酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

散文と詩歌

エンデ「はてしない物語」再読、後半部にかかっている。
 
…で、同じくエンデの「モモ」でも同様の設定があったんだが、非常に気にかかっているエピソードがある。モモは口がきけないのに歌は歌える。すべてを知る声としての存在、ファンタージェンのウユララは韻を踏んだ歌でないと質問の言葉の意味が理解できない。歌でしか答えられない。
 
散文ではコミュニケートできないのだ。
 
これは一体どういうことなんだろう。わかりそうな気がするんだけど今一つはっきり見えないわからないもどかしさ。物理的に聞こえない、声が出せないということではなく言語を理解できないわけではないのに、散文では話せない、理解できない。…何故?この不自然さが非常に面白い。言いたいことをそのメッセージを、「わからなさ」をそのままナマな形でぐりぐり押してくる、考えることを強要するような挑戦的に頭でっかちな感じ。(エンデは大体が観念に偏重した頭でっかちのガリガリだ。)
 
…これはきっと春樹が「1Q84」において、読字障害をもつ小説家ふかえりと、道を歩かずその脇のぬかるみをゆく「気の毒なギリヤーク人」の設定に込めた意味に通じてくる。日常散文言語の外側、踏み固められた物語、歩きやすい道をはずれその外側を己自身の感覚で新たにきりひらき歩むとき、初めて見える、「そのもの」。言語というメディアのかたち、その本質。その起源と限界と可能性。その論理の外側の感触、そしてあるいは、アルケー。
 
認識の枠組みがあらかじめ言語側に立脚している限りその外側(言語化されえない領域、それ以前)に踏み入ることはできない。言語ナシで言語としてのロゴス、意味を得ることはできない。
 
すべてを含んだ不可知領域、論理側から切り落とされたカオス領域としての外側から不可避的にやってくる力。不可避であり、なおかつ絶対に「ここ」言語領域に必要なその「何か」を、意味としてとらえるたったひとつの方法が、論理を持たぬ音韻、音楽と論理としての言葉の狭間、どちらの道からも微妙に外れどちらにもかかるメディア空間を開く散文と音楽の狭間に仕掛けられた「詩歌」なのだ。
 
詩歌は日常現実の物語をなぞる散文と異なり、演劇領域にある。歌い手は個的な日常現実のアイデンティティを客観化する物語を設定しそれを「歌う」ということになる。「演技する者」として、登場人物と読者の狭間の「誰でもなくなる」内側にありながら外側の領域を得る立場を確保する。外部からの預言、知を、力を受け取る巫女となる。
 
全知の声の存在ウユララに行きつくための三つの関門、その最後の門を通る条件が「何も望まない」「知ることをも望まない」ことであり、ファンタージェンを救うための知を得ようとするアトレーユがそれを望まないために記憶を失った状態になる、個を放棄することによってそれが成就する、というエピソードはこの意味で非常に示唆的である。
 
神との対話のための祝祭空間を開く儀式の言葉はいつでも韻を踏んだ祝詞でなくてはならず、動作は舞踊でなくてはならない。その理由はここにある。