酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

年の瀬2019 演劇と空気

28日、西荻の喫茶店のマスターのツイートにストンときた。(この方のつぶやきにはストンとくることが多い。不便な場所だけど不思議な味のある雰囲気のお店で、一回だけ珈琲飲みにお邪魔したことがある。)

「この年末になると漂う空気は演劇に通じるものがあるなと思いました。派手な演出は一切していないのに舞台上の空気が一変する、あの感覚に似ています。みんな演じてるんですね、年末を。」

集団の意志、大気中にただようココロ、見えない法(ダルマ)。集団の個々がつくりだしながらその総体が個々の要素を遥かに超えたベツモノとしての「要素+α」となるゲシュタルト構造、それは既に社会的な超越神の意志、のようなものだ。

圧倒的な抑圧をも生み出すこの「空気」と呼ばれる不可思議なモンスターについて考える。そのとき時空間=世界はその空気という法そのものなのだ。演劇によってつくられる空気(時空間=世界)の創造というシステム。どこか大衆(吉本隆明の言う権力に抗する力となり得るピュアな生活力、生命力としての大衆、オルテガのいうポピュリズムと権力に通ずるものとしての物語のかさぶたとしての大衆、その両極を結ぶ可能性。)に通ずるものがある、その怪物性と崇高さと。ただ純粋な「力」を生み出す「構造」として。

で。
とすると。

一般に言う空気(空気読めよとかそういうの)を「演劇」という概念によってとらえようとするとき。
演劇の概念がさまざまに世界全体に応用されてくる。役者という要素、舞台、ハコという設定状況のこと。劇場は劇場であり、唯一の普遍の全体のといった、真理、ではない。ある限定された一つの恣意の約束ごとの中に構築されたひとつのハコなのだ。その中で役者は空気を乱さずその劇を完遂させ劇場を保ち続けるために各々の役割を演じなければならない。だが劇場は複数ありその外側はその法には支配されない。…世界はみな演劇だ。(宮澤賢治「詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画(中略)巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす」⦅農民芸術概論綱要⦆が思い出される。人生とはそのまま劇場の舞台である、と。)

うううまく言葉がみつからないがおもしろい。
また曼陀羅網が見えてくるようだ。世界に論理構造の網の目が躍動しきらめいて開示されてゆくような感覚。その「ストン」がはろばろと無限に広がってゆく。

さまざまな宗教や芸術や学問や文学哲学自然科学、それらの知性がそれぞれさまざまな論理で言い表そうとしてきた世界の構造がすべてきれいに響き合い繋がって見える気がするこの瞬間が一番わくわくするんだ。まだ言葉にならない空間的なものとして浮かぶ、自由と解放に繋がるこの感覚。

さあお正月劇場をほどよく踊る阿呆になろう。
作り上げられたときその中でそれは真実なのだ。

実家で両親とあれやこれやお正月準備して、紅白や第九で年越し、荘厳な初日の出、正月みたいなばかみたいに非日常な青空(正月だ)がらんと空いた街、澄んだ空気、黒豆と栗きんとんと昆布巻き、鰤の入った柚子や三つ葉の香るお雑煮なんか非常に盛り上がる。

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冬はつとめて。黎明の空、ピンと空気が張り詰めて奇跡のように美しい。