酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

文体

文体というのは音楽や香りに似る。


その、文「体」というスタイル全体を覆い支配している見えない気配、いわばその「体」に憑依した魂、そのオリジナルの「法」としての「行間」のようなもの。享受者の感官がそれを感じた瞬間に、五感をすべて巻き込みそこを超えた次元を読書の現場に生み出すもの。

香りが記憶を呼び覚まし音楽が魂を別世界へと連れてゆく。世界の色が変わる瞬間がある。言葉も同じだ。意識野に上る言葉、その音韻の響きの向こう側に共振する恣意として設定されたはずの意味の、その共鳴の響きによって世界の色を変える。音韻という形而下フィールドと意味の形而上フィールドの狭間に危うく存在する、文体。…私はおそらくテクスト、というもののことを語っているのだ。そのリズム、そのスタイル、そしてその志向するあてさき。シニフィエシニフィアンの統合されたところにうまれる衝撃。ヘレン・ケラーが叫び出さずにいられなかった、世界が発見されたときのその激しいリアル。

言葉の力。文体の個性。見えないところに潜む、その捉えがたいかそけき気配のようなものこそが、世界を救う革命をひそませているのではないかと思うのだ。

 *** ***

文体に限らず、一般に、大きな力を持つものは、そのすべてが捉えがたい気配のようなところにこそ力の本質を秘め持っている。どんな既成の論理や権力でも支配できない予測不能な方向性をもった、そしてけれど確実に世界が必要に迫られた何らかの方向を指向している切迫したその力。個々から発されるかそけき気配であっても、けれどそれはやがて確実に大きな力を以て何人にも抗いがたいものとして目に見える形として実働してゆく。換言すれば、それは論理化されない、それ以前の、そこからはみ出た外部、マトリックスの力を示すからこそ、既存を破壊する革命の力を持つのだ。

それは未だ名付けられることのできていない力のことをいう。論理は、知は、すべてをそれを後追いするべきものである。実存、存在とは本質或いは真実という抽象、物語に先立ってあると考える実存主義に立つ必要がある。まずは必ず。それはとりあえず、そう…命題なのだ。(ちなみにこの発想、あきらかに今カミュに凝っているところから来ていると自覚している。)

世論、大衆しかり、経済しかり、政治しかり。そして、天災しかり。ひとときそこに君臨してみせるどんな権力者も「今をときめく」一刹那を得た後は凋落あるのみである。(政治が論理で動こうと宗教で動こうと占いで動こうと、結局は同じことなのかもしれない、というようなことすら思う。それはただ権力に名付けられた名前に過ぎないのだし。)

万物流転。固定された論理による永遠や絶対はない。彼は「とき」を得ているのではないのだ、たまたま符号が一致したという理由で、その「とき」に得られているのだ。他の多を支配している一ではないのだ、他の多に共鳴した象徴としての一なのだ。その一と多の関係性、ひとときの蜜月のパ・ド・ドゥ。そしてそのときの一なる彼である支配的論理はやがて崩れ去り、次なる形へと流転してゆく。諸行無常とはよくいったもんだ。そして行く水のかたちはかわらない。

世界とはそもそも単一の論理では捉えきれないものなんだから、というとこから考えればまあ当然と言えば当然なんだけど。その当然とは、すなわち各々の論理のもつ死角、あるいは敢えて目をふさいでいる概念以前のところに秘められあるいは仕込まれた「ほころび」のようなものからくるのではないかな、と今私は考えている。ほころびから次の新しいものがやってくる。

まあそこでだな、その「空気」を支配するもの、「いまをときめく」の「とき」とはなにか、という問題で、類似する構造をこの「文体」というテーマに感じたのだ。とりあえず権力の話とは離れてね。


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次に何読もうかな、の日の夜、あまりにも異なる文体の本を次々開いてしまって、なんだか唐突に新鮮なショックを受けたのだ。それでこんなことを考えたんだ。

そう、わかってたことでも何度でも新鮮にショックを受ける。「読書の現場」的なるもの、その現場性とはそういうものだ。いつでも現在として立ち上がる神話としてのテクスト。そういう意味で読書とは儀式である。

そしてそれらの文体からかぎ取ったものについて思考の触手をのばし自分の頭で考えることができるのもそういうときしかない。瞬間のリアルもまた何度でも失われる。概念化されていない源泉に触れ、そこに生きる時空を得る瞬間。それは無時間であるがゆえに瞬間であるが永遠でもある。絶えず失われ続けながら絶えず形作られてゆく、世界の、「現在」の、「存在」の生のかたち、リアル。そのとき、同じ構造の概念が何度でも新しく立ち上がる。幾度でも新鮮に、存在が耐えられないほどの破壊力をもった新鮮さを孕んで。

ひとはそれを「きちがひにならないため」に「がいねん化」しなければならなくなる。

これは賢治の言葉だ。「青森挽歌」。

この詩(作者曰く「心象スケッチ」)の以下の引用部分は、愛するものを失った激しい喪失を表現したもので、単なる読書体験とは比べ物にならない、というかもしれないが、その激烈さの度合いを度外視すれば、認識の構造それ自体としてはまったく同じものだ。感ずることと概念化することの関係性からいえば。そして読書行為とは言語による世界認識行為のひとつのアナロジーである。

「感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
  それをがいねん化することは
  きちがひにならないための
  生物体の一つの自衛作用だけれども
  いつでもまもつてばかりゐてはいけない」


 *** ***

さて、で、文体とは何か?
というところから、文体分析についてである。

些末な言い回しや語尾の傾向、多用される単語等、具体例を挙げて分析してゆくことはもちろん可能である。そこから全体像を描いてゆく手法。それはあるいは細かなデータ数値から全体像へと精緻に積み上げてゆくミクロ経済学的なるアプローチに似ているものかもしれない。そういうベクトルを持ったミクロ視点。(経済学上でのこの厳密な意味は知らない。素人の描く大雑把なイメージね。)

(こういうパーツを組み上げる才能、びっくりするような文体模写の技術を持った人っている。有名なのでは水村美苗漱石模写とか、春樹の言い回しのパロディとか。)

だがそれはやはり全体像ではない。初めから直観としては既に完全に感覚されているものであるその「そのもの全体」、色、匂い、音楽、触感、感情、その感覚。既にあらかじめ存在しているものを「概念化」によって存在証明していこうとする、天体の発見や数式による世界の法則の発見のプロセス、その在り方にそれは似る。作品世界という具体を産みだす力であるもの。要素によって積み上げただけの作物では、どこかひとあじ、あるいは決定的な核心が損なわれている。誰にもそれが一体なにであるかを論理として指摘できないとしても。

…その時ほんとうに描かれている完全体としての全体像は、マクロ経済学的なレヴェルでの大局、というある種の飛躍、ジャンプを孕んだ上での積分結果である。構造的に、その存在成立過程の記憶にどこかミッシングリンクを組み込まれているマクロ視点。逆に言えば、その構造には「ほころびが仕組まれている。」100パーセント、あるいは絶対、あるいは真理というものが存在しないことと密接に関連しているところのもの。

或いはそれはゲシュタルト理論。必ず要素プラスα(飛躍要素)のある直観を孕んだ(それは外部への亀裂、あるいは「ほころび」の内包という意味でもある。)ものとしてのアプリオリな全体像。

それが文体だ。

「体」をもった文章の、そのスタイルに瀰漫する「法」の中での物語に没頭し支配されつくした後、ふと顔を上げ、己の置かれた現実という物語を客観化する瞬間がある。それはどこか、奇妙な午睡から夢から覚めたときの不思議な気分に似る。一瞬「イマココワタシ」がまったくわからない不思議な気分。生まれたての不安。世界が異様なリアル、物語以前の裸の無意味の塊に見える。「違って見える。」…違和感。これはまさにロシア・アヴァンギャルドの主張した「異化」効果である。

主体自身が含有されている「現実」とされる恣意としてのひとつの世界認識構造、その成立の前提自体を対象化、可視化、相対化するギリギリの方法論の一(いつ、ひとつ)。それはこの違和という「感覚」に根差したものである。すべての論理はそこからやってくる。論理以前、非論理としての論理である、認識以前の認識、という狭間の、メディアの、アルケーの、始原の、そのような矛盾のダイナミクスの場にのみ成立する動的な現場性を持ったマトリックス

世界によって人は成る。世界を感ずることによって、そして認識することによって人間はその個、あるいは属性として成る。主客の関係性の中にその存在が成立する。

とすれば。

世界は、己は、選択できる。否、意識、自覚しているといないにかかわらず、主体は既に否応なく選んでいることによって存在を枠どられながら生きている。

或いは、だから、創造することができる。己を創り上げることができる。己を捉えてあるものを認知し他による支配を退け、自身が選択し展開しようとするクリエイターであることによって世界と自己を支配・コントロールするのだ。

選ばなければならない。己の触れる世界を、文章を。

それは、己の蒙昧からくる苦しみからの解放のためだ。息苦しいものに閉ざされないためだ。


生まれたての子供に最初に与える言葉や絵本や、それらを慎重に選んでいかねばならぬ父母の義務というものがある。文体の持つ力は、にんげんの一生にとって致命的に激しい毒となり己を腐らせるものでもあるのだ。

敢えて毒を選ぶことを人はする。
それは恐怖からくる行為である。はじめに恐怖という文体を与えられた人間は己を守ろうとする。そしておそらく恐怖それ自体、それだけが己を守るための武器になるような気がするのだ。

蒙昧のはじまり。

 

おまへの武器やあらゆるものは
おまへにくらくおそろしく
まことはたのしくあかるいのだ
(青森挽歌)

 

すべてひとは、ほんとうの快楽を呼び覚ますものを失わないために生きねばならぬ。
楽しい世界を創造する万能の神様みたいな世界支配者となることが誰にでもほんとうはできる。

 

と、2018年9月29日土曜、トキヲ嵐の前日にべろべろのヨッパライは思うんであるよ。


明日は傘をさして今秋初のモンブランを買いに行きたいんだがなあ。

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今年初秋刀魚、ミッション完了。ピカピカきれいに目の澄んだ嘴の黄色い、イルカみたいに背中の盛り上がったうまいヤツ。大根おろしとすだちとね。

「おやつ」アンソロジー

PARCO出版の本ってのはどうも洒落ている。スタイリッシュ。

で、スタイリッシュでありながら、しっとりとした古めかしさに裏打ちされた風格もある。(それはどこか、思想、芸術、街、文化すべてがファッションになった昭和末期のt東京の匂いがするものである。私はその時空を生きた宿命としてそれへの執着と偏向を自覚する。そしてそれに対して、己がそれらすべてとともに確かに存在したというだけで、それがかけがえのない一回性の唯一であるというそれだけのことで、胸がいっぱいになるほどの、そんな共存在としてのすべてへの誇りを確かに持っている。)(良し悪しは別である。)(生まれて生きたというだけで人は誰もがそうあっていいしそうあるべきなのだ。)(断言。)(…少しだけナウシカのようだな。)

写真、フォント、編集、装丁。心憎いばかりである。

構えることなく、熟読、ということでもなく、ふと気が向いたときぱらぱらとページを開ける雰囲気の魅惑のおやつアンソロジー。何よりも表紙のモンブランがいい。f:id:momong:20180829225930j:plain
目次を眺めているだけでおやつゴコロがときめいてしまう。
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そしてこういうアンソロジーは作品の選択配置がキモなんだが、これがなかなかよろしいんである。のっけからの森茉莉のシュウ・ア・ラ・クレェムのインパクトにヤラれた。
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おやつには、甘いものには人生の隙間がある。逆説的に言えばエッセンスがある。子供の頃の思い出がある。それは身体の、生活の糧ではなく心の糧により近いものだから。

それは、必需の糧でなく嗜好品である、という意味から来ているのだが、同じように精神のための嗜好品であっても、甘いお菓子には、例えば酒や煙草や珈琲、といった大人の男性を象徴するタイプの嗜好品とはまた一線を画する「女子供」だけのまっすぐで真理に近いと言ってよい崇高さをもっている。

それは、虚栄や物語や美学や形式への形骸化を(比較的)逃れることのできる被差別民(オンナコドモ)のまっすぐさ、被差別分野であるからこその、物語化や社会化、共同体的に様式化される、文化的な意味への偏重、焦点化、抽象化を限りなく逃れてゆく周縁のところにあるからこそなのだ。限りなく現場的、個的であり、優しい母なるものへの思い出にのみ根差す聖性に連なるもの、アンタッチャブルに連なるものであるから。

 *** ***

アンソロジーという体裁によって際立つそれぞれの作家の個性、それぞれの文章の持つ多様なふくらかさを楽しむ。短い文章の中に、各々は馥郁と爛漫と香る。

こういう本はね、眦決した重たい激しい主張や物語ではなく、ほのかで純粋な甘さや軽やかな優しい情趣それ自体を打ち出しているものほどいい。妙にあざとく小賢しく作りこんだ、人生の物語をからめて感動を押し付けてくるような器用な流行作家のものより、流れゆく日常の風景のひとコマを縫い留めた、軽くしっとりとした淡い情趣の余韻を打ち出しているような、そんな作家の片手間の雰囲気のものほどいい。全米が泣いた制作費用数億円の大作よりも、晴れた日曜日のカフェで珈琲の香りの向こう側に見えるさまざまの人々の物語の風景。

それぞれの作家の愛好する思い出のお菓子と作品との関わりかたを考えるのもちょっと楽しい。春樹のドーナッツ小理屈とかね。(割と好きなんである。ディレッタンティズムというか、紳士たちがバーやパブでちょっと戯れにうんちく垂れたり言語や論理を弄んだみせるような、そんな、世界の無意味さくだらなさを愛しみ楽しむような、時空の隙間、人生の隙間みたいな雰囲気。)

…しかしパラパラと見た限りでは、一番食べたくなったのは森茉莉の描写する「シュウクリイム」だなあ。風月堂の、皮の薄い柔らかめの、卵の風味の濃いクリームがたっぷりつまった昔ながらのクラシックなタイプ。

読んでたらすっかりシュークリーム気分が盛り上がってしまい、今週末にでも赤坂の「しろたえ」のシュークリーム買いに行ってしまおうかしらと思いつめる勢いである。(しかし個人的にひとこと言わせてもらうと、この本の欠陥はモンブランの話がいっこもないところである。これはあきらかに企画段階における手落ちであろう。)

俳句には詳しくないけれど、中村汀女さんの文章のふくよかさにも驚いた。俳人とはかくも繊細にして微妙で味わい深い感性と言語センスを、知性を備えているものか。雅とは知性ってことなんだなあなどとしみじみ感服。羊羹やかすていらの情趣を思い浮かべる。(羊羹の美学と言えば谷崎潤一郎の「陰影礼賛」だけど、ここでの美学なイメージもまさにそれだな、ウン。なんとも言えぬばかばかしいほどの純粋な美学が、繊細さと品格がある。)味わうということの、その丁寧さ、繊細さ。そのように生きること自体に対する誠実さの美学が貫かれている、そういう類の言葉の力。

 *** ***

で、ワシは小説の方は実は読んだことないけど、五木寛之さんのエッセイが結構好きなんだが、先生ここではメロンパンに関する文章をひとくさり。…これがやはりとっても楽しい。

ということで、潜在的メロンパン評論家、五木先生もきっとお気に召すであろう、皮がカシっと乾いていてサクホロふわりの焼きたてさん。ほのかに甘く切ないおやつメロンパン。まだあたたかいパン屋の袋を抱えて帰る帰り道の幸福感は普遍の真理である。おそらく。
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夏の朝

月曜の朝であったと思う。

夏の朝の中を歩いて、まばゆい朝陽を浴びた町の物語を感じた。挨拶をしながら行き交う人々、あくびをする人を乗せたバス、工事現場の作業員たち、きらきら光りながら走る車たち。いつかの、健やかな夏の物語。それぞれの、人々の、朝。空は青く明るく光っていた。

前方から、華奢なサンダルにリボンのついた麦わら帽子、ふわりとした上品なワンピースにこやかに微笑むきれいなお嬢さんが歩いてくる。顔見知りのご老人に挨拶をする、その瞳の明るい茶色が朝陽そのままに美しく透き通って、彼女の周りには昔の小説から抜け出してきたような優しいオーラがあった。そよ風のようにすれ違う。

思い出したことがある。

大きくなったら、娘さんになったらあんな風な憧れのお姉さんみたいにきれいになる、と女児のころは(ほとんどすべての女児と同じように)共同体幻想からやってくるそういう物語を聞かされて、それを信じていた。…という訳ではないが信じるということもなくなんとなく信じていたのではなかったか、と。

それはいずれ己が老い、死ぬという事態が確実にやってくるのだ、というくらいのリアリティのなさをもった客観性でもって、ということである。蛹から蝶に変身するという革命は、パラダイムの変換は、その時が来れば起こるべくして起こるのではないかと。今の自分にはわからない論理が自身の内側から立ち現れ、「大人になればわかるよ。」というその論理が正しく機能することを、信じる信じないの判断を棚上げし、本当は信じてなどいないという事実の痛みを先延ばしにするためにほんのりと信じていたつもりになっていたのではなかったか。

 

だが、いつからか私は確信していた。
違うのだ。

この感覚は、違うのだ。
きれいになる、という意味にもいろいろあるし、それを言い出すと件の物語に「誤謬がある」、というわけでは決してない。誤謬のある物語などない。誤謬のない物語もまた存在しないように。

だが、この感覚は違う。
それは一昔前には決して共同体共同幻想物語レヴェルでは存在をみとめられることのなかった、したがって名前をもっていなかった昨今のいわゆる「スクールカースト」のように、隠蔽されていながら暗黙に皆が共通に感じているであろう、未だ名前を持たぬ、したがって存在を認められていない感覚。概念として形作られる以前の概念以下というべきもの、確実に存在するのにその形をとらえきれない匂いのようなもどかしい感覚。

そう、生まれが違うのだ。人種が違うのだ、おそらく遺伝子の組成からいって違うのだろう。骨格も筋肉も、ホルモンや脳のつくり、その思考体系も根本からおそらく違う、ああいう人たちは女性性をしなやかに生きることができる、セクシャルな意味でもジェンダーの要素の側面からでも。それは頭の良さの上下の問題ではなく、質的な違いなのだ。次元が異なっている。文字通り生きる世界が違う。

決して疑問に思うことなく抵抗を感じる頃もなく「~なのよ。」「~だわ。」という女言葉のネイティヴであるひとたち。システムに疑念や抵抗や違和感を感じることなくその中でらくらくと呼吸できる人たち。自分の役割をきちんと受け入れその前提の上に前向きに生きることができる人たち。「当然」から出発できるひとたち。カテゴライズされることに誇りすら感じることができる素直で美しいまっすぐな自尊心をも、もちろん彼女らはきちんと持ち合わせているのだ。

居場所のない私とは違うのだ。
己が一体ナニモノなのか一体これはどういうことなのかといちいち考え続けなければならぬ因果を背負った人間とは違うのだ。自家中毒を起こし自滅する輩とは違うのだ。傲慢と自己嫌悪の両極の重圧につぶれる輩とは違うのだ。…そこからしっかりと闘い続ける周りの友人たち、その英雄たちだけが眩いのだけど、今の自分には。

けれど、私はすべての彼らを眺めその物語を愛することができる。排除されているからこそできることがある。

眺め、愛すること、描くこと、残すこと、批評すること。

ウン、きっと。
(信じる者は…)

日記メモ(夏の終わり、新しさと懐かしさ)

考えたことはすぐさま言葉にして書き留めておかないと失われてしまうんだよな。賢治のようにいつでもメモ帳を、とずっと思ってた。

考えたことはその日を生きた証だと思ってる。

ツイッターなんかはそれのインデックスとしての使い方って意外といいかもしれない。
ということで断片を拾い集めたかたちでメモ的な日記を一つ。

 *** ***

目が覚めたら光の色が変わっていた。

夏と秋の季節が入れ替わった朝である。
一晩じゅうごうごうと吹き続けた風が秋を連れて来たのだ。

空と雲がきらきらとまばゆく光り、新しい季節の到来を告げる。

「なんとはなしに聖いこころもちがして」。(小岩井農場
私は新しく白いペンギンのシャツを着て外に出る。さらさらと風と光が肌を撫でてゆく。この夏を生き延びたのだな、と思う。

すべてが、触れると切れるように生まれたてで新しい光の中にある。

が、これは間違いなく「懐かしい」。新しさがなまなましい肉体性ではなくそのイデアの真実の光のみを予告してきたからだ。懐かしさの中にのみある、新しさの祈りの純粋がそこにあった。

まだ8月だけど、心が9月に飛んで行く。となるとそろそろ「9月の海はクラゲの海」が聴きたくなってくる。

9月に解禁することにしている、大好きなムーンライダーズの歌。

♪Everything is nothing  Everythingでnothing♪
これって「色即是空・空即是色」の歌なんだよな。そう、色即是空のすごいとこは、空即是色が次にくるとこなんだ。

 

友人に季節が変わる日はあるのだねい、というメールを打ったら、大島弓子が懐かしくなったよと返信があった。ナンダソレハ。

…「夏の終わりのト短調」かな。

ああ、懐かしいな。輝いていた、思春期のその憂愁を懐かしく思い出す。

そう、輝いていた。その憂愁それ自体が、重く暗いような顔をして、それは未来を持っているというだけで意味の輝きで満たされていた。

 

寂しさに似た新しさ。寂しさに似た明るいすがすがしさ。「小岩井農場」の異次元スポットで賢治が「聖いこころもち」と表現したのはこういうものではなかったのかと思う。何かを失いすべてが壊れた後にあるがらんどうから生まれる、その外側からやってくる、すべてを囲繞する、救い。

その、寂しく新しい、輝きに満ちた懐かしさの、その輝きの意味を新しく得なおしたいと思った。すべてを失った終焉、虚無の闇の絶望の夜の後、そのがらんどうが新しい意味の光に満たされた朝だ。終わりの中にあるはじまり。…火の鳥焼身のあと新しい雛鳥が生まれてくるように、前と同じ存在であり前と同じ存在ではない、そのことによってのみ永遠である世界ということを感ずること。

己がまったく新しい宇宙で全く新しい別の存在となってこの存在のままに再生してゆく感覚。矛盾が成立する場所。

 

そうして、アレサ・フランクリンが亡くなったとニュースが告げる。
…別にそんなに好きではなかった。ソウルフルなあの歌声。

だけど思い出した。「ブルース・ブラザーズ」。
きっと一番好きな映画だ。 

ここのシーンね、think!

(こういうダンスシーン、すんごくいいんだよなあ。)

 

で、小説家の友人がフェイスブック岡崎京子についてのコメントを残していたのでつい反応。己が「pink」推しであることをカミングアウトしたんである。続いて大泉学園の前世の姉妹、大学院の後輩君も自分がpink派であることを書き込み、我々の魂の合致を確かめ合った。…で、肝心の友人の方は「リバーズ・エッジ」に一票を投じた。

…ううむ。本棚から取り出し、ちらりとつまみ読み、思い出す。…この我々の興味の傾向の分岐は非常に興味深い。私はすごく納得したのだ。

*** ***

リバーズ・エッジ」ってさ、同じように経済に組み込まれた性や暴力やイジメやなんかテーマにして描いていても、その取り扱い方が、「pink」や「ジオラマボーイ・パノラマガール」みたいなのとは違ってあまりにもガツンと構造が固定されてストレートでワシには激し過ぎる。あじきない気がする。端的に言って登場人物にまったく感情移入できない、その問題意識を論理と客観の物語としてショックを受けながら眺めることしか、考えることしか、鑑賞することしかできない。内部からそれを感じることができないという時点でそれは既成の物語の組み合わせに過ぎないのではないかという意識を私は持つ。

要するに、世界の不条理を描くにあたって、この作品には「揶揄と笑い」という「ズレ」、論理の綻びという重要な要素に欠けている。それは、日常性を超えたところにある日常性、奇妙な常識や優しさや、その根源を問うところからくる綻びである。物語を生み出しそれを枠取り閉じ込めまた破壊することができる、そのマトリックス。外部。デッド・シリアスが隠蔽するもの。

岡崎京子の作品すべてが世界の不条理を描いているとしても、己の「内部の不条理」にこの作品は行き着かない。それは外部の、社会の不条理に対する問題意識に「すり替わる」、というような、そういう気持ちになる。「ずるい」、というような思いを得る。或いは、「偉い」。

彼らは社会それ自体に合体できるのだ。それは或いはサルトルカミュの分岐点。

…「問題意識高い系」かい?という奇妙な卑しい揶揄の気持ちが己の中に芽生える。このわたくしの汚らしく卑しい攻撃性は己の怠惰や卑しさへの後ろぐらさと恐怖感、おびえから来るものだ。インフェリオリティ・コンプレックス。

とにかくね、この作品には、深々としたあじきなさを、恐怖を感ずる。刺激の中におぼれる悲しみとその刺激をもてあそび得々と語る正義の人々の顔を同時に思い浮かべる。…戦慄の向こう側に、つまらなさを感ずる。(感じたのだ、確か。きちんと読み直してないから今はこれはメモだし、責任持たない。)

「pink」とかだと感じないんだな、そのまっすぐさと純粋さは誠実だから、優しさへの祈りから来ているから。ただ、「どうして?」が胸の中に膨れ上がる。その不条理。歪みへの視線は未来への祈りに通ずる。私は感情移入する。そのまっすぐさに。そうして、その、己に向けられた揶揄と笑いに。

*** ***

ブルースブラザーズを(できたら小さな映画館で)観返して大島弓子を読み返して9月の海はクラゲの海を聴いて岡崎京子をちらりと思い出して、夏の終わりを過ごしたい。

 

(なあんていって、なんだか「バットマンビギンズ」を観てよろこんでいたのはナイショです。すっかり現実逃避した。…ああ、明日どうやって生き延びよう。)

おやすみなさいサンタマリア。明日がよい日でありますように怖いことが起こりませんように。

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これもそろそろおしまいかな、アガパンサスアガペーのアンサス、神の愛の花。また大層な名前を付けられたもんだ。ヘクソカズラオオイヌノフグリとどうしてこう扱いが違うのか…(ラテン語って知ってたらいろいろ楽しそうだな、と最近思う。)

ホモイの劫罰~「貝の火」宮沢賢治(「贈与と交換の教育学」矢野智司 後編)

前回からの続き…ということで、「貝の火」である。

前から、ホモイの罪と罰のアンバランスというかむごすぎる劫罰、物語の理不尽がトラウマではあった。
何故?

ここで罰を受けるべきはあきらかにキツネなのに。

(これはみんな言うよね。誰も解いてない永遠の謎。おそらく永遠に謎であり続けるところにこの作品の価値はあるとも言える、よな気がする。)(それを本書は「過剰さゆえに教訓話をはみ出した部分がただならぬ聖性を帯びていることに気づき、私たちの慢心という罪ゆえに私たちの供犠として失明したのではないかということを、感知することができる。この聖なる供物の物語を、物語としてではなく出来事として体験し、交換には回収されることのできないものの存在をたしかに感じることができる。このはみだした過剰な部分が、交換の環の外部なのだ。」(p168)という「過剰」と名付けられた形で位置付けて見せている。《ここでの「過剰」とはおそらく「贈与」と等価に位置付けられるものである。⦆既成の交換法則に収まる物語性のなかに回収されることなく、読者によって読まれる度に永遠にその読者を巻き込んだ現場(「読書の現場」だ!)として繰り返され、その度新鮮に「体験」しつづけなければならぬ出来事としての、気にしていつづけねばならぬものとしてのこの仕組まれた「おさまりの悪さ」、「謎、過剰、アンバランス」。)(ここでホモイは私たち読者全員の原罪を背負って劫罰を受けるキリストであり「こゝろ」の「先生」なのだ。)(そしてその血(知)(劫罰)の贈与を浴びる弟子とは読者である我々自身だ。)

そう、贈与と交換法則の論理、そのヒントによってこの作品を読み解いてみせる時、見えてくるこの新しい読解の構図に私は興奮した。するすると何かひとつの新しい局面が見えてきたような気がしたのだ。

 *** ***

見てみよう。
私がまずこの物語の中で奇妙さを感じたひっかかりは、ヒバリの仔と川の描写だった。


本当にホモイは、いつか小さな流れの岸まで来ておりました。
そこには冷たい水がこぼんこぼんと音をたて、底の砂がピカピカ光っています。
ホモイはちょっと頭を曲げて、
「この川を向こうへ跳び越えてやろうかな。なあに訳ないさ。けれども川の向こう側は、どうも草が悪いからね」とひとりごとを言いました。

この意味のない殊更なひとりごとの言い訳は、ホモイの脳裏で川への禁忌が囁かれている印であると受け取ってもよいと思われる。はしゃいで駆け回っていた仔ウサギホモイがこのシーンで此岸に留まる行為は、それくらい奇妙な不自然さを感じさせるものだ。

川、という意味。
それはいつでも境界と異界、死のイメージと結びついている。賢治作品でも川や淵、水の世界と「向こう側」に関する物語は多い。が、何よりもここでは「銀河鉄道の夜」だ。ザネリを救うために川に飛び込んで死んだカムパネルラとヒバリを助けるために川に飛び込んだホモイはここで完全に重なっている。

(因みに「銀河鉄道の夜」では、このような不自然な川への禁忌はジョバンニの母によって示されているものである。「『そうだ。今晩は銀河のお祭だねえ。』『うん。ぼく牛乳をとりながら見てくるよ。』『ああ行っておいで。川へははいらないでね。』」)

仔ウサギはここで守られた安全な共同体法則から外れ、死と異界の原初のエナジイが渦巻く外部へと通じる結界に抵触してしまったのだ。

カムパネルラは死ななければならない。ホモイはこの後発熱し、生死の境をさまよう。これはひとつの通過儀礼、ホモイの中のカムパネルラが失われるためのミッションとして考えられる。全き者、完全なる無垢な子供のホモイはここで一旦死に、違うものとして再生する。境界を越えたのだ。「贈与としての教育」システム発動のための儀礼、その最初のステップ。

で、流されてきたヒバリの仔の描写である。


すると不意に流れの上の方から、
「ブルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ、ブルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ」とけたたましい声がして、うす黒いもじゃもじゃした鳥のような形のものが、ばたばたばたばたもがきながら、流れて参りました。
(中略)
 「大丈夫さ、 大丈夫さ」と言いながら、その子の顔を見ますと、ホモイはぎょっとしてあぶなく手をはなしそうになりました。それは顔じゅうしわだらけで、くちばしが大きくて、おまけにどこかとかげに似ているのです。
 けれどもこの強い兎の子は、決してその手をはなしませんでした。怖ろしさに口をへの字にしながらも、それをしっかりおさえて、高く水の上にさしあげたのです。


醜い、怖い。窮地に立たされたか弱いヒバリの仔であるはずなのは客観としてホモイには分かっている。にもかかわらず、本能的なここでのホモイの、このヒバリの仔に対する殊更な違和感と恐怖の描写が私はずっと気になっていた。宝玉「貝の火」の異様な美や劫罰への理不尽と同じ違和感、そこに連なる要素として感じていたのである。「どこかがおかしい、歪んでいる、既知の世界の法則に収まらない。」ものへの違和感。

…これらすべてが、怖いもの、異質なるもの、すなわち「外部」への本能的な恐怖のサインであると考えるとき、すべては繋がってゆく。

幾重にも仕掛けられたあらゆる意味での決定的なホモイの領域侵犯の描写。この嫌悪と恐怖は、異質なるもの、外部へのそれを意味している。客観・論理的にはただ普通にか弱いヒバリの仔がおぼれ、その善良なる親子がホモイの自己犠牲的な勇気に助けられて感謝し喜ぶという描写が確かに(巧みに)なされているが、「ほんとう」は違うのだ。ホモイにとってのその「ほんとう」、それは違うのだ。

それはただ、外部である。共同体内での調和を破壊するその恐怖である。秩序正しく約束された正義も道理も境界の向こう側では意味をなさない。「貝の火」の異様な「美しさ」の裏返しとして、異界とのメディア、境界としての川から現れるヒバリの仔、異界の印のその異様な「醜さ」。これが同じ「過剰」同じ「異様さ」として結びつけられたひとつの「外部」の裏表として響き合いながら描かれていることを読み取るとき、この物語の構造の完璧さに私は感動する。


ここでとにかくホモイは己のこの「差別主義あるいはエゴイスティックな」(とされる)雑念を振り払ってヒバリの仔から目を背けながらも正義の行いを敢行する。…実に偉い仔ウサギなんである。

…これが、旧友の中で一番感じの悪い俗物いじめっ子代表ザネリを助けるため自己犠牲で死ぬカムパネルラだ。自己犠牲というどこか歪んだかたちの己の贈与行為によるホモイの失楽園。(無垢な理想の正義の象徴、カムパネルラという「楽園」である。)ここでホモイの中の理想のかたちとしての単純に美しい友愛や純粋正義の自己犠牲の精神としての「半身」カムパネルラは失われ、ひたすら果てない理不尽の試練の無限を突き進む永遠の求道者ジョバンニとしてのホモイのみが生還する。

世界と一体となることを無邪気に喜びただ無心に遊ぶことのできた下記引用部、冒頭のシーンの幸福な子供の時間の終焉だ。


今は兎たちは、みんなみじかい茶色の着物です。
野原の草はきらきら光り、あちこちの樺の木は白い花をつけました。
実に野原はいいにおいでいっぱいです。
子兎のホモイは、悦んでぴんぴん踊りながら申しました。
「ふん、いいにおいだなあ。うまいぞ、うまいぞ、鈴蘭なんかまるでパリパリだ」
風が来たので鈴蘭は、葉や花を互いにぶっつけて、しゃりんしゃりんと鳴りました。
ホモイはもううれしくて、息もつかずにぴょんぴょん草の上をかけ出しました。


この「ヒバリー貝の火贈与」事件以降、ホモイの周囲では上記のような生の喜び、世界の美しさ、楽しさを純粋に躍動させる遊びの描写は見られなくなる。代わりに出現するのは、支配と権力の興奮、軍隊の序列。大将となったホモイは仲間たちを序列づけ、その交換法則の中に回収してゆく。権力と支配と欲望の法則のもとにある快楽、凋落をそそのかすキツネが現れ、ホモイの遊びは世界のありかた、その美しさと恩寵を単純に喜ぶのではなく、この法則の己の優位性を喜ぶシステマティックな物語の性質を帯びたものへと変化する。

もちろんそれを誘引したのは貝の火だ。そしてホモイの自己犠牲という贈与行為によってもたらされた異界との接触(共同体内の閉じられた交換法則をはみ出した外界との接触)はすなわち外部としての「不条理」「共同体内部の倫理の論理を超えて見えるもの」としての超越した判断基準、聖なる過剰、貝の火を呼び込むことになったのである。ここで共同体内のあらゆる歪み、不正義、穢れはかえってその露わなかたちをむき出しにあぶりだされる形をとる。ソクラテスとの対話がソフィストたち自身の論理矛盾を意識の俎上にあぶりだし恥じ入らせ怒らせたように、日常世界に積もってゆく隠微にして見逃されがちな小さな穢れ、慢心、矛盾をもすべてその根源的な構造から厳しくあぶりだす。(それは、《ホモイというスケープゴートにすべてを負わせ、それを罰する、罪を贖わせることによって成立する》世界の浄化(教化)のための狡猾な神具・アイテムなのだ。)

ここで、ヒバリの親子は徹頭徹尾奇妙な使者、媒介の役割を果たし続ける。謎の鳥の王からの「贈与」貝の火の受け取りを断るホモイに押し付けるようにしてあわてて去ってゆく。あたかも己がホモイにもたらした試練の意味を知っているかのように。


すると不意に、空でブルルッとはねの音がして、二疋の小鳥が降りて参りました。
大きい方は、まるい赤い光るものを大事そうに草におろして、うやうやしく手をついて申しました。
「ホモイさま。あなたさまは私ども親子の大恩人でございます」
(中略)
「いいえ。それはどうかお納めをねがいます。私どもの王からの贈物でございますから。お納めくださらないと、また私はせがれと二人で切腹をしないとなりません。さ、せがれ。お暇をして。さ。おじぎ。ご免くださいませ」
そしてひばりの親子は二、三遍お辞儀をして、あわてて飛んで行ってしまいました。


このときは、ヒバリたちは川からではなく空から現れる。

賢治にとってこのような、異界(向こう側、この世の外)からの使者としての鳥、というイメージは、「春と修羅」の中で、死の世界「向こう側」に旅立っていった妹を悼んだ挽歌群「無声慟哭」に次のように記されているものである。

 

「オホーツク挽歌」

空があんまり光ればかへってがらんと暗くみえ
いまするどい羽をした三羽の鳥が飛んでくる
あんなにかなしく啼きだした
なにかしらせをもってきたのか

「白い鳥」

二疋の大きな白い鳥が
鋭く悲しく啼きかはしながら
しめった朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる


もちろんこれは古事記ヤマトタケルノミコトの魂が死後白い鳥になって飛び去ったとされている一節を踏まえているものなのだろうが、とにかく賢治にとって、空からやってくる鳥とは、天上界からの使者、外部とのメディアの意味を持っていたのである。(ここでは妹の属する死の世界。)

このように考えれば、ホモイに貝の火をもたらす(貝の火、とは因みにオパールのことを言うらしい。)使者としてのヒバリやその向こう側にいる「鳥の王」の性質をもまた特定することができる。異界、異質なるもの、この世の外部の法則、論理そのものの象徴、「親玉」。

外部からやってくる贈与は過剰という印をもって内部の交換のバランス、その調和の法則性を揺るがす理不尽と謎を突き付けてくる。内部で閉ざされた完結を見るべき交換法則、約束ごとの調和を乱すものとしての「ほんとう」や「絶対」という真理のおそろしさはここにある。

…もちろんその完全な解放と至福は常に求道、希求の対象であることは疑いようもなく、真善美と呼ばれてきたものに非常に近いところにあるもの、何物にも代えがたい存在の基本或いはマトリックスではある。

この「外部」は「超越」として、内部の不完全にして恣意的な約束事で出来上がった共同体内に起こる矛盾や軋轢、理不尽をあぶりだし浄化するための美しい聖なる「真理」を教える「先生」の教育として必要とされるものなのだ。そして先に述べたように「先生」は供犠として外部の刻印、死或いは劫罰を受け最後には共同体のその歪みをすべて請け負ってこれを贖い、排除されねばならぬ、劫罰を受ける王、キリストの宿命を負う。

「ほんたう」「絶対」「真理」とは、外部であり異質であり理解を拒むもの、共同体と共にある今あるかたちの己の存在をも破壊する自己崩壊、今ある世界を支えている大地がまるごともろもろと崩れてゆく終焉、終末感、世界崩壊を意味するものでもある。この世の矛盾を解決したところにある、追わずにはいられぬ「ほんとう」と「絶対」、真理、至福。それが同時に正視できない恐怖の対象であることも逃れ得ない矛盾そのものとして成立しているのだ。捨て身にならなければ触れられないもの。(私はここでミヒャエル・エンデの「はてしない物語」を思い出す。真理を語るものへの門を開く最後の試練とは、「知るために知ることをも望まない」という論理矛盾或いは主体崩壊を要求するものであった。ここでの試練を受ける英雄アトレーユは「記憶を失う」ことによってこの試練を乗り越えることになる。参考・以前の記事「散文と詩歌」)


危険な外部に連なるものに対し内部の世界は安全弁的な印をつける。聖なるもの、或いは賤なるものとしての取り扱い説明書。社会システムの外部の印である。どちらにしても神として祀られ、供犠、生贄とされるべきいみじさの印である。神託を受け天に定められた聖なる王、天皇、あるいは河原者(芸能者)、穢多、非人と呼ばれた、一般社会から両極にはみ出た「外部」の印。アンタッチャブル。聖なる巫女とはしばしばまた賤民をも意味した。

すなわち、その両極にはみ出た外部が、内部の淀み、歪み、穢れ、矛盾を炙り出し顕在化させ浄化する「先生」なる役割を負わされた供犠として存在しているのだ。

一つの読み方として、貝の火とそのもたらした失明はそのような印と同義であるということができるのではないか。とすればそれはむしろそれは聖痕に近い。

この聖痕とは、選ばれた求道者としての印である。ホモイは、求道者として選ばれたゆえに、外部からの贈与を、すなわち「いみじさ」「過剰」を受け取らなくてはならなかった。貝の火の、そのたぐいまれなる美しさと共同体内での王としてのあらゆる誉れ、そしてそれと表裏一体である受苦そしてその劫罰の印を、共同体からの蔑みを共にすべて受けとる者、供犠として「捧げられた者」にならなければならなかったのだ。

外部と繋がったものである供犠の印。
過剰なる贈与、栄誉や劫罰を受けるのは従ってキツネでなくホモイでなくてはならないのだ。すべての求道者はすべての世界の理不尽をその内面に映し込みそれを引き受け贖わなくてはならない。外部真理・エホバに属するもの、使者である無辜なる神の子イエスのみが磔刑を受けこの世の人々のすべての原罪を購うことができたように、外部の印を持つもののみが内部のあらゆる理不尽、罪を顕在化させ引き受け浄化のための贖いを行う者となることができる。(そして先ほどの論理から言えば、このテクストを読む読者もまたホモイを生きるものとしてのこの読書の現場を引き受けることになる。)


贈与されたそのような外部、物語化されない自然のままの世界のいみじさを、直接そのままにこころが感じてしまうことと、論理的にそれを理解すること(交換法則の物語の中に回収する)の違いを賢治は次のような形で言い表す。やはり妹の死に関しての長詩群「無声慟哭」の中の「青森挽歌」の一節である。妹の死の現実を受け入れようとするときの心の中の葛藤と錯綜をうたう。


感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
それをがいねん化することは
きちがひにならないための
生物体の一つの自衛作用だけれども
いつでもまもってばかりゐてはいけない

 

これは、愛するものを失った、己の半身を失った痛切な痛み、悲しみや現実の不条理を示していることばである、もちろん、それ自体おそろしくすぐれた詩情をにじませる表現だ。

で、大切なのはただそれだけ、といえばそれに間違いはないのだが、これを認識構造の側面からとらえるとき、ここには今まで述べてきた自己ー主体ー世界との関係性、その認識構造と響き合う、非常に興味深い類型がみてとれるのではないか。愛する者の死に対する悲しみ、という類型的物語に回収される以前の、そのすさまじい還元不可能なそのままの感情の源泉、その「ほんとう」に至ろうとする知の持つ真理への意志を、「きちがひ」になる、今ある自己の崩壊をも辞さない態度で示す、そのマトリクスに至る言葉の意志の可能性を私はここに見る。このとき、構造としての詩情の深遠の感動に私は揺さぶられるのだ。

概念化されない生のままの外部、真理とは、それをそのままに受け入れようとすることは、その瞬間にきちがいになる、今ある主体を存立させているシステムそのものを崩壊させる「外部」への飛翔を意味するのである。

だが賢治はここであえてそのハードルを乗り越えようとする決意を示す。乗り越えたとき、一つの自己が崩壊したとき、ほんたうの、まことの、ただしくあかるいとこがあるという信仰を奉じるためだ。(「おまへの武器やあらゆるものは/おまへにくらくおそろしく/まことはたのしくあかるいのだ」青森挽歌)内側を守ろうとする力はくらくおそろしく、ほんとうは、その外側はあかるい。そう、それはそのようなかたちを信じる行為そのものによって成立する祈り、「信仰」である。信仰の力によるひとつの真理の成立のかたちなのだ。


求道者とは全てを孕んだマトリックス、或いは虚無という真理に向かって全ての歓びも理不尽も引き受けながら、常に新しい秩序と正しさを作り出し続けなければならない動的な者のことである。永遠にジョバンニは世界を学び正しさを追い求めることによってこれを「創造」し続けなければならない、試練の旅を続けなければならない。完全なるイデアを求め、それを不断に創造し続け不完全を壊し続ける、求道。ここで、正しさとは、常に正しさを追い求めるという希求そのものである。

求道の両翼、という概念を私は考える。真理、正しさ、本当だけを祈ろう、現実の汚らしさ、どうしようもない不幸からは逃れた心の楽園、イデアへの翼を求めよう。…けれどそれをそのままに保ち続けながら現実に舞い降りよう、というその矛盾を生きる者。

こんな不完全な幻想げんそう第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行けるはずでさあ、」(銀河鉄道の夜

不完全だからこそ永遠なのだ。完全を希求しながら永遠に動き続けるメディアであることによって「ほんとうの天上」さらには「天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける」(銀河鉄道の夜)という求道の正しいかたちが可能となる。

決して一つの閉ざされた物語の中に回収しきれないもの。永遠に希求され続けることを意味する、閉ざされることのない開かれた外部へのメディア。

一旦、共同体から排除され、星まつりの夜に銀河鉄道の旅というカムパネルラを失う儀礼を受けてジョバンニは共同体に帰還する。未来への明るいうつくしい希望を持ったかたちで。

これは、ホモイが共同体から排除され、劫罰の印を受けて帰還した暗い苦難と試練の未来を示した物語の、同じ構造をもちながらその裏返しを現したものである、実は同じ構造を持つ物語ということができる。それは、おそらく共同体内に閉ざされたホモイの人生(兎生か)と、「鉄道」というメディア、その科学的思想的技術知の有無によるイデアへ解放につながる概念、その力を得た未来へのヴィジョンという違いをもったジョバンニの人生の未来の違いによる反転である、ように思う。

 

同構造としてある物語。それは、聖なる穢れたもの。引き裂かれたもの。引き裂かれてありながら修羅にありながら実は既に到達しているもの。個と集団、内部と外部、二つの翼の構造である。

銀河鉄道に取り入れられている思想的ベースとして結びつけて考えられる可能性は、「求道すでに道である。」「詩人は苦痛をも享楽する/永久の未完成これ完成である」。「農民芸術概論綱要」において主張されたイデアを生きるためのミメーシスという技術。現実(共同体内)とイデア(外部)を「ただしく」繋ぐメディアとしてのミメーシス、信仰、科学、芸術行為という銀河鉄道。これは、トータルに、むしろアンガージュマン的なる思想をも盛り込んだ結論、「動的知」である。

考える。これが、賢治が外部を内部に取り込み反転し続けながらトータルとしての現実を生きるための、この求道の精神を「芸術」というメディア技術によって成立させしめようとした、生きるための芸術論、ひとつの祈りのかたちである、と。

 

 

※追記。深夜夜更かし泥酔の翌朝、土曜日、台風。この宿酔状態は最悪である。

「贈与と交換の教育学~漱石、賢治と純粋贈与のレッスン」矢野智司

ということで読みました、とりあえず。

もう序章の時点で「これは…ッ!」と興奮状態。ああ間違いない。というかタイトルみたとたん「賢治と漱石かよ…。」既にもう間違いなかったのだ。この二人を同じ切り口で論じようなんてモノは、間違いなくアレだと思ったらアレだった、という気持ちである。(謎)イヤソノ、アレってのはだな、イヤソノ、アレなんだけど。…ウン、この本のキイ・ワードにもなってる、アレだよ。「溶解」。自己溶解。(賢治に関しては、もちろん「わたくしというげんしゃう」意識、「まずもろともにちらばりて」等、その独特な自己溶解意識は有名なところであるが、漱石に関してはそれはここでは修善寺の大患、その臨死体験に紐付けられて語られている。)アイデンティティの枠組みの崩壊と、そこからの世界との連続性の発見、体験。それを根っこに据えたところにある、近代日本(という世界観、システム、或いはパラダイム)に対する歴史的批判精神。この本ではそれを「贈与」「交換」という関係性を論点に、「教育学」的なアプローチで論じてるんだけどね。

で、中盤以降各論は幾分あれこれひっかかりつつ何とか一通り読了。
新しい視点に目からウロコな気持ちになるところも、ううむこれはどうか(いささか強引で我田引水)というところもあったんだけど、概ね一貫したところから成る刺激的な解釈で面白かった。

何の分野でも(学問でも芸術でも娯楽でも思想でも)その人の作物を面白いと思うってことは、つまり、そこに流れている根っこのセンスが自分とどこか共通したというか共感できる根幹の思考スタイルを持ってるってことなんだと思う。アプローチや視点や分野、その枝葉が違ってても。

ということで、学術的な文章を読んだときいつも思うこと。
重要なエッセンスはすべて序章に書かれている、ってことだ。一つの仮説、ひとつの思い、ひとつの祈りのようなものがね。世界の姿への。

後は枝葉末節、技術やテクニック、補強と応用と証明のための具体例としての寧ろ恣意的な位置づけの各論に過ぎないとすら言ってもいい。論文全体の青写真こそがその理想の完成されたかたちだから。

しかし、基本刺激的で面白いんだけど、丸呑みできず、どうも読みにくくおもしろくない引っかかったところってのも結構多い。で、こういう本が却って一番気になったりもするのだ。

ということで頭の隅っこでずっと引っかかったまま納得できずちいとイライラしていた。
…んだが、どうにか落ち着いてすこしずつ消化してきたような気がする。これは先に述べたように、あまりにも贈与と交換の持論に持っていき過ぎでは、というその牽強付会ぶりに対する些かの違和感であったのだと思う。

特に賢治の「貝の火」の解釈。
うわ、という、この理論に対する目からウロコの視点に対する驚きと、いや待て、だがしかし、というひっかかりは、ホモイに関しての従来からの「あまりのわからなさ」にすべてのむすぼれの焦点があったんだが、つまりはそこにひとつの自分なりの解決点、というか糸口をつかんだイメージができたんだな、ウン、なんとなく。それでこの本全体の理論の掴み方も自分なりに今の時点での落とし所を以てある程度の納得を得たというところである。

***

ということで、まず、この本の骨子は序章にビシッと示された以下の構図である。
「教育」を相反する方向性を持つ二つの要素として分析、定義する。すなわち、ひとつには、ある文化圏、共同体内での構成員の再生産とその存続目的のためのシステム、もうひとつは、そのシステムの外部、まったく異なる概念、その異質性そのものとしての外部知識との接触による主体の変容。後者は前者をその成り立ち自体から否定、破壊する侵犯としてとらえることができる。いうなれば「個」の成り立ちそのものの相克性をあぶりだす構造を提示しているといえよう。集団の中での個の矛盾したありようである。共同体を成立させる要素としての個(帰属集団の価値観を内面化しようとする個)、そこから超越したところに繋がろうとする個(集団の中の約束事としての価値ではない、その亀裂から外側に開かれた知、絶対的真理としての価値を求める個)。

ここでは前者を「交換としての教育」後者を「贈与としての教育」と位置付ける。
もちろん本書の論点の中心は後者である。交換法則からはみ出たところにある外部としての「知」。この「贈与としての教育」の歴史を語るその自在で縦横無尽な語り口は刺激的で魅力的だ。

そのような贈与としての知の系譜は、彼によれば最初の「世俗外個人」としてのソクラテスから語ることができる。ここで語られるティピカルな「先生」。共同体内のソフィストたちの「交換法則の物語内にある知」に対し、その成り立ちを根底から揺るがし否定し無化する外部の「贈与としての知」を侵犯させ、そのために死ななければならなくなるもの。その「供犠」によってその「知」の種が弟子たちの間に芽を吹く。…これはキリストだ。ここで「先生」とは、その死によって、閉ざされ疲弊した世界を新しい知の革命で救済する供犠として存在する者である。

…ということで、この系譜は漱石の「こゝろ」の「先生」に鮮やかに再現されているものとして語られる。先生はその血を弟子「私」に浴びせかける死を得ることによって「先生」として成るのである、と。

この辺の解釈も素晴らしく面白いんだが、とりあえず、この交換ー贈与ー供犠、の図式を押さえた上で、ホモイの方に移りたい。(こっちは見切りアップの試論段階ですが、もうなんか風呂敷たためずわやくちゃになってくるばっかりなので、「深夜泥酔勢いでこっそりとりあえずアップ&ぼちぼち推敲」スタイルで。)

後編へ。

この夏の目標

人生には日々を充実させるための目標がなくてはならない。
…という命題に行きあたった。さっき突然。

そういえば、小学校でも日直が毎朝黒板に「今日の目標」みたいなのを書いていた記憶がある。「一日一善」とかそういうの。あれは価値観の共有という、社会の基礎をなす構造、共同体の構成要員としての個人を拵えるために、共同体共通価値を個人の中に埋め込み内面化し飼いならすための権力による小国民養成のトレーニングであったかもしれないが、それはまた一個の人間として、人が自律した個人として生きるためにも当てはめることができるものなのだ。それを否定することはただひたすら世界を無意味なものとすることになる。(…というより常に否定しながら創造し続けなければならぬものなのだ、生きる意味なんてのは。)

例えばわが国では元日に家族で晴れ着を着、居住まいを正してその年の目標を麗々しく張り詰めた元日の清明に、蓬の香る墨で黒々と書初めたりする。その年を正しく意味あるものとしてあらしめるための儀式である。

なべての儀式はそのためにあるのだ。

儀式の有無に関しては共同体レヴェルであっても個的レヴェルであっても構造は同じだ。本当はあってもなくてもよい。不眠体質者の入眠儀式みたいなもんだ、催眠術みたいなもんだシャーマンのペヨーテみたいなもんだ坊さんのお経みたいなもんだ。

白球を追う球児しかり、正義のために殉死する英雄しかり、山に登って凍死する冒険家しかり。生きる意味と美学は固有であり主体にとってあるかないかだけが問題なのだ。世界に意味がないのではない、己に意味を感ずる力がないのだ。希望欲望意欲、欲がなければ人間は生きられない。対象は何だっていい。意義を感ずる信じる心がすべてだ。人は各々その美学がなければ生きられない、のかもしれない。

それが共同体にどれくらいのまれたものであるか或いはそこからのルサンチマン的なるものであるか、またそれらをどの程度自覚しているかで人の立ち位置は違ってくる。

まあね、どうだっていい。要するにその気になるかならないか。美しい、大切だと思えることは何か。ヤーネーって思うのはどんなことか。実存なんていうのはそうなもんだ。そしてニワトリとタマゴのどっちが先かなんてことはどうでもいい。どうだっていいけど考えるんだ、それには意味がある。それだ。

…ということで目の前のこの猛暑の夏を生き延びるために私は「この夏の目標」をたてることにした。

ということで立件された。

「一度も蚊に刺されないで過ごす。」
これである。

とても大切なことだと思う。
何故なら、蚊に刺されると日本脳炎になるからだ。子供の頃そう教わった。

マラリアにかかることもあるという。

とても身体に悪い。

どんなに偉い自己犠牲の美学のバイオエコロジストが、蚊が絶滅すると地球生物相が崩れるから己の身体を少しくらい危険と苦痛にさらす犠牲を払うのは人間の義務であり種としての蚊の生命を守らねばならないと声高に主張したとしても私は嫌である。地球を守るために日本脳炎になるのはいやである。第一かゆいのがいやである。全体のために生きるのではなく個として生きるのだ。エゴイストなのだ。

ということで今年は奴らに一滴の血液も与えるつもりはない。血の少ない私には貴重品だ。(変な手を使わず「私もこの世に生まれてきたからにはそれを全うし生物として生き抜いて子孫を残さねばならないので少しだけください。」と頼んでくるなら一滴くらい差し上げることに関して決して私は吝かではない。二親から授かった賜りもののこの大切な身体に薬物を注入して損ないかゆくさせて奪おうとする被害者にとって踏んだり蹴ったりな非道な行いをするから向こうがいけないのだ。)

頑張るぞ。
生きるぞ。

負けるもんか、猛暑。

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負けるもんか、私を損なうすべての事象に。

あらゆる希望と欲望と友愛と美しいものへの祈りと、その矛盾のアマルガム、それが矛盾でなくなる場を作り出し求めるひたすらの力で。

…さしあたって今週のミッションは西瓜と桃とかき氷かな。
(懸案は吉祥寺のプレスキルか千歳烏山ショコラティエ・ミキか赤坂見附のMAMANOのカカオなかき氷である。うまいんかしらチョコレートのかき氷。西荻の甘いっ子のはなんか嬉しくてうまかった記憶があるが。)(チョコレートじゃないよ、なんだっけな、古式ゆかしい普通のやつ。)(自分でこさえたヨーグルトと蜂蜜のやつが一番好きだが。甘すぎなくて身体に正しい。)