酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

猫と中央線

犬は人に付き、猫は場所に付くという。とすれば、私は完全に猫派である。

大体犬は苦手でなんである。子供の頃野犬集団に追いかけられたトラウマのせいかもしれぬ。
だが、家族親族、私以外は皆犬が好きらしい。犬派であるらしい。子供にはほぼ無関心な父でさえ、姉んちの愛らしいヨークシャーテリアは猫かわいがりする。(犬だが。)無垢でいちずで人間を愛する文化に取り込まれた狼の末裔、忠実な犬。

私だけきっとどこか徹底的に何かが欠けている。どっかの木の股からたまたま生まれた異形のモノなのではないかと、子供の頃から思っていた。実際、高校の頃など、よく座敷童とか自転車のかごにはいってるネコのようだとか青い血が流れてるでしょとかよくわからない評価を受けていた。

気がつくと教室の隅っこにただひっそりと存在している異界の生物な感じなのかね、思うに。(ひょっとしてさ、「ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフモノニ…」の理想形ではないか、これってもしや。)(そうして私は心の底からそれを望んでいたし望み続けている。)(いや褒められたいのは褒められたいけど。)(毀誉褒貶は全部セットだからな、疲れちゃうんだよ。)(「井戸のつるべじゃあるめえし、上げたり下げたりしてもらうめえぜえ。」)(…やっぱりちょっと寂しいかな。)

で、場所、ということ。
トポス。すでに単なる空間という概念を越え、時空の概念を完全に統合した世界構造に対する空間的アプローチを意味する言葉である。それ自体が構造として全体性と意味をもったところ。

ということで、個人的な場所への思いをトポスとして考えてみる。
個人的な思い出が増えるたびにその人も場所も、心の中に現象した風景として写し込まれ、その時だけの(永遠の現在の一枚として、インデックスとして取り込まれる。これは「標本」だ。存在を証明するための標本のカタログが人生の記録として増えてゆく。標本とは、知識であり、またそれは存在という内実、その実在へ至るための道標である。

昔から思っていた。例えば人を好きになることは、その人ではなく、自分がその人といる風景まるごとを愛することなのではないかということを。あくまでも、対象はそのひと自身、単体、アイデンティティを指すのではない、その風景を指すものである。己と対象とを含んだ風景という現象を、そのひとつの世界を「そのひと」として愛するのだ。

つまり、私はおそらく、ひとりの人間の個性というものを、その絶対的なアイデンティティとしては信じていない。それは自分のそれを信じていないからである。現象として、関係性として、或いは夢見られた物語として、それらすべてを統合したトポス、意味に満ちた場所として、そこからくる幸福感と意味と物語を、愛する。だからこそ人を愛することは、自分を愛することであり、世界を愛することなのだ、きっと。

よくね、恋をすると世界のすべてが輝いて見えるとかいうやつ。これもそのひとつの解釈としての表現なんじゃないかと思うよオレ。喜びや切なさや痛みや、とにかく、エナジイに満ちたところ、それが発生するところ。あらゆる意味と物語を発生させる力の、世界のアルケーとしての場所。

喜びや痛みや、そのような情動に満たされたエナジイにみちたその空間は、永遠につながる一瞬の切り込み、神話的時空に繋がるところ、あるいはそれは、アボリジニたちの言う「ドリーム・タイム」なのだ。神話的空間…だからこれがアレなんだよ、西田のその「永遠の現在」の構造。意味に満たされた完全な世界。

なんでこのことを思い出したかっていうとだな…えっとだな、中央線沿線が私のひとつのメインを成す故郷なんだけど。…つまりだな、私は幸せだったのだ。美しく晴れた11月、晩秋の明るい光に満たされた懐かしい日曜日の中央線に揺られていたとき、その場所だけに開かれた時空に包まれたとき。とても自由だった。過去の中で自由だった。

思い出したのだ、街の風景の中に沁み込んだいろんな人との思い出の重層が現在に重なってよみがえってくるような、その感覚とともに生きていた。生きてきたよかったと思い、その現在を今の目の前の人々の人生すべての豊かさに重ねて、世界は現在過去未来すべてを含んで光に満ちて豊かであった。永遠の現在。

 

猫ってみんなこんな風に場所に思いをもってるのかなあ、ひょっとして。

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