酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「なめとこ山の熊」読書会行ってきましたメモ

こないだの五月の週末。

迷っていたんだけど、結局頑張って出かけてまいりました。遥かなる練馬区「なめとこ山の熊」読書会。

久しぶりに快い緊張感のある議論、思いがけないその深まりと広がりの場所。やはり賢治は面白い。たくさんの視点を提供されていくらでも膨らむテクストは面白い。世界を深くしてくれる。

システムの中でなく義務でなく報酬もなく、日々の忙しさの中、手間とめんどくささしか生じない自主的なイベントどっこいしょと立ち上げて読書会やろうなんて場である。

こういうとこがもっとも自由で最もピカッとしたやる気のある議論がなされるとこなのやもしれぬ。好きである、考えたい、というただその純粋な欲望だけで同志が集いなされる場、という現象、そのコトから生まれるモノ。ナンデモアリの場所から出る乱世の言葉。

…ということで、この日私の頭の中では、なめとこ山の熊と川上弘美萩尾望都、読了したばかりのものたちがぐるぐる思考の靄となって渦巻いていた。一つ一つを割り箸でくるくる回してゆらめく思考を巻き付けて言葉の綿菓子にしていきたい衝動をそそるふわふわした靄。このままでは形にならないまま雲散霧消だ、失われてしまう。アカン。

でもそれは「なかったこと」にはならない。思考の地層に積もっていくものだ。きっと書こう。できる限り掬い上げよう。完全に失われる前に。
(「書き留めておかないとその日は『なかったこと』になっちゃうんだよ。」と言われて日記を書き続ける主人公の小説の、内容は忘れちゃったけどこの言葉のことはよく思い出す。言葉でなくてもいい、存在した証は人によって様々な形をとる。)

もっちゃいないと思うんだ、失われる考えというものが。言葉よ、言葉よ、と私はしがみつく。(川上弘美新刊「森へ行きましょう」も、浮かび上がるテーマは「書くこと、物語」による人生の救済であった。すべて取りかえしがつかない、生まれたとき持っていた、無限の可能性、あらゆる可能性の豊穣な世界を分かれ道でひとつひとつ切り捨てながら選択してきたたった一つの道しか歩めない人生の。《泉鏡花の「由縁の女」や村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」に通ずるテーマである。過去に見失われてきたもの、失われてきた可能性とはこの一生にとって、世界にとって、そしてこれからを開くためのその未来にとってどんな意味を持っているのか?》必ずしも名作とは思わないけど、好きな作品でもないけど、やっぱりこの人の感覚、感性にはかならずどこかひどく共振するところがある。作品の目指す祈りの方向が見えるような気がするんだ。)

で、記憶を掘り起こしながらなめとこ山、考えるためのメモ。

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会のメンバーは、高校の国語の先生たち四~五人が中心、そのお子さんお二人、後輩君のお連れ合い。アットホームなサロンである。おおきな木の机と椅子、おざぶ、お茶とお菓子。本棚にはぎっしりの本。季節柄アラジンのストーブなんかはないけど、なんとなくちょっと賢治の羅須地人協会の雰囲気。

進行役のリーダーの先生は、ロマンスグレイの紳士である。
小学生の男の子ふたりも立派なメンバーの一員。朗読や議論に加わる。…てゆうか彼ら(いや五年生の方はもう結構大人なんだけど、下のお子さん、小学校二年生くらいか?)かなり自由にいごいごと動き回って遊びながら思いついたまま自由に発言で、で、とにかくこの発言を大切に拾い上げる雰囲気を拵えるのがリーダーの才覚である。こういうのが本来賢治の描いた羅須地人協会だったのかもしれないなあ、とちらり。(私はどうも子供、というのに慣れないのでちいと違和感を感じてはいたんだけど。大学のゼミとかでビシっと議論の作法レヴェルを統一してやりたいなあってやっぱり思っちゃったんだけど。まあ慣れ、というのと、この場所にはこの場所だけのもつこの多様性そのものの素晴らしさ、ってとこだろうな。)(そして実は私はこの子供の立場にありたかった。遊びながらこの場を思い出に刻みながら母親に守られながらわかったりわからなかったりするお話に参加する。思うままにしゃべって大人たちがそれを認め喜ぶ。守られいる、愛されている。お茶をひっくり返してお茶碗割っても悪びれもせず怒られない。)(いやひとんちのお茶碗割ったらやっぱりもう少し悪びれてもう少し怒られてもいいと思ったけど。ワシは。)

朗読の後、まずそれぞれが自由に思ったことを言ってみろの時間。テクストから、さまざまの論点が表出される。どうして熊は自分たちを狩る小十郎が好きなの?どうしてなめとこ山の熊のことを作者は「おもしろい」っていうの?方言と標準語はどう使い分けられてるの?ラストシーンの意味、小十郎の死を神として祀る熊たち、ここといわゆる「イヨマンテの夜」との共通点と相違点は?荒物屋って悪い奴?なんの象徴?自然と人間界の分け方は?自然を<資源、価値、恵み>のどの視点からとらえるか、すなわち贈与と交換、という図式はここにどう関係してくるのか?資本主義の功罪、命のやり取りとの関係性は?出てくる地名は果たして実在か?

後輩君、この直前にFBで矢野智司「贈与と交換の教育学(漱石、賢治と純粋贈与のレッスン)」に夢中になったらしく投稿していて、そこはかとなくそのテーマに引き寄せられた議論になったりする。…すごく面白くなる。(イヤこの本、取り上げてる素材が漱石と賢治ということで。で、とにかく何しろこの後輩君とは前世が姉妹だったというくらい趣味嗜好の方向性が似ているので、ものすごく興味をそそられてしまって私も図書館で借りてきてしまったんである。今ちびちび読んでいる。これはできたら今度読書記録記事にしてみたい。言わせてもらえば既に滅法おもしろいのレヴェルである。)

それぞれの問いにさまざまな角度からの答えの可能性の提案がやってくる。
多角的な視点は言葉の意味を新しい関係性の中に立ち上がらせ躍動させる。テクストの世界は、広がる、有機的に。議論のひとつひとつは、そのひとつひとつが青く明滅する思考と存在のひかり、その議論の時空に総括されるのは有機交流電燈としての私たち。(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

私の考えも変容してゆく。一人の思考の中に拘泥し沈潜していたときではなく、他者の言葉、思考のポリフォニイのその有機交流電燈の交感の中で、初めて見えてくる論理への興奮、新しい言葉。おもしろさとはそういうことだ。(それはもちろん一人の中で、書物との対話の中で醸成されてくるブツと同構造で生まれるものではあるのだが。次元を一つ繰り上げて。)(そのときしかし「自己」とは、たくさんの思考の因果有機交流電燈の明滅する「場」に過ぎないものとなっている。基本、構造は同じなのだ。一人の中で起こるのか、多数の間で起こるのかの違いはあっても。)

…とりあえずね、最後のあの祀られる小十郎のシーンについての新しい考えの可能性に皆の言葉によって至ったように思ったとき、私はなんだかすこし嬉しかった。

…あのシーンは、「祈り」である、と。決して結論に行き着けないテクストの、時代を超え、常に考え続けることを要求するこのテクストの、物語からいったん切り離された、ひとつの空虚なイデアの指標としてある、と。切り離された独自の、別時空として描かれている祀られた時空。それがこのようなうつくしさであることの重大さがこのテクストのひとつの未完の完成形である、と。

これだけで終わってしまうのもっちゃいないな。やっぱり。記録係になりたかったけど、やっぱりもうだめだな。どんどん忘れてしまうのだ。頭に思考の記憶の雲が濃く漂ってるうちじゃないとアカン。

だから、このメモは、メモ。
でも無駄じゃない。今まで考えてなかったとこからの賢治への手掛かり。寝かせておけば別方向に吹き上がって形になるかもしれない。

今読んでる件の本にも結び付く、きっと。

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…この日は何しろあれこれのコンディションが最悪で、おまけに体調のせいでまさかのバス酔い状態であったのだけど。

まあとにかくでもやっぱり頑張って行っておいてよかったということであるよ。