酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

戦争というのは非常に怖い

戦争というのは非常に怖い。怖いものには近づきたくないんだが大抵怖いものは向こうからやってくる。暴力は向こうから襲いかかってくる。理不尽は向こうから襲いかかってくる。

不安と恐怖、そして寂しさに耐えきれず憎悪と暴力に変換する人間というのはいるものなんだ。あらゆる智謀策略をもってシステマティックに物語を構築し、最も卑劣で唾棄すべき愚劣さを感じさせる残虐で卑怯な方法を編みだして存在意義を賭けたゲームを仕掛ける。己の首を絞めながら。最も愚かな選択をする。

そうだ、にんげんの精神は虚無に向かうその孤独と寂しさが窮まったところではただひたすら無意味な虚無となりただ気が狂い大声で叫びながら或いはひっそりと滅ぶように崩壊し、閑かに夢の中に死んでしまう。日常生活の確かさを、生命の手ざわりを、社会性の物語がそれを支えるものであることはシステムの中で見失われやすい。にんげんの精神とは元来ここを踏み外すことに耐えられるようにできてはいないのだ。

やがてどちらかのバランスを欠いた方向へ狂ってゆく。そりゃそうだ。今日のこのような絶望に堕ちてゆきながら死んでゆきたくない、と胸が痛くなるほどに激しく私は思う。

そう、だから大抵は最も簡便な方法で変換しようとする。災厄は方違えする。他者に向ける、巻き込む。欲望、欲望、欲望のゲームの物語。

底なしの虚無にかたちを与え形代に身代わりさせる物語を構成する。或いは勝ち組になる。やる方になり、やられる犠牲者、弱者をつくりだす、侮辱することによって辛うじてそのゲームの中に恐怖の気を紛らわす。優越によって頼りなく存在を保とうとする、簡単で、より一層、醜くさびしいかなしい壮大な人類の浅ましさのるつぼの方向へ。

それらが集団となって権力機構、システムを構築し、やがて自律的に物語を再創造しつづける化け物になって戦争と抑圧の闘いの歴史を綴っていった。リヴァイアサンの考え方はつまるところこちらに流れるのではないか。

だがさらにそれの拵えあげた虚構の正義と暴力に蹂躙されつくすのは個々の人間存在にとってはは耐えがたいものなのだ。もちろん。

闘わねばならぬ。反動としての運動は必ず起こる。逆説の物語が構築される。
歴史はそのような揺り返し揺り戻しの繰り返しにつづられてきた。

だがそれは繰り返しなのではない。らせんを描いている。おそらく。
全く同じことが繰り返されているわけでもない。
おそらく。

だからひとつひとつの自我はひたすら粛々と考え、信じるべきものを決意し新しい世界像を祈りそれに沿ってゆかなくてはならない。心ある智がミイムとなってあらゆるアクセスから一つの祈りが核として形成されることを皆で心を合わせるために、ただそのことを一生懸命考えて。

漱石は救済の方法論を「狂か死か宗教か。」の三択とした。だがここで言葉にしない先品全体、彼はここに作品として芸術、という綜合救済の提示を個人のためのひとつの方法論として行なっている、と私は考えている。個を乗り越えることのさまざまのひとつの方法論。こころ、のように己は自死し、世代に受け継いでゆく、それでもいい、実は構造としては同じものだ。

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…だけど私はもうだめなんだな。
もうめんどくさい。生きることがこんなに大変でなくたっていいのにと思う。
…(私はただ今踏み外しかけているのかもしれない。生きる者のせかいから。ただ一切れ残される言葉にしがみつく。)

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生まれてしまったからには生きねばならぬ。(アタゴオルのヒデヨシもそう言っていた。)生きるからには幸福でなければならぬ。幸福でなければお天道様に申し訳がたたぬ。大きかろうと小さかろうと個人だろうと家族だろうと組織だろうと、そう、国家だろうと暴力はそれ自体がすべての人間の中にある罪業として認識されるべき間違いである。

神を得た人間が神からそむくとき罪が生まれる。神がなければ罪はない。自然それ自体に罪は存在しない。罪業も正義も人工物だ。エロティシズムが禁忌の設定と逸脱、その二重の侵犯によって成立する文化であるように罪も正義も逆説のもとに存在し始める文化である。

とりあえず寂しくて独りぼっちなのは仕方がない。

そしてそれなのにさらに今あらゆる次元のレヴェルから怖いものがやってきたらその全てにどうやって対処をすればよいのか。

とりあえず今朝は与謝野晶子パンク・ロック魂に触れた。その痛みを昇華した先にある芸術の領域に、鋭く磨きぬいた強い尊い輝きを眩く眺め、弱った心は涙ぐむ。

午後の春の陽射しに優しく美しく幸福な思い出と世界を思い出しその遠さ近さに涙ぐむ。戦争詩人と悪口を言われた三好達治の大好きな美しい詩をいくつも思い出し幸福になる。

「山果集」より「一枝の梅」。

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 嘗て思つただらうか つひに これほどに忘れ果てると

また思つただらうか それらの日日を これほどに懐かしむと

いまその前に 私はここに踟蹰する 一つの幻

ああ 百の蕾 ほのぼのと茜さす 一枝の梅

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優しい朝の光のぼらけ、丁寧にポットをあたため細く細く湯を注ぐ。香ばしい豆の粉が湯気の中ふっくりと膨らんでとびきりおいしい香りのよい珈琲が淹れられたのでその時空をそのままつめこんで鞄に入れる。

明るいベンチに座り、熱いのを少しずつ啜って、その熱で胸の奥にその時空を呼び出だす。召喚するのだ。それは精霊だ。父と子と精霊の。

香りはほの甘く魂を満たす。おいしいは正義などと呟く。

背中にほかほかと暖かい午後の陽射しをあびてそのまま空の広い公園で漱石を読む。漱石の美文と芸術論とヒューモアにしみじみと遥かな青空を見上げる。漱石の心のパーツを呼び出す。イマココの、この空に広げる。そしてこの向こう側にさまざまの人々がさまざまな時間を暮らしている。そのことに心を飛ばす。古今東西が心にひらける。

だが今ここにいる。考えられない痛みと恐怖と屈辱の中にある人の存在が針のように心に刺さる。それが嘘でないならば一度人類は滅びてしまわなくてはならないのではないのか。賢治が「猫の事務所」で「半分」(ここが絶妙)ヒステリー起こして「解散してしまえ」と吠えたライオンに共感したように、シンゴジラがやってきてすべてを破壊してしまうべきなのではないのか。

そうしてできたら私の意識はそのときただこの静かで美しい春の空の梅の香の世界、この日曜の公園の中にある瞬間の中にありますよう。

そうだよ、トルコの夏、あの、ひどく若かった日、あのアンカラの夏の日々、あの日曜の公園でも私は確かそんな風に考えていた、永遠にそう考えるに違いないと思い、事実そうであったのだ。世界中で日曜の晴れた公園の、ひとびとのすごす風景は永遠の一瞬でいつでも永遠にたもたれ永遠に失われず永遠に同じ幸福だった。私が世界平和を心から願うとき。

向こう側のベンチに非常に背の高いスタイルのいい青年が座る。今日びイケメンともてはやされそうな大学生風。長い手足をくしゃりと折り畳むようにしてうつくしい睫毛を伏せる。彼が無造作に手に持っている小さな紙包みから竹串的なものが何本も覗いている。「…うむむ。あれはきっとヘルシーな蛋白源焼き鳥に違いない。」

ちらちら横目で観察していると、おもむろに摘み上げられたブツはみたらし団子であった。ものすごい意外な糖質メニューである。小さいとはいえ四つくらいの串刺し五本をぺろりと平らげたあと、彼は更にがさがさとコンビニエンス・ストアの有料レジ袋からチョコレート・コーティングされたコテコテな感じのチョコレートアイスバーの袋を破るとうまそうにかじりだしたのだ。ああ欲望のままの若者の行動。

ほうほうと興味深くうなづき彼の人生の行く末や日々や我々があの年代の頃のことその後の今までの人生の道筋のことなど重ね、興味深く移り変わる人間たちの物語を感ずる、そして虞美人草に戻る。

本の中身の若者像をも今の時空の目の前の現実に重ねてゆく。こういうのは寂しく悲しく楽しい、…おもしろいのだ。

ということでふらふらとトリップしたまま夜のチャンネルは久しぶりに爆音ハイロウズブルーハーツの泥酔。(結構ミサイルマンは定期的に聴きたくなるのだ。)即死、日曜日よりの使者、映画、不死身の花、青春、千年メダル

歌と音楽、絵画。絵心も音感もないけど、芸術は偉大だ。哲学や宗教や科学やみんな一緒だ。あらゆる教養は偉大だ、そしてあらゆる人間は…

どうかしている。私は今なんの論理もなくただ怖いのだ。
漱石の「虞美人草」を読みなおす。初期漱石のこの文体、忘れているしよく知らなかった。筆に脂がのり円熟して多岐にわたる壮大な思想の深みを増した後期長編のものとはまた異なる、生硬な思想性の勝ったいささか傲慢で若々しく鋭いもの。美学への拘り、ライフワークとして「非人情」。

草枕」とテーマがつながっている。こちらはストーリー性を巻き込ませて娯楽要素もより濃くなっているが、なにしろ登場人物たちそれぞれのキャラクターの語り合う内容が漱石の思想のこの醍醐味なのだ。

幼いころの輝きと未来の思いを託した青春の小説を新しい思いで読み直す。

 

ますむら、春樹、漱石、梨木果歩、安房直子富安陽子。さまざまの時代と社会の中での立ち位置、彼らの異界に対する思想、そしてその男女の違い、女性原理と男性原理的なものをものすごく考えている。