酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

不可知の許容

とと姉ちゃん、どうもおもしろくない。やっぱりオレ朝ドラって昔から基本的にはダメなんだよな、としみじみ。(カーネーションてるてる家族は別だけど。梅ちゃん先生も好きだけど。)

子供の頃から、といってももちろん学生時代は朝8時台のドラマなんか観たことはない。子供は朝学校に行ってるものだからだ。

観たことがないにもかかわらず非常に嫌いであった。

母のせいである。母が毎朝欠かさずみてて、それをネタにしては主人公の健気さを解説し、ダメダメな私と比較してはいちいちダメ出し説教するもんだから、ものすごく嫌いになってしまったのだ。

ちらっと観てみたら思った通り、何しろ教育的で教訓的で正義ヅラして世の闇を作る、イジメ構造を構成する諸悪の根源洗脳装置、女性同士で苦しめ合う、ほとんど殺し合うような構造を拵える、一見リベラルなようでいて世のシステムに迎合したものすごい権力主義的、…一貫して、寧ろ世の中に害毒を垂れ流すぢょし教育マニュアル脚本である。愛されるためにちょっぴりドジでお茶目で明るい献身的で有能で幻想のスーパーウーマンコンプレックスを世に植え付ける主人公キャラクター。人生理不尽耐え忍んでそのシステムに組み込まれてその上で「勝て」。

例外的に好きなのはその他の要素でドラマとしてものすごく突出したおもしろさをもってるものだ。あまちゃんなんかはもちろん例外。カーネーションも。(でもあまちゃんは実はそれほど好みではない。私の周辺の人々はもれなく夢中になってたけど。)

でも、あまちゃん以来、なんか周囲に押されて観はじめたら、小ネタとかセットや衣装とかだけで楽しいし、脇役とかものすごく惹かれるキャラクターもある。ということでとりあえずなんとなくあれこれ文句たれながら観ている。

で、現在進行中「とと姉ちゃん」である。

先日の放送、花山伊佐治の告白、言葉の持つ力についての考え方、あの長台詞について。

感動の、泣かせるシーン。苦しい暮らしの中、言葉の持つ力によって心が救われ、また戦時中はお国の都合のスローガンに騙され、死に至らしめる権力の道具にもなった、その双方に加担した、生粋のジャーナリストである彼の混乱と罪悪感による挫折、という非常にティピカルにお約束の正論。

パターン化した戦時中の言論統制に対する言及。個人的にあの脚本においての熱血告白の不自然さにはかなり白けた。大体、やってる途中に気づかぬはずはないだろう。死人の出る犠牲を強いる「ウソ」を喧伝する仕事の虚偽を。何を今更罪悪感による自己批判反省感動譚に、という感覚だ。

…が、逆になんかいろいろ考えたんである。あの当時の人々の感覚の信じられなさについて。それはほんとうに気づかなかったのかもしれない、という可能性について。そのさなかにある人々のメンタリティについて。

人間、都合によって己の認識能力をかぎりなく誤魔化すことができるのかもしれない。己のおかれた立場、その時代と状況の正義の論理にあてはめられねば存在できない。だからそのために己の知性や認識能力をさえ無意識にアンバランスに欺いてゆく、という不思議ないたましい自己防衛技術について。多分、自分もその時代に置かれていたら考えはその時代の公式に則ったパターンを描くのだろう、という、今ここでは全然リアリティのない想像の余地について考える。自分なんてアテにならないのは確かなんだ。個はスタンドアローン攻殻機動隊)なんかではない。

…例えば江戸時代の人間の感覚、コモンセンスもパラダイムも今とはまったく異なる地平に置かれていた、とかそういうようなの。聖徳太子の時代とかになったらもう宇宙人レヴェルでわからないものだろう。

つまり、理解のできない感覚について、その常識、その論理の中に生きている、その「違う感覚」ということについて。己の存在の意味の定義が根本からして異なるということを理解するメソッドについて、その困難さについて。
(春樹作品に散見される、諸悪の根源は「想像力の貧困」からくるというような主張のことを思い出す。)

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(あらゆる人文学は、これらをデータとともに検証することによって、驚きと共にその「想像力」を育て、不可知領域をきっちりと設定するためのメソッドなのではないか。それは或いは己の内部にひそめられていたものの発見である。そして或いは何らかの枠取りによって限られていたその時代、その時空、その思想的パラダイムのなかに埋もれていたものの限界と定義を外側から知ることにより、その「異なるもの」の発見によって逆にアイデンティファイされる己の枠を知る、他者との関わりの在り方を知る手立てである。)

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それはおそらく世界の宗教上のいがみ合いとかそういうのにもものすごく関連している。政治的な、一握りの権力者の卑しい利権構造に支配され組み込まれた虚栄や無理解や唯我独尊正義みたいなのと通じている。

 

そうだ、現代の視線から見ると、あの頃の人々の感覚は情報コントロールや洗脳教育によって騙されたもの、すなわち蒙昧や闇として受け止められている。馬鹿じゃないか、残虐行為を正義などといって、何故、…といった感覚。

だが、もちろん現代の我々と寸分違わない優れた知性、暖かい人間性、高潔な魂をもったひとびとがこぞってそれに、必ずしも強要されたというだけではなく、自ら意志によってそれを扇動する側に回ったのだ、信じていたということはおそらくあったのだ。ありえたのだ、そしてあり得ていることなのだ。半ば己の意志によってやむを得なくあえて知性の目をふさぐ。

愚か、というのはたやすいが「愚か」の定義もまた流動的であるという恐ろしさのことを考える。

もちろん絶対に蒙昧と闇だ、あの時代の悲劇は。戦争は、問答無用にそうなのだ。

だからこそ、大切なのは蒙昧と闇へのまなざし、それへの想像力のことなんだということを思う。今のご時世の問題意識にものすごく重大に関連して。

敵対しないために、憎しみによって暴走しないために、みな同じ人間であるという基本的な感覚を持つために。鬼畜米英などというウルトラお馬鹿でセンスのない知能のない言葉が決してお笑い以外で表舞台に出てくることのないように。

 その想像力は不可知に通ずる。信じられない残虐を実行することのできるメンタリティへの道筋の不可思議を解きほぐそうとする。例えば、テロ、IS、正義感の高揚、イデオローグ。どうしてそれが存在するのか。現象には必然がある。普遍性がある。個人的な特性に属するものではない絶対的な論理構造が。

そして不可知は己からそれを切り離すための論理ではなく寧ろ己につなげるための論理なのだ。通過儀礼がメディアとなって、通過前と通過後を分断すると同時に結び付けるものであるように。

それは、不可知のままにとりこむ、わからなさの森を脳の中に飼っておく、その意識の操作によってしか成り立たないものである、おそらく。