酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

安房直子、金子みすゞ

金子みすゞの詩を読んでいて、その寂しい優しさになだめられた。
この感じは、安房直子さんの効き目に少し似たところがある。

なんだろう。

ひやりとするような怖さも似ている。
優しさは寂しさと同一であり、あきらめと受容と同一である。

だがこれは救済なのだ。唯一の。
むごい不条理もすべてを受け入れあきらめ、すべてのかなしみにただ寄り添う。

それなのに、そのとき、不条理をも含め、世界まるごとそのままのうつくしさをうつくしさとして賛美することができる。

それは、論理だ。非人情ということ。
私はそう思う。或いは、法(ダルマ)。その非人情(漱石が「草枕」で言ってたやつね、確か。)のうつくしさを人情とのあわいにうまれる寂しいあきらめに似た深い深い優しさでくるみ込む言の葉の技術。

あくまでも、それは「外側」にある。システム化された人情の外側の非人情。それは社会的なるもの、制度、物語の内側にあるものとしての倫理や義理人情として流される「情」を離れた、その外側にあるもの、歪みも憎悪も入る余地のない、冷徹で何もかもそぎ落とされた骨組みとしての論理、ただただ、論理である。宇宙の成り立ち、世界のなりたち、現象、電脳のような、「ただそれだけ」のもの。

非常に女性的だ、と思う。
母性というのではない。ただ深く女性的なるものなのだ。或いは、アンチ・ファルス。

更に言えば、ファルスとしてのアイデンティティ、個の概念を離れるために、それは個からの解放であると同時に、個としての死に直結した論理である。怖さや寂しさはそこに由来する。だがそれは、個を「否定する」というのとは違うのだ。ただその外側も内側も、なにもかも等しく肯定する大きな法、論理である。

ここで、個的な特別な思い入れというアンバランスは非人情としては「否定される(はずのものである)が、理解される」。

純然たる論理学や哲学というよりは、言の葉の柔らかさによりそったあいまいな文学という分野の面目躍如たる場面である。救済、甘やかで切ない優しさはそこに由来する。個は、限りなくその存在を肯定されている。失うことをも含めて、それは失われない。(矛盾しているようだが。一度存在したものは永遠にその存在を失うことはない、過去が損なわれることは決してない、「なかったこと」というのはありえない、という論理のもとに。)

一つのアイデンティティとしての、キャラクタライジングされた既成の個の概念からの解放とは、ファルスからの解放とは、つまりは物語の登場人物であることからの解放である。それは読者の超越視線を持つことを意味するものだ。物語の存在とその中の登場人物であることを認め(存在を肯定する)、その上でまたそれを客観視する解放された超越者の視点を持つ構造を創造する手段。コミットしながら解放されている。物語行為(読み書き双方。書くことは世界を読むことであり、また読むことは世界を書き出だすことである。)が、そして芸術一般が、宗教と同様に救済の手立てであることの理由はこの世界構造の発見、その次元をくりあげて己の存在する世界構造をも(虚構)物語内部にあるものと同様であることを見出すような実感、寧ろその体感のような認識と感覚に由来する。

…苦しさが、ほんのりと優しくなだめられる、切なさと寂しさが救済と同義であるという構造は、しかしやはり不思議だ。大きな構造をとらえてみるとき、ホントはそれは全然不思議ではないんだけど。

やっぱり人間は、不思議なのだと思う。

 

安房直子さんの代表作ともいわれる(教科書に使われて知名度が高いってことなんだけど)「きつねの窓」という非常にうつくしい短編がある。

こないだ、いろいろの話のついでにぽろっとこの作者の話を思いだして、どうしても読んでもらいたくなって、会話の相手に、この一冊を差し上げた。気に入っていただけたようで私は嬉しかったんだが、(絶対気に入っていただけると思って差し上げたのだ。)ついでに自分も久しぶりに読み返して、やはり幾度でも新鮮に心に沁みるこの喪失のかなしみにみちた救いのない救済の響きを聴いた。聖書の言葉のようにして聴いた。僥倖であった。これもコーランに書いてあったんだろう。(運命である、という意味である。)

青のいろの使いかた。「なめとこ山のくま」的な、狩るもの狩られるもの、自然と動物との関係性、経済社会と個的な世界の価値関係の反転。(「代償」の意味の決定的な変換が仕込まれている。)流れる日々、日常の中に埋め込まれたイデア、喪失と救済のための、何人にも侵されることのない自分だけの「御大切」。永遠の過去の場所。

たくさんのテーマを、安房直子作品にさまざまに展開されるそれらをまたひとつひとつ掘り出して磨き上げて抱きしめ、またそっと心の奥に埋めなおす。そんな風にして、書きたい。誰も書いてないことを書いて残したい。

読み返すごとに、新しくよみがえる。言葉を咀嚼し磨き直し自分の中に現在させまたそっとしまいこむ。この行為は、読書の現場を重ねてゆく行為である。作品が都度新しく自分を重ねた形に昇華され消化されてゆくプロセスである。読み返し或いは思い出すごとに。

ちょっとね、そう思ったんだな。野望だな。もう少しだけ生きてくための。


「物語は、作品は、作者と読者とテクストの三位一体となって、三者のその境目は失われてゆくものとなるためにナラトロジックな構造をもっているのだ。どんどんと自分と一体化してゆく。自分は解放され自分にすべては取り込まれる。内側からも外側からも解放される大切な場所を持つことができる。」

この構造を証明するためのね。