酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

この夏の目標

人生には日々を充実させるための目標がなくてはならない。
…という命題に行きあたった。さっき突然。

そういえば、小学校でも日直が毎朝黒板に「今日の目標」みたいなのを書いていた記憶がある。「一日一善」とかそういうの。あれは価値観の共有という、社会の基礎をなす構造、共同体の構成要員としての個人を拵えるために、共同体共通価値を個人の中に埋め込み内面化し飼いならすための権力による小国民養成のトレーニングであったかもしれないが、それはまた一個の人間として、人が自律した個人として生きるためにも当てはめることができるものなのだ。それを否定することはただひたすら世界を無意味なものとすることになる。(…というより常に否定しながら創造し続けなければならぬものなのだ、生きる意味なんてのは。)

例えばわが国では元日に家族で晴れ着を着、居住まいを正してその年の目標を麗々しく張り詰めた元日の清明に、蓬の香る墨で黒々と書初めたりする。その年を正しく意味あるものとしてあらしめるための儀式である。

なべての儀式はそのためにあるのだ。

儀式の有無に関しては共同体レヴェルであっても個的レヴェルであっても構造は同じだ。本当はあってもなくてもよい。不眠体質者の入眠儀式みたいなもんだ、催眠術みたいなもんだシャーマンのペヨーテみたいなもんだ坊さんのお経みたいなもんだ。

白球を追う球児しかり、正義のために殉死する英雄しかり、山に登って凍死する冒険家しかり。生きる意味と美学は固有であり主体にとってあるかないかだけが問題なのだ。世界に意味がないのではない、己に意味を感ずる力がないのだ。希望欲望意欲、欲がなければ人間は生きられない。対象は何だっていい。意義を感ずる信じる心がすべてだ。人は各々その美学がなければ生きられない、のかもしれない。

それが共同体にどれくらいのまれたものであるか或いはそこからのルサンチマン的なるものであるか、またそれらをどの程度自覚しているかで人の立ち位置は違ってくる。

まあね、どうだっていい。要するにその気になるかならないか。美しい、大切だと思えることは何か。ヤーネーって思うのはどんなことか。実存なんていうのはそうなもんだ。そしてニワトリとタマゴのどっちが先かなんてことはどうでもいい。どうだっていいけど考えるんだ、それには意味がある。それだ。

…ということで目の前のこの猛暑の夏を生き延びるために私は「この夏の目標」をたてることにした。

ということで立件された。

「一度も蚊に刺されないで過ごす。」
これである。

とても大切なことだと思う。
何故なら、蚊に刺されると日本脳炎になるからだ。子供の頃そう教わった。

マラリアにかかることもあるという。

とても身体に悪い。

どんなに偉い自己犠牲の美学のバイオエコロジストが、蚊が絶滅すると地球生物相が崩れるから己の身体を少しくらい危険と苦痛にさらす犠牲を払うのは人間の義務であり種としての蚊の生命を守らねばならないと声高に主張したとしても私は嫌である。地球を守るために日本脳炎になるのはいやである。第一かゆいのがいやである。全体のために生きるのではなく個として生きるのだ。エゴイストなのだ。

ということで今年は奴らに一滴の血液も与えるつもりはない。血の少ない私には貴重品だ。(変な手を使わず「私もこの世に生まれてきたからにはそれを全うし生物として生き抜いて子孫を残さねばならないので少しだけください。」と頼んでくるなら一滴くらい差し上げることに関して決して私は吝かではない。二親から授かった賜りもののこの大切な身体に薬物を注入して損ないかゆくさせて奪おうとする被害者にとって踏んだり蹴ったりな非道な行いをするから向こうがいけないのだ。)

頑張るぞ。
生きるぞ。

負けるもんか、猛暑。

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負けるもんか、私を損なうすべての事象に。

あらゆる希望と欲望と友愛と美しいものへの祈りと、その矛盾のアマルガム、それが矛盾でなくなる場を作り出し求めるひたすらの力で。

…さしあたって今週のミッションは西瓜と桃とかき氷かな。
(懸案は吉祥寺のプレスキルか千歳烏山ショコラティエ・ミキか赤坂見附のMAMANOのカカオなかき氷である。うまいんかしらチョコレートのかき氷。西荻の甘いっ子のはなんか嬉しくてうまかった記憶があるが。)(チョコレートじゃないよ、なんだっけな、古式ゆかしい普通のやつ。)(自分でこさえたヨーグルトと蜂蜜のやつが一番好きだが。甘すぎなくて身体に正しい。)