酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

ホモイの劫罰~「貝の火」宮沢賢治(「贈与と交換の教育学」矢野智司 後編)

前回からの続き…ということで、「貝の火」である。

前から、ホモイの罪と罰のアンバランスというかむごすぎる劫罰、物語の理不尽がトラウマではあった。
何故?

ここで罰を受けるべきはあきらかにキツネなのに。

(これはみんな言うよね。誰も解いてない永遠の謎。おそらく永遠に謎であり続けるところにこの作品の価値はあるとも言える、よな気がする。)(それを本書は「過剰さゆえに教訓話をはみ出した部分がただならぬ聖性を帯びていることに気づき、私たちの慢心という罪ゆえに私たちの供犠として失明したのではないかということを、感知することができる。この聖なる供物の物語を、物語としてではなく出来事として体験し、交換には回収されることのできないものの存在をたしかに感じることができる。このはみだした過剰な部分が、交換の環の外部なのだ。」(p168)という「過剰」と名付けられた形で位置付けて見せている。《ここでの「過剰」とはおそらく「贈与」と等価に位置付けられるものである。⦆既成の交換法則に収まる物語性のなかに回収されることなく、読者によって読まれる度に永遠にその読者を巻き込んだ現場(「読書の現場」だ!)として繰り返され、その度新鮮に「体験」しつづけなければならぬ出来事としての、気にしていつづけねばならぬものとしてのこの仕組まれた「おさまりの悪さ」、「謎、過剰、アンバランス」。)(ここでホモイは私たち読者全員の原罪を背負って劫罰を受けるキリストであり「こゝろ」の「先生」なのだ。)(そしてその血(知)(劫罰)の贈与を浴びる弟子とは読者である我々自身だ。)

そう、贈与と交換法則の論理、そのヒントによってこの作品を読み解いてみせる時、見えてくるこの新しい読解の構図に私は興奮した。するすると何かひとつの新しい局面が見えてきたような気がしたのだ。

 *** ***

見てみよう。
私がまずこの物語の中で奇妙さを感じたひっかかりは、ヒバリの仔と川の描写だった。


本当にホモイは、いつか小さな流れの岸まで来ておりました。
そこには冷たい水がこぼんこぼんと音をたて、底の砂がピカピカ光っています。
ホモイはちょっと頭を曲げて、
「この川を向こうへ跳び越えてやろうかな。なあに訳ないさ。けれども川の向こう側は、どうも草が悪いからね」とひとりごとを言いました。

この意味のない殊更なひとりごとの言い訳は、ホモイの脳裏で川への禁忌が囁かれている印であると受け取ってもよいと思われる。はしゃいで駆け回っていた仔ウサギホモイがこのシーンで此岸に留まる行為は、それくらい奇妙な不自然さを感じさせるものだ。

川、という意味。
それはいつでも境界と異界、死のイメージと結びついている。賢治作品でも川や淵、水の世界と「向こう側」に関する物語は多い。が、何よりもここでは「銀河鉄道の夜」だ。ザネリを救うために川に飛び込んで死んだカムパネルラとヒバリを助けるために川に飛び込んだホモイはここで完全に重なっている。

(因みに「銀河鉄道の夜」では、このような不自然な川への禁忌はジョバンニの母によって示されているものである。「『そうだ。今晩は銀河のお祭だねえ。』『うん。ぼく牛乳をとりながら見てくるよ。』『ああ行っておいで。川へははいらないでね。』」)

仔ウサギはここで守られた安全な共同体法則から外れ、死と異界の原初のエナジイが渦巻く外部へと通じる結界に抵触してしまったのだ。

カムパネルラは死ななければならない。ホモイはこの後発熱し、生死の境をさまよう。これはひとつの通過儀礼、ホモイの中のカムパネルラが失われるためのミッションとして考えられる。全き者、完全なる無垢な子供のホモイはここで一旦死に、違うものとして再生する。境界を越えたのだ。「贈与としての教育」システム発動のための儀礼、その最初のステップ。

で、流されてきたヒバリの仔の描写である。


すると不意に流れの上の方から、
「ブルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ、ブルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ」とけたたましい声がして、うす黒いもじゃもじゃした鳥のような形のものが、ばたばたばたばたもがきながら、流れて参りました。
(中略)
 「大丈夫さ、 大丈夫さ」と言いながら、その子の顔を見ますと、ホモイはぎょっとしてあぶなく手をはなしそうになりました。それは顔じゅうしわだらけで、くちばしが大きくて、おまけにどこかとかげに似ているのです。
 けれどもこの強い兎の子は、決してその手をはなしませんでした。怖ろしさに口をへの字にしながらも、それをしっかりおさえて、高く水の上にさしあげたのです。


醜い、怖い。窮地に立たされたか弱いヒバリの仔であるはずなのは客観としてホモイには分かっている。にもかかわらず、本能的なここでのホモイの、このヒバリの仔に対する殊更な違和感と恐怖の描写が私はずっと気になっていた。宝玉「貝の火」の異様な美や劫罰への理不尽と同じ違和感、そこに連なる要素として感じていたのである。「どこかがおかしい、歪んでいる、既知の世界の法則に収まらない。」ものへの違和感。

…これらすべてが、怖いもの、異質なるもの、すなわち「外部」への本能的な恐怖のサインであると考えるとき、すべては繋がってゆく。

幾重にも仕掛けられたあらゆる意味での決定的なホモイの領域侵犯の描写。この嫌悪と恐怖は、異質なるもの、外部へのそれを意味している。客観・論理的にはただ普通にか弱いヒバリの仔がおぼれ、その善良なる親子がホモイの自己犠牲的な勇気に助けられて感謝し喜ぶという描写が確かに(巧みに)なされているが、「ほんとう」は違うのだ。ホモイにとってのその「ほんとう」、それは違うのだ。

それはただ、外部である。共同体内での調和を破壊するその恐怖である。秩序正しく約束された正義も道理も境界の向こう側では意味をなさない。「貝の火」の異様な「美しさ」の裏返しとして、異界とのメディア、境界としての川から現れるヒバリの仔、異界の印のその異様な「醜さ」。これが同じ「過剰」同じ「異様さ」として結びつけられたひとつの「外部」の裏表として響き合いながら描かれていることを読み取るとき、この物語の構造の完璧さに私は感動する。


ここでとにかくホモイは己のこの「差別主義あるいはエゴイスティックな」(とされる)雑念を振り払ってヒバリの仔から目を背けながらも正義の行いを敢行する。…実に偉い仔ウサギなんである。

…これが、旧友の中で一番感じの悪い俗物いじめっ子代表ザネリを助けるため自己犠牲で死ぬカムパネルラだ。自己犠牲というどこか歪んだかたちの己の贈与行為によるホモイの失楽園。(無垢な理想の正義の象徴、カムパネルラという「楽園」である。)ここでホモイの中の理想のかたちとしての単純に美しい友愛や純粋正義の自己犠牲の精神としての「半身」カムパネルラは失われ、ひたすら果てない理不尽の試練の無限を突き進む永遠の求道者ジョバンニとしてのホモイのみが生還する。

世界と一体となることを無邪気に喜びただ無心に遊ぶことのできた下記引用部、冒頭のシーンの幸福な子供の時間の終焉だ。


今は兎たちは、みんなみじかい茶色の着物です。
野原の草はきらきら光り、あちこちの樺の木は白い花をつけました。
実に野原はいいにおいでいっぱいです。
子兎のホモイは、悦んでぴんぴん踊りながら申しました。
「ふん、いいにおいだなあ。うまいぞ、うまいぞ、鈴蘭なんかまるでパリパリだ」
風が来たので鈴蘭は、葉や花を互いにぶっつけて、しゃりんしゃりんと鳴りました。
ホモイはもううれしくて、息もつかずにぴょんぴょん草の上をかけ出しました。


この「ヒバリー貝の火贈与」事件以降、ホモイの周囲では上記のような生の喜び、世界の美しさ、楽しさを純粋に躍動させる遊びの描写は見られなくなる。代わりに出現するのは、支配と権力の興奮、軍隊の序列。大将となったホモイは仲間たちを序列づけ、その交換法則の中に回収してゆく。権力と支配と欲望の法則のもとにある快楽、凋落をそそのかすキツネが現れ、ホモイの遊びは世界のありかた、その美しさと恩寵を単純に喜ぶのではなく、この法則の己の優位性を喜ぶシステマティックな物語の性質を帯びたものへと変化する。

もちろんそれを誘引したのは貝の火だ。そしてホモイの自己犠牲という贈与行為によってもたらされた異界との接触(共同体内の閉じられた交換法則をはみ出した外界との接触)はすなわち外部としての「不条理」「共同体内部の倫理の論理を超えて見えるもの」としての超越した判断基準、聖なる過剰、貝の火を呼び込むことになったのである。ここで共同体内のあらゆる歪み、不正義、穢れはかえってその露わなかたちをむき出しにあぶりだされる形をとる。ソクラテスとの対話がソフィストたち自身の論理矛盾を意識の俎上にあぶりだし恥じ入らせ怒らせたように、日常世界に積もってゆく隠微にして見逃されがちな小さな穢れ、慢心、矛盾をもすべてその根源的な構造から厳しくあぶりだす。(それは、《ホモイというスケープゴートにすべてを負わせ、それを罰する、罪を贖わせることによって成立する》世界の浄化(教化)のための狡猾な神具・アイテムなのだ。)

ここで、ヒバリの親子は徹頭徹尾奇妙な使者、媒介の役割を果たし続ける。謎の鳥の王からの「贈与」貝の火の受け取りを断るホモイに押し付けるようにしてあわてて去ってゆく。あたかも己がホモイにもたらした試練の意味を知っているかのように。


すると不意に、空でブルルッとはねの音がして、二疋の小鳥が降りて参りました。
大きい方は、まるい赤い光るものを大事そうに草におろして、うやうやしく手をついて申しました。
「ホモイさま。あなたさまは私ども親子の大恩人でございます」
(中略)
「いいえ。それはどうかお納めをねがいます。私どもの王からの贈物でございますから。お納めくださらないと、また私はせがれと二人で切腹をしないとなりません。さ、せがれ。お暇をして。さ。おじぎ。ご免くださいませ」
そしてひばりの親子は二、三遍お辞儀をして、あわてて飛んで行ってしまいました。


このときは、ヒバリたちは川からではなく空から現れる。

賢治にとってこのような、異界(向こう側、この世の外)からの使者としての鳥、というイメージは、「春と修羅」の中で、死の世界「向こう側」に旅立っていった妹を悼んだ挽歌群「無声慟哭」に次のように記されているものである。

 

「オホーツク挽歌」

空があんまり光ればかへってがらんと暗くみえ
いまするどい羽をした三羽の鳥が飛んでくる
あんなにかなしく啼きだした
なにかしらせをもってきたのか

「白い鳥」

二疋の大きな白い鳥が
鋭く悲しく啼きかはしながら
しめった朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる


もちろんこれは古事記ヤマトタケルノミコトの魂が死後白い鳥になって飛び去ったとされている一節を踏まえているものなのだろうが、とにかく賢治にとって、空からやってくる鳥とは、天上界からの使者、外部とのメディアの意味を持っていたのである。(ここでは妹の属する死の世界。)

このように考えれば、ホモイに貝の火をもたらす(貝の火、とは因みにオパールのことを言うらしい。)使者としてのヒバリやその向こう側にいる「鳥の王」の性質をもまた特定することができる。異界、異質なるもの、この世の外部の法則、論理そのものの象徴、「親玉」。

外部からやってくる贈与は過剰という印をもって内部の交換のバランス、その調和の法則性を揺るがす理不尽と謎を突き付けてくる。内部で閉ざされた完結を見るべき交換法則、約束ごとの調和を乱すものとしての「ほんとう」や「絶対」という真理のおそろしさはここにある。

…もちろんその完全な解放と至福は常に求道、希求の対象であることは疑いようもなく、真善美と呼ばれてきたものに非常に近いところにあるもの、何物にも代えがたい存在の基本或いはマトリックスではある。

この「外部」は「超越」として、内部の不完全にして恣意的な約束事で出来上がった共同体内に起こる矛盾や軋轢、理不尽をあぶりだし浄化するための美しい聖なる「真理」を教える「先生」の教育として必要とされるものなのだ。そして先に述べたように「先生」は供犠として外部の刻印、死或いは劫罰を受け最後には共同体のその歪みをすべて請け負ってこれを贖い、排除されねばならぬ、劫罰を受ける王、キリストの宿命を負う。

「ほんたう」「絶対」「真理」とは、外部であり異質であり理解を拒むもの、共同体と共にある今あるかたちの己の存在をも破壊する自己崩壊、今ある世界を支えている大地がまるごともろもろと崩れてゆく終焉、終末感、世界崩壊を意味するものでもある。この世の矛盾を解決したところにある、追わずにはいられぬ「ほんとう」と「絶対」、真理、至福。それが同時に正視できない恐怖の対象であることも逃れ得ない矛盾そのものとして成立しているのだ。捨て身にならなければ触れられないもの。(私はここでミヒャエル・エンデの「はてしない物語」を思い出す。真理を語るものへの門を開く最後の試練とは、「知るために知ることをも望まない」という論理矛盾或いは主体崩壊を要求するものであった。ここでの試練を受ける英雄アトレーユは「記憶を失う」ことによってこの試練を乗り越えることになる。参考・以前の記事「散文と詩歌」)


危険な外部に連なるものに対し内部の世界は安全弁的な印をつける。聖なるもの、或いは賤なるものとしての取り扱い説明書。社会システムの外部の印である。どちらにしても神として祀られ、供犠、生贄とされるべきいみじさの印である。神託を受け天に定められた聖なる王、天皇、あるいは河原者(芸能者)、穢多、非人と呼ばれた、一般社会から両極にはみ出た「外部」の印。アンタッチャブル。聖なる巫女とはしばしばまた賤民をも意味した。

すなわち、その両極にはみ出た外部が、内部の淀み、歪み、穢れ、矛盾を炙り出し顕在化させ浄化する「先生」なる役割を負わされた供犠として存在しているのだ。

一つの読み方として、貝の火とそのもたらした失明はそのような印と同義であるということができるのではないか。とすればそれはむしろそれは聖痕に近い。

この聖痕とは、選ばれた求道者としての印である。ホモイは、求道者として選ばれたゆえに、外部からの贈与を、すなわち「いみじさ」「過剰」を受け取らなくてはならなかった。貝の火の、そのたぐいまれなる美しさと共同体内での王としてのあらゆる誉れ、そしてそれと表裏一体である受苦そしてその劫罰の印を、共同体からの蔑みを共にすべて受けとる者、供犠として「捧げられた者」にならなければならなかったのだ。

外部と繋がったものである供犠の印。
過剰なる贈与、栄誉や劫罰を受けるのは従ってキツネでなくホモイでなくてはならないのだ。すべての求道者はすべての世界の理不尽をその内面に映し込みそれを引き受け贖わなくてはならない。外部真理・エホバに属するもの、使者である無辜なる神の子イエスのみが磔刑を受けこの世の人々のすべての原罪を購うことができたように、外部の印を持つもののみが内部のあらゆる理不尽、罪を顕在化させ引き受け浄化のための贖いを行う者となることができる。(そして先ほどの論理から言えば、このテクストを読む読者もまたホモイを生きるものとしてのこの読書の現場を引き受けることになる。)


贈与されたそのような外部、物語化されない自然のままの世界のいみじさを、直接そのままにこころが感じてしまうことと、論理的にそれを理解すること(交換法則の物語の中に回収する)の違いを賢治は次のような形で言い表す。やはり妹の死に関しての長詩群「無声慟哭」の中の「青森挽歌」の一節である。妹の死の現実を受け入れようとするときの心の中の葛藤と錯綜をうたう。


感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
それをがいねん化することは
きちがひにならないための
生物体の一つの自衛作用だけれども
いつでもまもってばかりゐてはいけない

 

これは、愛するものを失った、己の半身を失った痛切な痛み、悲しみや現実の不条理を示していることばである、もちろん、それ自体おそろしくすぐれた詩情をにじませる表現だ。

で、大切なのはただそれだけ、といえばそれに間違いはないのだが、これを認識構造の側面からとらえるとき、ここには今まで述べてきた自己ー主体ー世界との関係性、その認識構造と響き合う、非常に興味深い類型がみてとれるのではないか。愛する者の死に対する悲しみ、という類型的物語に回収される以前の、そのすさまじい還元不可能なそのままの感情の源泉、その「ほんとう」に至ろうとする知の持つ真理への意志を、「きちがひ」になる、今ある自己の崩壊をも辞さない態度で示す、そのマトリクスに至る言葉の意志の可能性を私はここに見る。このとき、構造としての詩情の深遠の感動に私は揺さぶられるのだ。

概念化されない生のままの外部、真理とは、それをそのままに受け入れようとすることは、その瞬間にきちがいになる、今ある主体を存立させているシステムそのものを崩壊させる「外部」への飛翔を意味するのである。

だが賢治はここであえてそのハードルを乗り越えようとする決意を示す。乗り越えたとき、一つの自己が崩壊したとき、ほんたうの、まことの、ただしくあかるいとこがあるという信仰を奉じるためだ。(「おまへの武器やあらゆるものは/おまへにくらくおそろしく/まことはたのしくあかるいのだ」青森挽歌)内側を守ろうとする力はくらくおそろしく、ほんとうは、その外側はあかるい。そう、それはそのようなかたちを信じる行為そのものによって成立する祈り、「信仰」である。信仰の力によるひとつの真理の成立のかたちなのだ。


求道者とは全てを孕んだマトリックス、或いは虚無という真理に向かって全ての歓びも理不尽も引き受けながら、常に新しい秩序と正しさを作り出し続けなければならない動的な者のことである。永遠にジョバンニは世界を学び正しさを追い求めることによってこれを「創造」し続けなければならない、試練の旅を続けなければならない。完全なるイデアを求め、それを不断に創造し続け不完全を壊し続ける、求道。ここで、正しさとは、常に正しさを追い求めるという希求そのものである。

求道の両翼、という概念を私は考える。真理、正しさ、本当だけを祈ろう、現実の汚らしさ、どうしようもない不幸からは逃れた心の楽園、イデアへの翼を求めよう。…けれどそれをそのままに保ち続けながら現実に舞い降りよう、というその矛盾を生きる者。

こんな不完全な幻想げんそう第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行けるはずでさあ、」(銀河鉄道の夜

不完全だからこそ永遠なのだ。完全を希求しながら永遠に動き続けるメディアであることによって「ほんとうの天上」さらには「天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける」(銀河鉄道の夜)という求道の正しいかたちが可能となる。

決して一つの閉ざされた物語の中に回収しきれないもの。永遠に希求され続けることを意味する、閉ざされることのない開かれた外部へのメディア。

一旦、共同体から排除され、星まつりの夜に銀河鉄道の旅というカムパネルラを失う儀礼を受けてジョバンニは共同体に帰還する。未来への明るいうつくしい希望を持ったかたちで。

これは、ホモイが共同体から排除され、劫罰の印を受けて帰還した暗い苦難と試練の未来を示した物語の、同じ構造をもちながらその裏返しを現したものである、実は同じ構造を持つ物語ということができる。それは、おそらく共同体内に閉ざされたホモイの人生(兎生か)と、「鉄道」というメディア、その科学的思想的技術知の有無によるイデアへ解放につながる概念、その力を得た未来へのヴィジョンという違いをもったジョバンニの人生の未来の違いによる反転である、ように思う。

 

同構造としてある物語。それは、聖なる穢れたもの。引き裂かれたもの。引き裂かれてありながら修羅にありながら実は既に到達しているもの。個と集団、内部と外部、二つの翼の構造である。

銀河鉄道に取り入れられている思想的ベースとして結びつけて考えられる可能性は、「求道すでに道である。」「詩人は苦痛をも享楽する/永久の未完成これ完成である」。「農民芸術概論綱要」において主張されたイデアを生きるためのミメーシスという技術。現実(共同体内)とイデア(外部)を「ただしく」繋ぐメディアとしてのミメーシス、信仰、科学、芸術行為という銀河鉄道。これは、トータルに、むしろアンガージュマン的なる思想をも盛り込んだ結論、「動的知」である。

考える。これが、賢治が外部を内部に取り込み反転し続けながらトータルとしての現実を生きるための、この求道の精神を「芸術」というメディア技術によって成立させしめようとした、生きるための芸術論、ひとつの祈りのかたちである、と。

 

 

※追記。深夜夜更かし泥酔の翌朝、土曜日、台風。この宿酔状態は最悪である。