普段みないんだが、日曜美術館。通りがかったら母がみてたんで、つい一緒にみてしまった。花森安治の特集だったのだ。
(花森安治は「とと姉ちゃん」の花山伊佐治のモデルになった天才編集者。「暮らしの手帖」編集長。)
で、面白がってみてたら、いきなり心に何かコトンときた。こないだ読み終わってからずっと心にひっかかっていた三木卓「惑星の午後に吹く風」を思い出したのだ。
何か繋がった。コトコトと脳内でいろんな論理が動き出しかたちづくられて繋がって生成されてゆくこの感じ、不透明で混沌で味気なかった世界が自分の中でいきいきと意味を持って物語をもって立ち現れてくる感覚。
うわおもしろい。
これって絶対なんか快楽物質分泌されてると思う。
そしてこれこそが、私にとって生きる意味そのものだ、この感覚こそが。おそらく。
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花森安治による「暮らしの手帖」創刊
戦後、物質的にも精神的にも、崩れかけながらも信じていたひとつの世界がついに完全に崩壊した、8月15日。そして映し出される、すべてが破壊された後のような廃墟の風景。何もかもが失われた世界。ひとつの世界の終焉の後の風景だ。(もちろん実際には破壊されていない地域もあったから世の中一応まわっていたんだろうけど。)それは、物質的な廃墟であると同時に人々の心象風景を象徴するものとしての廃墟でもあった。
戦争、男性中心主義による大いなる精神論、壮大な国家論に振り回された結果がこの無残な荒廃であったことを実感する花森。復興の闇市でフライパンに感動する花森。「本当に大切なもの」を女性目線の生活主体の視点に変えてゆくパラダイムシフトの瞬間である。新たな価値観による世界の復興、再生への模索。
そして創刊された「暮らしの手帖」の表紙は、今見ても古びた印象を持つことなく、非常にうつくしい。(私はもともと「暮らしの手帖」をものすごく高く評価している。並々ならぬゆるぎなさ、そのおセンス、その信念。古き良き昭和の夢の魂を永遠にもっている。)(あのフォントと言葉遣いには問答無用に説得されてしまうのだ。)
花森はもともと非常にハイソサエティな育ちであり、ハイカラさんであり、芸術家肌であったという。挿絵は深みがありながら明るい色遣いで、西洋風の可愛らしい夢のおうち、街並み。お洒落な部屋、食卓を描いたもの。夢のような理想の家族の、あたたかで豊かな心濃やかな暮らしへの想像力を掻き立てる。
しかしそのなかには瓦屋根や和風テイストの小物がひそやかに配置され、そのために独自の無国籍な夢の世界を演出している。これはジブリアニメの無国籍なエキゾチシズム演出の手法と酷似したものだ。
復興の力へと直結するものである、豊かさへの夢、欲望。この時代に求められていたもの。
この雑誌は、夢と希望の力を育むための指標としてのそのうつくしい理想のヴィジョンと、実際的に役立つ暮らしの知恵の記事の二つの車輪によってそれを牽引した。「画像や言葉による夢、希望、それらによって掻きたてられた心の力に裏打ちされた現実の生活」という図式である。
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さて翻って三木卓「惑星の午後に吹く風」。
これは、近未来が舞台のSFである。
ぐいぐい読ませるとか重いとかものすごく切ないとかいう激しい作品じゃない。だけど個人的に何だか今の精神状態にしっくりきてしまった。ただ静かな気持ちになる、その静けさと寂しみ。
瀰漫しているのは、未来への希望のない終末感。ほのかなほのかな絶望感。既に終わった世界の残滓のような日々。諦念の中、ただ静かに繰り返され消費されていく日々。
イメージとしての「廃墟」だ。(舞台となっている未来世界は実際には廃墟ではない。高度に文明化された管理社会である。)(主人公のまなざしを通した心象としての世界イメージのことね。)
この作品、この終末感のつかみきれない構造、この得体の知れなさがどうも気になっていた。で、ここに、先に花森の例で挙げたような、戦後の激しい喪失感と実際の廃墟の風景がことんと重なったというわけである。(こちらには未来への復興の希望の要素はないが。)喪失、廃墟のイメージを媒介にして、先の例の激烈で暴力的な終末感の構造を、この緩やかな、真綿で首を絞めてゆくような老化、衰退としての終末感に重ねてみると何か見えてくるような気がした。
そうして読み直してみると、若い世代に託された「再生」への祈りのようなモチーフがきちんと書き込まれていることに気づく。或いは、「救済」への。
それは例えば戦後の廃墟においては花森が提示してみることのできた未来への夢と希望のヴィジョンを求めるやるせない祈りである。
なぜ「やるせない祈り」なのか。
それは、前者においては力強く現実化するものであったものが、後者においては既に失われた可能性として認識されているからだ。瀰漫する淡い絶望感の所以はここにある。先がない、未来のない感覚。
それは、これから新たな価値観をもって復興するべき若い可能性を持った時代であるか、考えうるすべての発展を味わい尽くした後、輝きに満ちた未知の未来への夢を失い、既に疲弊し老化しつつある時代であるかの違いである。
若いころはエリートで、省庁関係の研究職にもやりがいを感じていたが、ふとしたことから出世コースから外れ、妻に去られ、隠遁生活のような自然保護区管理人として暮らしている50歳の主人公。(未来人の寿命は長く、肉体的にはまだまだ盛りの世代。まだあと50年は壮年期とされている。)
ここに転がり込んできたのが、20世紀に冷凍され解凍されたばかりの若い女性アマリア、そして、自殺志願の若者レッドウッド。
アマリアはその時代の社会問題となりつつあった、若者世代の、性的欲望の淡さ(による人口の先細り予測)の傾向に反し、あらゆる男性の欲望を激しくかきたてる性的魅力を放っていた。
レッドウッドもまたその時代の社会問題となりつつあっていた若者の特徴を色濃くもっていた。生命への執着の淡さ、知識層に如実な自殺願望。そして彼もまたアマリアに恋い焦がれ、二人は恋人同士となる。
(主人公チャンチンもまたアマリアに焦がれており、複雑な関係ではあったが三人はよい関係を保っていた。)
レッドウッドの死後(悲劇的な自殺)、主人公チャンチンを彼の兄が訪ねてくる。彼は時代の疲弊についてチャンチンと語り合う。哲学的な問答である。
レッドウッド兄(以下「兄」)はひとりの人間の成長過程を人間の歴史に重ね合わせてみせてから、こう言う。
「この時代の人間はもう、(中略)死までの未来が実体として見えてしまっている。」
「ああ、それはそうかもしれない。考えてみれば、人間の歴史とは(認識による)限りない時空への伸長の歴史だったということができる。或いは意識のなかでの対象の縮小化の過程。」
「そうです。で、そういう過程を生じさせてきたのは何であるかというと(中略)つまるところ人間の認識の能力です。」
兄のいう「時空の伸長」とは、例えば小さな地域の認識から地球規模の認識へ、そして宇宙規模へ、と限りなく人間の認識能力(そして支配能力)が拡大していったことを指す。世界は認識されてゆけばゆくほど、その未知の領域に属するものである深淵、威厳、威光、謎やロマン、ファンタジー、といった夢憧れを失ってゆくものであることを言っているのだ。不可知、神の領域が失われてゆく過程。(「対象の縮小化」)
兄は、人間は認識しつづけることによって発展してきたが、どのような発展もその成果よりも遥かに大きな闇を同時に生じさせてきた矛盾に似た原理をも語る。そして、あらゆる認識の外側にある超越的存在(神)をその認識の場から排除したことを語る。
闇は無限に広がりつづけるのに、憧れを生むはずの有為の認識対象は縮小化する。
ここで闇とはつまり、超ー外部としての絶対の存在、神によって保証され、祝福され、救われるということができなくなった場所のことではないのか。認識の限りない伸長が無意味であると感じたときの、その未来と希望の失われた閉塞感がうまれるどんづまりの場所。
チャンチンはこの話を聞いて、己の認識による宇宙の存在のありかたを思い、そこで自分が宇宙の運行における神の不在を感じたときの、その意味のなさに絶望したことを再確認する。そしてさらに、己の認識の外側にある無限に思いを馳せ、そのとき激しく恐怖する。
ー虚無。
「ぼくたちは、超越的なものを信じることで身を守るということをしてきたのに、そのマントを脱がざるを得ない方向にどんどん進んでいるといわれるのですね。」
チャンチンは独語する。「今のぼくは幼いころよりはるかに生きて在ることが苦痛である。幼いころの成長しようとする意欲は、まわりのことに目をつぶらせた。ぼくはそれに便乗して生きていった。しかし、ぼくを駆動するエネルギーが減衰の方向に向かいつつある今、超越的なるものは信じられないのに、バッハになぐさめられたりしながら砂を噛む思いで生を維持している。」
己が、過去、希望のあった時代の遺物(音楽、インテリア、芸術、飲食物)を愛好し、そこに存在した「未来への希望」の痕跡によって、その逃避によってかろうじて慰められながら生きていることの自覚である。
さて、ここで、絶望と諦念からの解放、異なる光、希望を示す記号がアマリアである。発展の途上にあり、認識を超越した神をも信じていた過去の女性、クリスチャンであり、男性を救う女性の象徴であるアマリア。
彼女がチャンチン、レッドウッドはじめ現代の男性をすべて魅了する理由はそこにあった。未来に向かう希望の力を有していたものとしての過去に属する女性。神に通じ、そして求めるものを受け入れるものである未知の、憧れの対象としての異性の象徴、それが「希望」としてのアマリアである。
この、希望の存在による未来への駆動力という構造は、別の章、チャンチンの学生時代の恩師の存在の言及の個所にも繰り返し示されているものだ。
その恩師から「学ぶということの奥の深さを身をもって教えてもらった」が、「今振り返ってみると、あの先生はほんとうはどうだったのだろう、という思いが起こってくる。」
学者としては己自身なんの成果も残さなかったその先生が、数多くの学生たちを感化し育て、偉大な学者とその実体としての成果をも生み出した。
「それは詰まるところ、かれのなかの学問に対するあこがれのレベルが高かった、ということではあるまいか。その結果、かれには中身はなかったけれど、われわれのなかに学問へのあこがれをつくりだす刺激を与えることができた。」
この思考は、チャンチンがレッドウッドのなかにアマリアへの憧れを発見したときのものである。すなわち、「あこがれ(希望の灯)による生きる意欲の発見」という、その「構造」の発見なのだ。
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日曜美術館、番組では、最後に花森が好んで描いたというランプのモチーフの絵をいくつか映し出した。
ナレーションで、「世を照らす灯」の象徴として好んだモチーフであったと解説されていた。
この「世を照らす灯」とは、とりもなおさず、個々人の、個々の家庭の、その暮らしの中でのひとつひとつの小さな喜び、希望を見出すための「心の灯」にほかならない
(村上春樹のいう「小確幸」だ。)世を照らすものはその心の希望の総体だ。
人は、世界は、社会は、その各々のレヴェルでの未来を照らす希望の灯がなければ現在を生きることはできない。おそらく。
(老化と衰退の果てにおいて、それは未来の希望を担った次の世代、或いは過去、あるいは、すべてを超越した存在(神)へと託されることで代替される。)