酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

春樹再読

さて。コロナの日々は続く。
ということで世界中参ってるワケなので私も参っている。すべての個人がそうであるように非常に個人的に参っている。

ということで体調も悪く、この症状は…すわコロナか、と日々恐れ、さまざまに渦巻く不安と恐怖の渦の中、明日の身の上もわからず、アテにならぬお上。同調圧力隣組にひたすら籠れと言われる家の中はワタクシにとってひとときも心休まることのない虐待暴力看守付牢獄、自我とココロのひとときの解放区逃げ場所であった街は死に絶えた廃墟の趣、友人と会うことすら封じられ、出口も未来も見えない絶望感に襲われがちな自粛生活の中、ひたすらひっそりと息をひそめアマビエさまなど拵えている。

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(タコはともだち)

図書館の受け取り予約すらできず、ネットで見てしまう荒んだ人々の噴きだすもの、SNS、さまざまの人々の考えの行き場のない怒りやニュースの空虚な言説、厳しい状況で辛がっている人々、日々泥水のなかで咲く蓮の花のように気高く頑張ってる人々のことなどつらつら考え続けたりすると脳味噌すり減って煮詰まって弱い人間は悪い方へ行ってしまう。小人閑居して不善を成す。

わろし。あし。人心は実にこうやって荒むのだ。我が心もまた。

既にワタクシは病んでいるのであろうと思う。
幼少の頃より心身共に脆弱がウリである。かなりヤバいレヴェルであるのやもしれぬ。


で。

とりあえず「絶賛村上春樹読み直し大会」を自分のなかでにぎにぎとはなやかに繰り広げているわけです。

青春の思い出とともによみがえる、時代を共に歩んできたという、リアルタイムで読んできたという、その作家の変遷への思い。

ほとんど忘れてしまった内容と共に少し熱の覚めたある程度「時代が可視化される」感覚で見通せる、今だからこそ、という感覚があります。あの頃夢中になった問題意識、物語や表現に熱が冷めていてズレを感じたり、意味が違って見えていたり、その流れの中で別の視点が見えてきたりするのはわくわくするような別っこの面白さ。

…いろいろくたびれきったボロ雑巾状態なので長編再読っていう行為は結構ハードルが高い。すごく面白かったという断片的な記憶のあるものから食らいつく。

羊をめぐる冒険」、「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」。そして「ねじまき鳥クロニクル」。

あらためて読み直すとものすごく読みづらかったり独特の形容の臭みが非常につらく思えたリ、アラ探し的なことしてる感覚を自分のなかにどうしても感じてしまったり。…ある程度熱のさめた、心が共振しすぎてしまわない視点からあらためて読むと、それでもなお強烈におもしろい、すごい、という普遍の輝きが雑味なくあらわれてくる。時代の匂いと個としての作家のかかわりの中の問題意識の変遷がものすごくおもしろいんである。

前述した三つの作品は共通した一つの流れを受け持っている、と私は感じているのだと思う。

そしてその一つの集大成として「1Q84」が挙げられるのではないかと。

羊をめぐる冒険で意味ありげに立ち上げられた命題、社会、世界、外部が個に強いる理不尽への問題意識にしぼられた時点での「デタッチメント」の側面においてはハードボイルドワンダーランドで一つの完成形を得る。

そして行動へ。
逃れようもなく己自身が罪と責任を負って選択し世界に参加してゆこうとする「アンガージュマン」の意識(春樹曰く「デタッチメント」から「コミットメント」への流れ)への意識が色濃くなってゆく「ねじまき鳥」。いったん美しい形で構築された物語構成はここで再度解体され、物語としてはある意味散漫な印象を持つような印象を受ける。
 
すべての人間の歴史を通じてその底の底にに共通するレヴェルからどろどろとした熱いもの、暴力、エロティシズム、狂、といった要素を、理不尽を、社会と外部にではなく個としての主人公の、己の内側に見出し抱え込もうとする自我形成の意識、そこに至る社会や歴史、外界との関りが非常に込み入った形をとる物語構造が構築され。そこにはさまざまの要素、複数の人格の章が取り込まれてゆく。

…そしてこれがその段階でのもう一つの完成系をみるのが「1Q84」なんではないかと、なんだかざっとそんな印象をもっているんだな。うむ。なんとなく。

で。

これと並行して高校時代の恩師に声をかけられて、SNSで【7日間ブックカバーチャレンジ】に参加したんであるが、その折、その先生から「おもしろいよ」と言語学者井筒俊彦丸山圭三郎を勧められた。読んでみてえなあと思ってるんだがいかんせん図書館閉鎖状態でお預け。仕方ないのでとりあえずツイッタの丸山圭三郎BOTで言葉の感触を探ってみるなぞしてみる。

仏教的哲学観念からプラトンパスカルからフロイトラカンソシュールニーチェにAI、ドラクエイカ天まで自在に語る。(私の大好きな「たま」に一番注目してるとこがさすがポイント高いのだ。)
『言葉・狂気・エロス』これ。タイトルだけでぐっとくる。三位一体的なものだ。或いは宿命的に同時発生的な…図書館開いたら眺めてみよう。

BOTで繰り出されてくる言説は短いながらいちいち鋭くストンストンとくるものだから、そしてこれが春樹読解、おもしろく読むためにものすごく影響したものだから(特にねじまき鳥)、いや~コロナ禍のせいで瀕死のダメージを受けても蘇らねば自分、生き残れたらただでは起きないのだ、なんていうしたたかな希望を抱けるような気持ちになる。いやすぐ挫けるけど。

ちなみに今「ノルウェイの森」。大ベストセラーであったわけだが、当時どうしても好きになれなかったし、今もあまり評価できない。…が、違った読み方をできるようになって、別個の評価機軸を持てるような気がして、それなりに面白いのだ。あれこれ言いたいことは出てくる。

だが言っておきたい。これは一つの退行であると言ってよい、と思うのだ。
いうなれば、ひとやすみ。風景描写がひたすら快く、愚かな社会の理不尽はあくまでも外部に押し付けられ、おなじみの本命女性キャラクタはひたすら「背負う者」であり主人公の「あて先」の意味しか持たず弱く淡くひたすら透明で純粋でかなしく滅びゆく者として魅力に乏しく、小林緑(笠原メイやピンクのスーツの太った17歳の女の子といったサブ主役少女キャラにカテゴライズされる)や突撃隊や永沢さん、レイコさんといった「運命と罪と理不尽を背負いそこに塗れながらただひたすら生きる」役を負ったキャラクターはやたらといきいきとした魅力にあふれている。会話が小気味よい。
 
我が本棚にないんだが、読み直したいのはやはり「ダンス・ダンス・ダンス」、「1Q84」の1.2だなあ(3はあるがこれだけではどにもならん)。図書館はよ開いてお願い…