酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「ナラトロジー入門」 橋本 陽介

プロップからジュネットまで、という副題につられて読んでみた。
 
入門書としてきれいに鳥瞰されているのでよかった。大体、専門的な各論を読むよりも寧ろ、すっきりと大まかな概念を理解するにはこういうのがいい。
 
大学時代、ジュネットとかバルトとかヒジョーにわかりにくい訳文を一生懸命読んだけど、とっても興味深かった箇所の記憶はあるんだけど、結局なんかほとんど忘れてしまっている。かなしい。大昔だから仕方ないんだけど。大学時代もっとこの周辺がっちり身に着けておくべきであった。骨身に染みるまで。(いや少しはしみたとこ残ってるけど。ほんとにほんのシミ程度しかない。)

ナラトロジー。
 
「奈良トロジー」でも「奈良と露地ー」でもない。(iPhoneで打ち込んだらこう変換されてびっくりした。奈良の露地を研究する学問か。)物語論である。物語分析の理論。ナラシオン、語りの理論。フランスで発展したからナレーションじゃなくてナラシオンなんだよね。当然、用語もフランス語になる。イストワールとかレシとかシニフィエとかシニフィアンとか。(ソシュール以降の言語学と密接にかかわりながら発展してきたんである。)なんかいかにも専門ぽくて英語よりかっこいいぞ、お仏蘭西
 
…なんなんだろうね。英語だとイギリスとかアメリカの、なんというか何かを切り落としながらとことん目に見える合理的なとこばっかりゴリゴリ打ち出した直線的な骨組みの近代合理主義な理論を感じるんだけど、お仏蘭西は違う。もっと非常にムダに詩的な美学を重視したところにある別の次元の隙間を感じさせるようなしなやかさ、生命を孕んだ全体的な「合理」を目指すジャンルのイメージ。
 
レヴィ・ストロースとかのイメージなんだな、これは。記号は単なる記号であることを踏まえ、その意味を剥奪したまま認識理解し、その可塑性をもつ論理を都度生き生きと構築する読者サイドの能動性を視野に入れたしなやかな思考法。「野生の思考」ね。これ。
 
大体だな、菓子の名前も好きだしな。フランス菓子の名前、オレわかるぞ、大体。菓子用語に限ってなら。言われたらどんな菓子かどんな技法だかわかる。菓子は楽しい。どうでもいいけど「シニフィアンシニフィエ」っていうイカサマな名前の有名なパン屋もあるそうな。店名に惹かれて行ってしまいそうになるではないか。(そして本当に大層うまいパンを売っているらしい。)
 
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物語論
それは、文学批評としては比較的新しい、20世紀に生まれた新批評と言われるジャンルに属する文学批評のための理論である。旧来の共通の指針を持たない感想文的な批評とは一線を画する。
 
旧来のものとは、印象的、感情的、作家還元型(ここで作品はあくまでも生身の作者に由来する。社会的背景や書かれている内容が研究対象)ばかりの「何が書かれているか」という個別の作品の「内容」の「解釈」であった。だがこれはひとまずそこから離れ、それが「どう書かれているか」というあらゆる物語の共通の枠組みそれ自体のメカニズムに焦点を当てたジャンルの理論である。作品、テクストそれ自体をのみ素材にする。構造分析である。
 
当然、言語学と密接に関わり合い、さらには「物語」が語られる、というスタイル、その言語伝達というコミュニケーションの場としての構造にも注目したために、読者という要素が作者と同等の重要性をもって立ち現れてくるものとなっている。
 
あらかじめの「事実」があって、言葉が透明にそれを映しとるのではない。さまざまに加工された誰かの言葉による恣意の物語行為によってその「事実」をあらしめているのだ、という考え方である。
 
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ソシュール以前、19世紀から20世紀初頭にかけての言語学は、論理学と軌を一にしていたという。つまり、先だって真実があり、言葉はそれを写しとっていくものだという考え方である。言葉は対象にラベルを張り付け名付けるものとしてある。従って、ここではある語の「意味」とは、指示対象そのもののことであるとされた。
 
ソシュールはそのような「言語に先立つ実質の存在」を否定し、人間が言語によって世界を「分けている」のだという考えを打ち出した。(これってなんだか聖書の解釈の問題に立ち返ってておもしろいよね。新約聖書の有名な「はじめに言葉(ロゴス)ありき。」で世界が定義されてるやつな。)
 
彼によれば、言語による差異によって世界は分けられている。(カオスではなくコスモスとなる。認識可能なものとなる。)で、さらに、それは恣意としての「記号」である、と。シニフィアン(意味するもの)、シニフィエ(意味されるもの)の恣意による結合が言語である、という定義である。そう、それはただの「約束事」なのだ。
 
ということで、ナラトロジーにこれをあてはめれば、言語形式がシニフィアン、物語内容がシニフィエということになる。

記号論的な文学理論では、ある内容(シニフィエ)をどう表すか(形式、シニフィアン)の関係が問題とされる。」(p59)
 
また、さらにソシュール言語学で重要なことは、「語は体系を成す」、つまり、ある語は他の語との関係性によって意味を成すものである、という指摘がなされているところである。この指摘は構造主義の先駆けとして、後続の構造主義者たちに受け継がれて発展してゆくものとなる。
 
私たちが言葉に共通の意味を認識し意志を伝達しあっているのは、その語の属する意味体形構造が真理だからではなく、ただ習慣として無意識にその意味体系のネットワークの中で世界を認識しているからだという指摘である。これを可視化することによってはじめてメタ認知されたその構造が客観的に分析しうる対象となるのだ。
 
これはナラトロジーの考え方にぴたりと当てはまる。
シニフィアン、意味するもの」としてのテクスト、言説(レシ)のみに焦点を当てたとき、ここで「シニフィエ、意味されるもの」とはなにか、そしてその「語りの現場」において、作者とは、読者とはどのような関係性をもった構造を成しうるのか、何を意味するものとなりうるのか?という、物語構造からくるテーマが浮かび上がってくる。物語言説の構造を分析し明示された体系として浮かび上がらせる。これはナラトロジーの主要テーマといっていいだろう。
 
個別の作品の内容をさらに個別の価値観やフィーリングに引き付けた解釈・批評ではなく、物語一般の、その根本のメカニズムを分析する手法、寧ろこれは文学とは何か、という命題を根源的に解明していこうとする、テクニカルな構造分析のための科学である。(だがここでこの筆者は、日本におけるジュネットの受容が、小説解釈のための技法のみに限られ、その文学理論としての根源的な問題意識、その思想が抜け落ちていることを嘆いている。)
 
この性質上、ナラトロジーは必然的に二十世紀に流行した形式主義ロシア・フォルマリズム)やその後フランスで流行した構造主義と密接に関わりをもちながら発展してきた系譜をもつ。

なお、この本の序章では、プレ・ナラトロジーとしてアリストテレスの「詩学」という書物が紹介されている。「詩学」は詩を扱うというよりはむしろ物語分析のセオリーに近い分析法を示したものだったらしい。マルチ・プレイヤー、アリストテレス。この本を読んで初めて知った。
 
そこでは「悲劇」を論ずるにあたって、「悲劇」の特徴を「筋・特徴・語法・思想・思想・視覚的特徴・歌曲」の六要素から分析されているという。悲劇の設計図の分析である。つまり、悲劇を見て観客が感情移入し、悲しみを感ずるのは登場人物への感情移入等の「内容解釈」からくるが、この悲しみを感ずるのはなぜか、という普遍的なメカニズムを分析するのが「詩学」の方法なのだという。
 
個々の作品を「解釈」するレヴェルだけではなく、その解釈の手法そのものに焦点をあてた分析の理論、まさにナラトロジーの原型である。
 
とにかくね、わかりやすい平たい例を挙げてあるからいいんだな、この本。だって第一部、導入部はまず「水戸黄門」の例示である。…ということで、ここでまずナラトロジーの原型は、結局あの「お約束」的な物語の原型、パターンを分析研究するってことなんだっていうわかりやすい大元のイメージができるというワケだ。原型があり、法則があり、そしてその数限りないヴァリエーションが発展展開する。
 
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ロシア・フォルマリズムの旗手プロップが、ロシアの民話、魔法物語を素材にしてパターン化し分析してみせた「昔話の形態学」では、民話(魔法物語)のパターンをすべて31の「機能」に分析されうるものとした。すべての魔法物語はそのお約束のバリエーションに分類されるのである。それは
 
機能1(家族の成員の一人が留守にする。)(留守)
機能2(主人公に禁を課す)(禁忌)
機能3(禁が破られる)(違反)
 
…というようにお約束のパターンが展開して31のプロセスを経て大団円に至る、という構造を示したものだ。
 
この基本的なロシア・フォルマリズム「物語の形態学」をもとにして、民話に限らない文学一般の、より高度に複雑化してゆく過程をRPGのように分岐した構造として分析していったのが後続のプレモンやロラン・バルトであり、それはソシュール等の言語学から出現した当時の仏蘭西構造主義と融合したものとなっていった。
 
バルトやジュネットらはまた物語行為を語り手と読み手のコミュニケーションとして考える視点を導入した。これはジュネット「物語のディスクール」に至って、
 
「語り手」が「語る」という物語行為によって「物語言説(レシ)(シニフィアンにあたる)」が生まれ、その物語言説はある「物語内容(イストワール)(シニフィエにあたる)」を示している。
 
という図式の定義として整理されるものとなる。
ここで大切なのは、ナラトロジーでは、生身の現実の「作者」とこの「語り手」を分けて考えることが重要とされているというところだ。作者とはテクストの外側にいる存在であるが、語り手はテクストの内部存在である。
 
この辺りはごちゃごちゃになりそうなとこで、自伝的小説の場合、伝統的解釈では作者と語り手が一致するとされがちだが、ナラトロジーでは物語内での一人称による作者は限りなく生身の作者に近くあっても、あくまでもそれとは異なる架空の「語り手」であるとされる。
 
まあ考えてみれば自伝と称して、巧みなフィクションだって嘘だって盛り込めるんだから当然だよな。(みんながやってる日記やブログだって何だかんだ、多かれ少なかれ、どっかで絶対虚構要素の盛られた物語なんだよね。自覚無自覚は別として。)で、例えば漱石の「猫」だってその語り手猫の視点に仮託されたのは作者漱石の思考法であり、客観化された自画像「苦沙弥先生」をパロって笑いを生んでみせる、ある意味ねじれて倒錯した手法をとっている。なにしろ語り手とは、ひとまずすべて作者とは切り離されたすべてテクスト内にだけ存在する純粋に架空の「視点存在」なのだ。
 
このあたりこっから先は、作者、語り手、内包された作者、とかなんとかいろいろ考え方があって複雑で、学者同士のかんかんがくがくの議論から浮かび上がってくるこれら語り手や読者の定義の概念はものすごく抽象的になりがちで難しい。
 
けど、いろんな作品にあてはめて彼らの考えていた作者や読者、作品の中に仕組まれた構造の事を分析し考えてゆくと、その作品からさまざまな「読み」の可能性が豊かに開かれてゆく、文学というジャンルの構造からくる世界の深みが、言葉の多義のおもしろさが豊かに感じられるようになってくる。
 
で、思うんだけど。
 
文学とは、物語とは、言葉によって構築される出来事と意味である、とするならば。

言葉を持つ人間によって成り立ってるこの私たちの認識している世界そのものもまた一つの大きな「読まれるべきもの」として考えることができるんじゃないかな。で、それは、「さまざまなエクリチュールが異議を唱え合う(ロラン・バルト)。」場としての一冊の巨大な本。それは、多種多様な意味の包含。矛盾、可能性、正解の不在を孕んだものとしての、「世界」という「複合機能体系」。
 
賢治が「ひかりの素足」で死後の理想の世界を描いたとき、神さま(的な超越的人物。ひかるすあしをもったひと)が死にゆく子供らに、天国の図書館のことを語るシーンがある。
 
「本はこゝにはいくらでもある。一冊の本の中に小さな本がたくさんはひってゐるやうなものもある。小さな小さな形の本にあらゆる本のみな入ってゐるやうな本もある、お前たちはよく読むがいゝ。」
 
これは世界の構造を示した仏教の「インドラの網」構造を図書館の本に託して語ったものとして考えられる。一冊の本とは、ひとつの世界なのだ。無限に連なり関係しあい響きあう、世界の構造。わたくしという現象を規定する有機交流電燈のネットワーク。
 
(ここで、わたくしもまた一冊の本、無限を孕んだ一つの世界そのものである。)
 
(『華厳経』に説かれる「インドラ網」とは、インドラ(帝釈天)の宮殿にかかる網のことで、網の結び目にそれぞれに宝珠がついていて、その一つひとつが他の一切の宝珠を映し出す構造をもっている。一つの宝珠に宇宙のすべてが収まるというダイナミックな生命観を示しているとされる。)
 
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蛇足。
 
大体論文ってのははそういうもんだと思ってるんだけど、この中でも「序」、そして第一章「物語の構造とは」、二章「ナラトロジー誕生までの理論的背景」、そしてせいぜいが第三章の「作者と語り手」までで、その要旨、エッセンスがすべて述べられている。
 
後はジュネット説の解説(+筆者独自の「言語の違い、文法の違いによるオリジナリティ、翻訳の問題等(日本語だのフランス語だのによる概念の変化)」)の各論である。
 
で、前半を理解するためだけにめんどくさい各論に取り組むもんなので、この「序」の流れと概念がざっとつかめれば、自分で分析法編みだすとか研究するとかそういうんじゃなきゃ、まあいいんではないかと思う。
 
各論の精密さは一見精密なようで、実は精密ではない。ただ精密さを求めて、例外、例外による分岐、さらなる分類、と限りない泥沼にはまり込む構造になってゆくのだ。究極行きつくのは曖昧さであるという結論は見えている。(それでも分析というのはそういうものだ。花と花束の喩えが言われているが、要素と全体の関係、数限りない花々から成った全体としての花束の、その一つひとつの花を分析してゆくことと花束全体との関係、それはゲシュタルト心理学の要素プラスαという構造の概念と近似しているものであるように思う。)その中でおおまかな流れをイメージできれば上等。…大体言葉を扱う難解さとはその多義性による曖昧さに由来するものであって、そもそもがすっきりポンと分析されるものではない。
 
ナラトロジーの存在意義とは、その、共通の約束事や要素の分析からはみ出てゆく個別性、どうしても分析しつくせない唯一無二の「+α」の部分にどこまで近づくことができるか、というための手法であることに尽きる、と私は思う。分析理論は分析理論であり、これはただのマニュアルだ。ツールなのだ。この武器によって物語に仕組まれたさまざまの構造とその可能性に気付くことができるようになる。
 
このツールを使って個別の作品を分析しようとするとき、その構造の中にあってその構造を利用して構築される世界、それは、あるいはそこからはみ出てゆく矛盾に似た思い、過剰を含有するものである。芸術の衝動が、基礎技術と、そこからはみ出るようにして過剰に花開いてゆく天才的な個性の関係の相克やダイナミクスのなかに存するのであれば、どこまで冷徹で客観的に共有される分析が成り立ち、どこからジャンプがなされうるものとなっているのかを見極めること。そこに鑑賞の醍醐味がある。
 
…んじゃないかな。文学理論や批評の存在する意味っていうのはさ。