有名無名、有象無象、自他、無数の人々の独り言の集積、意味を汲み取っても汲み取らなくてもよい、無数の無意味な感情の蕩尽、その、小鳥のさえずり、つぶやき。
それがそんなにいいものなのか、と、とりあえずはじめてみても、何が面白いのかようわからん、見知らぬ誰かが「ご飯食べてるなう」とかいう独り言を読むのがどうして楽しいのか、それがどうした、と思ってしまったり。
どうして、コレが社会現象なのか。
…と思いつつ、しかし、その味わいを知らぬ、何となく面白さが何もわからないというのも悔しいので、意固地になって続けてみた。虎穴に入り、そのよさ、喜びや楽しみを知らねば、一度同じ穴のムジナになってみなければ、否定も批判もできんからな。などとブツブツいいつつ。
で、その味わいである。
…結論からいうと、やはり、あるのだ。社会現象になるだけの、理由が。楽しさが。さまざまの、意義、「意味」が。マイナス面ももちろんあるだろうが、それは、他のメディアによっても、メディアによらない世界であっても、基本的な人間性、ということだ。同じことだ。
「有名無名、有象無象、無数の人々の独り言、意味を汲み取っても汲み取らなくてもよい、無数の小鳥のさえずり、つぶやき。」
…世界全体が、要するに、そういうものなのだ。
混沌のエネルギイ。意味以前。解釈、或いは想像による創造。
そこから世界を組み立て、意味を汲み取るのは、所詮己の内面の物語(ロゴス、ダルマ)によるものであるから。
ツイッター、今のイメージは、ますむらひろし「アタゴオルの玉手箱」5巻、「ミイト緯度の指」だ。印を結ぶと、見えてくる。「…空気は、ゆらゆら動く透明な本…ぎっしりつまった言葉たちが、…大気をさまよっている」
虚無、ゼロだった世界が、無数の言葉や意味で満ち溢れていることに目を開き、感じることができるようになるツール。
…とにかく、そういう「ツール」としてのツイッターだ。それ自体がどうのこうの、というモノではない。
ひとりでつぶやき続ける思考整理もあるだろうし、商売のためもある。情報収集ももちろん。ひまつぶしや寂しさ紛らわしや。人それぞれ、使い方に幅があるだろう。が、とりあえず、見るにしろ書くにしろ、フォローにしろ、なんらかのアクションをもってもがいて動いてみなければ、その利点は見えてこない。
…たとえば、友人だけに限定せず、検索して、ちょっとでも共通の興味のあるコメントは、積極的にフォローしてみる。
少数のつぶやきが意味のない断片、ノイズであったも、ただ純粋にその数がふえたとき、それがはじめて見えてくる、というある「風景」を醸し出す瞬間がある。
それは、襲い来る、世界じゅうからの、彩りさまざまの多様な言葉(ロゴス、物語)の断片、言語の蕩尽、そのシャワーを浴びる感覚。
★インターネット上での「ツイッターの何がおもしろいのか?」という質問への答えが募集されているページがあったが、人により、実にさまざまな角度からの切り口が見られて、興味深かった。
ツイッターは目的でなく、ツールであるから、その意義は、使う人によるのだ、というのは、もちろん基本。
趣味や仕事の情報収集のための「利用」や、その共時性から、リアルタイムに人と人とのつながりを求めたり、有名人とのつながり、同じ世界に接している興奮、
そうして、個人的な楽しみ、味わい、としては、何にしろ、キイワードとして、「解放」というのがひとつ、あげられるかもしれない、と思う。
世界は、感じたときはじめてリアルに存在できる。ということは、「想像」された世界は、既に「創造」されているのだ。
己の属する、ひとつののっぺりとした均質な世界に閉ざされない「世界の多様」を感じ取る、ということ。
「今、ここ」の、自分の立場だけで日常を暮らしていては、縁のない、触れることのなかったであろうさまざまの人々の日常、多感な女子高生、勉強に、友人関係に、バイトに、揺れ動く心の内面、さまざまに忙しく明け暮れる女子大生、ビジネスマン、さまざまの、人生の、日々の、朝昼晩の、そのリアルタイムの言葉に接したとき、私は、さまざまの、風景へと、開かれる。…世界の多様へと解放される感覚を得るのだ。
世界の読者、世界をみるものとしての、超越レヴェルの観察者スタンスを得ると同時に、(これは、「読書」の「読者」スタンスだ。)ツイッターに独自なのは、そこに属する、飛び込んでゆける「登場人物」でもある可能性の、視点分散、存在多重化感覚の恍惚もある、という点だ。
夜、帰り道を歩くとき、街の、家々の、小さなひとつひとつの窓明かりの中に、そのミクロコスモスの中に、家庭があり、暮らしがあるということを感じる。
そして、そこに主体が飛び込んだとき、ミクロは反転する。
曼荼羅の世界構造を感じる、その感覚。たくさんの人々の、たくさんのその日常を、ドラマを想像し、感じる、はろばろとした、ほんのりとした、不思議なその感覚。
それが、ツイッターでは、(インターネットという、観念の中で、言葉の上で)飛び込むことの可能性をもプラスされる。一旦メタレヴェルに解放され、再び、新たに小さな自分へと飛び込んでゆく、観念上の自在な再構築。
ハマる人がいるのも、道理やもしれぬ。
(コンピュータの公式ツイッターサイトじゃなくって、専用のアプリケーションで、ずらずら〜っと、ツイートを整理して一覧できる機能をもったものを使ってはじめての感覚かもしれないが。)
画面を眺める感覚は、友人たちの、そして、見知らぬ人々の、想像で、少しだけ知っている人々の、メディアで知っているひとたちの、政治家の、リアルタイムの、雑多な世界全体の人々の、その活動の、そのつぶやきの断片の流れを眺める感覚だ。世界に渦巻くエネルギイ。
今、ここで、共有している、テレヴィ、音楽、本、感覚、悩み苦しみ、幸福、多彩な感情。その、心の細い糸が純粋なかたちで繋がるとき、感ずる、ほのかなぬくもり。
…このとき、これは、何と素晴らしく美しい、可能性を持った世界への新しいアクセスツールであることか。
有史以来、人間が、裸の身体で、ただその五感で命を感じ、自然を感じ、緑の息吹を感じ、自分がその一部であることを感じる、自然、神、社会、人… 偉大なものを恐れる、そのような、それと同じ感覚を、持ちえる、とはいえないかもしれない。だが、いえるのではないか、とも思うのだ。
そうして、どちらがどう劣る、とは、真理としていちがいに言うことは、決してできない。
文脈によって、どちらも真理であるからだ。
(ただ、次元が違うというだけの話だ。)
引用
>「私にとっては「群像」です。夜、窓を開けて外の他の家や飛行機の明かりを眺めるのと同じ。自分以外の“誰か”が、“何か”を思っている、考えている、行動している、その景色を自分の部屋から眺めているのと同じ感覚。これは私が完全に受け手側であるからだと思いますが。
例えるなら、都会の夜景です。ひとつひとつの小さな光(つぶやき)の向こうには、家庭があって生活があって悩みや幸せがある。その壮大な集合体を眺めるとき、何ともいえない愛おしさを感じるのです。
つぶやきがラジオのハガキ職人みたいだなと思ってから。だれかに取り上げられるのを期待して面白いつぶやきを考えたいという願望」