酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

日記メモ(夏の終わり、新しさと懐かしさ)

考えたことはすぐさま言葉にして書き留めておかないと失われてしまうんだよな。賢治のようにいつでもメモ帳を、とずっと思ってた。

考えたことはその日を生きた証だと思ってる。

ツイッターなんかはそれのインデックスとしての使い方って意外といいかもしれない。
ということで断片を拾い集めたかたちでメモ的な日記を一つ。

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目が覚めたら光の色が変わっていた。

夏と秋の季節が入れ替わった朝である。
一晩じゅうごうごうと吹き続けた風が秋を連れて来たのだ。

空と雲がきらきらとまばゆく光り、新しい季節の到来を告げる。

「なんとはなしに聖いこころもちがして」。(小岩井農場
私は新しく白いペンギンのシャツを着て外に出る。さらさらと風と光が肌を撫でてゆく。この夏を生き延びたのだな、と思う。

すべてが、触れると切れるように生まれたてで新しい光の中にある。

が、これは間違いなく「懐かしい」。新しさがなまなましい肉体性ではなくそのイデアの真実の光のみを予告してきたからだ。懐かしさの中にのみある、新しさの祈りの純粋がそこにあった。

まだ8月だけど、心が9月に飛んで行く。となるとそろそろ「9月の海はクラゲの海」が聴きたくなってくる。

9月に解禁することにしている、大好きなムーンライダーズの歌。

♪Everything is nothing  Everythingでnothing♪
これって「色即是空・空即是色」の歌なんだよな。そう、色即是空のすごいとこは、空即是色が次にくるとこなんだ。

 

友人に季節が変わる日はあるのだねい、というメールを打ったら、大島弓子が懐かしくなったよと返信があった。ナンダソレハ。

…「夏の終わりのト短調」かな。

ああ、懐かしいな。輝いていた、思春期のその憂愁を懐かしく思い出す。

そう、輝いていた。その憂愁それ自体が、重く暗いような顔をして、それは未来を持っているというだけで意味の輝きで満たされていた。

 

寂しさに似た新しさ。寂しさに似た明るいすがすがしさ。「小岩井農場」の異次元スポットで賢治が「聖いこころもち」と表現したのはこういうものではなかったのかと思う。何かを失いすべてが壊れた後にあるがらんどうから生まれる、その外側からやってくる、すべてを囲繞する、救い。

その、寂しく新しい、輝きに満ちた懐かしさの、その輝きの意味を新しく得なおしたいと思った。すべてを失った終焉、虚無の闇の絶望の夜の後、そのがらんどうが新しい意味の光に満たされた朝だ。終わりの中にあるはじまり。…火の鳥焼身のあと新しい雛鳥が生まれてくるように、前と同じ存在であり前と同じ存在ではない、そのことによってのみ永遠である世界ということを感ずること。

己がまったく新しい宇宙で全く新しい別の存在となってこの存在のままに再生してゆく感覚。矛盾が成立する場所。

 

そうして、アレサ・フランクリンが亡くなったとニュースが告げる。
…別にそんなに好きではなかった。ソウルフルなあの歌声。

だけど思い出した。「ブルース・ブラザーズ」。
きっと一番好きな映画だ。 

ここのシーンね、think!

(こういうダンスシーン、すんごくいいんだよなあ。)

 

で、小説家の友人がフェイスブック岡崎京子についてのコメントを残していたのでつい反応。己が「pink」推しであることをカミングアウトしたんである。続いて大泉学園の前世の姉妹、大学院の後輩君も自分がpink派であることを書き込み、我々の魂の合致を確かめ合った。…で、肝心の友人の方は「リバーズ・エッジ」に一票を投じた。

…ううむ。本棚から取り出し、ちらりとつまみ読み、思い出す。…この我々の興味の傾向の分岐は非常に興味深い。私はすごく納得したのだ。

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リバーズ・エッジ」ってさ、同じように経済に組み込まれた性や暴力やイジメやなんかテーマにして描いていても、その取り扱い方が、「pink」や「ジオラマボーイ・パノラマガール」みたいなのとは違ってあまりにもガツンと構造が固定されてストレートでワシには激し過ぎる。あじきない気がする。端的に言って登場人物にまったく感情移入できない、その問題意識を論理と客観の物語としてショックを受けながら眺めることしか、考えることしか、鑑賞することしかできない。内部からそれを感じることができないという時点でそれは既成の物語の組み合わせに過ぎないのではないかという意識を私は持つ。

要するに、世界の不条理を描くにあたって、この作品には「揶揄と笑い」という「ズレ」、論理の綻びという重要な要素に欠けている。それは、日常性を超えたところにある日常性、奇妙な常識や優しさや、その根源を問うところからくる綻びである。物語を生み出しそれを枠取り閉じ込めまた破壊することができる、そのマトリックス。外部。デッド・シリアスが隠蔽するもの。

岡崎京子の作品すべてが世界の不条理を描いているとしても、己の「内部の不条理」にこの作品は行き着かない。それは外部の、社会の不条理に対する問題意識に「すり替わる」、というような、そういう気持ちになる。「ずるい」、というような思いを得る。或いは、「偉い」。

彼らは社会それ自体に合体できるのだ。それは或いはサルトルカミュの分岐点。

…「問題意識高い系」かい?という奇妙な卑しい揶揄の気持ちが己の中に芽生える。このわたくしの汚らしく卑しい攻撃性は己の怠惰や卑しさへの後ろぐらさと恐怖感、おびえから来るものだ。インフェリオリティ・コンプレックス。

とにかくね、この作品には、深々としたあじきなさを、恐怖を感ずる。刺激の中におぼれる悲しみとその刺激をもてあそび得々と語る正義の人々の顔を同時に思い浮かべる。…戦慄の向こう側に、つまらなさを感ずる。(感じたのだ、確か。きちんと読み直してないから今はこれはメモだし、責任持たない。)

「pink」とかだと感じないんだな、そのまっすぐさと純粋さは誠実だから、優しさへの祈りから来ているから。ただ、「どうして?」が胸の中に膨れ上がる。その不条理。歪みへの視線は未来への祈りに通ずる。私は感情移入する。そのまっすぐさに。そうして、その、己に向けられた揶揄と笑いに。

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ブルースブラザーズを(できたら小さな映画館で)観返して大島弓子を読み返して9月の海はクラゲの海を聴いて岡崎京子をちらりと思い出して、夏の終わりを過ごしたい。

 

(なあんていって、なんだか「バットマンビギンズ」を観てよろこんでいたのはナイショです。すっかり現実逃避した。…ああ、明日どうやって生き延びよう。)

おやすみなさいサンタマリア。明日がよい日でありますように怖いことが起こりませんように。

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これもそろそろおしまいかな、アガパンサスアガペーのアンサス、神の愛の花。また大層な名前を付けられたもんだ。ヘクソカズラオオイヌノフグリとどうしてこう扱いが違うのか…(ラテン語って知ってたらいろいろ楽しそうだな、と最近思う。)