酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

雑貨屋

雑貨屋というのは幸せのモトである。
実に夢のカタマリである。皿だの箸だのスプーンだのお香だのなんだのが並んでいるだけなんだが。しかしそれは舞台である。生活のワンシーンを想起させるための五感を複合させる仕掛けの施された夢の舞台。夢を生活の中に倍音として響かせるための仕掛け。
 
物欲のエッセンスについて考えさせてくれる。その源泉はとてもピュアなイデアに近い。音楽、匂い、色彩、味わい。五感を脳内で鋭敏に働かせオリジナルにオーガナイズする。官能が末端からくる情報ではなく脳内から末端へと流れる信号として流れる。それは自ら物語を描く力の発動でもある。
 
そこに在る事物にはアートの価値などあってもなくてもいい。
 
こういうのはカフェだの喫茶店だのと同じ系列の「場の持つ力」としての幸福の概念であるが、どうもこっちの方がより複合的かつ個的でオリジナルな要素、すなわち抽象・イデアの領域に描かれる創造であるという要素を色濃く反映させている、と、雑貨屋で突然幸福になった私は考えた。(服屋でも花屋でもケーキ屋でもパン屋でも実はそれはなんでもおんなじなんだが。雑貨屋は特に統合スタイルを色濃く打ち出してるからさ。)
 
場所の力、トポロジーについての主体客体、すなわち内外のダイナミクスにおける関係性に思いをはせたんである。場の力とは、その時発生する物語の現場性を意味するものであり、場がすなわち時間を含んでいる本来としての一(whole)であることを意味することになる。動的空間と言い換えてもよい。
 
映画そのものより映画館が好きとか本そのものより本屋或い図書館が好きとか、舞台そのものよりその劇場に入るハコという場が大切だとか、家で飲むのではなく居酒屋という場所で飲むことが重要だとか、対象物、モノではなくその現場性、コトが問題となる、という価値基準のクローズアップ。人は何に価値と幸福を見出しているのか。どの物語に、どの美学に自分は今幸福を見出しているのか。そこで主体はどのような位置づけにあるのか。主体、個、そのアイデンティファイの問題である。
 
経済の分野では「付加価値」の物語性としてそれは語られる。それは外側だ。かっこにいれられ計算式に入れられるためのインデックス。だけど本当はそれは内側からも語られなければならないのだ。外側を否定することなく、内側から。
 
正確にいうとその「ブツよりも周辺装置或いはメディア」という「虚無としての真理を作り上げる周辺装置」のような構造は極論であり必ずしも正しくはないのだが、まあある程度この仮定は論理を組み立てる際に有効である。唯心と唯物のクロスするその現場。
 
どこまで踊る阿呆になるのが正しいか、だな。