酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

いだてん

いだてん

NHK日曜夜八時の大河ドラマ
基本的に自分は普段この枠のドラマを見る人間ではない。

「面白いよ。」
などと勧められても最初の一回も観きれず挫折してしまう。基本的に長時間視聴の忍耐力がないんである。

だもんでこれも何だか周りで評判だったからとりあえず、とダメモトで観始めたら、アラ。
…おもしろいではないか、自分史上小学生の時以来(大河ドラマ愛好者の母を持つ小学生の運命の成り行きである。)のまさかの自発的大河ドラマ視聴。

で、やっぱ異色らしい。
で、視聴率がものすごい低迷っぷりらしい。
で、さまざまの人がいだてん視聴率記事に関して賛否両論いろいろコメントしているので、あれこれ考えていた。いだてん。

まあとにかくいわゆる正統派のこの枠のドラマパターンから逸脱した破格のドラマである、ということで、いいも悪いもとりあえずは「なんじゃこりゃ。」とまずはびっくりする異色の趣向のものであったんである。

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とうことで、先日録画していた第一部終了編を今観たところである。関東大震災という惨劇、そしてその後。

これは復興への道筋をたどろうとする人々を描く未来への不屈の希望と躍動を描く回だ。ある日突然断ち切られた日々の暮らし。理不尽に失われた命、街、生活。それぞれの個々のドラマ。そしてそれでもなおそれぞれの命を生き続けなければならぬ、そこからの未来、その復興のことを。

…素晴らしかった。

巧い。感服した。楽しかった。感動的だった。

で、ここで大切な要素として「笑い」がぐいとクローズアップされるんである。楽しさ、笑い、分かち合い、生命力、希望。もちろん本筋のスポーツ、という路線は外さないままに。

笑いって、さまざまなその他のすべての辛さ悲しさやるせなさどうしようもなさ、すべてを超えようとするような、こういうもののためにあるのだった。元気って生命力って、理不尽やそれに打ち砕かれたものがみな丸裸のところからとっくみあって助け合って思いやり合って新しい未来の夢にむかって立ち上がってゆこうとする、こういうところからやってくるものなのであった。共同体を構成するにあたっての基礎となるもの、助け合うことへのまっすぐな善意ってかっこよさって潔さってこういうものであるのだった。(今観終えたばかりなので言葉が熱いままなようだな自分。)

…おもしろかったんである。
当初違和感を感じた、本筋マラソンパートとはかかわりのないように思えた「落語」の要素、脚本家宮藤官九郎がこのビートたけし森山未來が演じる「落語」パートを語りと物語の層双方に絡ませた理由はこの「笑い」と「語り」と「芸」「伝統」「物語」の融合芸術である落語というジャンルの特質を持ち込みたかったからなのだとしみじみ納得する、そんな第一部完結大団円であった。

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例えば昭和三十年代において更なる大過去を語る者である古今亭志ん生ビートたけし)が、まだ若かりし落語家のタマゴだったときの己を語るときの、本当にロクデナシだった時代を見事に演ずる森山未來の、あの徹底した「どうしようもなさ」のこと。一線を超えて踏み外したようにように見えるあのだらしのなさ、どうしようもなさ。

…唐突なようだが、漱石の「こころ」を思い出したのだよ私はここで。Kが自殺したときのあの先生の人生の決定的な瞬間のことを、その未来永劫すべてを一瞬にして真っ黒な闇に染め上げたあのシーンの絶望の意味のことを。

あれを救うナニカがあのいだてんの展開にはひとすじ、示されているのではないか、なんてね。 或いはそれはガンジーの追い求めた、世界を変革するものである「徹底した愛と赦し」にさえも通じているのだ。

だからつまり、一瞬の過ちが一人の人間のすべてを奪うスタイルを持つ倫理の怖ろしさについて考えたのだ。或いはそのようなスタイルをもった息苦しさの中にある現代社会の姿のことを。

実はものすごいことなのではないか、あの展開は。彼が社会的に生きる価値はない人間、と決めつけられてもおかしくないはずなのに、なんだか周りににんげんからゆるやかに赦され愛されちゃう人間のナマの最低の「そのまま」が芸の世界で昇華されてゆくロクデナシの物語と、さらにその彼が語る笑い飛ばす己や世の中すべて、…というその「語り」の意味。やるせなさと理不尽と怒りを通り越し、あきれたあまりあきらめたように最後には笑ってしまう、この乾いた、けれど優しい、どこか突き抜けた、不思議な笑いのその構造。それは、この第一部最後の、関東大震災というカタストロフのその悲しみも怒りも切なさもすべて飲み込んでなお乗り越えてゆこうとする、おおらかな生命力としての人々の寄り添い合ったところにうまれる労わり合いと笑い飛ばしの昇華の力となってゆく。

これが復興の深みとすごみと軽やかさ「笑い」の力へと集約されてゆくところで森山扮する若きロクデナシ落語家のある種の目覚めの躍動とともに顕現していることに私は感動したのだと思う。己の物語を語りながら笑い飛ばしてゆくという、物語を創造する力、己を物語化することによって獲得される、外側の視線、観客、メタの視線の二重構造、主体と客体の同時性。世界への参加とそこから解放されている魂の獲得という矛盾の止揚。その「芸術・或いは芸」の力による、おおらかな笑いという力による、生命の底力、日常を生きる大衆(吉本隆明の方の大衆ね。決してオルテガではなく。)の力。

これはひょっとしてものすごく革命的にその澱んで滞った社会のどん詰まりの中で形骸化、固定化した倫理の不寛容の怖ろしさを暴き否定し、それを寛容、赦しとしての方向性として示す大きな破壊的な力をもつものが潜んでいる可能性なのではないか。

…なんだかゆるしちゃうのだ、という論理のない根拠のない「前提としての」徹底した赦し、「前提としての」親愛の情、存在の価値。家族の基本のような、愛の基本のような。存在の基本、のような。

その日常回帰への方向修正が、ドライな笑いというこのクドカン独自の手法によって。若き日のこの己の危うさが老いて安定した家族の中の笑いの中で語られるビートたけしの語りの「ヒューモアとペーソス」この愛嬌のような可笑しみの中に包まれてゆく安心感。「もう、…ホントあんたってしかたないなア。」っていうテゲテゲのナアナアの赦しの中に徹底して許されてゆくことによって、踏み外さないですむ、ということもある。

不幸と絶望による自暴自棄が、見捨てられた孤独と絶望が、その個人ももちろんだが、他者をも巻き込むより大きな不幸と絶望をもまき散らす。その不寛容が、正義ヅラして責め立てる部外者の裁きが、これまで巻き起こしてきた犯罪的なるもの、恐ろしく悲しい出来事のことを私は考える。

例えばこないだの、川崎でのあのものすごい惨劇。朝の登校児童たちを襲った無差別殺人。犯人もその場で自殺した。まっくろな絶望はしかし存在の虚無感そのものからくるものではなく、歪んだかたち、追い詰められた痛み、こんな風になりたくなかった、こんな風な仕打ちをされたくなかった、わからない、本当はまだ生きていたかった、という思いをどこかに感じさせるような、そのためにひとりで死ぬことができなかったさびしがりやの救いのない拡大自殺である。

関連ニュースコラムここにリンクしときます。

池袋の引きこもり暴力息子を殺したエラい人の家庭の悲劇も同根である。世間の、多数派、正義感という名を持った無記名の、枠から外れようとした少数派に対する賤しいイジメに似た暴力に転化しうる危険な「善意」の仮面。

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さて、ということで全体構造の凝りっぷりについて。

一見本筋と無関係な昭和30年代のビートたけしの語る、己の若いころ、そしてそれと同時進行していた金栗四三のエピソード、という奇妙なかたちをとったこの二つの小箱の入った入れ子型物語の語りから、その二重(落語パート&金栗周り体育関係パート)×東京オリンピック前昭和パートの同じ二重構造(ビートたけしの語り空間と同時代の東京オリンピックにむかう昭和三十年代)(第二部への架け橋になっていると思われる。)、というドラマの時空構成のわかりにくさが不評となっているというのだが、まあそれはそうだろう。

語り手がまたビートたけしだったり、奇妙な彼の飛込み弟子(金栗と奇妙な縁を持つ)にバトンタッチされたり、落語の中の語りなのかただ思い出して人に話している日常のなかの語りなのかの区別も判然としなくなってゆく状況、さらには突然森山が落語調で語り出したり、ドラマの地の語り手が出てきたり、入子型物語そのものの語りの迷宮が構築されている。視聴者はめくるめくように変化する世界から世界へと翻弄される。

…だがむしろそれは戦略的なものであり、このドラマの構成は、それを飛び出してその物語の力を2020のオリンピックを控えた「イマココの視聴者」の現実にターゲットを当てたものとするベクトルをもった多角的で知的な構成であるのだと私は思う。ものすごく観る人を選ぶけど。決してそれは視聴者に媚びない。

あまちゃん」もそうなのだが、このひとのドラマの作り方の独自性は(イヤワシこの二つしか知らんのですがとりあえずこの二作に関して言えば。)おそらくここに突出した才能の特徴がある。物語が現実の「イマココ」の視聴者へと他人事の対岸の火事の物語ではなく直接襲いかかってくるような。

まず、この時系列、語りの重層の仕掛け。この構造は、…っとあまちゃんの方をがっぷり言及しようとしてハタと力尽きた。

…とりあえず、「いだてん」第二部が始まる。また違ったびっくり箱な趣向が用意されているのを楽しみにしておこう。

 

ただ、とりあえず共通していると思われる、テーマとして掲げられている「種まく人」。という命題について。

金メダルをとったひとりのヒーローの物語ではなく、人々が皆で盛り上がり発展してゆく土台を作っていった人々の物語、バトンの渡されていった手から手へ、のその手の持つたくさんの物語を迷宮に絡めとってゆくこのドラマはやはり革新的に楽しいものである、ような気がしている。