酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

いだてん

いだてん

NHK日曜夜八時の大河ドラマ
基本的に自分は普段この枠のドラマを見る人間ではない。

「面白いよ。」
などと勧められても最初の一回も観きれず挫折してしまう。基本的に長時間視聴の忍耐力がないんである。

だもんでこれも何だか周りで評判だったからとりあえず、とダメモトで観始めたら、アラ。
…おもしろいではないか、自分史上小学生の時以来(大河ドラマ愛好者の母を持つ小学生の運命の成り行きである。)のまさかの自発的大河ドラマ視聴。

で、やっぱ異色らしい。
で、視聴率がものすごい低迷っぷりらしい。
で、さまざまの人がいだてん視聴率記事に関して賛否両論いろいろコメントしているので、あれこれ考えていた。いだてん。

まあとにかくいわゆる正統派のこの枠のドラマパターンから逸脱した破格のドラマである、ということで、いいも悪いもとりあえずは「なんじゃこりゃ。」とまずはびっくりする異色の趣向のものであったんである。

 *** ***

とうことで、先日録画していた第一部終了編を今観たところである。関東大震災という惨劇、そしてその後。

これは復興への道筋をたどろうとする人々を描く未来への不屈の希望と躍動を描く回だ。ある日突然断ち切られた日々の暮らし。理不尽に失われた命、街、生活。それぞれの個々のドラマ。そしてそれでもなおそれぞれの命を生き続けなければならぬ、そこからの未来、その復興のことを。

…素晴らしかった。

巧い。感服した。楽しかった。感動的だった。

で、ここで大切な要素として「笑い」がぐいとクローズアップされるんである。楽しさ、笑い、分かち合い、生命力、希望。もちろん本筋のスポーツ、という路線は外さないままに。

笑いって、さまざまなその他のすべての辛さ悲しさやるせなさどうしようもなさ、すべてを超えようとするような、こういうもののためにあるのだった。元気って生命力って、理不尽やそれに打ち砕かれたものがみな丸裸のところからとっくみあって助け合って思いやり合って新しい未来の夢にむかって立ち上がってゆこうとする、こういうところからやってくるものなのであった。共同体を構成するにあたっての基礎となるもの、助け合うことへのまっすぐな善意ってかっこよさって潔さってこういうものであるのだった。(今観終えたばかりなので言葉が熱いままなようだな自分。)

…おもしろかったんである。
当初違和感を感じた、本筋マラソンパートとはかかわりのないように思えた「落語」の要素、脚本家宮藤官九郎がこのビートたけし森山未來が演じる「落語」パートを語りと物語の層双方に絡ませた理由はこの「笑い」と「語り」と「芸」「伝統」「物語」の融合芸術である落語というジャンルの特質を持ち込みたかったからなのだとしみじみ納得する、そんな第一部完結大団円であった。

 *** ***

例えば昭和三十年代において更なる大過去を語る者である古今亭志ん生ビートたけし)が、まだ若かりし落語家のタマゴだったときの己を語るときの、本当にロクデナシだった時代を見事に演ずる森山未來の、あの徹底した「どうしようもなさ」のこと。一線を超えて踏み外したようにように見えるあのだらしのなさ、どうしようもなさ。

…唐突なようだが、漱石の「こころ」を思い出したのだよ私はここで。Kが自殺したときのあの先生の人生の決定的な瞬間のことを、その未来永劫すべてを一瞬にして真っ黒な闇に染め上げたあのシーンの絶望の意味のことを。

あれを救うナニカがあのいだてんの展開にはひとすじ、示されているのではないか、なんてね。 或いはそれはガンジーの追い求めた、世界を変革するものである「徹底した愛と赦し」にさえも通じているのだ。

だからつまり、一瞬の過ちが一人の人間のすべてを奪うスタイルを持つ倫理の怖ろしさについて考えたのだ。或いはそのようなスタイルをもった息苦しさの中にある現代社会の姿のことを。

実はものすごいことなのではないか、あの展開は。彼が社会的に生きる価値はない人間、と決めつけられてもおかしくないはずなのに、なんだか周りににんげんからゆるやかに赦され愛されちゃう人間のナマの最低の「そのまま」が芸の世界で昇華されてゆくロクデナシの物語と、さらにその彼が語る笑い飛ばす己や世の中すべて、…というその「語り」の意味。やるせなさと理不尽と怒りを通り越し、あきれたあまりあきらめたように最後には笑ってしまう、この乾いた、けれど優しい、どこか突き抜けた、不思議な笑いのその構造。それは、この第一部最後の、関東大震災というカタストロフのその悲しみも怒りも切なさもすべて飲み込んでなお乗り越えてゆこうとする、おおらかな生命力としての人々の寄り添い合ったところにうまれる労わり合いと笑い飛ばしの昇華の力となってゆく。

これが復興の深みとすごみと軽やかさ「笑い」の力へと集約されてゆくところで森山扮する若きロクデナシ落語家のある種の目覚めの躍動とともに顕現していることに私は感動したのだと思う。己の物語を語りながら笑い飛ばしてゆくという、物語を創造する力、己を物語化することによって獲得される、外側の視線、観客、メタの視線の二重構造、主体と客体の同時性。世界への参加とそこから解放されている魂の獲得という矛盾の止揚。その「芸術・或いは芸」の力による、おおらかな笑いという力による、生命の底力、日常を生きる大衆(吉本隆明の方の大衆ね。決してオルテガではなく。)の力。

これはひょっとしてものすごく革命的にその澱んで滞った社会のどん詰まりの中で形骸化、固定化した倫理の不寛容の怖ろしさを暴き否定し、それを寛容、赦しとしての方向性として示す大きな破壊的な力をもつものが潜んでいる可能性なのではないか。

…なんだかゆるしちゃうのだ、という論理のない根拠のない「前提としての」徹底した赦し、「前提としての」親愛の情、存在の価値。家族の基本のような、愛の基本のような。存在の基本、のような。

その日常回帰への方向修正が、ドライな笑いというこのクドカン独自の手法によって。若き日のこの己の危うさが老いて安定した家族の中の笑いの中で語られるビートたけしの語りの「ヒューモアとペーソス」この愛嬌のような可笑しみの中に包まれてゆく安心感。「もう、…ホントあんたってしかたないなア。」っていうテゲテゲのナアナアの赦しの中に徹底して許されてゆくことによって、踏み外さないですむ、ということもある。

不幸と絶望による自暴自棄が、見捨てられた孤独と絶望が、その個人ももちろんだが、他者をも巻き込むより大きな不幸と絶望をもまき散らす。その不寛容が、正義ヅラして責め立てる部外者の裁きが、これまで巻き起こしてきた犯罪的なるもの、恐ろしく悲しい出来事のことを私は考える。

例えばこないだの、川崎でのあのものすごい惨劇。朝の登校児童たちを襲った無差別殺人。犯人もその場で自殺した。まっくろな絶望はしかし存在の虚無感そのものからくるものではなく、歪んだかたち、追い詰められた痛み、こんな風になりたくなかった、こんな風な仕打ちをされたくなかった、わからない、本当はまだ生きていたかった、という思いをどこかに感じさせるような、そのためにひとりで死ぬことができなかったさびしがりやの救いのない拡大自殺である。

関連ニュースコラムここにリンクしときます。

池袋の引きこもり暴力息子を殺したエラい人の家庭の悲劇も同根である。世間の、多数派、正義感という名を持った無記名の、枠から外れようとした少数派に対する賤しいイジメに似た暴力に転化しうる危険な「善意」の仮面。

 *** ***

さて、ということで全体構造の凝りっぷりについて。

一見本筋と無関係な昭和30年代のビートたけしの語る、己の若いころ、そしてそれと同時進行していた金栗四三のエピソード、という奇妙なかたちをとったこの二つの小箱の入った入れ子型物語の語りから、その二重(落語パート&金栗周り体育関係パート)×東京オリンピック前昭和パートの同じ二重構造(ビートたけしの語り空間と同時代の東京オリンピックにむかう昭和三十年代)(第二部への架け橋になっていると思われる。)、というドラマの時空構成のわかりにくさが不評となっているというのだが、まあそれはそうだろう。

語り手がまたビートたけしだったり、奇妙な彼の飛込み弟子(金栗と奇妙な縁を持つ)にバトンタッチされたり、落語の中の語りなのかただ思い出して人に話している日常のなかの語りなのかの区別も判然としなくなってゆく状況、さらには突然森山が落語調で語り出したり、ドラマの地の語り手が出てきたり、入子型物語そのものの語りの迷宮が構築されている。視聴者はめくるめくように変化する世界から世界へと翻弄される。

…だがむしろそれは戦略的なものであり、このドラマの構成は、それを飛び出してその物語の力を2020のオリンピックを控えた「イマココの視聴者」の現実にターゲットを当てたものとするベクトルをもった多角的で知的な構成であるのだと私は思う。ものすごく観る人を選ぶけど。決してそれは視聴者に媚びない。

あまちゃん」もそうなのだが、このひとのドラマの作り方の独自性は(イヤワシこの二つしか知らんのですがとりあえずこの二作に関して言えば。)おそらくここに突出した才能の特徴がある。物語が現実の「イマココ」の視聴者へと他人事の対岸の火事の物語ではなく直接襲いかかってくるような。

まず、この時系列、語りの重層の仕掛け。この構造は、…っとあまちゃんの方をがっぷり言及しようとしてハタと力尽きた。

…とりあえず、「いだてん」第二部が始まる。また違ったびっくり箱な趣向が用意されているのを楽しみにしておこう。

 

ただ、とりあえず共通していると思われる、テーマとして掲げられている「種まく人」。という命題について。

金メダルをとったひとりのヒーローの物語ではなく、人々が皆で盛り上がり発展してゆく土台を作っていった人々の物語、バトンの渡されていった手から手へ、のその手の持つたくさんの物語を迷宮に絡めとってゆくこのドラマはやはり革新的に楽しいものである、ような気がしている。

「椿宿の辺りに」梨木果歩

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梨木香歩さんの新刊、しかも非常に面白かった記憶のある「f植物園の巣穴」の続編、ということでどひゃーっと飛びついたんだけど。

…う〜ん、期待したほど面白く感じられなかった。
というかやっぱり面白くなかったと思う。

確かに梨木果歩さん、その綿密なデータからくる堅牢性に支えられた世界観、こなれた文章に物語構築の手腕、凝った構成、確かに手練れのプロの作品、ではあるんだろうけど。

そして「f植物園」よりもむしろ読みやすかったんだと思うけど。
…おもしろくないのだ。形から分析するとおもしろい構成なんだけど中身はおもしろくないのだ。「植物園」にあったあの深み、重み、哀しみ、痛み、世界と個のかかわりの関係性の中でそれは激しく胸をえぐり脳を揺さぶり痺れさせるものであったような気がするんだけど。アイデンティティの枠組みの根底を揺さぶり浄化してゆくような。

…その重みと深みがない。
軽やかさを追っていることとそれはあまり関係がない。アイデンティティや存在の不安も身体を襲う痛みも、それらすべてはただ小説、物語を動かすための材料、要素、「f植物園」で使われていたモチーフの意味のインデックスとしての役割を担うだけのものへと堕し、作品自体には推理小説的な、ミステリとしての知的な面白さを提供しているだけだ。

…物語設定は、「f植物園」での主人公豊彦の曾孫、佐田山幸彦が原因不明の痛みに導かれて祖先の、その属した地や祖先との関わりを背負ってゆく体のものであり、文章はこなれている理屈っぽい主人公にも好感が持てて読みやすく、他の人間描写もさすがに優れて魅力と雰囲気がある。まあこれはこれでとしておもしろくない、わけではないのだなあ。う〜ん。何を求めるかによるんだろな。

ただ、「岸辺のヤービ」でも思ったんだけど、作品として、このひとのこれまでの作品のもつ要素を思想を、論理としては網羅している、けれどもそれがただ論理だけになっている、という感覚がある。奥に秘められていたすさまじさ、アイデンティティへの疑問、存在という原罪、その痛み、深みと重みが既に感じられない…。もしかしてこのひとは書きたいことを書きつくしてしまったのではないだろうか、なんてふと感じてしまったんである。

…そういうことがあっても不思議ではないし、既に偉業を成し遂げてしまった、といえばまたうなづけるような気もするんだけどね。

「f植物園の巣穴」は確か昔感想書いてたと思ったらあった。

yamamomo.hatenablog.com

100分de名著 マハトマ・ガンディー「獄中からの手紙」

100分de名著、随分昔のを掘り出して観てみた。2月のガンディーである。監獄から弟子にあてたヒンドゥーの求道の教えを説いたもの「獄中からの手紙」を追いながら彼を解釈してゆく趣向。

番組の概要、公式HPはここ。

ヲヤ指南役はオルテガのときとおなじあのかっこいい先生ではないか。
…と思ったら、やっぱりすごく面白いのだ。

第三回までみた。

で、しみじみと考えた。
この番組ではガンディー(教科書やら映画やらでは「ガンジー」って言ってた記憶があるんたけど、発音はガンディーって言った方が近いそうな。ちいと気取ってるみたいで気恥ずかしいよな気もするが。)の「非暴力不服従」を「愛と赦しの論理」で読み解いているんだが、そのラディカルな思想展開について。

暴力には暴力をの論理、近代消費社会の基盤そのものとなっている収奪の連鎖を生むその論理を土台から問い直す可能性をこの番組はガンディーに求める。

同じ「力対力」による限りない弱者収奪のルサンチマンの連鎖につながる論理地平ではなく、そのような「強弱反動」ではなく。…むしろ革命的な新しい超ー近代を目指す思想、或いはゼロに向かおうとする力そのものである論理として読み解く。

勇気を暴力ではなく無畏に求める、それはものすごく崇高で美しいけれど、むしろ美学というよりは知性としてとらえるべきものではないのか。そしてそれが知性であり力でもありうるのだ、という可能性を示したこのガンディーという英雄の起こした奇跡に人類は希望を見出すことができるのではないか、と。

「非暴力」と訳されているヒンディー語は「アヒンサー」。
これは、「簡単にボク手は出さないよ、殴り返したら犯罪だもんね、物理的肉体的暴力は避けるよ」、という意味合いのポリシーとしての「非暴力」というよりも、より深く「愛」或いは「赦し」と訳すこともできるという宗教的な語彙であるとこの先生は語る。「ア」という否定の接頭語、「ヒンサー」という傷つける行為、害する行為、殺生という行為を示す語の組み合わせからくる言葉。

そしてガンディーの思想のキイはこの「否定」であると彼は語るのだ。その教えは「非暴力」「不服従」。その教えの特徴は「非・不・無」「こうしてはならない、ああしてはならない」。

そして独立へ向かうべき国家的抵抗運動としてこのポリシーはあまりにも受け身である、消極的である、という批判に対し、それは違う、と。

よりラディカルに思想の土台を常にひたすら「否定」してゆく行為、己の存在の中の矛盾をも否定してゆこうとするゼロへの動きとしての否定の行為は常にすべての思想を形骸化させず監視し続ける「永遠の微調整」というやりかたを示すものであるというのだ。

永遠の微調整。

これはもちろんレヴィ・ストロースのあの「野生の思考」と直結した思想スタイルである。現場に適応しながら都度形作られてゆく神話的な形をとった独特の思考スタイル。そしてそれは受け身ではなく寧ろ積極性である、と。

で、思った。この指南役の先生のテーマというか思想傾向というのはコレなんだな、と。


研究者にはそれぞれ己自身が投影された思想を過去から汲みだす、そのようなかたちでのオリジナリティがある、と私は思っている。過去の偉人の中の誰の何を研究しても結局己の生きる己自身の時代に適応したオリジナルに生きた思想の可能性をそこから読み取るのだ。(なんかね、春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のこと思い出すんだな。ものすごく引っかかってる謎のシーン。「世界の終わり」側にある不思議な図書館で、主人公の片割れが延々と頭蓋骨からなにかきらめきの信号を読み取ってゆく作業をする、というシーンでね。これはそれと関係あるのではないかなあ。己の現在と響き合う思想を過去の頭脳から生きたきらめきとして読み取ってゆくイメージを持つ、そんな不思議な「世界の終わり」にある廃墟にも似た図書館。)

そう、オルテガのときもこのキイ・ワードを使ったのだ、彼。「永遠の微調整」。そのとき彼はこれを「保守」の思想の神髄とした。(急進と革新、革命という血の流れる熱狂のもつ危険を回避するやり方、ここでそれはガンディーの「よいものはカタツムリのように進む。」という言葉に託される。)

どのように「読む」か。というスタイルの問題である。結局誰もが同じことを違う言葉で言っているということだってできる。根っことしての真理はいつでも同じ。枝葉という具象化されたかたちが違って見えるだけだ。

真理とは万人に万の世界に万の時空にそれぞれ最適なかたちで具象となって適用されるために虚無、空白なものとしてある。その時代その読みとられた現場によって、つまり「読者」との共同作業によって成り立つ「読書の現場」、そのとき思考はその都度形を変えて蘇り唯一の真理と繋がった可変性をもつ生命体として生きた力をもつことができる。

 *** ***

…でね。ガンディー。

何故完璧で素晴らしい理想であると感動したのに、いざそれを自分にあてはめたときシミュレーションしたとき「ムリ~!」になってしまうのか。理不尽な暴力への復讐心やさまざまの欲望や虚栄や利己心やの克服による理想郷。

何故ガンディーにできたことが私にはできないのか。

理由があるはずなのだ。人間性の尊卑であるから当然だ、マハトマ(偉大なる魂)、偉人聖人と凡人の違いであると決めつける前に何か考えるべきことがある。偉人と凡人の違いとは何なのか。

偉人の論理はシンプルで凡人のそれは煩雑で複雑だ。

偉人はそのシンプルさを、凡人が埋没して負けてしまうところである煩雑で複雑な現実をその場に応じたやり方で制覇してゆく実際の政治力をもってシンプルなまま通そうとすることのできる「強さ」をもっている。誰もがわかっているシンプルさが、小さな小さな欲望や保身の積み重なりの絡み合いの大人の事情でどんどん複雑な物語に絡めとられ、にっちもさっちもいかなくなるのが普通なのだ。

そのことを今一生懸命考えてみたけどいろいろやっぱりどうしてもわからない。絶対に何か理由があるはずなのだ。誤った欲望をコントロールするまっすぐでシンプルな力はどのような論理から来るのか?換言すれば、彼の実践した愛と赦しの力の根源はどこに求められるものであるのか?明確な論理を持った。…それを見出すことによって何らかの道は開かれる何かがあるのではないか、というような気がするんだけど。なんとなく。

 *** ***

ここまで書いてから、第四回、最終回を観る。
ヒンドゥー原理主義の若者によって暗殺されたアヒンサー(非暴力、愛、赦し)の偉大なる魂。うっかりじいんと来てしまった。切なく痛ましく悲しく。己の、そしてすべての人間のそのようなかなしい愚かしさと、けれど同時にそれを克服して幸福であろうとする魂の崇高さの存在の共時性。双方は必ず常にともに在る。ひとりの人間のミクロの中に、世界全体のマクロの中に。

キリストは磔刑にされしジョン・レノンは撃たれなければならなかった。漱石「こころ」の先生は己の心臓の血、己の死によって贖われた知を「わたし」へと注ぎかけることでしかそれを伝えることができなかった。

何故だろう。この贖いの物語の必然はどこにあるのか。

そして香港のデモのことを思った。無抵抗非武装の普通のおっかさん風が機動隊に向かって「あんたたちにも子供がいるんだろう、将来子供を持つんだろう、何故子供たちを攻撃する?」と叫び、そうして武装部隊によって顔を催涙弾で撃たれた映像をみちゃったんである。

泣きたくなった。ガンディーの思想は結局通じないのだ。

そして私の心の愚かさはこの絶望という蒙昧に流れようとする実に愚かしさしかない反論を試みる。
時代が、状況が違うのだ。すべての人間の中の「仏性」「善性」のようなものに依拠したものであるガンディーの卓越した哲学、思想はその根幹を否定され失ったとき無力なのだ。世界はもう既に一度腐敗したシステムごとすべて滅びなければ後戻りできないところにまできているのだ。スピード、便利さ、快適さ、失うことを恐れること、損得の計算、倫理と世界全体や過去への畏敬感覚の麻痺。一度踏み外したもの、一度味を占めたものからは逃れられない。

…いや。
否。

こっちに流れきってはいけない。例えばさっき私が考えた善悪の共時性の必然が持つ可能性のこと。

…もっと違うところにあるような気もするのだ。それを見つけなければならない、彼の教えが一般に理解されるように単に欲望は悪として否定する、夢や欲や楽しさの生命力を権威で押さえこもうとする新たな抑圧の暴力としての道徳的理念であるとして把握するのではなく。

それはきっと違うのだ、その思想がイマココで生きることができる、もっと違ったアプローチがあるはずだ。歪んだ自己犠牲や美学なんかではなく。単純なロハスの思想だけではなく。もしも彼のその思想が近代を超克してゆく可能性をもつきわめて現代的なものでありうる、そうであるべきものならば、そしてあの時代あのとき歴史の中であんなにも感動的な実績をもつことができたとするならば、それは何故なのか、どうしてそれが今はダメだなどとおもうのか、背景と戦略とを知によって把握し現在と未来へと活かし照らしてゆくためには、なにか別の理論があるはずなのだ。

何故アレが実効性を持つ「力」として歴史の中で目に見えるものとなり得たのか。

歴史学者や文学者や政治学者や、それぞれがそれぞれの研究分野からの丁寧な資料を読み取ってゆく精緻な分析アプローチでそれを見極め、さらにはそれを統合することで生きた新しい未来というのは拓けてくるものなのではないか。過去をあれこれ言い立てる意味、研究する意味は、たとえそれが些末なことであるように見えても、一旦統合されたとき無意味なものは何一つなく、何かが見えてくる、すべてがその一部である世界のかたちが見えてくる、そのようなところにある。

それが結局はアカデミズムの役割なのではないか。
純粋な知の喜びはもちろんである。それぞれは他の力から守られ独立を守られ保護され、そのことによって、純粋な人間のこころが別種の論理の光の可能性を思いもよらぬところからもたらすことのできるところ。人間の小さな繊細な可能性のタマゴの声をまもる清くあるべき聖地。

だがタマゴはそのまま暖かな巣穴の中で権威の魔力という蒙昧によって濁り腐ってしまう傾向をも持っている。純粋な喜びから生まれうまく育った卵は上手にその外部へと孵らねばならない。十分に成熟したとき外部に向かってその純粋の領域から巣立たねばならない。そのピュアネスの根源の記憶を守っていられる時間がその一つの卵の命の寿命だ。そして限られた寿命は必ずある。

…やっぱりわからないよ。
だけどわかることは、楽しいことや喜びや個々の尊厳を否定するところからはより大きな災害しか生まれない。攻撃し合うところからは決して仲直りや良いものは生まれないってことだ。非暴力、ひたすら否定するという真理への戦略的思考について考える。

 *** ***

…ところでしかし。
この先生はどうもねえ、オルテガの時も思ったんだけど、ところどころ重要なところで、あれ、と上手にごまかしてしまうところがある、ような印象を受ける。それはまあ番組の構成上仕方がないことなのかな、とも思うんだけど。そりゃそうか。100分で偉大な思想お手軽にひとつ、っていう番組だもんね。

例えばさ、ガンディーの掲げた愛と赦しについて語るとき、他人の「自分と同じところ」「自分と違うところ」それぞれを「好きだな」と思うことがあるデショ、と。その矛盾の同時性を「愛」と呼ぶのだ、と。…そんな風にさらりと解釈してみせた。

否定はしないけど、いや軽すぎるでしょうそれ。ダイバーシティの問題。

あれえ、とかわされてしまった印象の所以は、そのとき上手にスルーしてしまったその間の闇の深さの問題。「己の理解できる信奉するものだけが唯一絶対の正義である、違うものは罪であり間違いであるから問答無用に排斥する、許さない、抹殺する、折伏する。」「自分の正義に不都合なものわからないもの無意味に見えるもの役に立たないものは存在しなくていい、抹殺していい、平等でなくていい。」この人間の衝動の黒さ、どうしようもなさの闇という巨大な問題から目をそらしてしまう。諸悪の根源であるその正義への所有欲、というような蒙昧について。

それは否定できない、しちゃいけないし、ただそれはどう認識し処理するか、という問題、そして寧ろ芸術や文学の分野にもかかってくる、っていうようにも思うんだけどね、徹底して追及するべきとこは。だけどとにかくしなくちゃいけないとこだ。ふさいではいけないとこだ。無理やりふさげば必ずもっと恐ろしい暴力や権力という力を帯びたかたちで噴出してくる。闇。蒙昧。


で、シメなんだけど。先生、ガンディーの思想はカントの「構成的理念と統整的理念」の概念に重なるものであると読み取っている。ウン、確かにとりあえずこれだな。とっかかれるとこは。

これは賢治が岩手とイーハトーヴォを、方言とエスペラントを、民俗と宗教と最新物理学や科学を平べったく等価に捉えようとして見せた姿勢と、構造として似ている、とも思う。今できる実現可能な、現実的な手立ての方法論のことと掲げて置くべき理念、完璧なイデア、理想の関係性ね。それは夢と現実、理想と現実、標榜する看板とそのための実質的なツールの関係性だといってよい。嘘も方便とか次善策とか永遠の微調整という具体のレヴェル。

番組もさすが優等生、上手にこっちの方向に落とし込んできれいに終わってくれた。一言でいうと、…よござんしたでございますです、ハイ。

実際重要なテーマはね、「徹底した赦し」なんだっていうことなんだよね。
本当は誰もがわかっているのにわかっていないような気がする、このシンプルで困難な真理に近いところにある感覚の、この不思議。ただこれに至るためにありとあらゆる勇気と智恵が必要なのかもしれない。シンプルな幸福。

 

番組制作に関するコラム。
番外編みたいな裏話みたいな。内なる敵について。

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/62_gandhi/motto.html

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いろいろわからなくなるととりあえず不貞寝にすると決めているネコ

(例えば)海の水雲と海の藻屑

私の母世代のご婦人というのは、(私の母をはじめとして、)得てしてあまり言葉にこだわらない人種が多い、ような気がしてならない。

単に私の周りの環境なんだろうけど。

物の名前にこだわらないというか通じることだけが大切で外側は些末なことであるというか。くだらないことだと思われているというか。

流行語や略語なんかも私なんかよりずっとよく知っていて非常によく使いこなすがその周辺や内実についての拘りがみじんも感じられない。まさにシニフィエに対しまったく透明な立場としてのシニフィアンのその恣意の前提の上に構築された世界にあでやかに生きておられる生活の確かさの不思議をしみじみと感じさせてくれる。

大学時代「言い間違いの科学」というような内容の言語学的な講義を受けたことがある。非常に興味深かった。言語の意味を人間のその言語中枢がどのように処理しているのかを、言い間違いの法則性を見出しカテゴライズしていくことによって分析してゆく講義。意味分野によるイメージのカテゴライズと音韻によるカテゴライズとか。細かいこと忘れちゃったけど。

「ドラッグストアでちょっと買い物して帰りたいのよ、このへんあったわよね、マツキヨとか。」「あそこまで行かなくても、駅の近くにできてるじゃない、ウエルカムとかココナツファインとか。」「そうね、あったわね、たしかウエルカム。」

こういうのって突っ込みたくて仕方ないんだがそれって野暮なんだろな。ウエルシアとココカラファインだよ…。

最近自分もいろいろどうでもよくなってきて人のこと言えないけどな。誤字脱字間違い物忘れ不注意すっころぶぶちまける。悲しいが仕方ない。もうなにもかも仕方がないのだ。

今日はきっぱりと雄々しく潔い梅雨入り。
紫陽花ばかりが慰め。

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上橋菜穂子「鹿の王」続編「水底の橋」

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読了。

で。

 

…うむ。

とりあえず、本編ほどのものすごさではないけどさすがに期待は裏切られなかった。流行りの医療ドラマのようなんだけど、なんというか、上質な韓国ドラマのような人間ドラマの織り成すこみいった精緻な物語構成上の感情を揺さぶるおもしろさと、知の快楽、真摯に現代の問題に向かい合おうとする社会への思想的アンガージュマン、知的アプローチへの行動を促すその快楽、双方を併せ持つ統合エンタテイメントなんである。(新刊帯の推薦コメント、メンバーがすごい。仲間作家とは別ジャンルの、萩尾望都養老孟司、そしてこのブログでも西田哲学の本のところで触れた生物学者福岡伸一この日の記事ね。)も「人は何故病むのか。そしていのちとは何か。人類最大の謎が解き明かされる。」とかなんとかいうものすごいコメントを寄せている。)

「なによりも大切にせねばならぬ人の命。
その命を守る治療ができぬよう、
政治という手が私を縛るのであれば、
私は政治と戦わねばなりません。」

医療行為によって人を助けたい、命を、魂を救いたい、その信念をもって心身の医療に当たる、しかしその信条の違いからくる団体同士の敵対。国家権力の絡んだその勢力闘争と純粋な個人の思いや理論が錯綜して物語を動かしてゆく。それぞれの正義と正義、その正義が互いに己の思想の正義を掲げながら議論を戦わせるシーンの知の快楽は、浅薄な物語の表層をなぞるありふれた凡百のTVドラマ的な正邪二者択一的なるものにとどまらず、あたかもカミュの「異邦人」を読んだときの神父やムルソーの議論を読んだときの知的な刺激にも似た深いところに繋がってゆく、次々と深められてゆく興奮を呼び起こす。そしてそれはイマココ、この現代社会への問題に対して知性の目を開くその意識に直結する。

*** ***

ざっくり色分けすると、主人公ホッサルの属するオタワルの医療は近代西洋医学の物質としての身体を扱うクリアな科学としての医学概念に重なり、それに一見敵対して見える、そしてホッサルにとってまどろっこしい無駄や迷妄や不合理に満ちているように見えていた古来の心身や個を超えた世界とのつながりも含めた哲学的な医学に繋がるのが、宗教的概念に深く結びついた、自然への畏敬に満ちたままの「清心教医術」である。いわゆる東洋的漢方医療の方に近い哲学、世界観、思想と一体化したかたちでの医学という考え方。これの対決が現場の人間ドラマと政治的問題や国家的陰謀と絡みついて物語は大層ダイナミックでおもしろい人間ドラマ、推理サスペンスドラマを展開してゆくんである。

 *** ***

いや~まずね、このひとの文章の魅力なんだけど、実に相変わらず細部にわたって事物の描写が濃やかで風景が艶やかに官能を刺激するんである。例えば何しろ丁寧に描かれる食べ物がいちいちおいしそうである。食べたくなる、登場人物とともにその感覚を共有したくなる丁寧に味わいたくなるその心のこもった世界に対する感謝と存在の喜び(そして苦しみ)の実感、それへの愛情に満ちたまなざし。そうして、その描写というリアルな体感に裏付けられた確かな基礎構造から繰り広げられて構築されてゆく観念的世界、骨太な物語、緻密且つ壮大で思想性と躍動感すべてに富んだ物語構造には舌を巻く。実に今までひとつもハズレがないと言っても過言ではない作品群、すべてシリーズの大河小説になっても不思議のない精緻な世界観、ものすごい壮大な物語の面白さなんである。

 *** ***

ここで考えたことを書きとめておきたい、という思いは熱いうちにやらねばならない。が、いかんせん図書館の本、締め切り前に慌てて読んで返してしまったので、思いはそのまま冷えてしまう。

なんでもそうだけど、書き留めなければなかったことになってしまうっていう感じは確かにあるんだなあ。永遠に失われてしまうということもある。日記を書く、モノを書く、という行為にその日を生きた証、確かに存在した証という意味がある、という命題はひとつの真理ではある。ひとつの。

(それはもちろん間違いでもあるのだけど)
(有と無の関係性については哲学も物理学も同じように悩んでいるのではないかねいとなんとなく思っている。どちらもとても透き通った考え方をする。シンプルを基本に純粋に考えるのだ。)

でも考えた、というこのことだけはとっかかりを残しておきたい。という意味での、だからこれはメモでなんであるよ。

 

…でね。

私はこのひとの作品は本当にすごいと思っている。デビュー当時から新刊出るたびに飛びついて読んでいた既に追っかけの類のファンである。

だが読むたびに。
そう、読了、パタンと本を閉じて顔を上げる。そして感動のタメイキをついて現実に戻ってこられない夢うつつの状態の己の中で、しかしいつも高らかに心のどこかから声が聞こえるのだ。「これは文学ではない。」

何故だろう。

そしてでは私にとってその「文学」とは何なのか?
考えていたんだけど、さっきちょっと千早茜を読んでいてとっかかりを思いついた。

どうして漱石や賢治や春樹や川上弘美を私は文学だと思うのか。(すいませんね日本文学専攻なもんでとりあえず視野が日本文学なんですが。)(もちろんあらゆる文芸には、どんなものにだって「文学性」は含まれているんだけど、それはまあ前提として。)(これはそしてもちろん個人としての嗜好、文学に対する「思い」という意味であり、「哲学とは何か」「世界とは何か」「真理とは何か」という命題と同様、そのあいまいな対象の永遠の謎に対する思索に留まるものであって、決して定義される汎用性に関して主張されるものではない。敢えて言えばそれはその真理をなぞる円環運動の中で中空の虚空としての虚無こそが真理という概念であるとして意義を発見し主張しようとするものである。考え続けることそのものに意味があるという主張である。)

キイ・ワードは「わからなさ」なのだ。
クリアにオチをつけられない、「わからなさ」の森を読者の心に棘のように刺したままでおく力を持つ作品。

…ということで、これはまあほとんどライフワークなので今日はここまでで力尽きておく。

 *** ***

とりあえずね、この希望の光に満ちた終わり方は読み終わって暖かい気持ちになる。読後感がいい。エンタテイメント映画や物語は実にハッピーエンドに限るのだ。うむ。世界よおめでたい花畑であれ。

吉田篤弘「月とコーヒー」をちまちまと読んでいるんだが。

吉田篤弘、もちろん悪くないんだけど、なんだろうな。
 
いまぺろっと比べるの無意味かもしれないけど、引き換えくらべて考えてしまうのだ。短編の情趣のタイプ分けというか違いというか個性というか。
 
つまり、川上弘美の卓越。彼女の作品は、言葉は、短編でもナンセンスでも、ううむ、なんというかいきなりどかんと違うのだ、ツボなのだ。川上弘美。ものすごい切ないのだ。笑いすらも切ない。淡々とした世界の不条理もナンセンスも残酷さも冷淡さも、すべてがその切ない情感に包み込まれている。何だろうあれは、と考えてしまう。
 
もちろん短編は切なさと情趣に、その味わいに優れたものが一般に得てして多いものであるような気もするんだけど、同じように切ないだの情趣だの言っても、なんだか全然ちがう、というところで、それはまあ個性と言ってしまえばそれまでなんだけど、個性を語るときにそれがそれで終わるものではなく、その先に「個性とは何か」に踏み込むべきものがある、理論化、構造化されうるものであると考えることができる、ということかそういうことで。
 
で、思ったのだ。
 
個を包み込む全体を、個が包んでいる眩暈の構造がそこには仕込まれているのではないか。そしてそれが、女性作家と男性作家の違いなのではないか、と。個と全体の超越のあらかじめ確立された、そのような世界の感覚、肌触り。アプリオリな超克の構造。
 
…これは今のところただの直観なんだけど。個と社会の関係性の、その構造が男性作家に多いものである断片的なディレッタンティズムや社会性、ダンディズムや倫理の美学とはまったく異なる、けれども確固たる存在感をもったある種の「構造」に必ず根差しているというところから、この切なさはやってくる。個性やアイデンティティの「枠組みの物語」をずぶずぶと越えてゆくそのあわいのところに。(これは作品からの検証は逐一可能である要素であると私は確信している。…この記事はだから備忘録としてのメモ。)「枠組みとしての物語」はそれはそれとして非常に優れて素晴らしく心に響く作品も多い、ということはもちろんであるよ。前提として。ただ、それは構造的に、すなわち質的に異なるものなのだ。)(月とコーヒー、読了したら実はかなりよかったんである。好きなものがいくつも。これはこれとして語りたくなるような。)
 
その構造とは男性作家(便宜的区分、「男性性」の要素の強い作家)の構築された堅牢性をもつ個性の存在を前提としたものとは質的に異なる柔らかなフレキシビリティを孕んだものとして在る。不思議なことに、女性作家の中でも稀有なこのタイプのラディカルな女性性(ラディカル・フェミニズムの系譜と言えるのではないかと思う。)を打ち出す作家は、本当に女性の中にしか見受けられない。逆に主流としての社会的枠組みの中での「人生の物語」(私がここでいう男性性の強い作家)を見事に描き出すリーガルフェミニズムの系譜に連なる優れた女性作家は数多く存在する。
 
川上弘美のそれは、ただそれはひたすらに瀰漫している。変幻自在に形を変え現前する、共通のマトリクスからやってくるもの。支配し閉じ込める性質を伴うその顕現する不器用な堅牢性構築物とは異なる、柔らかな法則、場面によって形を変える、他のいかなるものにもねじまげられることのないもの、大いなる法則に根差した、その野生の思考。
 
そこには怒りや悲憤慷慨、正義や倫理や人情の物語はない。あるのは、淡々とした「非人情(漱石)」の物語。それがあらゆる下位の現象を大きく包み込んでいる。酷く怖くてひんやりと残酷で、それなのに温かく優しい、生命のエロス、マトリックス、母なるものの深みと虚無を孕んだもの。
 
寒い。寝る。
ひとりの安らかな夜が嬉しい。
(今日は久しぶりに美しい夕暮れを見たのだ。)

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ゴボジン

新しい時代の新しい元号の発表された記念すべきエイプリルフール、今日この日に、何もこんなしょうもないことを書くこともないのだが、なんとなく。(元号発表に関してはあれこれ思いはあるのですが。令和。)

ゴボジン。

このくだらなさがどうしてか忘れられなくて一生モノの記憶になっているのだ。子供のころ読んだ実にナンセンスなエンタテイメントSFであったような記憶。

きんぴらごぼうが大好きなのに貧乏だから同時に人参と牛蒡を買うことができなくてあんまり食べられなかった天才博士が、その生涯をかけた発明品の話。牛蒡と人参をシマシマにしたキンピラゴボウのためのハイブリッド野菜ゴボジンを開発し、さらにはタイムマシンを発明して昔の自分に腹いっぱいキンピラゴボウを食べさせるのだという一生の夢を実現させようとする、そこでタイムパラドックスがおこってどうのこうの…というお話。

何十年も気になっていたこの品のないゴボジンというネーミングセンス。ちらっとツイッターでつぶやいたら、すぐにいろんな人が本のタイトルを教えてくれた。これはもう仕方がない。検索し、わざわざ図書館に取り寄せてもらって…読み直した。

横田順彌「脱線!たいむましん奇譚」

記憶の通り実に素晴らしくくだらない名作であった。

…いやあ、少々感動したんである。
このただならぬ饒舌、ダダ洩れの才能。

こんこんと湧き出る水の尽きぬ泉のようにひたすらあふれ流れでる言葉、深い教養を保証するゆたかな語彙。踊る言語、戯れる論理。それらはすべてこの上なくくだらないナンセンスのためにある。この素晴らしい教養と知性と才能が湯水のようにムダに消費されているという驚異の世界。ああ、くだらねえ~っと笑われるために消費される道化としての語彙。

…なんかねえ、昭和SF名作の黄金期、この独特の哀愁と反骨の美学を秘めたディレッタンティズム。例えば、けれども筒井康隆星新一小松左京、これら徹底した大家たちの裏面にこれまた位置するんではないか、この作者は。軽んじられたこのジャンル、なんだろ、北杜夫とかそのあたりと近似してるかなあ。すべてをナンセンスと冗談に還元してしまってみせる。さびしい暗鬱とどこか背中合わせ。

実はね、昔はともかく、今は嫌いじゃないかな、とも思うんだけど。いやらしさも低俗さも、どこかその「時代のお約束」におもねった高度経済成長時代のサラリーマンのイメージ、ドリフターズ的なおどけた哀愁ばかり感じさせるものだから、自家中毒を起こす饒舌の迷宮。小気味の良い言語の洪水。泡沫のように砕けて消えてゆく寂しさと優しい笑い。スラップスティックではあっても不思議にどこかにほのかな小さな幸福をあたためているような、けれども、けれども、という問いを消せない。毒や痙攣すらないひたすらの自虐ではあるけれど。それは鋭い知性がひたすら自家中毒をおこしてゆく風景のようにも見えて。

時代の匂い、そのノスタルジーへの思い入れなのかなア。

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