だから同時に人参と牛蒡を買うことができなくてあんまり食べられなかった天才博士が、その生涯をかけた発明品の話。牛蒡と人参をシマシマにしたキンピラゴボウのためのハイブリッド野菜ゴボジンを開発し、さらにはタイムマシンを発明して昔の自分に腹いっぱいキンピラゴボウを食べさせるのだという一生の夢を実現させようとする、そこでタイムパラドックスがおこってどうのこうの…というお話。
何十年も気になっていたこの品のないゴボジンというネーミングセンス。ちらっとツイッターでつぶやいたら、すぐにいろんな人が本のタイトルを教えてくれた。これはもう仕方がない。検索し、わざわざ図書館に取り寄せてもらって…読み直した。
横田順彌「脱線!たいむましん奇譚」
記憶の通り実に素晴らしくくだらない名作であった。
…いやあ、少々感動したんである。
このただならぬ饒舌、ダダ洩れの才能。
こんこんと湧き出る水の尽きぬ泉のようにひたすらあふれ流れでる言葉、深い教養を保証するゆたかな語彙。踊る言語、戯れる論理。それらはすべてこの上なくくだらないナンセンスのためにある。この素晴らしい教養と知性と才能が湯水のようにムダに消費されているという驚異の世界。ああ、くだらねえ~っと笑われるために消費される道化としての語彙。
…なんかねえ、昭和SF名作の黄金期、この独特の哀愁と反骨の美学を秘めたディレッタンティズム。例えば、けれども筒井康隆や星新一や小松左京、これら徹底した大家たちの裏面にこれまた位置するんではないか、この作者は。軽んじられたこのジャンル、なんだろ、北杜夫とかそのあたりと近似してるかなあ。すべてをナンセンスと冗談に還元してしまってみせる。さびしい暗鬱とどこか背中合わせ。
実はね、昔はともかく、今は嫌いじゃないかな、とも思うんだけど。いやらしさも低俗さも、どこかその「時代のお約束」におもねった高度経済成長時代のサラリーマンのイメージ、ドリフターズ的なおどけた哀愁ばかり感じさせるものだから、自家中毒を起こす饒舌の迷宮。小気味の良い言語の洪水。泡沫のように砕けて消えてゆく寂しさと優しい笑い。スラップスティックではあっても不思議にどこかにほのかな小さな幸福をあたためているような、けれども、けれども、という問いを消せない。毒や痙攣すらないひたすらの自虐ではあるけれど。それは鋭い知性がひたすら自家中毒をおこしてゆく風景のようにも見えて。
時代の匂い、そのノスタルジーへの思い入れなのかなア。