酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

モンブランスタイル

昨年春、不意に空から降り落ちてきた天啓を受けた。

モンブランである。

落ちてきてしまったものは仕方がない。私はそれからせっせとあちこちのモンブランのことを研究した。その中で当然候補に挙がったのが谷中の「和栗や」である。選りすぐりの栗が自慢、栗菓子専門店。いつも行列みんな絶賛つくりたてモンブラン

で、去年の秋かな。一番素晴らしい旬の秋の栗スペシャモンブランが始まった頃。
今日こそは、の良き日を選んで勇んで出かけた。

…甘かった。開店早々長蛇の列、並んだ末にしばらくしてから「本日売り切れ」。

朝からものすごい覚悟で張り切ってわざわざ電車乗り継いで行ったのに。
ものすごくくじけた気持ちになってものすごく落ち込んだのだ、その日は。

で、その和栗やが今年五月に新しくモンブラン専門店を出したという。ひそやかに。その名も「モンブランスタイル」。まだ谷中和栗やほどの知名度はない。並ばずに済むチャンスかもしれぬ。


…ということで行ってまいりました。
再びの一大決心。

2018年平成最後の年、梅雨明けの翌日。
今日だ、と思った。

目覚めた瞬間スコンと晴れたまばゆい夏の空を感じた朝だ。

陽射しがじりじりと皮膚を焦がすように照り付ける夏のはじまりの土曜日、遥かなる富ヶ谷。やれどっこいしょー。

例のごとく方向音痴、多少おろおろと迷っていたら、開店から10分過ぎてしまい、見れば既に5~6人店の外に並んでいる。

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ヤレヤレ。
日陰を選んでのそのそと座り込んで待つ。陽射しは強いが汗ばんだ額に快い風が吹き抜ける。とろけるような真夏の陽射し、土曜の真昼。このばかばかしく美しい世界、そう悪くない。

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谷中の和栗やはごく普通に老舗の和菓子屋、という風情だったけど、ここはあからさまに寿司屋。コンセプトが和にこだわって、カウンターで職人が出来立てを客に供するスタイル、ということらしい。

でね、だけどね、猛烈に暑いしなんかどれくらい待たされるかわからない行列だしお持ち帰り不可でその場でおいしく完食する自信ないし生クリーム苦手だし高価いし、このままくるりと踵を返して帰ってしまおうかという思いもかなり強くてだな。正直この期に及んで迷いに迷っていたのだが、中をのぞき込んだら、隙間から店内が覗かれた。

職人さんがマロンクリームを絞っていた。

…うつくしかった。

アレを目の前で見て、その出来立ての一品が私のためにこの目の前に供され、この私がそれを現実にスプーンですくってほにゃりと食べるなどというイベントが、今持っている私の可愛い紅色に水玉テントウムシ模様のお財布の中身で贖うというかたちで許される、ということが、これからそれが起こるのだ、ということが、奇跡のような僥倖として感じられた。…つまりはいきなり盛り上がってしまったのである。

待つ。待つぞ、オレは待つ。パフェでもデセルでもいいけど、ああどうしよう、うむやっぱり王道モンブランだ、デセルの方にしよう。

(メニューは二種類のみ。「モンブランデセル」《普通のモンブラン》大小。そして季節のモンブランパフェ。今は桃との組み合わせ。)(飲み物はほうじ茶、緑茶。)

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ひんやり涼しい店内に招き入れられ、静かな音楽がながれる落ち着いた空間で冷たい水とお絞り、ほっとする。スタッフはいかにも職人さん風の衣装をかためたほんにダンディな職人さんと、注文を取ったり片づけたりアシスタント的な女の子が一人。

席に着いて注文をしてからかなり待たされたが、実にこの時間がごちそうであった。
丹念にパフェとモンブランを拵え続ける職人技をライブで堪能できる。

いやなんというかそれにしても緊張するんである。

カウンターの向こうでは、寡黙なモンブラン職人が黙々とモンブランを製作し続ける。で、客の側も只ならぬ緊張感なんである。おしゃべりもひそひそ図書館レヴェル。やはりここでモンブランはもはや道なのだ。モンブラン的求道の場。

上品な和風のインテリアにも心遣い。あちこちにさりげない栗が潜んでいたりする。お手洗いのシンクやお香ポットも可愛いこだわりの栗型だったりしてね。

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皿とスプーンが並べられてからかなり待たされる、が、このわくわくする待つ時間が一番のごちそうなんだな、やっぱり。

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穏やかに低い声、最小限の言葉で指示するマイスター、てきぱきと従うアシスタント、すべてはなめらかで快いスタイルをもって進んでゆく。つぎつぎと鮮やかな手つきで出来上がりスマートに供されてゆくモンブランパフェやモンブラン、ほうじ茶の香り。すべては約束されたパフォーマンス、職人ライブである。

ここに参加し、う~ん、おいしい、などと呟きながら堪能するお客さんたち。調和したこの馴れ合い物語空間にひそやかに身を沈める。…これが楽しい、嬉しいのだ。

そしていよいよ自分の番である。

来たあ…
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やはり美しい。和の器に似合う芸術品。

最初のひと口、ううむ。

…さすがに素晴らしい。栗。

感激した。これである。栗どストレート。ラムもヴァニラもなし、和栗直球勝負、甘味もナチュラル、できたてでやわやわ、スプーンに柔らかくまとわりつくマロンストリングス。ほにゃりと口の中でほどけてゆく。ほどよくなめらかだけど絶妙のほっくりした舌触りを残して広がるなんともいえぬ濃い栗風味。

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構成は、マロンストリングスに覆われた柔らかな生クリームと渋皮栗クリーム、アクセントのさくっとしたメレンゲのストイックな正統派。

でね。

だけどね。

…やっぱ、甘すぎるのと生クリーム苦手なのよ自分、ということをしみじみとかなしく思った。

後半のこの生クリームが辛かったんである。全部を一気においしくいただくのムリ。少しずつ食べたいからお持ち帰りさせてくれ。というか、このマロンペーストんとこだけたらふく食べたいのオレ。これだけ売ってほしい。

でね。思ったの。
せっかくオーダーしてからひとつずつ拵えてるんだから、結構な値段するんだから、構成をお客の嗜好にあわせてちいとくらい変えてくれてもいいと思うの。

だったらさ、オレ殆どこのマロンストリングスにして、中にアクセント程度に渋皮栗のカケラころころ詰め込んだ第二番目の渋皮栗クリーム、さくさくメレンゲ。それだったら最後までもう単純にうっとり幸せになれるのに。あと「不可」とか言わないで、持ち帰らせてほしいの。こういう話題性のお店はマスコミやSNSワールドに流通するお店側の物語美学で受けてるんだけどさ、だけどさ、お客様は神様ですはやりすぎだけどさ、ここはオレの城だ、これが一番うまいのだ、言うこと聞いてオレのやり方が美学が気に入らないんだったら来るな、っていうその裏返しのやつさ、そりゃまあ正しいんだけどさ。

でもさ、悔しいやん。栗好きなのにこの栗ペースト恐ろしく素晴らしいのに。ギー。負け惜しみだけどさ。

あとさ、もうひとつ。
栗はうまいけど職人は職人だ。パティシエじゃない、って思ったのよオレ。

パティシエは伝統と個性としての創作のセンスを併せ持つ味覚に五感を響かせた総合的なアーティストであって、職人とはちがう。パティシエとしては、やっぱり目白のエーグルドゥース。あの洗練の方がやはり菓子の完成度としては格段に素晴らしい。

ただここの素材は確かに一番だと思ったから悔しいのだ。

ワシは消費者にはなれないんだな、としみじみ思った。
職人側の美学だけまるごと押し付けるやり方ってやっぱりどうかと思う。イヤそれで受けてるんだし、売れてるんだし、行列できてるんだし、需要と供給が一致してていいんだろうけどさ。もちっとフレキシブルにこっちのこと思ってくれてもいいやん。もちっとテゲテゲにしてくれてもいいやん。

でさ、できたらモンブランには珈琲欲しいんやん。和のほうじ茶と緑茶にこだわるのわかるけどさ。でもさ、ほうじ茶ラテはやってるんだし。

いいやん、コーヒーじゃなくて珈琲って称してで和の器でかっこいく供するスタイルなら和風やん。(珈琲の強烈な風味は、ほうじ茶やなんかと違って、ラムやヴァニラを使わないストレートなこの自慢の栗の風味を十二分に味わうには邪道になるって言いたいんだろなあ。)(そらまあすごくわかるけど。まあねえ、確かに職人の自負と誇りを感じさせるかっこよさ。)

 

ああだけどなあ、このマロンペーストがあったら、自分の好きな配合でうんと幸せになれるくりおやつおうちでいっぱいたべられるのになあ。とっときのヴァニラブランデやトーフクリーム、カカオや胡桃なんかと組み合わせたりしてあれこれ楽しいのになあ。

かなうことなら、中野のラブリコチエか銀座みゆき館かエーグルドゥースのモンブランのあのでっかいさくさく土台マカロンの上に西荻アテスウェイモンブランの中身の和栗コロコロのっけてここのマロンストリングスたらふく、のやつがいいな~。なんて考えてしまった旅でした。

あーワガママいっぱい言ってすっきり。

目が覚めた。

日曜深夜或いは月曜早朝。


数秒、自分が誰で今どこにいるかわからなかった。間違いなく宿酔の頭痛の中にいる。昨夜は飲みたくもないのに飲まされたのだ。(その後飲み直したのはまあ自己責任である。)


だがこの眠りの続きのような夜でもない朝でもない奇妙な静けさの中、いろいろ考えた。

この状態では、今のこのわたくしのかんがえはすべて明朝には失われているものであるのだろうと思う。


悔しい。

だが眠い。


ひとつだけ、明日の私にヒントを送ろう思う。


名前をつけたいのだ、このかんがえに。この概念に。それはここしばらくずっと考えていたことから導き出されたもの、今そこからポンと思いついたひとつのかたち。何か名前を、非常に明確なこの概念に。考え方のモデル、可変と可塑そのものであるために名付けることが困難ではあるのだが、それでも指標は成る。それを示すための、なにか。イメージは思考スタイルのクセのようなもの。名前さえつければ、それはきっとその度失われる非効率性から逃れることができる。失われない。生まれて生きたことが。


眠い。頭痛い。

どんどん忘れてしまう。


情けないくらい忘れる、沈んでゆく流されて行く、手が届かなくなる、失われる。仕方ないやな。


おやすみなさいサンタマリア。

阿佐ヶ谷

よく晴れた日曜日、酷い宿酔いで、顔も洗わず髪もとかさずジーンズにその辺のくしゃくしゃのシャツひっかぶって、のそのそと外に這い出した。なんとなくどうにもならんので。

ばかづら下げて歩いてたら、そういうときに限ってばったり高校の後輩に出くわしたりする。

懐かしい夏の陽射しに懐かしい街の風景で懐かしい後輩から昔話と現在の話を聞いて、人生まるごとつづめた夢、奇妙に不思議な時空の夢を見ているような気がしていた。

(もしかしてこんなのも年を取った後の人生が終わりに近づいたときの、悪くない日曜日なのかもしれない。)(早く本当の場所に目覚めたい。)

よしなしごとをしゃべくりながら歩いてたら、私が中学生の時から既に寂れていたけど、何だか永遠に存在しているような気がしていた乾物屋のシャッターが閉まっていた。後輩君がすごく気にして教えてくれたのだ。

「ついにつぶれたのか…ついにこの日が来たのか?」
二人して大変気に病んで、半分空いたシャッターからのぞき込んだら、店じまい的な作業をされておられる方々の姿が。

「あのう…」

確かめたら、やはり店じまいであった。
仕方のないことなのだ。時は過ぎるし時代は移るのだ。

やはりちょっと寂しい。
しみじみ。

後輩君は「俺らの一つ前の世代が支えてきたものが交代したら、次の世代がどうするか、で時代が変わるんですよねえ。」的なことを言ったので、ワシはしみじみ同感した。

「ウン、きっと明日にも戦争とか地震とかゴジラが降ってきてきっと世界が終わるんだよ。」

なんか同感じゃなかったかもしれない。
ごめんねM君。

この日曜日、久しぶりにこんなに美しく桃色に染まった空を見た。
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夏至、文学

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妖しい半月が西の空沈んでくよ、夏至の夜。

…でね、麦酒を浴びてヤナちゃん聴きながら思ったんだけどさ。

オレ文学部だったんだけどさ。

学問っていうのはさ。

何なんだろなって。
(主として賢治のなめとこ山とホモイと漱石のことをぐるぐる考えてたんだけど。)
(何しろホモイがわからなすぎるのだ。だがわからないことが面白いのだ。どうしてホモイはこんな劫罰を受けなければならなかったのか?)(正当な理由はない。)(強いて言えばそれは「実存」、という概念にも関わってくるのかもしれない。)(?)(そうしてどんどんわからなくなる。)(そうしてそれは、何だろう、一種過激な「ほんたう」や「絶対」に対する拘泥という賢治の資質に関わってくるのではないか?天沢退二郎がそれを法華経の過激さに結びつけて考えたように。)(あらゆる交換法則や共同体の規範を超越して破壊して。)(つまりはおこちゃまなのだ。)

 

ということでだな。

思うに、それはだな。

以前は「論理である。」と思ってだな、例えば小説だの詩だのを分析して論理を取り出すことによってその物語が如何にして人の思考パターンに刻み込まれているのかを見出す面白さというかなんというかそういうことだと思っててだな、今でもそうだと思ってるんだがな。

その論理とは何か?ってことで、もうひとつ思いついたんでメモ。

論理を見出すとかダルマを見出す(仏教的なやつね。「法」っていう。「モード」。)

文学部的なアプローチで言うと、それは、個別的な物語、言葉の中に「普遍」を見出すことなのではないかと。

抽象を見出す、論理を見出す、普遍を見出す。個は個であるそのままで普遍である。エゴはエゴのままで仏性そのものである、十界互具は平行線でありながらびりびりとした矛盾のダイナミクスのエナジイを孕み続け共存し続ける。…もしかして、それが歴史と時間を作っている、のかもしれない。

きわめて個別的にして俗な「物語」の、その「俗」を極める、そのアルケーに遡りその人間の原型を探り出そうとする己の中の個別的な脳内ダイヴによって。具体と抽象、パロールとラングの、その関係の中に世界の構造の矛盾と普遍を同時に見出す、(己と世界の関係性の中に野生の思考のフレキシビリティをもった可変としての生命、エナジイを孕んだ普遍という構造を見出すということだ)、その世界像を描く。その(あらゆる理不尽と矛盾の苦しみをあらかじめプログラムされたものとしての)一体感が、すなわち安心感であるとうたいつづける、祈り続ける、そのための。

…楽しくなければ、人生じゃない。ってことなんだよ、要するに。

カレー

土曜日、カレーの集いのお誘いを受けたので、なんだか一生懸命行ってきた。

カレーは素晴らしいからだ。
というかまあ大学のゼミの先生を囲んでゼミOB会のような集いだったので先生やゼミの同期や後輩諸氏にお会いできるというのはどきどきするしわくわくするしということでどっこいしょの気合を入れたのだ。雨の日はぐんなり湿気ってしまうお天気人間なんだが一生懸命でかけたのだ。

結論としてカレーは素晴らしいということと、私は今がどうあろうとこれからどうなろうと、とりあえず素晴らしい先生とゼミに恵まれた幸福な人間であるということがよくわかった日であった。

何故こんな志のある立派な人たちの席に自分が連なっているのかよくわからず己の人間としてのみじめさを恥じて穴に入るべきであるという思いも決して弱いものではなかったのだが誇るべき縁があることをとりあえず幸福に思ったのだ。

大層酔っぱらってしまったし何だかひどい恥をかいた気もするし連れてったおっちゃんウサギも忘れてきたけど、生きて無事戻ったしみんな温かく優しく頼もしい人たちだったので、なんだか一瞬だけ、生きていてもいいような、人間らしい気持ちになってやっぱりよかった、なあ。

 

会場となったそのアットホームなサロンは、厨房とテーブルが離れており、というか一旦外に出てぐるりと往来をとおっていかねばならぬつくりになっており、美しく出来上がったカレーを一皿一皿、先年ご退任なさった白髪の大学教授をはじめ、学士修士博士の十数人が各々しずしずと捧げ持ち、行列を成して運ぶという浮世離れした不思議な「賢者のカレー行進」風景が大泉学園住宅街に出現する運びとなった。

これがカレーを捧げ持つオレである。

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で、カレー。
その日体調不良であった方が、そのカレーを食べたら具合がよくなってしまったくらい霊験あらたかなカレーであった。うまかった。付け合わせのサブジとか漬物とかパパドゥとかも完璧で、食べ方の詳細な説明も行き届いていた。

具合がよくなってしまった方の報告を受け、「カレーは薬膳だから。」という荘厳な重みをもった納得の言葉が漏れ、「カレーは薬膳。」「カレーは薬膳」「スパイスは古代の薬」と、その日は森を駆け巡る木霊のように伝言ゲームのように賢者たちの言葉は反響し続けた。

…大学の先生とか区議とか支援活動とか、なんかね、意識高い系というかとっても前向きでものすごくまじめで賢くて眩いひとたちばっかりで、それなのにワシ恥ずかしげもなくべろべろ頭に浮かんだまま楽しく話垂れ流して生意気に楽しく議論して、楽しかったけどちいとアカンなあと思ったのであります。

まあね、もう何にも怖れるべきことはないんだけど。

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「森へ行きましょう」補遺(おまけ蛇足)

留津が小説家となることの意味についてもう少しあれこれ考えてみたんでおまけ蛇足ね。

前回「森へ行きましょう」レビュで私は本作品における「書くこと」の持つ意味の可能性についてこう書いた。

 *** ***

人生は、生きた世界は、そのまるごとが所詮はRPGの中で皆で演じている物語世界である、というリアリティの欠如の感覚(中略)と書くこと(物語)、のかかわりである。

これは留津が小説家になることと関係している。

「書く」「読む」その「物語行為」によって閉ざされた牢獄としての「たった一つの自己、そしてその人生」「外部の物語によって規定されたアイデンティティ」から救済され解放された、まさにそのこと自体が、反面として己のたったひとつの人生のリアルを失っていった、その「人生の森に閉ざされた一物語の一登場人物として迷い続けている自覚」ことと表裏の関係であることを示している。

直結しているのだ。

超越目線を得ることによって、「書く者」はたった一つの息苦しい人生の牢獄から救済され、解放され、そして逆に言えば、その苦しみのリアルを失うということになる。これは、換言すれば個の枠組み、アイデンティティの崩壊を意味する。分岐する自己の無限の森。個からの解放と個の崩壊。その二重構造の狭間を揺れ動きながら生き続ける、それが「書くこと」の本質を指し示す。この表裏のダイナミクスの構造は、この作品それ自体の、「物語」を考えるための大きなテーマであるといってよいと思う。

 *** ***

この構造からくる留津の気持ちの変化は、本作品の以下の引用箇所に如実に示されているものだ。

p480 夫殺しの瑠通(小説家留津からの分岐)(書かれる者)が己をミステリー小説の中の主人公と感じる非現実感の中で、愛する夫俊郎の死体の処理を続けるシーン。

「自分が、まるで誰かの書いた小説の中の主人公のようだと、瑠通は感じていた。(中略)今自分は、自分の書いた小説の中にいるのかもしれない。/なるほど。これは、小説の中のできごとなのだ。もしかすると、あったかもしれないこと、でも、現実とは異なるできごと。」

瑠通は、ここで大層安心するのだ、そうだ、これは結局誰かの書いている物語の中なのだ、こんな怖いひどいことは取り返しのつかないたった一つの閉ざされた現実なんかじゃない、と、心安かに愛する夫の死体の解体作業を進め、愛する人のその死んだ体のうつくしさに恍惚とする。

これに呼応して留津(書く者)。

p499「小説の中の架空の世界こそ、留津にとってはもっともリアルな手ざわりのある現実であるように思えてしまうのだ。虹子を育てたことも、タキ乃との嫁姑の確執も、俊郎との間のもろもろのゆきちがいも、まるで絵空事のように、今では感じられてしまう。/小説を書いている時、妙な言いかたなのだけど、/「自分は生きていないんじゃないか」/という、不思議な感覚に留津はおそわれることがある。/今書いている小説の中のことが、あまりに色鮮やかに感じられるので、外にいる自分の方が何かの物語の登場人物にすぎなく思えてくるのだ。」

書くことと書かれることの決定的な質的な違い、という境目の感覚が失われ、自我の枠組みは崩壊し、あるいはそれは無限に拡大する。すべての境界線は融解してゆく。憎しみも、愛情も。

所詮現実といわれているのものも、ひとつの、ある文化圏の中である人々が共通に感じている論理の物語性の中に構築されているひとつの約束事に過ぎない、出来事を意味づける一つの誰かの決めた恣意的な論理の中のこと、誰かのかいた物語の論理の中からくみ出された感覚に過ぎない。それならば、どの物語にしたって差異はないのだ。真理、あるいは虚無、この世の外側のマトリックスから人が構築してゆく等質な物語群の一つに過ぎない。物語の森の中。

…それならば。
(これはまったく根拠も説得力もないんだけど、ちょっとした論理ゲームね。)

もし、この「森へ行きましょう」という作品自体が、留津の書いた小説だとしたら、という設定について考えてみたりしまったりするんである。これはただちょっとエキサイティングでスリリングな考えで、思いついたときちょっとわくわくした。最初に出てくるルツが最初の留津の想像した己のもう一つの姿であった、という設定。それを己自身の人生と同じ地平、次元で語ってみせる。あり得た自分、あり得た人々の姿。あらゆる可能性は「現実」と等価である。ここには、キリスト教でいうように実際に殺してなくても殺すことを想像しただけで既にそのひとは殺人者なのだ、という発想と同じ論理がある。

…迷宮の度合いは高くなる。どこが語られる次元でどこが語る次元なのか?夢から夢へ、夢から覚めた夢を見続ける悪夢のように反転し続ける世界。「ここは夢の中だ。お前は私が見ている夢の中の登場人物だ。」と言われて混乱する不思議の国のアリスのように。己の立っている地平自体がぼろぼろと崩れてゆくこの底なしの虚無の恐怖。

どこに覚醒した「ほんとう」の自分がいるのか、「ほんとう」の世界が「現実」の世界と自分があるのか、そしてそもそも現実とは、リアルとは、いったい何なのか。

考え続けなければたやすく他人の物語の牢獄に飲み込まれ権力に飲み込まれ個はぼろきれのように消費される他者のゲームの駒となる。

それは、己が選び感じ構築しつづけなくてはならないもの。「現実」とは、生き方とは、世界の構築作業のスタイルの別名なのだ。

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「森へ行きましょう」川上弘美

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最近、長編を出すごとに常にさまざまな新しい冒険、実験をしているように思える、安定したスタイルに安住しない、生きた作家である、ってことなんだろな。

当たりはずれ好き嫌いあるだろう、私は個人的には初期のものが一番好きだし、「大きな鳥にさらわれないよう」的なものが好きだし、いわゆる「女性」を色濃く打ち出したこの系統は必ずしも好きなスタイルではない。けれども、必ず心動かされるところがある。やっぱりすごいな、現役であり続ける生きた作家であるんだな、と思う。そして、やはり思う。あらゆる意味で、女性作家の真骨頂である、と。

しかしねえ、コレ、読後感は、あまりにも寂しい。ほろほろと苦く、救いのスタイルのように見えて救いには感じられない。今までなかったほどのこのがらんとした寂しみはなんぞや。もしや今のアル中廃人酔生夢死思考停止感情停止サイコパス状態の私の個人的な問題なのか、…イヤ、この作品自体に何かその原因がある気がする。もう少し寝かせておかないとわからない。

 *** ***

さて、本作品は、基本、パラレルワールドのふたりのRuth(留津とルツ)の一生が交互の章立てで描かれてゆくスタイルをとる。

登場人物が微妙に重なりかかわりを持つような持たないような二つの世界。奇妙な味わいだ。

ボレロラヴェル)の旋律。どこか重なりながら、繰り返すようでありながら繰り返すことなくらせんを描くようにしてズレながら変奏されてゆく底なしの宇宙に迷いこむあの曲の迷宮感覚に似る。

二人の人生がスタート地点から異なるものでありながらも同じ名と両親をもつ登場人物であることによって混乱を生みだす仕組みである。(登場するキャラクターたちも同一なようでどこかは重なり、どこかはズレている。性格、人間関係、出来事それ自体も根本的に異なっていたり或いは真逆であったりする。)(ルツは難産、理系、母を疎む、留津は安産、文系、母に疎まれる。)人物、出来事、そのすべてがどこか重なりながら必ずどこかずれている。多重世界。(この人は、状況によっては「このようでもあり得た」人なのか?) 

最後の方になってくると、あまりにもたくさんに分岐したRuthワールドで収拾のつかない混乱と混とん、すなわち「森」という混沌としての世界、たくさんのブレた世界像がそのまま投げ出され畳み掛けられ、素描のようにしてきれぎれに短く描写されてゆく。それはあたかも、読者が世界を鳥瞰し管理する神様のモニター室でたくさんのモニター画面を眺める管理室にいるかのような気持ちにさせるものだ。

或いは、RPG。人生の分岐点で「もしこちらの道を選んでいたら。」「こうしていたら」人生はこうなっていただろう、というたくさんの「あり得た世界」のパラレルワールドを俯瞰するRPGのコントロールルーム。

そう、この作品では、そのはじめから、語られる何もかもが、どこか未来からの視線を、すべてが終わった後の、すべてを鳥瞰した超越者としての作者、いや語り手の視線を感じさせるのである。このような語り手の意識的な出しゃばり方も今までの彼女の作品にはなかったものだ。特に後半に色濃くなってゆく、がらんとした寂しさのようなこの読書感覚はこの辺からくるものかもしれない。(「このとき、留津にはほんとうはやり直すチャンスはあったのだ、気が付きさえすれば、」というような「終わりから後出しじゃんけんをしてみせる余計な語り手の主観」。今まであえて川上弘美が避けていたのではないかと思われるほどのその陳腐さの解禁。)(世界の「森」の外からの「天の声」の視線。)

ということで、読後感は、(とりあえず今の私には)非常に寂しい。人生は、生きた世界は、そのまるごとが所詮はRPGの中で皆で演じている物語世界である、というリアリティの欠如の感覚だ。なにもかもが終わった後の世界の終わったその果てにがらんと放り出されている虚無の場所にいるような気がするのだ。突き放した視点、陳腐なほど語り手の主張の出しゃばるこの上から目線の「天の声」。それはがらんとした虚無としての真理の超越時空、「森の外」。

…そして、このリアリティの欠如と書くこと(物語)、のかかわりである。

これは留津が小説家になることと関係している。

「書く」「読む」その「物語行為」によって閉ざされた牢獄としての「たった一つの自己、そしてその人生」「外部の物語によって規定されたアイデンティティ」から救済され解放された、まさにそのこと自体が、反面として己のたったひとつの人生のリアルを失っていった、その「人生の森に閉ざされた一物語の一登場人物として迷い続けている自覚」ことと表裏の関係であることを示している。

直結しているのだ。

超越目線を得ることによって、「書く者」はたった一つの息苦しい人生の牢獄から救済され、解放され、そして逆に言えば、その苦しみのリアルを失うということになる。これは、換言すれば個の枠組み、アイデンティティの崩壊を意味する。分岐する自己の無限の森。個からの解放と個の崩壊。その二重構造の狭間を揺れ動きながら生き続ける、それが「書くこと」の本質を指し示す。この表裏のダイナミクスの構造は、この作品それ自体の、「物語」を考えるための大きなテーマであるといってよいと思う。

 

己が人生の森、世界の森の混沌に迷っていることのこの自覚を、ここに提示された一つの救済のスタイルをどのように受け止めるのか。それはラストシーンから、その先の思考を読者の人生に投げ渡されたものとしてある。

 

 *** ***

…Ruthとはなんなのか。

ある任意のひとりの女性の、その一生の「集合体」。
運命と理不尽に翻弄されるあらゆる女性の姿、けれどその中で何かを意志的に選び取ってゆく、そのあらゆる女性の姿。旧約聖書の「ルツ記」のルツが好きであった母・雪子が名付けたこの名の意味するところなどはこういうところか、などと考える。

運命に翻弄されながら、意志を以て運命を選び取ってゆく、己の神エホバを選び取ってゆくルツ。

この作品に描かれるRuthが、その一生の中でさまざまな形で出会う理不尽とそれによる苦悩の描写は、そのいちいちがたくさんの女性の共感を得るだろう。「そうなんだよ、これだよ、ああ、わかる!そうなんだよ、この気持ち。ああ、これってひどいんだよね。」と。リアルで激しい胸の痛みと切なさ、やるせなさや寂しさとともに。共振して涙が出そうになることもあるだろう。ひとつひとつの出来事に対していちいちずぶずぶと感覚世界に沈み込んでゆくような独特の感性を持つ深い考察、ストーリーテラーとしての、その感受性の濃やかさ、それを拾い出す言葉、その描写のたおやかさ、その才能である。

さまざまな男たちの身勝手さ、幼児性、残酷さ、冷酷さ、甘え、俗物性、卑しさ、理不尽に振り回される恋。同時にままならない己の中の感情の混沌、衝動、その理不尽。(ゲイである気楽で誠実で辛辣な友人・林正樹のキャラクターがここでその男たちとの対照として素晴らしく効いてくる。)

母親との確執、恋愛、結婚、不倫、娘との確執。舅や姑との関係性、お金の問題、生き方の模索。「女性の一生」オンパレード。そして女友達(およびゲイの友人)とのそれらを語る共感、女子会的トークの洗練。(これは「これでよろしくて?」で磨かれてるよなあ、川上弘美による「女子会トーク」描写の振り切れた素晴らしさったらモウ。)

だが、この作品、逆に言うと、絞られるテーマがない。だらだらと一生を、出来事を追いながらその場で感じたことを語るだけ、というような印象もある。

…言ってしまえば、そのテーマとは混沌そのもの、女性の一生のさまざまを優れた情感と筆致で描写し、あえて混乱を混乱として描いた、その混沌としての「森」なのだ。タイトルの所以である。常に、迷っている。

この、濃やかな感性によってではあるが、ただ漫然と描かれてゆくような二人のルツの人生の進む風景を描き出す作品の中で、しかし一つの結節点がある。

ルツと留津41歳の章、微妙にずれ続けているパラレルな二人の物語の中で、唯一、ビシッと意図的にハマる、一致するこの章の最後のシーンがこの作品のその重大なターニングポイントである。異なる文脈でありながら、双方が己を「まぬけ」という文字に書き留めるシーン。

ルツは、決して報われない己の不倫の恋の悲劇を思い知らされることによって「森の中をさまよう人生」を自覚した己を発見し、留津は今までの自分の人生を、やはり「森の中にさまよいこんで、いつまでたってもでてくることができないでいる」ものとして自覚し、その己自身のばかさかげんをあざ笑いながら夜中にひとり、部屋で特大フォントで打ち込む。

「まぬけ」。

この「まぬけ」というひとことを言葉にした瞬間。

エクリチュールの発見、己を突き放し客観視する視線を得る、「書く行為」その救済と開放の発見である。高ぶる感情に泣きそうな気持になりながら衝動のままに今までの己のばかさかげんを発見自覚しながら書き連ね続け、やがて笑い出す留津、このシーン。己の人生まるごとをただ罵り嘲り笑いのめすこの行為。

書くこと、物語による救済の発見である。(そして留津は小説家としてデビューすることになる。またその成功によって愛人を失い、夫との異なった関係性を得る。)

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(こないだちょっとメモしたことね。「なめとこ山」んとこで)
川上弘美新刊「森へ行きましょう」も、浮かび上がるテーマは「書くこと、物語」による人生の救済であった。すべて取りかえしがつかない、生まれたとき持っていた、無限の可能性、あらゆる可能性の豊穣な世界を分かれ道でひとつひとつ切り捨てながら選択してきたたった一つの道しか歩めない人生の。《泉鏡花の「由縁の女」や村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」に通ずるテーマである。過去に見失われてきたもの、失われてきた可能性とはこの一生にとって、世界にとって、そしてこれからを開くためのその未来にとってどんな意味を持っているのか?》」

或いはそれは破滅に向かい、あるいは再生に向かう。
それは逆方向であるが、どちらでもいい。ただ、ナンデモアリ、ということだ。何故なら、破滅にしろ再生にしろ、それが真逆の方向性であったとしても、ただここでの問題はその分岐された可能性の無限、すなわち世界の豊穣を現前させる構造の認識である、というところにあるのだから。

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もうひとつの大きな分岐点は、留津が八王子との浮気の肉体関係に踏み込むか踏み込まないか、のとき現れる「流津」の章の分岐派生のあたりにある。(「留津」は心の中だけで八王子を慕い、鏡に向かう。と、その向こう側に既に八王子との関係に一線を越え踏み込んだ「流津47歳」の章が現れる構造である。)

このとき「ルツ」の方では夫・俊郎への軽蔑も嫌悪もすべて拭い去った透明な気持ちになった次に現れる、愛する夫・俊郎を殺した「<瑠通>50歳」の章があらわれている。

…個の分岐点、だが実は最初にルツと留津の二章立てからひそやかに分岐した本当の結節点は、もう少し前、2011年の震災という特異点である。その震災のときルツは不倫相手田中との決定的な決別を予感し(田中は家族とルツでは家族をとる、と明言。)、さらには近々の両親との別れを予感する。これは「家族(制度)」がテーマである。

そして留津はといえば、このとき八王子と再会し決定的に心を通わせる「デート」をしていた。夫と愛人と引き比べる「純愛」がテーマである。

これが分岐の最初の結節点であった。震災という「死」を目の前のリアルに見たときにルツと留津に見えはじめる、異なった可能性の分岐した世界像たち。

…翌年2012年から現れたのは、「ルツの章」からの分離としては、父を亡くしたあと、母の支配を疎ましく思い、田中(実際のルツの不倫相手)をも最初から疎ましがる、すべてのしがらみの制度から解放されようとする孤高の研究者「るつ」。

そして「留津の章」から分離したのは、俊郎を心から愛しその妻の存在を知りながら日陰者としての不倫行為をつづけていた純粋に俊郎を愛する「愛人・琉都」である。双方が、鏡の裏表のようにふたりのRuthのもうひとつの心の表裏を描き出し、異なる可能性の分岐点、パラレルワールドの次元が開かれてゆく。

…ここからは、怒涛のラスト。既にルツたちの森はもうあらゆる可能性の森、その多重世界、パラレルワールドの錯綜する混沌の森である。

これが、終わったもの、外側から鳥瞰される森の中のモニターに映る、ひとつひとつの風景としか描かれないような印象をうけるところなのだ。後日譚、のような。

俊郎との間に生まれた娘・虹子によって語られる、50歳で死ぬ、結局家族に愛された姿を残す「る津」、結局一人で研究一筋に老後を生きる60歳の「るつ」、俊郎を愛しながら結婚しなかった60歳の「琉都」。etc、etc。

それぞれのRuthがそれぞれの人生の終わりをゆく姿。

…突き放している。

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…やっぱりなあ、ちょっと寂しい。体温が低い。角の立った、理屈の勝った作品、な気がするんだな。

ラストの一文は、留津の娘「虹子」のいないルツの世界で、夫に裏切られながら気が付かない、60歳のルツが、決して自分を裏切らない愛犬「虹」を連れて散歩に出る朝のシーンである。混沌の人生の愉悦を感じながら。

「今日もいい天気である。」

 

そうだしかし日々は、(大切なことは)ただ、これなのだ。多分。