酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「森へ行きましょう」川上弘美

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最近、長編を出すごとに常にさまざまな新しい冒険、実験をしているように思える、安定したスタイルに安住しない、生きた作家である、ってことなんだろな。

当たりはずれ好き嫌いあるだろう、私は個人的には初期のものが一番好きだし、「大きな鳥にさらわれないよう」的なものが好きだし、いわゆる「女性」を色濃く打ち出したこの系統は必ずしも好きなスタイルではない。けれども、必ず心動かされるところがある。やっぱりすごいな、現役であり続ける生きた作家であるんだな、と思う。そして、やはり思う。あらゆる意味で、女性作家の真骨頂である、と。

しかしねえ、コレ、読後感は、あまりにも寂しい。ほろほろと苦く、救いのスタイルのように見えて救いには感じられない。今までなかったほどのこのがらんとした寂しみはなんぞや。もしや今のアル中廃人酔生夢死思考停止感情停止サイコパス状態の私の個人的な問題なのか、…イヤ、この作品自体に何かその原因がある気がする。もう少し寝かせておかないとわからない。

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さて、本作品は、基本、パラレルワールドのふたりのRuth(留津とルツ)の一生が交互の章立てで描かれてゆくスタイルをとる。

登場人物が微妙に重なりかかわりを持つような持たないような二つの世界。奇妙な味わいだ。

ボレロラヴェル)の旋律。どこか重なりながら、繰り返すようでありながら繰り返すことなくらせんを描くようにしてズレながら変奏されてゆく底なしの宇宙に迷いこむあの曲の迷宮感覚に似る。

二人の人生がスタート地点から異なるものでありながらも同じ名と両親をもつ登場人物であることによって混乱を生みだす仕組みである。(登場するキャラクターたちも同一なようでどこかは重なり、どこかはズレている。性格、人間関係、出来事それ自体も根本的に異なっていたり或いは真逆であったりする。)(ルツは難産、理系、母を疎む、留津は安産、文系、母に疎まれる。)人物、出来事、そのすべてがどこか重なりながら必ずどこかずれている。多重世界。(この人は、状況によっては「このようでもあり得た」人なのか?) 

最後の方になってくると、あまりにもたくさんに分岐したRuthワールドで収拾のつかない混乱と混とん、すなわち「森」という混沌としての世界、たくさんのブレた世界像がそのまま投げ出され畳み掛けられ、素描のようにしてきれぎれに短く描写されてゆく。それはあたかも、読者が世界を鳥瞰し管理する神様のモニター室でたくさんのモニター画面を眺める管理室にいるかのような気持ちにさせるものだ。

或いは、RPG。人生の分岐点で「もしこちらの道を選んでいたら。」「こうしていたら」人生はこうなっていただろう、というたくさんの「あり得た世界」のパラレルワールドを俯瞰するRPGのコントロールルーム。

そう、この作品では、そのはじめから、語られる何もかもが、どこか未来からの視線を、すべてが終わった後の、すべてを鳥瞰した超越者としての作者、いや語り手の視線を感じさせるのである。このような語り手の意識的な出しゃばり方も今までの彼女の作品にはなかったものだ。特に後半に色濃くなってゆく、がらんとした寂しさのようなこの読書感覚はこの辺からくるものかもしれない。(「このとき、留津にはほんとうはやり直すチャンスはあったのだ、気が付きさえすれば、」というような「終わりから後出しじゃんけんをしてみせる余計な語り手の主観」。今まであえて川上弘美が避けていたのではないかと思われるほどのその陳腐さの解禁。)(世界の「森」の外からの「天の声」の視線。)

ということで、読後感は、(とりあえず今の私には)非常に寂しい。人生は、生きた世界は、そのまるごとが所詮はRPGの中で皆で演じている物語世界である、というリアリティの欠如の感覚だ。なにもかもが終わった後の世界の終わったその果てにがらんと放り出されている虚無の場所にいるような気がするのだ。突き放した視点、陳腐なほど語り手の主張の出しゃばるこの上から目線の「天の声」。それはがらんとした虚無としての真理の超越時空、「森の外」。

…そして、このリアリティの欠如と書くこと(物語)、のかかわりである。

これは留津が小説家になることと関係している。

「書く」「読む」その「物語行為」によって閉ざされた牢獄としての「たった一つの自己、そしてその人生」「外部の物語によって規定されたアイデンティティ」から救済され解放された、まさにそのこと自体が、反面として己のたったひとつの人生のリアルを失っていった、その「人生の森に閉ざされた一物語の一登場人物として迷い続けている自覚」ことと表裏の関係であることを示している。

直結しているのだ。

超越目線を得ることによって、「書く者」はたった一つの息苦しい人生の牢獄から救済され、解放され、そして逆に言えば、その苦しみのリアルを失うということになる。これは、換言すれば個の枠組み、アイデンティティの崩壊を意味する。分岐する自己の無限の森。個からの解放と個の崩壊。その二重構造の狭間を揺れ動きながら生き続ける、それが「書くこと」の本質を指し示す。この表裏のダイナミクスの構造は、この作品それ自体の、「物語」を考えるための大きなテーマであるといってよいと思う。

 

己が人生の森、世界の森の混沌に迷っていることのこの自覚を、ここに提示された一つの救済のスタイルをどのように受け止めるのか。それはラストシーンから、その先の思考を読者の人生に投げ渡されたものとしてある。

 

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…Ruthとはなんなのか。

ある任意のひとりの女性の、その一生の「集合体」。
運命と理不尽に翻弄されるあらゆる女性の姿、けれどその中で何かを意志的に選び取ってゆく、そのあらゆる女性の姿。旧約聖書の「ルツ記」のルツが好きであった母・雪子が名付けたこの名の意味するところなどはこういうところか、などと考える。

運命に翻弄されながら、意志を以て運命を選び取ってゆく、己の神エホバを選び取ってゆくルツ。

この作品に描かれるRuthが、その一生の中でさまざまな形で出会う理不尽とそれによる苦悩の描写は、そのいちいちがたくさんの女性の共感を得るだろう。「そうなんだよ、これだよ、ああ、わかる!そうなんだよ、この気持ち。ああ、これってひどいんだよね。」と。リアルで激しい胸の痛みと切なさ、やるせなさや寂しさとともに。共振して涙が出そうになることもあるだろう。ひとつひとつの出来事に対していちいちずぶずぶと感覚世界に沈み込んでゆくような独特の感性を持つ深い考察、ストーリーテラーとしての、その感受性の濃やかさ、それを拾い出す言葉、その描写のたおやかさ、その才能である。

さまざまな男たちの身勝手さ、幼児性、残酷さ、冷酷さ、甘え、俗物性、卑しさ、理不尽に振り回される恋。同時にままならない己の中の感情の混沌、衝動、その理不尽。(ゲイである気楽で誠実で辛辣な友人・林正樹のキャラクターがここでその男たちとの対照として素晴らしく効いてくる。)

母親との確執、恋愛、結婚、不倫、娘との確執。舅や姑との関係性、お金の問題、生き方の模索。「女性の一生」オンパレード。そして女友達(およびゲイの友人)とのそれらを語る共感、女子会的トークの洗練。(これは「これでよろしくて?」で磨かれてるよなあ、川上弘美による「女子会トーク」描写の振り切れた素晴らしさったらモウ。)

だが、この作品、逆に言うと、絞られるテーマがない。だらだらと一生を、出来事を追いながらその場で感じたことを語るだけ、というような印象もある。

…言ってしまえば、そのテーマとは混沌そのもの、女性の一生のさまざまを優れた情感と筆致で描写し、あえて混乱を混乱として描いた、その混沌としての「森」なのだ。タイトルの所以である。常に、迷っている。

この、濃やかな感性によってではあるが、ただ漫然と描かれてゆくような二人のルツの人生の進む風景を描き出す作品の中で、しかし一つの結節点がある。

ルツと留津41歳の章、微妙にずれ続けているパラレルな二人の物語の中で、唯一、ビシッと意図的にハマる、一致するこの章の最後のシーンがこの作品のその重大なターニングポイントである。異なる文脈でありながら、双方が己を「まぬけ」という文字に書き留めるシーン。

ルツは、決して報われない己の不倫の恋の悲劇を思い知らされることによって「森の中をさまよう人生」を自覚した己を発見し、留津は今までの自分の人生を、やはり「森の中にさまよいこんで、いつまでたってもでてくることができないでいる」ものとして自覚し、その己自身のばかさかげんをあざ笑いながら夜中にひとり、部屋で特大フォントで打ち込む。

「まぬけ」。

この「まぬけ」というひとことを言葉にした瞬間。

エクリチュールの発見、己を突き放し客観視する視線を得る、「書く行為」その救済と開放の発見である。高ぶる感情に泣きそうな気持になりながら衝動のままに今までの己のばかさかげんを発見自覚しながら書き連ね続け、やがて笑い出す留津、このシーン。己の人生まるごとをただ罵り嘲り笑いのめすこの行為。

書くこと、物語による救済の発見である。(そして留津は小説家としてデビューすることになる。またその成功によって愛人を失い、夫との異なった関係性を得る。)

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(こないだちょっとメモしたことね。「なめとこ山」んとこで)
川上弘美新刊「森へ行きましょう」も、浮かび上がるテーマは「書くこと、物語」による人生の救済であった。すべて取りかえしがつかない、生まれたとき持っていた、無限の可能性、あらゆる可能性の豊穣な世界を分かれ道でひとつひとつ切り捨てながら選択してきたたった一つの道しか歩めない人生の。《泉鏡花の「由縁の女」や村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」に通ずるテーマである。過去に見失われてきたもの、失われてきた可能性とはこの一生にとって、世界にとって、そしてこれからを開くためのその未来にとってどんな意味を持っているのか?》」

或いはそれは破滅に向かい、あるいは再生に向かう。
それは逆方向であるが、どちらでもいい。ただ、ナンデモアリ、ということだ。何故なら、破滅にしろ再生にしろ、それが真逆の方向性であったとしても、ただここでの問題はその分岐された可能性の無限、すなわち世界の豊穣を現前させる構造の認識である、というところにあるのだから。

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もうひとつの大きな分岐点は、留津が八王子との浮気の肉体関係に踏み込むか踏み込まないか、のとき現れる「流津」の章の分岐派生のあたりにある。(「留津」は心の中だけで八王子を慕い、鏡に向かう。と、その向こう側に既に八王子との関係に一線を越え踏み込んだ「流津47歳」の章が現れる構造である。)

このとき「ルツ」の方では夫・俊郎への軽蔑も嫌悪もすべて拭い去った透明な気持ちになった次に現れる、愛する夫・俊郎を殺した「<瑠通>50歳」の章があらわれている。

…個の分岐点、だが実は最初にルツと留津の二章立てからひそやかに分岐した本当の結節点は、もう少し前、2011年の震災という特異点である。その震災のときルツは不倫相手田中との決定的な決別を予感し(田中は家族とルツでは家族をとる、と明言。)、さらには近々の両親との別れを予感する。これは「家族(制度)」がテーマである。

そして留津はといえば、このとき八王子と再会し決定的に心を通わせる「デート」をしていた。夫と愛人と引き比べる「純愛」がテーマである。

これが分岐の最初の結節点であった。震災という「死」を目の前のリアルに見たときにルツと留津に見えはじめる、異なった可能性の分岐した世界像たち。

…翌年2012年から現れたのは、「ルツの章」からの分離としては、父を亡くしたあと、母の支配を疎ましく思い、田中(実際のルツの不倫相手)をも最初から疎ましがる、すべてのしがらみの制度から解放されようとする孤高の研究者「るつ」。

そして「留津の章」から分離したのは、俊郎を心から愛しその妻の存在を知りながら日陰者としての不倫行為をつづけていた純粋に俊郎を愛する「愛人・琉都」である。双方が、鏡の裏表のようにふたりのRuthのもうひとつの心の表裏を描き出し、異なる可能性の分岐点、パラレルワールドの次元が開かれてゆく。

…ここからは、怒涛のラスト。既にルツたちの森はもうあらゆる可能性の森、その多重世界、パラレルワールドの錯綜する混沌の森である。

これが、終わったもの、外側から鳥瞰される森の中のモニターに映る、ひとつひとつの風景としか描かれないような印象をうけるところなのだ。後日譚、のような。

俊郎との間に生まれた娘・虹子によって語られる、50歳で死ぬ、結局家族に愛された姿を残す「る津」、結局一人で研究一筋に老後を生きる60歳の「るつ」、俊郎を愛しながら結婚しなかった60歳の「琉都」。etc、etc。

それぞれのRuthがそれぞれの人生の終わりをゆく姿。

…突き放している。

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…やっぱりなあ、ちょっと寂しい。体温が低い。角の立った、理屈の勝った作品、な気がするんだな。

ラストの一文は、留津の娘「虹子」のいないルツの世界で、夫に裏切られながら気が付かない、60歳のルツが、決して自分を裏切らない愛犬「虹」を連れて散歩に出る朝のシーンである。混沌の人生の愉悦を感じながら。

「今日もいい天気である。」

 

そうだしかし日々は、(大切なことは)ただ、これなのだ。多分。