酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

何故子供の本ばかり読むのだろう

感性が子供なんである。
別に気取っているわけではない。精神的な成熟度もそれに準じているし、よく天才神話に言われるようにそこに付随した突出した才能などがあるわけでもない。

成長しそびれただけだ。まあ要するに単なる落伍者である。
皆最初は私と同じくらい字を書くのがヘタだったのにいつの間にか同じように汚い字を書いているのは私だけになったし皆同じように子供の本を読んでいたのにいつの間にか子供の本ばかり読んでいるのは私だけになった。それだけのことだ。

皆が平気でわからないものに順応し変化してゆくのが私には理解できなかった。
大学時代普通に友達タメ口だったのに、社会人になってほんの1~2ヶ月経ったら「社会人用語」をまきちらすようになった友人やなんかも怖かった。独特の抑揚で独特の権力を絡めた物語を紡ぎ出している人種のグループに属することを主張するターム。壁ができているような気がした。ふざけているのかと思った。人間は使う言葉で己の主体をも変容させてしまっていることを自覚できない。(だがそれが生物としての本来と言っても別にいいような気もする。順応できない者が規格外品なのだ。隣組から排除される。その時どきのその場における正義の絶対を疑ってそこにのっかれない者は不幸だ。)

…だけど、それだけじゃないんじゃないかと思って、ときどき一生懸命その理由を考える。
文学とは言っても、なんというか、童話、詩のジャンル、それから青春小説というかそのあたりまでの匂い。それ以上の成長を拒否する、ということは。

大人になることへの拒否、何かを他者に関わって背負うこと、アンガージュマンへの恐怖と拒否である。

拒否から飛翔、逃避はアドレッセンスの特徴だ。
それはまた分かれ目でもある。ミッション。

で、通常は「オレも若かった。」的な「成長」ルートが成功事例のお約束として用意されている。

…だが、ただそのときの疑問や反発の心を封印しあざ笑う、また次の世代をつぶすためのプログラムを引き継ぐための「大人」へ仲間入りし魂を封印させることなくそこから回帰する、螺旋を描くのが本当の大人、というのかもしれない、と思うのだ。

つまりそのミッションは、ネクストジェネレーションとしての可能性を秘めた卵として用意された年代なのではないか、と。その大量の卵は孵ることなくことなくつぶされるプログラムが社会には用意されている。個をつぶす抑圧に対し、反抗疑問革命を叫ぶ心を保ち続ける不適合型は社会の負け組として排除される、が、そのうちごく少数は天才として開花し、子供のままの鋭さを主として文芸やアートの分野で花開かせる。これは双方テーゼかアンチテーゼかの二者択一の論理地平にある。現行社会を適度に息抜きさせながらキープするシステムの内側である。

だがしかし、そのような特殊なかたちではなく、第三の道があるのではないか。大切なのは、社会対故人、或いは若者対大人という二項対立、その矛盾を引き受けながら否定しながら社会的自己、というようなものを選び取り確立してゆく強さなのではないかと思う。そして目をふさがないままの、魂を外部に半分置き続ける強さを保ち続ける力が知性なのだ。知性とは、目をふさぐことなく耐え続ける強さと優しさの別名であり、人間性の膂力のようなものなのではないかと思ったりする。緩やかな革命、保守としてのリベラル…大人になりたい。

そしてたとえどんな形で年老いていようとも、魂の底には幼いころ頃刻み付けた世界の不思議やうつくしさに満ちた物語を、避難場所として保ち続けたいと思うのだ。生まれたこと祝福され愛されたこと祈ったこと喜んだこと。未来を無限に、世界を無限の意味に感ずる想像と創造の心の源泉。

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居酒屋は大人の楽しみ(近所の居酒屋大変楽しい。)

 

年の瀬2019 演劇と空気

28日、西荻の喫茶店のマスターのツイートにストンときた。(この方のつぶやきにはストンとくることが多い。不便な場所だけど不思議な味のある雰囲気のお店で、一回だけ珈琲飲みにお邪魔したことがある。)

「この年末になると漂う空気は演劇に通じるものがあるなと思いました。派手な演出は一切していないのに舞台上の空気が一変する、あの感覚に似ています。みんな演じてるんですね、年末を。」

集団の意志、大気中にただようココロ、見えない法(ダルマ)。集団の個々がつくりだしながらその総体が個々の要素を遥かに超えたベツモノとしての「要素+α」となるゲシュタルト構造、それは既に社会的な超越神の意志、のようなものだ。

圧倒的な抑圧をも生み出すこの「空気」と呼ばれる不可思議なモンスターについて考える。そのとき時空間=世界はその空気という法そのものなのだ。演劇によってつくられる空気(時空間=世界)の創造というシステム。どこか大衆(吉本隆明の言う権力に抗する力となり得るピュアな生活力、生命力としての大衆、オルテガのいうポピュリズムと権力に通ずるものとしての物語のかさぶたとしての大衆、その両極を結ぶ可能性。)に通ずるものがある、その怪物性と崇高さと。ただ純粋な「力」を生み出す「構造」として。

で。
とすると。

一般に言う空気(空気読めよとかそういうの)を「演劇」という概念によってとらえようとするとき。
演劇の概念がさまざまに世界全体に応用されてくる。役者という要素、舞台、ハコという設定状況のこと。劇場は劇場であり、唯一の普遍の全体のといった、真理、ではない。ある限定された一つの恣意の約束ごとの中に構築されたひとつのハコなのだ。その中で役者は空気を乱さずその劇を完遂させ劇場を保ち続けるために各々の役割を演じなければならない。だが劇場は複数ありその外側はその法には支配されない。…世界はみな演劇だ。(宮澤賢治「詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画(中略)巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす」⦅農民芸術概論綱要⦆が思い出される。人生とはそのまま劇場の舞台である、と。)

うううまく言葉がみつからないがおもしろい。
また曼陀羅網が見えてくるようだ。世界に論理構造の網の目が躍動しきらめいて開示されてゆくような感覚。その「ストン」がはろばろと無限に広がってゆく。

さまざまな宗教や芸術や学問や文学哲学自然科学、それらの知性がそれぞれさまざまな論理で言い表そうとしてきた世界の構造がすべてきれいに響き合い繋がって見える気がするこの瞬間が一番わくわくするんだ。まだ言葉にならない空間的なものとして浮かぶ、自由と解放に繋がるこの感覚。

さあお正月劇場をほどよく踊る阿呆になろう。
作り上げられたときその中でそれは真実なのだ。

実家で両親とあれやこれやお正月準備して、紅白や第九で年越し、荘厳な初日の出、正月みたいなばかみたいに非日常な青空(正月だ)がらんと空いた街、澄んだ空気、黒豆と栗きんとんと昆布巻き、鰤の入った柚子や三つ葉の香るお雑煮なんか非常に盛り上がる。

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冬はつとめて。黎明の空、ピンと空気が張り詰めて奇跡のように美しい。

「某」川上弘美

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ある日突然、気が付いたら存在していた。
病院で気が付く。そしてそこにいた奇妙な医師の指導のもとに、治療と銘打たれた「アイデンティティ確立」という目的に向かってさまざまな年齢性別を「演じながら」生活してゆく。

 *** ***

2019年秋の新作である。

…やはり川上弘美はおもしろい。どうして面白いか考えるのも面白い。
そして作品ごとにどんどん変容を遂げてゆく、冒険している、という印象がある。己の打ち立てた独自の世界の型の中にすら収まってゆくことなく、つまり職業作家として確立されたスタイルに安住し甘んずることなく、次々と新境地を開拓していこうとする作家としての魂のエナジイ、ライフワークを抱えた人間の、それ。

どの作品の頁を開いても、その文体ベースは確かに川上弘美カラーではありながら作品ごとにそれぞれが非常に手ざわりの違う世界観を以て広がってゆく。

なんと言えば良いのだろう。デビュー時からほぼ長編はすべて追って読んでいると思うのだが、歴史を刻んでゆくごとに作家としての円熟への思いとは別に、彼女の捉えようとする世界の全体像が構造として浮かびあがってくるような気がする。無限の不可知の闇或いはカオスの宇宙に浮かび瞬く沢山のロゴス世界、そのあえかな輝きの曼荼羅網、インドラの網、静かに明滅する有機交流電灯の風景。

で、最近の傾向というのが、それが一つの作品の中にオムニバス的な章立てをされて多数ー総体の関係が凝縮してきている、ということ。つまり、川上作品総体の構造モデルがひとつの作品の中に次元を下げたかたちで顕わになった世界像を示している、というような。

それぞれ個々の作品世界、ロゴスとコスモスから成る世界一つ一つとは、カオスの闇に浮かぶその曼陀羅の一つ一つの灯火。(作品世界《一つの作品に凝縮されている場合にはそれは一つの章に仮託されるスタイルをとる。》)のひとつひとつがその灯火に対応するものとしてある。)それぞれが闇とカオスに深く彩られているからこその健気な光としての生命、存在、コスモスなのだ。

ナウシカのラスト・クライマックスシーンの科白思い出すようだなこりゃ。…人間が浄化の神として未来に向けてプログラムしたもの、すべての人間のあやまち、闇と汚濁、滅びを忌避し払拭しようとする永遠の清浄な光の未来を提案するラスボス・知性体プログラムAIと、闇と光と滅びをともに抱え、すべてを生きようとするナウシカは対峙する。「お前は危険な闇だ。」「ちがう いのちは闇の中のまたたく光だ!!すべては闇から生まれ闇に帰る」)(ちなみに私はナウシカに全面的には賛同しない。)

川上氏の作品は、そのままその世界の個別の光の多様を渡り歩く冒険としての読書行為がしくまれているものであり、すべてがそのあえかな輝きの頼りなさ矮小さそのものを愛しむ祈りに身を浸す行為となっている。(「愛し(かなし)」という言葉は古語においてかわいい、しみじみといとしく思うという意味であった。いとしい、かなしい。この二つの感情はもともとひとつのものであったのか?…その関係性をしみじみと私は考える。)個別世界とその関係性から成るトータルの関係を探る言葉のかたち。

…まあね、とりあえず当たり外れがある、と言ってもよい。初期の方が好き、とかこの路線はあんまり、とか、いろいろ好みも別れてくるだろうと思う。とにかく敢えて文学として様々な冒険、試みをしているような気がする。

 *** ***

この作品は読み始めて、まず、あ、「大きな鳥にさらわれないよう」の系列に連なる手ざわり、と感じた。(レビュ記事アップしております。こちら。)人間とは、個とは、アイデンティティとは一体そもそもなんなのか、どうして今わたしたちはこのようであるのか?その疑問を、その外部、即ち内部のコモンセンスとして塞がれた限定された視点や感覚をもたない、人間ではない生命を仮定することによってその複数の多様な視座から根本的に問うてゆく。

一見異端であるようでいて、根源的な問題意識としては「私とは何か」という命題に真っ向から立ち向かう生真面目なほどに正統派な文学だ。

文体が鼻についちゃったらダメだろうな、とは思うね、確かに。春樹もそうだから。(そりゃあもう春樹の文体の臭みには定評がある。ピカである。)そこんとこは危うい。個性的な癖にどうしても鼻につかない文体は漱石だけなんじゃないかという気がする、個人的には。そしてだが川上弘美のこの作品の文体はどこか漱石を彷彿とさせるところがあると私は思う。シンプルなのだ。視線がまっすぐなのだ。疑問の抱き方がシンプルにして論理的。何かにおもねる心によって歪められることのない、オブセッション、圧力を伴った論理の物語に惑わされることのない無垢な視点。ついには非論理に至る、禁じられた論理の限界に挑む果てない疑問。言葉はその自己矛盾の露呈する臨界点、前提とされている物語の基盤を探り当てようとただシンプルに問い続ける、ソクラテスみたいにさ。「理屈っぽいキャラクター」にそれを仮託してみせて会話の中で茶化してみせたりするのが一種あざといテクニックだったりするんだけど。

外国人が日本人を不思議がることによってはじめて己の国民性を、その独自性を初めて対象化して知ることができる、というような原始的な構図。その手法として人間以外の生命体の視点を仮定するためにSFやファンタジーの形をとったものが「大きな鳥に…」だった。この作品(「某」)もその構図を持つ。まあね、イマココの現実社会という作られた物語世界にとらわれないために、これを対象化する役割を担った異界設定という構図は幻想文学として割とスタンダードなものではある。

オーソドックスな言い方をすれば、それは異界からの視点を取り入れイマココを「異化する」(ロシア・フォルマリズム)という構図であり、構図の原型としては実は今までの氏の文学のスタイルとまったく変わらないのだが、やはり個別的スタイルとしての冒険を孕み、独自の味わいをもったものとなっている。

…まず大前提として、各章が個々の様々の人間のドラマをあぶりだしてゆく物語としていちいちおもしろい。ミクロの視点からも、それを統合し鳥瞰するマクロの視点からも常に同時に双方から作品を鑑賞する現場が生まれる極めて巧みな構造をもっている。

で、それがふわふわとしたこの独特の文体、ヒューモア感覚に包まれて展開しているものであってだな。そしてその根底にあるもの、致命的に魂を刺し貫く力、抗いがたい氏の作品の魅力とは、だな。

…世界にひたすらに瀰漫する、たまらない切なさ、寂しさ。
存在の持つ原罪のようなかたちをした寂しさ。その不条理の切なさ。

それは、それがここでは存在の痛みを救済する唯一の方法論として提示されているものなのではないかと私は思う。作品世界のその果てた先にどのような生き方を選んでゆくか、登場人物たちの生き方に託して。…なんとも非常に逆説的なんだが。

自己或いは他者の、存在(自己或いは他者、愛する者すべて)としての「個」が失われる死と喪失の寂しさ、恐怖。それを超克してゆく手立てがこの読書行為には孕まれている。非常に切ないのは、耐えきれない、痛ましいほどのあきらめや寂しさが否定されることもできず瀰漫されたまま、ただおおきなものへと止揚されてゆく、矛盾すべてを包摂してゆこうとするこの作者独自の物語スタイルによる。

誰一人として定型化された悪役やつまらない人間はいない。ただ彼らは全員が等しく作品の紡ぐ言葉の中にまっすぐに分析されてゆく。非情なまでに冷徹なまでにまっすぐな知性をもって。さまざまの角度をもった複数の主体の複眼によって。決して作者の超越目線から正邪や真贋を決めつけぶったぎられるのではなく。問い合い続ける対話によって浮かび上がってくるものを読者が掬い取る、「読書の現場」の共同作業がおこなわれる。

そしてこの作品においてその構造とは、主人公が、語り手としての主体自体が次々と変幻するものである、つまり主体そのものがひとつのものでありながら章ごとに切り替わってゆく、年齢性別性格すべてを変化させる力を持った人間ではない存在「誰でもないもの」である、という奇妙な設定という方法論によってなされているのだ。ルーツがない。理由がない。気がついたら既に存在していた、なんの記憶もなくただぽかんとしてそこにいた主人公。…巧みな構成だ。存在の不条理。

そこからすべてが始まり、(彼ー彼女)の物語は各章ごとに平等にひらたく読者の前に開陳されてゆく。投げ出されてくる。次々と名前、性別、年齢、国籍を変えてゆく。嘗て己自身であったものを内面からも裁くことのできるそのときどきの章の焦点主人公、主体。それは個々の章における人間模様の物語、そこに生み出される圧倒的な切なさ、あふれるような熱い思いのエナジイと共にあり、内面からと外面から、双方から語られることとなる。

丹羽ハルカ。野田春眠。山中文夫。
マリ。ラモーナ。片山冬樹。ひかり。みのりーひかり。

作品の章毎に同一でありながらの他者性を帯びながら語り手は変化している。

ラスト。
主人公・ひかりは他者である恋人みのりのために死に、みのり(彼もまた人間ならざる「変化する者」の一族である)は変化して性別を変え、ひかり(に似たもの)となって己の中でさまざまにひかり的なる存在と語り合いながら、眼前の世界を眺めている。

語り合う。その喪失への寂しさとあきらめを喪失ではなく己の中のその「喪失」に見えるものによって自分が自分であることを得たことを、そしてそれが人を愛し己を愛し世界を愛することの同時性として得られたものであることを。

「『ひかりは、しあわせだった?(中略)あたしは今、けっこうしあわせかもよ。』」

嘗てみのりという少年であったものは、存在としてみのりでもなくひかりでもないあたらしい「みのりーひかり」として共に生きるひかり的なるひとりの女性としての存在となり、過去を背負ったままこれから広がるジン・テーゼとしての未来と日常を思いながらただ広がり流れる世界の風景をながめている。そのたくさんの物語を抱えたまま、未来の新しい恋のことなど考えている。

終わりと始まり、いつもながらその不思議な光にみたされた、さまざまな解釈に開かれたラストシーンである。(この読後感が非常に好きなのだな自分。投げ渡されたものは頁から上げた瞳に映る世界を意味で満たす。)

自己犠牲と自己(エゴ)確立の物語を共に否定したところ、…止揚したところにあるのがこの結論としての私・あなた・世界の関係性、その存在のかたちなのだ。お互いの存在、アイデンティティの枠組みが崩壊し溶けあってしまう「あいとそんざいのかたち」。

或いはそれは自己幻想、対幻想、共同幻想。瀰漫する、愛。死によって繋がれる生、受け渡される、愛のバトン、そのかたちの成立する過程を描く物語。

…この構造を見出したとき存在は存在として完成する。同時に、それは「死と他者を内在させることによってしか成り立たない個の生」として描かれている。虚無と闇とカオスの海に浮かぶ意味と光の世界構造の「体感」。他者の中に生きる、他者が己となる、その自己崩壊による自己実現という矛盾。この矛盾を描くことによって表現される愛と存在のかたち。関係性としての存在論、文学的相対性理論とも呼ぶべきもの。…これがこの作品の物語のダイナミクス、主人公としての語り手が「誰でもない者」から「あたしはあたしになった」へのジャンプを成立させた意味=物語である。

 *** ***

とにかくね、ラスト近く、みのりとひかりの愛の日々の描写は圧巻ヨ。
川上弘美節炸裂。幻想の、夢幻の道行にも似た二人の生活と会話は、かぎかっこをいれない会話体と本文の溶け合いやひらがなの多用、夢の中をゆくような混濁したシーンの明滅の技術によって見事に溺れさせてくれる。時空を飛び越え超越したところにある閉じられた近未来を思わせる世界。死へのお約束フラグたちまくりの世界の果てや終末の予感に彩られた、涙が出そうな切なさに満ち、同時に笑ってしまうほど圧倒的な恋と愛に満たされた日々。 

 *** ***

タイトル「某」はこの作品のラストにひとことだけひらりと閃く作品読解のための手がかりの光だ。

それは、嘗て同じ「誰でもない者」の仲間であったが、命を狙われたために敢えて器としての肉体を捨て、ただ純粋な認識主体として、VR、ネットの海の中に消えていった津田(ホセ)の呼び名としてひかりが選んだ呼称である。

「誰でもない」「某」であった主人公が「ひかり」となる、その輪郭を得て、すなわち死すべき「有」であることを得て、幸福に「死」をも「得た」物語を際立たせるために対比されるもの、
哀れな、万能の、不死の、究極の「誰でもないもの」。

死をもたないものはアイデンティティとしての生をも持たない。

この津田はもうもちろん、アレだよね。「攻殻機動隊」のアレ、草薙素子。ネットの海に消えていった者。純粋な認識主体としてのみ在る者。計算されうる情報の中のみ存在するAI。

人間存在とは、魂とは、知性とは、両者は一体どのように分離されうるのか、というこのテーマに両者は通じている。どちらも、一見相反する方向性の志向の主張をしているようでいて、訴えてくる問題意識は共通している。(「攻殻機動隊」では素子の言う「ゴースト」がキイ・ワードだ。情報から、計算からどうしてもはみ出すもの。これによってどうしてもどうなっても素子は素子という存在として生きられる存在となっている。他者の中にも。)

…その共通問題意識「私とは、世界とは?」。
それは銀河鉄道のジョバンニが「あなたのほんとうにほしいものは一体なんですか」と問うた問いと実はまったく同じものだ。古今東西、人間の問うものは、変わらない。どうしても、割り切れない、問い続けなければならないものから未来は拓かれる。希望も、破滅も。

じいん。

 

…このレビュは総論だ。自分のためのメモ。読んだ人にしかわからないメモ。
これから各章ごとに各論として構造分析、総論を裏付けしてゆくことはできるはずだ。まだまとまらないふわふわとした綿雲のような考えのカタマリが先に見える。だけどさ、実際プロの研究者でも学生でもないからさ、いつもいつも、おっつかないんだ、いつも。だから、せめてもの深夜の酔いどれ書き散らし。(読みたいもの、読み返したいものだらけだけど、もうその力が自分にはないのがかなしい。)(文学は長く、人生は短い…というより私の生命と魂が枯渇しているのだ。カラッポの魂は生ける時間を持てない。)可能性として私の感じたことの手がかり、標本だ。自分が考えたことをなかったことにしないために。


書くことは、生きること。
読むことは、生きること。

パンケーキ

タピオカの少し前に流行ったブツであるという印象がある。
 
(因みに私は今まで生きてきた中でただの一度もタピオカ及びクスクスの類を経口摂取したことはない。そして冷麺はたった一度盛岡の専門店で摂取したことがあるだけだ。これが冷麺というものかと感動した。つるつると食った。実につるつるであった。つるつる。《ほんの少しの絶妙のぐにぐに》この透き通ったつるつるっぷりに感銘を受けたのだな自分。つるつる。《そしてぐにぐに》確かキムチ的なるものがたらふく入っていてうまかった。…冷麺とタピオカとクスクスの関係性については語りつくせないのでとりあえずここでは語らない。ただ一言言いおくが、基本的に精製度の高いものを私は好まない。白いもの透明なもの、精製しやわらかく甘く味付けしたもの。日常食として不適である。あれはハレの日の祝祭のための食べ物なのだ。大吟醸だの白米だの。好きだけど。日常食なんかにしたら目がつぶれる類の食べ物なのだ。好きだけど。ハイジの白パンなんかもダメである。あれがクララをダメにしたのだ…ちなみに寒天及びゼリー類は別枠。あれはいいのだ。大変よろしいものである。そして言わせてもらえばゼリーの方がよりよろしい。ふるふるのやつ。もちろん甘すぎはダメね、なにごとも。)
 
そう、パンケーキ。
幸せのパンケーキとかそういうの。昭和のホットケーキが平成にパンケーキになって戻ってきたアレである。世界のセレブがどうのとかいう触れ込みで表参道だの青山だのああいうとこに鳴り物入りで戦略的に上陸してきたヤツら。ビルズだのエッグズシングズだの、ああいうの。お洒落でかっこよくてなにしろ何もかもファッションで、田舎の意識高い系少女たちが女性雑誌とか眺めて夢見ちゃうようなそういうやつ。東京をその頂点のシンボルとした、多様を圧殺・圧倒する一元的価値観、一極焦点都会至上志向を一気に高めていく一連の都市学に関連してくるような。そしていわゆるインスタ映え。世界の価値は喜びとは、モノその実質ではなくファッションと物語、幻想のために存在するうつろいやすく支配されやすいもの、というある意味本質をついた問題提起ともなる命題。
 
で、パンケーキ。何故自分こんなにパンケーキのことなんか考えてるのかと思ったら    アレだよ、モンブラン。そう、季節がモンブランになったからである。令和おじさんが3000円パンケーキ嗜好で庶民感覚がないとか非難されたとか言うしようもないニュースとは全く関係がない。(…嘘である。正確にいえば、あれが季節のモンブランパンケーキになっと知った時点でものすごい惹かれている。ものすごくうまいらしい、幸せになれるらしい。ふわふわたまごでマロンクリームでメープルシロップな天国の食べ物らしい。)(一度死んだ気で行ってやろうかしらん。珈琲とパンケーキで5000円…夢のホテルおやつタイム…)
 
それにしても嗚呼モンブラン。愚かなわたくしよ。
それへの執着からまだ逃れられないでいる愚かなわたくしよ。要するに最初にインプットされたもの、魂にプリントされたものからは知性がどんなにそれを否定しようと一生逃れられないタイプらしいのだ自分。モノにもコトにもヒトにも。運命ですな、節理ですな。(いわゆる三つ子の魂。)基本的に何のポリシーもないが実はフレキシビリティを持たない人間なんである。
 
で、パンケーキ。
これもね、好きなんである。(あんまり嫌いなものってないんだけど。)子供の頃には森永のホットケーキ粉の箱の写真、三段重ねの分厚いふっくり百点満点なやつを夢見てチャレンジし続け、その実本当は絶妙に生焼けな焼け方、全然万人の賛同など得ようなどとも思わないマイルール焼き加減ホットケーキのほうが好みであった。誕生日にはホットケーキ焼き焼きわいわいパーティを開いた。富安陽子さんの作品に出てくる晴れた日曜の朝の焼きたてパンケーキの時空(メープルとバターのとろけるベーコンこんがりじゅわじゅわ熱々パンケーキ)に夢をはせた。その思い入れが化学変化をおこして(春樹の言う、関係性における「ケミストリイ」に似たものがある。…違うか。)パンケーキへの思いへとソフィスティケートされたのであろう。
 
「幸せのパンケーキ」こういうコピーにも大変に弱い。基本的に踊る阿呆なんである。
 
イヤつまり、今年の各種モンブランを検索してしまったために現れてしまったモンブランパンケーキの詳細画像。これのせいで頭がパンケーキになったというわけなのだ。イメージイラスト・アンパンマンならぬパンケーキ星人。
 
思い起こせば先月実家近所の高倉町珈琲店で(ふわんふわんのリコッタパンケーキが名物である。)カミングスーンのモンブランパンケーキ予告の画像(季節のパンケーキはその時点では芋であった。)が脳裏にこびりついていた。そして取りあえず検索のきっかけは先日阿佐ヶ谷パールセンターにある星乃珈琲店のウインドウの中に飾られていた写真。モンブランパンケーキとモンブランスフレに目が釘づけになり思わず立ち止まって数分の間じいっとじいっと見つめてしまった怪しい人物は私です。…そのとき脳内で前頭葉が激しく活動するのを私は感じた。…すぐに調べる。口コミ。ここのパンケーキもその独自性が買われている。ふわふわのスフレ状態でふわふわの幸せになれるという。(ちなみに幸せになれないパンケーキというのを私は知らない。)だがふわんふわんの質が高倉町のものとは違うようだ。セレクトはシングルとダブル。…考える。画像を見る限りモンブラン部分は量的には少なめである。ダブルで行くとパンケーキ部分が多すぎることになるだろう。大盛りのどんぶり飯に数切れの貧弱なとんかつ、ということで最後にはソースだけでご飯食べる的にメープルだけで食べる状態になるのは目に見えているという予想がはじきだされた。
 
うむシングルだ。それにしても多すぎる。誰かとシェアしなければ私には無理である。モンブランクリームは和栗ではない。マイナス1。しかし中にマロンアイスが仕込まれている。プラス1。
 
そして検索の途上、モンブランパンケーキ繋がりで阻止しがたく浮上してきてしまったのが中野のJSパンケーキのブツだった。(吉祥寺は混んでいると見た。ポイントの高さは公園前のシチュエーション、そののどやかな店構えにある。)
 
趣旨替え。断然こっちである。段違い(平行棒)。
和栗。こんもりふんわりたっぷりの栗クリーム。無花果バター、ナッツにマロンアイス。

f:id:momong:20190823203538j:plainひとつ、しかしパンケーキ本体部分に関しては危惧が残った。

星乃や高倉町、幸せのパンケーキやぐりとぐらカステラパンケーキ、ホテルオークラ三千円のパンケーキに比して個性、その特徴や評判が今ひとつはっきりせず、決して悪くはないが感動を呼ぶほどではない、ヴィジュアルのインパクト、お洒落さばかりが勝ってしまっている、という印象なんである。
 
まあね、案ずるよりも生むがやすし、結婚する前は両目でギロギロ不幸へをまねく恐れや落ち度を確かめ、取り換えしがつかなくなったらその時点で片目にふんわりひいき目で、という視力の知性が幸福のセオリーである。選んでしまったものが運命であり既にコーランにも記してある己にとって最上のものなのだ、何事も。信じる者は救われる。銀河鉄道は常にその人にとっての一番のさひはひへと辿る道のりである。後悔という文字は我が辞書にはない。
 
…やっぱパンケーキより王道モンブランかなあ。
(長野の小布施堂の朱雀を一度は体験してみたいものだ。)
 
今年も一つ馬齢を重ねた己の寂しさに捧ぐ独り言である。

雑貨屋

雑貨屋というのは幸せのモトである。
実に夢のカタマリである。皿だの箸だのスプーンだのお香だのなんだのが並んでいるだけなんだが。しかしそれは舞台である。生活のワンシーンを想起させるための五感を複合させる仕掛けの施された夢の舞台。夢を生活の中に倍音として響かせるための仕掛け。
 
物欲のエッセンスについて考えさせてくれる。その源泉はとてもピュアなイデアに近い。音楽、匂い、色彩、味わい。五感を脳内で鋭敏に働かせオリジナルにオーガナイズする。官能が末端からくる情報ではなく脳内から末端へと流れる信号として流れる。それは自ら物語を描く力の発動でもある。
 
そこに在る事物にはアートの価値などあってもなくてもいい。
 
こういうのはカフェだの喫茶店だのと同じ系列の「場の持つ力」としての幸福の概念であるが、どうもこっちの方がより複合的かつ個的でオリジナルな要素、すなわち抽象・イデアの領域に描かれる創造であるという要素を色濃く反映させている、と、雑貨屋で突然幸福になった私は考えた。(服屋でも花屋でもケーキ屋でもパン屋でも実はそれはなんでもおんなじなんだが。雑貨屋は特に統合スタイルを色濃く打ち出してるからさ。)
 
場所の力、トポロジーについての主体客体、すなわち内外のダイナミクスにおける関係性に思いをはせたんである。場の力とは、その時発生する物語の現場性を意味するものであり、場がすなわち時間を含んでいる本来としての一(whole)であることを意味することになる。動的空間と言い換えてもよい。
 
映画そのものより映画館が好きとか本そのものより本屋或い図書館が好きとか、舞台そのものよりその劇場に入るハコという場が大切だとか、家で飲むのではなく居酒屋という場所で飲むことが重要だとか、対象物、モノではなくその現場性、コトが問題となる、という価値基準のクローズアップ。人は何に価値と幸福を見出しているのか。どの物語に、どの美学に自分は今幸福を見出しているのか。そこで主体はどのような位置づけにあるのか。主体、個、そのアイデンティファイの問題である。
 
経済の分野では「付加価値」の物語性としてそれは語られる。それは外側だ。かっこにいれられ計算式に入れられるためのインデックス。だけど本当はそれは内側からも語られなければならないのだ。外側を否定することなく、内側から。
 
正確にいうとその「ブツよりも周辺装置或いはメディア」という「虚無としての真理を作り上げる周辺装置」のような構造は極論であり必ずしも正しくはないのだが、まあある程度この仮定は論理を組み立てる際に有効である。唯心と唯物のクロスするその現場。
 
どこまで踊る阿呆になるのが正しいか、だな。

いだてんは続く。

いだてん。ちいとためてた分を今日、たった今、先週分を観終えた。第二部終了。
戦争が終わった。

森山未來さん、ものすごいな。

イラついてて何にも心にしみ込まなかったけどロキソニンと麦酒とこのひとの演技だけは沁みこんだ。

このひとがいたから他のすべてがすべての人々の演技に生命が吹きこまれすべてがそれぞれの素晴らしさを会得している、ような気がした。

「画竜点睛」のその瞳。

私の今日が救われたような気がする。

 

もちろん毎度感服する、素晴らしいのは脚本、演出だ。
宮藤官九郎。個人的にはあまちゃんは全然面白いとは思えなかった、女優さんが苦手だったりしてあんまり評価はできない、周りの人のように感動はできなかったけど、確かに面白いしすごく巧みな人だとは思っていた。


いだてんで目からウロコ。

本当にすごい。
才能だけではない。
が、やっぱり才能なんだ。

それは、万人の心のために、世界のためにある誠意のことだ。

そのことを知っているということ、そのための才能だ。
或いはそれを楽しむという才能。

揺り動かされる。
その周りの人々が皆生き生きとそれぞれの才能を引き出されているという統合芸術のその場の持つ高揚を感ずる。

 

素晴らしい。
名も知れぬ誰かの人生がきっとここで人知れず救われている。戦争の理不尽への激しい思いが、このような、なんといえばよいのだろう。この表現を得ているというこのかたちのことを。今うまく言えない、観たばかりでうずまいている。

そこに在った異常な日常のことを感じさせくれる。理不尽を、それを越えようとする人間の生命を、叩き潰す力のことを。たくさんのひとびとの割り切れないさまざまの思いを。その多様と矛盾の中に精一杯生きる力の表現を。

万感の思いをこめた「万歳」が響く。軍靴の響きと踏みにじられる命とすべてを日常を生きる力の中に笑いとばそうとする力と。笑うことでしか生き抜く力が得られなかったその「場」のことを。すべてがなまなましい力をもって投げつけられてくる。視聴者に。


そしてそれはイマココに在る異様な理不尽を持つ日常のことを当時をかぶせ同じこのようなかたちで訴える力でもある。以前も述べたがこのひとのドラマはイマココの現実に襲いかかってくる仕掛けを持った構造を持っているのが特徴なんだと私は考えている。時空と語りの多重構造の意味。


…だからさ、でもさ、思ったことはさ、とりあえずとにかくさ、みんなとりあえず生まれたからには今日と明日を生きるんだよ。とりあえず。唐突なようだが。

なんかね、女子高生コンクリ殺人のあの被害者の女子高生がさ、犯人グループのひとりにさ、楽しみにしてた連続ドラマのビデオ見せてもらったとかいう奇妙なエピソードのこと思い出してるんだよ、自分。その極限状態の中にあった日常のことを考えている。

両親に虐待され幼い命を奪われた小さな人たちのことを、いじめられて自殺したすべての子供たちのその日々のことを、ブラック企業で殺されるそのひとたちのその最後の日々のことを、その怒りと悲しみと憎しみとやるせなさと最後の果てしない寂しさのことを、そうして自分の今のことを考えている。

その最後の寂しさを、何もかも耐えられないレヴェルになり、その憎しみすら麻痺してしまうほどの誰かへの憎しみを、誰かではなく何かへ、理不尽への怒りは理不尽そのものへ、正義へ逃げず、偏在する理不尽へ、正確に。自分の中にあるもの、誰の中にもあるもの、自分だけにでもなく個人にでもなく、不正確な自己犠牲の美談でもなく。

でも、だからこそ誰もがまず守るべきは自分。
今日と明日。

楽しく笑って大切にすべてを赦し愛するために。


「生まれたからには生きるのよ。」
(これは、ますむらひろしアタゴオルのヒデヨシのセリフだと思ってたけど、どうも漱石の小説がモトネタらしい。今度確認せねばならん。)

(とりあえず麦酒でべろべろですぜベイビー。ミョーなこと書いてたら明日これは削除しよ。でもとっとこうかな、とりあえず、とりあえず。)

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