なぜ子供っていうのは同じ言葉を幾度も幾度も繰り返すのだろう。絵本なんかでも一度好きになると同じものを数えきれない回数読む。どういう脳の構造なのか。それは、その度新鮮さを味わう力を持っているという能力の論理から来るのか。
イヤだからさ、子供の脳内に描かれている世界の地図、物語の組み込みの構造が、大人のそれとはかなりちがう風景としての色彩を帯びているのではないかとかそういうことを思ったのです。
「忘れている」ということと「置いといて」ってしてる微妙な思考の焦点の合わせ方の脳の意識野と無意識野の感覚とか。この多層に流れる意識の在り方は、仏教の十界互具という、焦点の揺れ動く共時多層意識構造のモデルに重なる。賢治関係では必須なんでちらちらかじってみた法華経だけど、やっぱりものすごく面白いよな、仏教。(手塚治虫の「ブッダ」でも面白がるヤツですが自分。)(そういや小学生の頃、手塚治虫全集もってる友人とこに通って読み呆けたなあ。あの放課後の時間は至福であった。ブラックジャックと三つ目が通るにどっぷり。)
そして、アイデンティティの枠、その外枠のところがかなりまだ曖昧で弱いものなんじゃないかと。自分の意識と世界が境界がまだ固まっていない。記憶が外側に収納されている、ような「感覚」ってあるんじゃないかなあ。意識の焦点をずらすと、そこは自分の外側にある、というような、「…(とりあえず)おいといて~。」って感覚。
で、大人になっちゃって己の内部に封印してしまうやり方が、「知ってるつもり」。インデックスつけて引き出しにしまってしまう。
これは、とりあえず感受と思考を意識のそのへんのオープンな場所に投げ出す形での「おいといて~」、という感覚は違う。寧ろ既知の、既成の物語に当てはめてクローズドな場所に「片付けてしまっている」感覚である。
しまい込むと、再びその知を感じ直す、血肉とする、生きたままにしておく現場作業を端折ってしまったままその考えを一つの概念として扱うことができるようになる。それは、インデックスを貼り付けてため込んだそれらひとつひとつを材料ブロックにして、さらなる複雑な構造をもつ高度な知の形を構築することを可能とする。高度に洗練された複雑な構造を持つ美しい建築物。(ナマのままの思考は感官を巻き込んだ思考感情能力すべてをフルに震撼させて感動させてしまうものなので主体全体がそのダイナミクスの中に埋没してしまい、客観としてその外側に出ることができない。)
それは、批評性を得るプロセスである、と言い換えてもよい。
…が、このときひとつひとつのパーツの命は「かっこに入れられて」いる。材料、或いは、勝ち得たもの、所有された財産。
大人が片付けて獲得したつもりになってしまうものは「そのものの感動」のところだが、子供が置いとくのはただそのもののまるごと、「全体性」だ。ここで既知であるという事実の形骸は何の意味も持たない。
そのものを、幾度でも繰り返し味わう。しゃぶりつくす。そのうちにその身体的な感覚的な知の感覚は、数多くの事例を得てより抽象的、論理的なレヴェルに昇華された、彼の思考システムの中に組み込まれた血肉となる。大人になった時それは彼自身を構成する、彼そのものを構築する思考パターン、彼というシステムそのものとして機能するのだ。
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完成したらシステムは終わりだ。それはそのままでは退廃と腐敗を待つばかりの死骸だ。
言い換えよう、完成したと思って閉じた瞬間、その知はそのものとしては死ぬ。生命を失った機械(ハコ)となる。
大人の中にあるものは、スキル、その精密に構築されたシステムのハコの群れ。
…だが。そこにひとたび魂をそそぎこみスイッチを入れれば、目覚めた思考は、知は、世界全体を躍動させ、そこに生ける都市を構築しきらめかせ、意味あるものとしての崇高な生命と美しさを与えるものとなる。…失われるのは、そのシステムを目覚めさせ、生きたものとし、魂を与え、血肉を通わすパワーなのだ。
ハコの群れは死骸の山であり、宝の山である。
対して、子供の知は成長する生命力にあふれているが、それは限りなくカオスに近い。そして惜しいかなそれを注ぎ込みかたちにするべき器とスキルが足りない。大人になってそのエネルギーを器とスキルに変換し得たとき、既に注ぎ込む内実、生命の躍動部分の多くは失われている。形骸化した知は、対象や時代に対応する柔軟さ、新たなシステムへと発展する能力を失い、寧ろ生命を抑圧する有害さを示す狷介な権威ともなる。
「子供みたいに愛しても大人みたいに許したい♪」(ムーンライダーズ「9月の海はクラゲの海」)
…神様って、イジワルだよな、って、なんかよく思うんだよね。
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ニュートンは己の発明、発見について「私がかなたを見渡せたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからです。」という言葉を残したという。
先人たちの知の総体がおおいなる巨人としてあり、イマココにある人間たちは、その肩の上でさらなる高みを見る可能性を得ている。この構図は、己のなすべきものを構築し力尽きていった多くの先人たちの、その築き上げた知のシステムがそのまま遺産として、新しい命への次々引きつがれてゆくという時間的な構図でもある。
バトンリレーのように次世代へ、次世代へ。…果てなく未来へと深く高く、はろばろとした世界の豊饒へをもとめて歩みながら伸びゆき、広がり、発展してゆく、人類の知のDNA、歴史のかたちとしての荒々しく美しい生命体、そんな巨人像を想像させる。
ひとりの人間は矮人。できることは少ない、ちいさい。
だけど、巨人の肩によじのぼることができる。遥か高みを見晴るかし陶酔し、さらなる高みを夢見て己の人生の所業をその夢に投げ渡してゆく、そうして永遠にそこに生きている。
そんな感覚を、学問をする人々は、そんな幸福な夢のかたちを希望としてもっている、かもしれないなあ、なんてねい。