酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「贈与と交換の教育学~漱石、賢治と純粋贈与のレッスン」矢野智司

ということで読みました、とりあえず。

もう序章の時点で「これは…ッ!」と興奮状態。ああ間違いない。というかタイトルみたとたん「賢治と漱石かよ…。」既にもう間違いなかったのだ。この二人を同じ切り口で論じようなんてモノは、間違いなくアレだと思ったらアレだった、という気持ちである。(謎)イヤソノ、アレってのはだな、イヤソノ、アレなんだけど。…この本のキイ・ワードにもなってる、アレだよ。「溶解」。自己溶解。(賢治に関しては、もちろん「わたくしというげんしゃう」意識、「まずもろともにちらばりて」等、その独特な自己溶解意識は有名なところであるが、漱石に関してはそれはここでは修善寺の大患、その臨死体験に紐付けられて語られている。)アイデンティティの枠組みの崩壊と、そこからの世界との連続性の発見、体験。それを根っこに据えたところにある、近代日本(という世界観、システム、或いはパラダイム)に対する歴史的批判精神。この本ではそれを「贈与」「交換」という関係性を論点に、「教育学」的なアプローチで論じてるんだけどね。

で、中盤以降各論は幾分あれこれひっかかりつつ何とか一通り読了。
新しい視点に目からウロコな気持ちになるところも、ううむこれはどうか(いささか強引で我田引水)というところもあったんだけど、概ね一貫したところから成る刺激的な解釈で面白かった。

何の分野でも(学問でも芸術でも娯楽でも思想でも)その人の作物を面白いと思うってことは、つまり、そこに流れている根っこのセンスが自分とどこか共通したというか共感できる根幹の思考スタイルを持ってるってことなんだと思う。アプローチや視点や分野、その枝葉が違ってても。

ということで、学術的な文章を読んだときいつも思うこと。
重要なエッセンスはすべて序章に書かれている、ってことだ。一つの仮説、ひとつの思い、ひとつの祈りのようなものがね。世界の姿への。

後は枝葉末節、技術やテクニック、補強と応用と証明のための具体例としての寧ろ恣意的な位置づけの各論に過ぎないとすら言ってもいい。論文全体の青写真こそがその理想の完成されたかたちだから。

しかし、基本刺激的で面白いんだけど、丸呑みできず、どうも読みにくくおもしろくない引っかかったところってのも結構多い。で、こういう本が却って一番気になったりもするのだ。

ということで頭の隅っこでずっと引っかかったまま納得できずちいとイライラしていた。
…んだが、どうにか落ち着いてすこしずつ消化してきたような気がする。これは先に述べたように、あまりにも贈与と交換の持論に持っていき過ぎでは、というその牽強付会ぶりに対する些かの違和感であったのだと思う。

特に賢治の「貝の火」の解釈。
うわ、という、この理論に対する目からウロコの視点に対する驚きと、いや待て、だがしかし、というひっかかりは、ホモイに関しての従来からの「あまりのわからなさ」にすべてのむすぼれの焦点があったんだが、つまりはそこにひとつの自分なりの解決点、というか糸口をつかんだイメージができたんだな、ウン、なんとなく。それでこの本全体の理論の掴み方も自分なりに今の時点での落とし所を以てある程度の納得を得たというところである。

***

ということで、まず、この本の骨子は序章にビシッと示された以下の構図である。
「教育」を相反する方向性を持つ二つの要素として分析、定義する。すなわち、ひとつには、ある文化圏、共同体内での構成員の再生産とその存続目的のためのシステム、もうひとつは、そのシステムの外部、まったく異なる概念、その異質性そのものとしての外部知識との接触による主体の変容。後者は前者をその成り立ち自体から否定、破壊する侵犯としてとらえることができる。いうなれば「個」の成り立ちそのものの相克性をあぶりだす構造を提示しているといえよう。集団の中での個の矛盾したありようである。共同体を成立させる要素としての個(帰属集団の価値観を内面化しようとする個)、そこから超越したところに繋がろうとする個(集団の中の約束事としての価値ではない、その亀裂から外側に開かれた知、絶対的真理としての価値を求める個)。

ここでは前者を「交換としての教育」後者を「贈与としての教育」と位置付ける。
もちろん本書の論点の中心は後者である。交換法則からはみ出たところにある外部としての「知」。この「贈与としての教育」の歴史を語るその自在で縦横無尽な語り口は刺激的で魅力的だ。

そのような贈与としての知の系譜は、彼によれば最初の「世俗外個人」としてのソクラテスから語ることができる。ここで語られるティピカルな「先生」。共同体内のソフィストたちの「交換法則の物語内にある知」に対し、その成り立ちを根底から揺るがし否定し無化する外部の「贈与としての知」を侵犯させ、そのために死ななければならなくなるもの。その「供犠」によってその「知」の種が弟子たちの間に芽を吹く。…これはキリストだ。ここで「先生」とは、その死によって、閉ざされ疲弊した世界を新しい知の革命で救済する供犠として存在する者である。

…ということで、この系譜は漱石の「こゝろ」の「先生」に鮮やかに再現されているものとして語られる。先生はその血を弟子「私」に浴びせかける死を得ることによって「先生」として成るのである、と。

この辺の解釈も素晴らしく面白いんだが、とりあえず、この交換ー贈与ー供犠、の図式を押さえた上で、ホモイの方に移りたい。(こっちは見切りアップの試論段階ですが、もうなんか風呂敷たためずわやくちゃになってくるばっかりなので、「深夜泥酔勢いでこっそりとりあえずアップ&ぼちぼち推敲」スタイルで。)

後編へ。