実家近く。
土曜日、青空お日さまぽかぽか晩秋の陽射し、静かな町でシュークリーム工場の裏手を歩くのは幸せ。次々とシューが焼きあがってゆく香ばしい匂いでいっぱい。
静かな町に冬の影は長い。ホフマンや梶井基次郎、ドラえもんのなかの影の物語や影絵遊びのことなんか思い出し、影と光と本体について考えながら、考えてきた人間の想念の世界の実在のことなんか考えながら、目に映るのは、包まれているのは、ぽかぽか青空。いったいこれ何なんだろう。内部なのか外部なのか。世界の中に私がいるのか私の中に世界があるのか。
どっちも本当なんだろうさ、シュレーディンガー。誰にもわからないことはわからない。論理学や確率や蓋然性なんて関係ない。不可知論と言ってしまえばそれまでだが。
だけどさ、こんな穏やかな土曜日が、どうか現存するすべてのひとびとに、ずっとずっと失われませんように、ほんに胸が痛くなるくらいそれを願うよ。世界の平和を願うとはこんなにも胸が痛むような心持ちのことをいうのだろうか、それとも違うのだろうか。
私はひとり、昔、いとこたちと夏休みの、夜、本家の古いふすまと障子の部屋で打ち興じたさまざまの遊び、影絵遊びのことを思い出して、一人踊るような仕草をして、踊る私の影の不思議を感じ、その懐かしい喜びに心をひたした。
そして歩きながら歌を聴く。脳内で音楽は、歌は響く。
たまたま友部正人だったのだけど。
賢治は単純に二項対立による文明と自然の対立の構図からくる自然崇拝者だったのではない。幸福な散歩の中でくるくると「チュウリップの幻術」の季節の春の光の杯に酔うディオニソス的イメージについて考えていた。そこにある狂乱、騒乱と眼前の静けさのダブった両立のダイナミクスにのみ存在しうる陶酔の感覚を。
倫理や道徳の枷を取り払われた彼の魅力の核のところにあるのは、世界という存在の奇跡とその不思議の楽しさだ。
今、見慣れぬ郊外の街が静かな光の中にあり、シュークリーム工場からシューの焼ける香り。直売店の看板、季節限定品は生チョコマロンロールとフロランタンエクレアであった。
風景の中に故郷を探る。私の属することのできる世界を、心の故郷を探す。
…ああ、やっぱりもうだめだな。もう故郷はどこにもない。
私は何者なんだろう。
もう世界中どこにも戻るところがない。帰りたい。故郷に帰りたい。
ここはめいっぱい幸福でめいっぱい切なかった。涙があふれそうに哀しかった。
ひとりになりたくてひとりが一番でひとりがあんまりさびしくて。
*** ***
「世界の果て」
キイ・ワードはこれだ。
学生時代の夏休みをアイルランドの両親の下で過ごした。
あちこちに連れて行ってもらった。
人生の果てにいるような心持の時、あの日々の風景を思い出す。
そう、思い出したのだ。チャンネルが開かれる。
アイルランドの、都市から離れた、時代から取り残されたような峻厳な山や厳しい岸壁に縁どられた海の風景をいくつも越えたその向こう側の。それは時間をさかのぼるような道行で。
観光客さえ訪れない、英語の標識もない(ゲール語だけだ。)、辺境。
世界の果て、という言葉を思った。
時間が止まったような、ゲール語しか通じない、昼間から薄暗いバーで飲んだくれているだけの休日を過ごす村人の男たち(おそらく女たちは家でおしゃべりしたり生き生きと、或いはくたくたになってただ…働いている。)の風景の中で。
日本の現実があることの方が夢なのではないか、という感覚に襲われた。
何もかも未来のない繰り返し、或いは世界の地平のその葉て、世界の終わった後の風景の中にしずみこみたかった。奇妙に明るい薄闇のイメージ。或いは闇に囲繞されぽっかりと浮かんだ薄灯りの夢の空間。
私の脳内での「世界の終わり」の時空である。(春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」)。
あの、内部へ、内部への森に深く果てないようで、しかし閉鎖された閉塞に閉ざされた謎のインナーワールド、その静謐。けれどその安らぎ。
光は奪われ私の視力は私の影は切り取られ、そしてそこは「外部」から閉ざされてはいるけれど、それは高い城壁に護られているところでもあった。
そしてやはり学生時代トルコで過ごした夏休み。
真夏のまばゆい光の中、けれどその対極の光の中ではやはりあのゲール語地帯と同じような表情を見せる世界の果ての世界があった。トルコのあのさびれたリゾートの季節外れの昼下がり、男たちが昼間から飲んだくれている。幾百年の毎日が繰り返されている、同じ風景。おそらく永遠に繰り返されているのだ。時は止まっていて。
あの風景がひたすら怖くて寂しく情けなくて悲しいようでいて、だけど、不思議な安心感がる。あきらめの果てにあるもの。私たちという異邦人が外部から見たときそれは初めてそのような真実を得るのだ。
陶酔。
本当にただひたすら何もかもあきらめてなんの希望も未来も考えなくていい至福。外部としての私の眼差しはそこにそんな「真理」を見る。
だから私は異邦人のままその深奥の魂となりたかった。取り返しのつかない不可逆ラインを超えて越境し、その異界にしずみこみたかった。デュオニソスの狂乱とは対極のところに在りながら共存している陶酔と酩酊。事分けられた論理が失われる恐怖を敢えて越えたところに在るヌミノーゼ、畏怖と魅惑。
ユングによって「至高体験」と描写される、相反するものがひとつのものである己を越えた魂の故郷のフィールド、圧倒的なその甘美と陶酔。
その「至高」とは、おそらくは至福と哀しみ、うまれてきたこと、存在の奇跡とうつくしさ、たくさんのチャンネルの多層を同時に生きている十戒互具で満たされるとき、と描写しても矛盾はしない。
だが私のいちばんのさいわいのチャンネルは実は本当にそこに繋がる。
だって、修羅にいようとも仏界を備えている。それは哀しみが至福に昇華されうるという牢獄消滅の奇跡のチャンネルなのだ。どのような宗教も学問も哲学も科学もみな同じこの「感覚」のことをその虚無としての真理の核の周辺としてアクセス法として備えているのだ。宗教も科学も将来にはただ共に証明されるものとして賢治がそんなありえない未来の夢と祈り矛盾をブルカニロ博士に語らせたように。知性と人類の進む方向を導く車輪の両輪だ。科学と宗教。どちらかに偏るとき倒れてしまう。
普遍に散らけてしまったら私は失われてしまうのではないのか。
もともと故郷はこの想念の中ではあっても、外界との絆の力によって成り立たなくては個としては生きていけない。
そんな風な切れ切れの思考がめぐる。