酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

追記・三好達治

これの続きである。

もちろんこの風景に意味を付加していってもよい。風景は、或いはイコンは、ただそのものであると同時にさまざまの意味の表徴であってもよいからだ。

ほのぼのと茜さす、百の梅の蕾。
そのたおやかな美しさ。

立ち昇る幻か、その記憶の風景と現実の春とは混じりあいその区別を無意味なものとする。

嘗て現実にあった出来事が、現実としては二度と還らないものとなり、…そのリアリティは失われ、忘れられ、永遠にそこに手は届かない。

けれど、それは悼まれ愛おしまれ崇敬されることによって抽象のフィールドに投げ上げられるのだ。それは、外側からは閉ざされながら、こんなにも無限に広がる内部に開かれる。深く広く可能性を持った尊い風景となる。失われることによって得られる、ロマンティック・イロニイ。テクストとなったときそれは個人の具体の風景を超越したものとして「開かれる」。

百の蕾、百の記憶、百の思い出。その豊かさは、己自身であり、その人生の価値そのものである。一つ一つの小さな蕾は、一つ一つの記憶の風景である、と考えてもよいかもしれない。一つ一つ花開いたとき、その風景は再び生き直される、可能性。

…そんな、蕾である。いつでも永遠にこれから花開く初々しい季節の、その蕾。

失われたとき始まる、永遠の、はじまりの季節。

C・S・ルイス「ナルニア国物語」を思い出す。
創造主アスランが世界のはじまりの歌を歌う、創世期のシーンだ。(ルイスはゴリゴリのキリスト教徒である。)その歌が響いている間、すべては種となり、生まれ、成長する柔らかな生命力となる力を持つ。

永遠の、はじまりの季節。永遠の、可能性の季節。

そして、その世界、ナルニアは、この世を捨てたとき得られる異世界として設定されている。


ナルニア国物語のラストは、永遠の生命、輝かしいイデアに移行する主人公たちの至福のはじまり、そしてこの世側での死なのである。(「約束の地」だな。)なんなんだこの童話は。

 

 *** *** *** 


…達治のこの詩は、そんな意味構造の可能性も持っているのかもしれない。

だがもちろん、それは一つの付加的な意味づけに過ぎない。描かれる風景はただまずはなんの意味も持たない梅の蕾だ。その無意味、虚無、空虚、真理。

そう、真理。

真理という空白のまわりに、真善美のすべてがある。


テクストの示しだす風景は、それが既に失われたものであるという虚無を示すものであり、決して取り戻せないものであることを意味する。しかしそれは同時に、嘗て存在したのだという事実の永遠の存在を心の中に生きさせる、表徴することができるよすがでもあるのだ。

情感と切なさは、そのようなその相反した磁場の結節点に顕れるイメージがこれほどに「うつくしい」風景であるということへの感動から生まれてくる。

 

うつくしさ、美の意味とはそのようなものなのかもしれない。


それ自体意味は持たず、あらゆる時空のあらゆる場面において、そこに適合した論理を構築する力。詩とは、そのような「野生の思考」を生み出す記号である。

三好達治

ドアを開けたら息がとまるかと思った。ごうごうと風が吹く春の朝。

寂しさとは死に至る病だな、と呟きつつ膨らんだ桜の蕾を見上げて歩く風の中、三月のはじまり。

風がやんで、時空のエアポケットに入る一瞬がある。不意に陽射しが温かく感じられてぽかりとひとときの春の中にいる。驚くような心持ちになる。爛漫の春がまたやって来るのだということをそのようにして思う。

馥郁と梅が香る。

…大学に入ったころ、近代詩にかぶれた。四季派周辺とか。特に三好達治の詩が非常に好きであった。

やっぱり「測量船」がいい。教科書で有名な太郎次郎の雪国のよりも、「乳母車」とか「甃のうへ」「少年」。

どれも過去を振り返るような心象風景、若さというものの持つ憂いと郷愁に満ちた美しいものだが、中でも私は「乳母車」のテクスト構造は圧巻だと思っている。現在の時間、詩を綴る作者と作中の作者が赤子であったころ、その「私」のまなざしが重なり、捻じれた時空の軸をつくりだす構造。この主体の視点の重層化とブレが、現在の時空のありかたを人生のはじまりの地点から照射する。そして、倍音を響かせるようにして…人生のはじまりに今の虚無とかなしみを逆照射、そのままその深い昏く淡い柔らかな闇をかぶせてしまう。人生を総括するようにして主体は、視点は分裂してタイムワープ、テクストはそのダブった風景を浮かび上がらせる。

憂愁と陰影に満ちた風景は、しかし、それでも、…存在への意志に満ち、美しいのだ。現在は過去に、過去は現在の二重写しの存在となる。始まりに終わりの物語を重ねてみせるときうまれる、そのふかぶかとした情趣。

あわくかなしい、あじさいいろのものの降る風景の中、深紅の天鵞絨を赤子の額にそっと被らせる母。この新海誠のアニメーションのような、それ自体として情趣に満ちた色彩感豊かなヴィジュアル。

次々と畳みかけてゆくような美しい韻律と表現が、豊かな色彩をもつ風景、情景を描き出す。以下のような律動を持つ一節が繰り返しながら、風景と思惟が深まってゆく構造を持つ美文である。


時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかって
轔々と私の乳母車を押せ…



…今の季節、美しい紅梅を見ると思い出す大好きな詩がある。ぽうと頭の中が痺れて懐かしく切ないような甘いような、じいんとした心持ちと共に。

 

「山果集」より「一枝の梅」。

短いので全文引用する。

 ***  ***  ***

 嘗て思つただらうか つひに これほどに忘れ果てると

また思つただらうか それらの日日を これほどに懐かしむと

いまその前に 私はここに踟蹰する 一つの幻

ああ 百の蕾 ほのぼのと茜さす 一枝の梅

 ***  ***  ***

季節や風景に結び付けられたテクストは、物語は、財産だ。特に若い日に焼き付けられたその風景は。

それは、誰にも何にも侵されない穢されることのない時空間を形成してくれる。永遠に失われることなく心の中に生き続ける、幾度でも思い出され生き直される時空間。

それは、人生を意味あるものとし、それを支える力である。

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子供みたいに愛しても

なぜ子供っていうのは同じ言葉を幾度も幾度も繰り返すのだろう。絵本なんかでも一度好きになると同じものを数えきれない回数読む。どういう脳の構造なのか。それは、その度新鮮さを味わう力を持っているという能力の論理から来るのか。

イヤだからさ、子供の脳内に描かれている世界の地図、物語の組み込みの構造が、大人のそれとはかなりちがう風景としての色彩を帯びているのではないかとかそういうことを思ったのです。

「忘れている」ということと「置いといて」ってしてる微妙な思考の焦点の合わせ方の脳の意識野と無意識野の感覚とか。この多層に流れる意識の在り方は、仏教の十界互具という、焦点の揺れ動く共時多層意識構造のモデルに重なる。賢治関係では必須なんでちらちらかじってみた法華経だけど、やっぱりものすごく面白いよな、仏教。(手塚治虫の「ブッダ」でも面白がるヤツですが自分。)(そういや小学生の頃、手塚治虫全集もってる友人とこに通って読み呆けたなあ。あの放課後の時間は至福であった。ブラックジャックと三つ目が通るにどっぷり。)

そして、アイデンティティの枠、その外枠のところがかなりまだ曖昧で弱いものなんじゃないかと。自分の意識と世界が境界がまだ固まっていない。記憶が外側に収納されている、ような「感覚」ってあるんじゃないかなあ。意識の焦点をずらすと、そこは自分の外側にある、というような、「…(とりあえず)おいといて~。」って感覚。

で、大人になっちゃって己の内部に封印してしまうやり方が、「知ってるつもり」。インデックスつけて引き出しにしまってしまう。

これは、とりあえず感受と思考を意識のそのへんのオープンな場所に投げ出す形での「おいといて~」、という感覚は違う。寧ろ既知の、既成の物語に当てはめてクローズドな場所に「片付けてしまっている」感覚である。

しまい込むと、再びその知を感じ直す、血肉とする、生きたままにしておく現場作業を端折ってしまったままその考えを一つの概念として扱うことができるようになる。それは、インデックスを貼り付けてため込んだそれらひとつひとつを材料ブロックにして、さらなる複雑な構造をもつ高度な知の形を構築することを可能とする。高度に洗練された複雑な構造を持つ美しい建築物。(ナマのままの思考は感官を巻き込んだ思考感情能力すべてをフルに震撼させて感動させてしまうものなので主体全体がそのダイナミクスの中に埋没してしまい、客観としてその外側に出ることができない。)

それは、批評性を得るプロセスである、と言い換えてもよい。

…が、このときひとつひとつのパーツの命は「かっこに入れられて」いる。材料、或いは、勝ち得たもの、所有された財産。

大人が片付けて獲得したつもりになってしまうものは「そのものの感動」のところだが、子供が置いとくのはただそのもののまるごと、「全体性」だ。ここで既知であるという事実の形骸は何の意味も持たない。

そのものを、幾度でも繰り返し味わう。しゃぶりつくす。そのうちにその身体的な感覚的な知の感覚は、数多くの事例を得てより抽象的、論理的なレヴェルに昇華された、彼の思考システムの中に組み込まれた血肉となる。大人になった時それは彼自身を構成する、彼そのものを構築する思考パターン、彼というシステムそのものとして機能するのだ。

 *** ***

完成したらシステムは終わりだ。それはそのままでは退廃と腐敗を待つばかりの死骸だ。
言い換えよう、完成したと思って閉じた瞬間、その知はそのものとしては死ぬ。生命を失った機械(ハコ)となる。

大人の中にあるものは、スキル、その精密に構築されたシステムのハコの群れ。
…だが。そこにひとたび魂をそそぎこみスイッチを入れれば、目覚めた思考は、知は、世界全体を躍動させ、そこに生ける都市を構築しきらめかせ、意味あるものとしての崇高な生命と美しさを与えるものとなる。…失われるのは、そのシステムを目覚めさせ、生きたものとし、魂を与え、血肉を通わすパワーなのだ。

ハコの群れは死骸の山であり、宝の山である。

対して、子供の知は成長する生命力にあふれているが、それは限りなくカオスに近い。そして惜しいかなそれを注ぎ込みかたちにするべき器とスキルが足りない。大人になってそのエネルギーを器とスキルに変換し得たとき、既に注ぎ込む内実、生命の躍動部分の多くは失われている。形骸化した知は、対象や時代に対応する柔軟さ、新たなシステムへと発展する能力を失い、寧ろ生命を抑圧する有害さを示す狷介な権威ともなる。


「子供みたいに愛しても大人みたいに許したい♪」(ムーンライダーズ9月の海はクラゲの海」)
…神様って、イジワルだよな、って、なんかよく思うんだよね。

 *** ***

ニュートンは己の発明、発見について「私がかなたを見渡せたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからです。」という言葉を残したという。

先人たちの知の総体がおおいなる巨人としてあり、イマココにある人間たちは、その肩の上でさらなる高みを見る可能性を得ている。この構図は、己のなすべきものを構築し力尽きていった多くの先人たちの、その築き上げた知のシステムがそのまま遺産として、新しい命への次々引きつがれてゆくという時間的な構図でもある。

バトンリレーのように次世代へ、次世代へ。…果てなく未来へと深く高く、はろばろとした世界の豊饒へをもとめて歩みながら伸びゆき、広がり、発展してゆく、人類の知のDNA、歴史のかたちとしての荒々しく美しい生命体、そんな巨人像を想像させる。

ひとりの人間は矮人。できることは少ない、ちいさい。
だけど、巨人の肩によじのぼることができる。遥か高みを見晴るかし陶酔し、さらなる高みを夢見て己の人生の所業をその夢に投げ渡してゆく、そうして永遠にそこに生きている。

そんな感覚を、学問をする人々は、そんな幸福な夢のかたちを希望としてもっている、かもしれないなあ、なんてねい。

オオイヌノフグリ

近所の空き地、今年初のオオイヌノフグリ発見!
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2017、2.26事件。オオイヌノフグリ記念日だ。

好きなんだな、この花が。咲く季節も、咲く場所も、ものすごく小さいとこも、春の空の色してるとこも、ひどい名前つけられてるとこも、飾りたいなと思って摘もうとするとぽろりともげてしまう儚さも。

 

高校に入学したばかりの四月だった。

生物の最初の授業は、野外学習と称して学校の周りの川沿いの公園をクラス皆で遊びながらお散歩するというものだった。そのままなし崩しに解散、下校、というユルさ。

春うららな陽射しの明るい美しい午後だった。

高校生活は、未来はこれから、という真新しい希望のぴかぴかの春だった。

先生がそのときこの花の名前を、その由来ともどもしみじみとした情趣を持った口調で教えてくれたのだ。「ひどいですよねえ…。」

とっても変な顔をしていたけどとってもいい先生だった。
(夏は教室温度30℃超えたら休講だって約束してくれてたし。生物学的に人間が頭脳システムを作動できる環境ではないって言って。)(あの頃は超えることって結局なかったような気がするけど。)(ミョーなノリの先生だったよな。)(結構面白い先生多かったな。)

この日のこの午後の風景を心象風景として時空のポケットにしまいこみ、一生覚えていることになろうとはあの時私は思いもしなかった。明るい春の中をただ目の前と将来のことでいっぱいで生きていたから。

日曜日、遅い午後の春の光に包まれるとき、この花の咲き始めるとき、繰り返し、繰り返し、そこから取り出して、丁寧に広げて磨き直すことになるなんてね、至福ということに関して考えなくてはならなくなることになるなんてね。

お脳が弱い その2

つまんなそうな顔した親父が一人で切り盛りしてる、いかがわしい場末の居酒屋のカウンター。

一日の終わりに、こういうとこで麦酒をすすりながらおでんなんかつつくのはいいもんだ。ぼんやりと酒を飲みながら店の奥のTVをながめる爺さんや少しくたびれたサラリーマンのひとときの安らぎの、あたたかく、けれどどこか不思議な距離感のある親密な共有感覚につつまれてる。

畢竟人生の核心とはこういうところにあるんじゃないか、ということを思う。

 

…で、古い友人とおでんの柔らかく煮えたでっかい大根だのこんにゃくだの分け合いながら、お互いの辛子のつけ方のセンスにいちゃもんつけあったりしながら、最近読んだ漫画だの映画だのTVだのについてぐだぐだと語り合った。

「で、こないだ貸したあの漫画、どうよ。おもしろかったろ?」

昭和SFのあの時代の独特の雰囲気がオレは好きなんだが、そして子供の頃は70年代少女漫画にどっぷりハマった人間なんで、萩尾望都大島弓子はバイブルに近い。こないだ「ノラガミ」全巻貸してくれたこのZ君へのお返しに、とりあえず間違いなく万人に面白いのではと思われた「スターレッド」を貸したんである。

 「…。」

ところが、彼は一瞬、返答に窮した様子を見せた。

「オレさ。」

そしてたっぷりと逡巡を見せた後、思い切った様子でこう言ったんである。

「お脳が弱いんだよ。」

 

危うくせっかくのうまいおでんを吹くとこであった。

いや、理解したんだが。
ものすごく、その気持ちが分かったような気がしたんだ。

己のお脳が弱いのカミングアウトの際のそのタメ、その気持ち。
絶妙だなあ。

 

…お脳が弱いのってオレのまわりのトレンドなのかしらん。
このブログ内を検索するとわかると思うが、自分、「お脳が弱い。」自覚がある。

己のお脳の弱さを日々ひしひしと感じ、幾度もそう述懐している。記事のタイトルにした日もあるくらいだ。ここな。

決して認めたくないし開き直って標榜する気なワケでもない。かなしい。んだが、一度ハードルを越え、認めてしまうと随分楽になるのも事実である。事実をまっすぐに、ただそれだけ。無理して背伸びして、そうして自分が伸びることもあるし、世の中ではハッタリ効かせてわかったふりしないと負けてしまう、生きていけなくなる、というような感覚があるんだけど、だけど、つるりと鎧を脱いで戦線離脱、ひとたびあきらめてしまえばストンと憑き物は落ちる。

 

さてしかし。

「オレ、バカだから。」

という言葉を免罪符にしてるようなのっていうのは全然よろしくない。

例えば若者が寧ろ居丈高に己が「バカ」であることを威張って、理解への努力を拒否するはねつけるような態度は、オレはどちらかというと嫌悪感を感じてしまう。「バカ」っていうのは罵倒や蔑みや価値づけ、或いは愛情表現であることもあるけど、要するに感情的な意味合いがある。で、それに対する「どうせオレはこうだから。」「どうせバカって言われてきたしさ。」みたいな社会に対する卑屈やひねこびや反発、甘え、或いはあきらめみたいな、なんというか感情的な濁りのあるニュアンスを感じるんだな。

…だけどさ、「お脳が弱い。」ってのは違うんだよ。理解の努力を拒否するのとは微妙に違う弱気なかなしみがある。あれこれあった人生の、その年齢を重ねてきた人間に初めて行きつくことができる境地。ニュートラルな、まっすぐで透明な現状把握。

頑張らなきゃいけないんだけどさあ、もうちょっとわかりたいんだよ、ほんとはさあ、…みたいな力足らずの切なさというかさ。哀れさ滑稽さ。

 

「…そんなに難解だっけ、あれ。」

実は読んだの大昔なもんだから忘れてるのだ。猛烈に面白かった、という記憶だけである。(読み返さなきゃな。)(そんな本⦅や漫画⦆ばっかりだ。)

もしかして、自分もよくわかんなくなってるかもしれないな、あの頃浸った世界の構造のおもしろさを。

でも、ハッタリじゃないところで、限られた自分の理解の範囲だけを慎ましく。それでも、それなりにのそのそと考えたリおもしろがったりできるし、その分だけで、世界は充分に豊かになれる、ような気がするよ。

新しい図書館

新しい図書館に行った。

都立多摩図書館が立川の不便なとこから、地元西国分寺に移転してきたのだ。一月末にオープンしたばかりのピカピカ。

一般貸出はしてないんだけど、東京マガジンバンク、雑誌と絵本に特化したという特徴を持った図書館で、前から一度は行ってみたいなあと思っていた。

それが向こうからやってきてくれたんである。
これは私の人徳の招いた事態だろうか、と思っても責められるところではあるまい。

個人PC持ち込みOK(電源完備デスク多。)、東京都のフリーのWIFI完備、国分寺の可愛いパン屋が出店してて、「国分寺ブレンド」も飲めるカフェコーナー。(まあ菓子パンとコーヒースタンドと自動販売機のお茶類だけ。カフェのお洒落さ、メニュー、居心地としては武蔵野プレイスに遠く及ばないけど、その分価格が可愛いもんね。)

 ***  *** 

来訪したのは、春一番フライングか、と思うような強風吹き荒れる節分の日であった。
青空ピカピカ、街のあちこちで恵方巻特設売り場にひとだかり。

立札。此処だ、広い青空の下、ゆったりとしたつくりの建物。

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まず大きなガラス窓からじろじろ中の様子をうかがう。初めての図書館に足を踏み入れるときは、いつでもどきどきわくわく。

カウンターで受け付け、入館証を首からぶら下げて中へ入る。秘密倶楽部会員っぽくてよろしい。

図書館の空気は穏やかで平和な幸せ。

…でもね、実は、この日行ったときはそれほど堪能はできなかったのだ。こころは体調や表層的な精神状態のくびきにつながれていた。

ただ、その奥底のどこかで、閉ざされた現在から放たれたところを思った。

静かな図書館独特の空気につつまれたとき、窓から明るい光がさしこんでいるとき、いつも私の心はそこに飛ぶ。原初の図書館体験が、いつでも心の中にその至福の風景を呼ぶ。イマココの現実の風景にダブらせてよみがえらせる。

たくさんの物語と夢の翼に乗ってはばたいた場所、世界を無限に夢見たのだ。…そう、その己の心の力の記憶。

…遥か遠い明るいそこを私の心は思ったのだ。柔らかな輝きにみちた自由なところ、夢を見るために、他のすべてから守られていながら開放された時空。(それは過去の方向に求められた場所だけれど、けれどそれは未来を夢見る力を持った過去である。ねじれた構造によって成り立つそのメディア空間。過去に夢見たいくつもの未来、その夢を見る場所。)(永遠のメディア空間。)もどかしい、強烈な憧れを感じた。強烈な。

そもそも図書館とは常に世界の夢を見るためのメディア空間なのだ。
知とはそれ自体力を持たず弱く、その純粋をあらゆる外部の圧力(権力や経済力)からまた何らかの力によって守られなければならない存在なのではないだろうか。図書館とは、それを象徴する場所。

なんとなく、米国の核に守られた非核三原則のような平和の構造を思い出す。誰かの汚れた強い手によって守られる純潔。金は出すが口は出さないパトロンを必要とする、不可侵のシェルター。

 ***  ***

平日の昼下がり、静かで明るい開放空間。採光は申し分なく明るく青空の中に浮かんでいるような気持ちだったし、裏手は武蔵国分寺公園。いい環境である。

大きなガラス張りの光に包まれた素敵な子供のコーナー。

それから、カウンターで申請して特別のバッヂをくっつけて入る、開架書庫。秘密めいた薄暗い空間。


ここは殆ど人がいなかった。書棚の隙間をあるく。細長い天井に薄暗い裸電球的な照明が点々と埋め込まれ迷路のイメージにわくわくする。貴重な雑誌や古い絵本ごってり。

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…もう一度生まれ直して子供になって、こんな図書館をシェルターにして育ちたいと、このとき我が魂の鮮烈な切望は胸に痛いほどであった。

これは、決して得られない憧れという、世界で最もうつくしく貴い幸福なかなしみ。至福と絶望のアンビヴァレンツ。その麻薬のような甘美への陶酔と耽溺。

戻りたい、ただ戻りたい。夢中になって本を読み世界の無限の不思議を感ずる幸福に埋もれていたあのひとときに。今なんか要らない、永遠にあの日々が繰り返されればよい。両親に守られ、未来はただ限りない可能性に満ちていたあの頃に。

…これは逃避と退廃なのだろうか、と私は問う。

そうだ、逃避で退廃だ。
では、胸の中にそれを抱えて生きることに何の意味がある?

無意味ではない、と私は答える。このアンビヴァレンツの持つ強烈さは、決して虚無に向かってはいない。ねじれた形ではあっても、それは欲望、すなわち永遠に何かにあこがれ続けるしたたかな生命本来の力のひとつのかたち。いや、寧ろこれこそが、「反(或いは未)・現実」としての夢と憧れと希望と欲望こそが、生きる力と喜びの本質なのではないのか。

逆説的ではあるが、それは逃避と退廃と背中合わせでありながら同時に「イマ・ココ」の唯一の絶対性を否定し相対化し、そこに閉ざされる閉塞から脱却することによってそれすらを肯定することができる、未来へのエンジンとなる可能性でもあるのだ。

生まれた、というだけで無条件に愛され育くまれた記憶、あるいは世界の驚異を畏れ愛し欲望したその人生のはじまりのところの記憶は、私のアイデンティティの根幹のところに刻み込まれた…私のレーゾンデートルだ。

「決して戻れないことを知りながらの過去への追慕」。己の過去を愛し、そこにあったすべての可能性をすべて愛し、惜しみ、かなしみ悼み、そして一つしか選べなかった「イマ・ココ」を、それらすべてを倍音として包括したものとして止揚し、全肯定とゼロの両義をはらんだまま抱え、その道を進んでゆくための。

諸刃の剣である。これが近代日本文学理論がとらえたところの、ロマンティック・イロニイなのではないか、と私は考える。

そう、実は、これこそが。「イマ・ココ」でないものにあこがれ続ける力。

「イマ・ココの現実」になった瞬間、かなった瞬間失われる「夢」のベクトルの力。欠如でなければ夢という欲望は存在できない。(欲望とは生きる意欲のことだ。)満たされたいと願う力は満たされた瞬間失われる、ロマンティック・イロニイ。

…メディア空間とは、幾重にも重層し錯綜したあらゆる方向への可能性が可能性のままである力の場なのだ。それは、両側にたくさんの世界の扉のある、迷宮の長い長い廊下。扉を開けば、一つの世界が開かれる。永遠に、そのダイナミクスの場にとどまっていたい、という究極の欲望。

 ***  ***

「ああ それにしてもそれにしても / ゆめみるだけの 男になろうとはおもわなかった!(中原中也)」

いつでも私は「いま、ここでないところ」を夢見て生きてきた。いまここでないところに行きたい、と、いまここでない時空に行きたい、と。

今日も、日曜の夕暮れのベランダから夕陽を浴びて光る飛行機を眺めながら。

日曜日、光の春

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近所のだだっぴろい畑のはたに、いつも見事に花を咲かせる桃の大木がある。その下には菜の花畑。

 

今年ももう咲き始めていた。

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梅はそこいらじゅうで馥郁と香っている。(しだれたやつと源平のやつが好きだ。この写真のもかわいい源平であった。)(枝垂れた源平が一番ゴージャス。桜も枝垂れ源平桜。あれこそ桃源郷桜源卿、夢の中にいるような風景だ。)

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淡い青の空色に桃色に黄色のパステル。

おぼろなこの風景のこのイメージは、夢のような「里の春」。むせ返るような甘い懐かしい菜の花の香り。風は冷たいが二月は光の春だ。

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(関係ないけど高校のころ、「里の栗」っていうアイスが好きであった。確かうまれて初めて彼におめもじしたのは、豊友館(高校の学食の建物)。栗のジャムがはいった栗アイス。ガリガリ君は夏の定番、リッチな気分のときはジャイアントコーンを選択したものだ。)

 

季節は繰り返し、命は再生する。未来にも現在にも希望が見えなくても自分が修羅の底を歩いているような気持ちでいても、ただひたすら生きていれば世界は美しい喜びを与えてくれることもあるしいいこともあるかもしれない、と、さまざまに考えを散らしながらのそのそ歩くまだ早い春、日曜の午後。(さまざまに閃くのは立原道造の詩集「日曜日」の幾編かの詩のことばのモチーフだ。)