酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

名前ということ(吉田篤弘「あること、ないこと」・立原道造「さふらん」・ソシュール)

さて、吉田篤弘「あること、ないこと」のマユズミさんなのである。
「マユズミさん」とは何だか知らないが地球にやってきた異星人。性別はなく彼/彼女と表現される。「百科事典」を編纂することを生業とする主人公の友人である。…そうだ、百科事典を編むことと異星人にこの星のことを説明することは直結しているのだ。異星人の眼差しで今いる自分の世界を異化し客観視し定義する。(マユズミさんとは主人公がつけた呼び名である。最初に、眉のない形態をした彼/彼女が地球人の眉を羨ましがったので眉墨を教えてあげたら大層喜んだというエピソードに因む。)

「雲と鉛筆」でも触れたけど、ここでも吉田篤弘の「モノ」とそれに名付けられた名称に対する感覚が楽しい、コトバへの、モノへの愛のかたちがね。

ここにあるのはソシュール言語学に通じる鋭い意識だ。シニフィエシニフィアンとの関わりへの繊細な感性とその在り方の喜び。…それは存在の喜びそのものである、ともいえる。つまり、換言すればこれは差異のよろこび、世界の戯れのよろこび、ひいては生命の喜びに通ずるものである、と。

ヘレンケラーの「ウォーター!」ね、アレに似た。

私はそうしてなんだかここで立原道造を思い出したりするのだ。彼の編んだ詩集の中では私は未刊詩集「さふらん」の素朴さが一番好きなんだが、その中の一編「忘れてゐた」。(立原といえば、一般にやたらと技巧ばかり凝らしたような新古今和歌集オマージュとか浪漫だぶだぶのソネット形式が有名なんだけど、アレは個人的にはそんなに好きになれない。洗練、美学な感じゴリゴリ、イヤそれはそれでいいんだろうけど。)

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忘れてゐた
たくさんの単語
ホウレン草だのポンポンだの
思ひ出すと楽しくなる

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言葉の成り立ちを、単語そのものの成り立ちを、日常の中で無意識の暗算分野に置き、いちいち味わうことをおろそかにしていたシニフィエを眺めシニフィアンを呼び起こす劇的瞬間の儀式の中で、その間隙の奇跡のジャンプ(恣意の結合)をドラマととして幾度でも味わい直す。そのアルケーを生まれ直す、いつでも新鮮なエナジイに満ちた世界。 詩歌、文学の分野においてそれは研究以前に体感されるものとして仕込まれている。

言葉に対する繊細さ、鋭い感性、美意識やこだわりを持つ人々の知る喜びは、その無意味から意味へのジャンプ、非存在から存在へのジャンプ、カオスからコスモスへのジャンプ、その軌跡と奇跡を感ずるあえかな狭間のところにある。つまりは存在の喜び、誕生の喜びにも似たそれは、名前の喜び、名づけの喜び、そして存在の喜び。まず大前提として「名のないものは存在しない。」のだから。

吉田篤弘の方はその楽しさ、可笑しみに焦点合わせる。言葉遊びだ。立原の方はただ存在するその美しさへの喜び、賛美、ほのかな微笑み、吉田篤弘の方は戯れのくすくす笑い。

この構造を見つけたとき、言語以前の「夢の論理」への遡行の道筋が確立される。名付けられたものでないリアルという真理、カオス、有と無の両義、ただエネルギーの渦巻くマトリックスに至るまなざし。(これは「物語る」ことによって「ナンデモアリ」になるんだよ、という理論の発生にもつながるものだ。)

夢の中のなまなましいリアリティを思い出してみるといい。名付けられていない、存在を超えた存在であるため現実よりも生々しくリアルでありながら記憶されない、存在できない感覚そのもの。ありながらないもの。位置づけされることができないから形が存在できないのだ、名前が付けられないのだ。あるのに、ないもの。ないのに、在るもの。この言葉とイメージの迷宮を遊ぶ奇妙な文芸作品のタイトルに繋がる。「あること、ないこと」。(実はまだ全部読んでないんだけどさ。)(でもね、時折気の向いたページをさっと開いて読む詩集のような読み方をしてもいい本なんではないかしらん、と思うんだな、これ。)(アボリジニたちの言う無限と永遠の領域に繋がる神と精霊の領域「ドリーム・タイム」、西田哲学の言う「無時間の永遠」と繋がる感覚、概念だという理解をここで私はしているのだな、たぶん。)

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関係ないけどこないだ街で目が合ったうまそうで可愛いカメロン、カメロンパン。

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