酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

秋の朝考えること 夢見るメディア空間

朝起きたら静寂の空にうつくしいももいろの光がいっぱいの朝焼けだった。ひんやりさらさらと肌を撫でる秋の風。

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静かな早朝、この世界はすべて私ひとりのものである。

だから私は今日私に与えられた恩寵であるこの一日を精一杯幸せに過ごそうと思う。

 

…でだな、朝のゴミ捨てに行きながら考えたんだけどな、週末お散歩したときの風景を思い出したりしてだな、そんときの楽しげなファミリーや幸せな人の表情、お洒落な女性なんか思い出しててだな、さまざまの物語抱えて歩いてる人たちの流れる風景を思い出しててだな、そういう人々が総合して作り上げてるナニカが街の風景を単純に幸福にしてるんだなあとか、そんな物語世界に参加してなんらかのかたちの役割演技するとかそんな風にきれいなふうの風景に参加したいとかお洒落とか美とかはそういうものだよなあとか、実に観客であり役者である微妙な狭間のところに自分も参加してみたいものようとかしみじみ考えてだな、街で見かけた美麗なるワンピースのことか考えてだな、欲しいなとか考えてだな、でもそれってどうせ着ることないしそれって実は考えるだけでシアワセってことなんだよなあとか考えてだな、でも実際ブツがないとって思っちゃうんだよなとか考えてだな、イヤなんかそれって積んどく本とかあれもこれもいろんななんでもできる最新の電話やiPadとか夢のように美しく思い通りに映るすっごくいいカメラとか欲しいなあってのもみんな一緒だなとか思ってさ…だからさ、本でも洋服でもレコードでもフィギュアでも、収集趣味ってのはおんなじだな、アレだな、夢を買うことに、集めることに意味があるんだな。モノを所有することってのは活用すること自体ではなく。つまり本を読むこと自体よりもファッションを外界に披露すること自体よりもそれの可能性を夢見ること自体に。なんてとこに思い至った。夢見るメディア空間。

音楽聴いて陶酔するよりその手前のメディア、ステレオスピーカーのスペック批評が大切なマニアとか一冊の本の中に入り込むより図書館空間の中であらゆるその可能性の扉のメディア空間のなかにたゆたっている万能感が好きな図書館マニアとか100枚のドレスを並べて夜ひとりの部屋でうっとり眺めて夢見るファッションマニアとか。アニメのレアフィギュアだのプラモデルだの並べてるのと一緒だ。

 

思考は秋空に流れさまざまに展開する。

私は考える。考えることが幸福そのものだからだ。考えられないとき信じられないほど不幸になる。論理がないところ論理が通らないところで私は混乱し錯乱する。(大抵そうだったりするんだけど。)

 

だって世界はテクストであり、読み取られ夢見られなければそこは虚無だ。
そして我々が言語を、ロゴスを、光を得たことで得たもの。そして失ったもの、という構図を連想する。しかしこの構図を描く論理はここではただ小賢しくイージーだ。何故ならば最初から得なければ失うことすらできない。陰すらない。虚無だ。したがって得るものしかないからだ。失ったものさえ得るものなのだ。

従って対象の本質などない。
…しかし存在は主体の恣意のみからなるわけではない。

プラシーボとノシーボという対立項をもつ命題がある。
これに関連し、ホンモノおいしいもの、高級ブランドと安物をブラインドで当てさせるバラエティ番組なんかの実験を思い出す。この「真実」を想定したゲームにはいらいらする。(だから自分では観ないんだけど。)(バラエティ番組自体ダメ。)

対象の、モノの味わいは一生懸命そのおいしさに己の感覚を「合わせる」ところから生まれる。これは真実だ。すべては主体と客体の関係性なのだ。思い込みは真実なのだ。否定してかかるところにその真理は存在できない。

だがその果てには究極の絶対音感や天才としての客観真理としての究極のソムリエとして君臨する人間の存在があるというのもまた真理である。まあそれは「おいしい、まずい」の主体の嗜好という相対性に関わってくるんでまた違う問題にはなってくるが。

TVの笑いのネタっていうのに大抵私は賛同しない。イージーに最高のエッセンスを得ようとし過ぎているポピュリズム。立派なんだけど立派過ぎる。インスタントすぎる。

…物理学者や科学者、天文学者ら自然科学系のひとたちが見出す、決定的な「人類の星の時間」の発見は、ちいさなちいさなその「証拠」「証明」は一生懸命その存在を信じ思い込む要素がないと探し出せないレヴェルのところにあるものが多いという。

真理は思い込みがなければ存在しないが、発見されたとき既にその恣意的な思い込みを超越したところにある。虚無としてある。天才と呼ばれるひとはそこに近いところにいる。あくまでも「近い」ところ。完全な直線がないように完全なイデアはない。名作とそうでない文学の、その違い。その境界はあるのかないのかわからないが確かに違いはある。大人と子供の境界のように。

何もかもが、ある程度真実、なのだ。
読み取られる世界と読み取る主体の相対性の、その関係性のなかにのみ世界存在は仮定される。

これはもしかして人間が個であり個でない、という問題に関わってくるかもしれない。
主体と世界が不可分である問題と。

それは自己幻想ー対幻想ー共同幻想の思想的構造と関わっている。つまり読み解くとっかかりはここにある。共同幻想がつまり真理を作り出すことができる、というようなところに。共同幻想そのものを問い直し新たな論理に適用してゆく可能性でもそれはあると思う。社会や人間を超えたところにその守備範囲を広げたフィールドの可能性へ。

うるうると美しい秋が来て和栗のモンブランがどんどん出てきてものすごく無花果がおいしい貴重な旬になったりしたので私は今朝いろんな思考がとりとめもなく私とこのうつくしい朝の空に流れてゆくのをみたのだ。

わすれないように流れてゆくかんがえをこうやってつづる。心象スケッチモディファイド、のように。

そうそう、「昇華」についてもつらつら考えていたんだけどもな。これってものすごい概念なんだよな、「止揚」なんかとおんなじくらいぶっとんだ飛躍と革命、そんな感動を孕んでいる。いちいち感動しながら使わねばならぬいちいち考えながらいちいち震えながら。

レーゾンデートル

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毎年、9月の声を聞くと自分の中で解禁される歌がある。

9月の海はクラゲの海。」

ムーンライダーズ

 

これを聴いていて、原点ということについて思った。

高校の頃の風景、この歌を、このバンドを教えてくれた人達との出会いのシーンのさまざまを思い出した。この歌を聞いてきたとき思い描いた風景と、その時の自分と自分を含んでいた世界のまるごとのことを。

校庭の夕暮れ、その光の色、風の匂い、自転車置き場と駄菓子屋のアイス、語り合った夢や小さな恋やなやみごと。夏の光、秋のかげ。

過去も未来も現実も夢もそこにある。過去にみられた未来の夢は永遠に無限の可能性をもったまま損なわれることのない、完結した世界。一旦存在した現実や見られた夢はすべて存在した、それだけのものであり、そしてそのリアルは決して損なわれることはない。

…存在という概念のことを考える。

世界は、所与のものなのか?それとも、意志によって、自覚によって存在するのか?

どちらでもある。
けれどそのどちらか、ではない。

意志によって存在意志によって存在をあるべくあらしめるものとしてある。
(「羊をめぐる冒険」の「鼠」の信じる世界の存在の形のことを、彼のあの徹底した弱さと強さのことを考える。「俺は、俺の弱さがすきなんだよ。苦しさやつらさも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。」)

「どうしようもなく好きなんだ。」

それはそのとき超越として存在するレーゾンデートルである。唯心でもなく唯物でもなくそのどちらからのアプローチによってもアクセス可能なチートな存在のかたち。存在を始めたときそこには既に事実としての歴史がある。(ここには論理的には飛躍がある。それは意志や祈りと呼ばれる主体という力の介在を意味する。)

賢治の解釈した法華経的世界観による存在論はこのようなものではないか。「存在が始まったときそこには既に歴史がある。」感覚。あるいはそれは西田の語る「永遠の現在」に通ずる世界のかたちでもある。そして一旦存在したものは決してその存在自体を否定されることはできない。(これじゃナウシカだな。)

…そのような私の存在証明であり存在理由であるところのものを確かめる。
そうだ、そのために私はこれを聴いているのだ。

 *** ***

古式ゆかしくカセットテープを誕生日に贈られた。ものすごい思い入れのたっぷりつまった癖字が便箋にぎっしり書き込まれたレビューがそのまま長い手紙になって入っていた。これがムーンライダーズとの出会いである。

これらの歌に包まれた私の人生の基本があそこにある。その手紙を書いたひとがもうこの世にいないということが私にはよく理解できないし、これからも理解することはないと思う。それは、大切な人であったとか恋人であったとかそういうことでは全然なくて、単純に、誰一人あの風景の中のものは欠けてはいけないのだ、あのとき存在していたものが既にないということがすべて私には永遠に理解できないということだ。

個としての、あるいはそれ以前に繋がるものとしてのもっともっと深淵な人生の原風景的なるものとしてはもちろんもっともっと深いもの、もっともっと前の混沌のところにあるのだけど。

だけど。

喪失のことや存在のことやうつくしさのことや楽しさのことやさまざまを概念から感情の原型を育てた人生のエッセンスを学習していたアドレッセンスがあの風景の中にある。あの時触れたすべてのモノに人に風景に宿っている。歌は歌われるたびに本は読まれるたびに、一生「現在」する。例えばそれはアボリジニたちの言う「ドリーム・タイム」のひらく神話的空間のように「イマココに存在」し、「イマココ」を支えかたちづくる力となることができる。

「物語」。


(因みに元旦には「マニアマニエラ」や「青空百景」を聴くことにしている。「トンピクレンっ子」と「物は壊れる人は死ぬ三つ数えて目をつぶれ」がミッション。あれでやっと私の心は元旦を迎えることができる。)

ジョージ・オーウェル「1984年」

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(先週週末)ジョージ・オーウェル1984年」読了。前半だけ読んで何だかんだほっぽってたんだけど、後半部一気読みしたら衝撃でしばらく茫然自失状態。

ものすごい読後感の悪さなんである。コンディション悪いとこに直撃食らってしばらく立ち直れなかった。…前半部はすごく面白かったんだけどなあ。これは本当に酷い。

これは既にいわば狂気に対する誇張された狂気の対応、読者に投げつけられた作者自身のヒステリックな怒りと絶望の描写。扇情的すぎる。

…おセンスの問題だなあ。なんかな、イメージからいうと西欧人男性の奉ずる知的論理カテゴリに特有な気がするんだけど、そのタイプの残虐さ。

つまりね、それは、まさしく「シミひとつない」(オブライエンの語る究極の完璧なディストピア像の表現)という、いわば彼らの奉ずる唯一神によるのっぺりとした唯一のイデアと真理、その完璧な真理や正義を得たいという希求の裏返しなのではないかと思うのだ。彼らの希求する輝きの光の陰の部分、光の強さに反比例した形で光と同時存在してしまうその闇の深さというのが、この作品における徹底した残虐さ、心身への、魂への拷問のかたちとして表出されている、というような気がする。多様という視点を欠いているための絶望感。

この作品に於いてよく言われている、時代背景によるモデルとされた全体主義、体制への具体的な批判というよりは、寧ろその思想や情報の権力による支配と管理、というその端末の個人内部からのリアリティの恐怖を描いた点では普遍性と文学性を感じるんだけど。

(どのようなスタイルの社会にもその危険があらゆるレヴェルでひそやかに実現されている、この原理を見出すことによって古今東西イマココの中に我々はそれを我々の内部に見出すことができるようになる。個を圧殺するべく入り込む様々なスタイルをもった権力。)(権力が「忖度」や「オトナの事情」や「空気読めよ」とか「自粛しろよ」、或いは公約は「普通」まもられないものなんだよ、或いは恥ずかしげもなく公然と行われるヘイトデモ、匿名の安全圏からのSNS炎上集団リンチ。とかそういうのにすり替わってゆくその人間の愚かしさや浅ましさに入り込み内面化されソフィスティケートされて強化される制度としての権力側、空気の圧力としての権力側に与する正義のかたちをも見抜く原理を見出す知の論理のことね。)

それと、もうひとつものすごくスリリングなテーマ。真実とはなにか。徹底した情報操作、言語操作、心理操作により真実も虚偽もその存在の違い、その差異の現実性を失うこの背筋のぞっとするようなリアリティ。…そして、そうなのだ。ショッキングな形にカリカチュアされてはいるけど、よく考えれば歴史がまるごと勝者のための唯一の真理としての物語に書き換えられるというばかばかしい理不尽と恐怖は、ほんにそれこそこの世界の現実の「普通」「常識」としておこってきたことじゃんネー。(「いだてん」第二部の主人公まあちゃん語が頭にこびりついている。)多様性を圧殺する力をもってさ。…二重思考について考えるためのとっかかりはこんなところにも潜んでいる、おそらく。

だがねえ。
このダークなディストピアファンタジーは後半部、ウインストンの逮捕後、あんまりぶっとびすぎた激烈な「狂」の描写で却ってそのスリリングな現実味を失ってくる。そりゃもともとこれはカリカチュアライズが特徴な作品ではあるとは思うんだけど、それにしても度をこしていて。

完璧な永遠のディストピア。犠牲者の魂の底の底まで叩き潰すというような、既に個人を離れた権力の自律性、その支配欲のみの存在、痙攣的なヒステリー、存在の圧殺、他者の苦しみへの刺激の喜び。徹底した節操のなさと品格のなさをゴリゴリ打ち出す、ひたすら叩きのめすためだけの力技の無理やりな強引さが透けて見える。

…これはせっかくの物語にいささか浅薄さを感じさせてしまうレヴェルの善悪二元論をかたちづくるものになってしまっている、気がする。(あまりにも禍々しい拷問シーンの描写への生理的嫌悪感、このダメージが酷くて立ち直れてないせいの酷評かもしれぬ。)(でも本当はやっぱり読む価値ありな強烈な面白さもあると思うのだ。普遍性がある。とにかく精神やられすぎた。立ち直ってから考える。)

とりあえず今「二重思考」がキイ・ワード。ものすごく難解だと思う。そしてものすごくおもしろい。ずうっと、がしがしとこの言葉をかみ砕こうとしている。自分なりの野生の思考的スタイル、その、なんというか演算子的なる思考モデルを組み立てて落としどころを見つけたいのだ。捕まえられそうで捕まえられない。なんなんだ二重思考。これは何に当てはめられるのか、そしてその適用範囲はどこまで応用できるものなのか。己の中に、社会的コンセンサスの中に、人々の日常の中の言葉のダブルスタンダードのところに、それがどれくらい隠されているのか、そのモデルを確定できればすごくわかりやすく見えてくるように思うのだ。

あと前述したように、ものすごく面白いと思ったのが、情報と記憶と認識と真実の関係、そして「ニュースピーク」。要するに、言葉と世界の存在関係の問題なのだ。(主人公は情報と言語を操り過去を改変する仕事に従事している。)非常にシニカルに逆説的にオーウェルはこれらの主張を表現する。豊かな多様性を孕んだ言葉の意味のふくらみをそぎ落とし世界を貧しくし多様性を圧殺しあらゆる美徳を踏みにじるこのディストピアを描く中に、権力の怖ろしさへの警鐘を打ち鳴らしヒステリックなかたちで悲憤慷慨と警告を叫んでいる。

 *** ***

だが文学として私はこの作品には決定的なものが欠けている、と思っている。というかそういう立場をとろうと思う。

ウインストンは党の権力、その支配構造について考える。
「その方法はわかる。だがその理由がわからない。」(早川書房文庫p128)

オブライエンはそれにこう答える。
「党が権力を維持する方法についてなら、君はよく理解している。さて、それならわれわれが権力に執着する理由は何だと思うかね。(中略)党が権力を求めるのはひたすら権力のために他ならない。われわれはただ権力にのみ関心がある。富や贅沢や長寿などは歯牙にもかけない。(中略)権力は手段ではない、目的なのだ。(中略)迫害の目的は迫害、拷問の目的は拷問、権力の目的は権力。それ以外に何がある。(中略)権力は相手に苦痛と屈辱を与えることのうちにある。(中略)人を酔わせる権力の快楽だけは常に存在する。(中略)ぞくぞくする勝利の快感。無力な敵を踏みにじる感興はこの先ずっと、どんなときにも消えることはない。未来を思い描きたいのなら人の顔をブーツが踏みつけるところを想像するがいいー永遠にそれが続くのだ。」(早川書房文庫p406~415)

…アホか。

これが基盤なのだ。
論理として高度に洗練された精緻なものが描かれているとしても、その基盤が裏返しのディストピアを描くための欠損した人間の一面だけを真理として高度な知性を持った圧倒的権力の象徴、狂人オブライエンのセリフの中にこんな風に詭弁的に仕込まれている。これではこのカリカチュアは一気に現実味を失ったファンタジーになる。高度な理屈自体が色あせる、気分の悪い煽情的なるものにしか感じられなくなる。狂人。ノータリン。

(だけどね、そう。やっぱり作品にもこのセリフにも確かに意味はあるのだ。「本当に」こういう心が人間の中にはたしかにあるのだ、歴史の中に、権力機構のなかにそれは表出している。信じられない恐ろしいことを人間はしてきたし人の苦しみをあえて喜ぶ奇妙な性癖を引き出され或いは仕込まれた部分もあるのかもしれない。

だがそれはあくまでも社会制度の歪みの中で奇妙な化学反応によってうまれてしまったものであって、決して人間の本来として既定されるものではない。人間はそのようなものではない。これによって社会はディストピアに規定されはしない。)(聖書が言うように、義人はいない、一人もいない、というならば悪人もいない、一人もいない、なのである。完全な善も悪も存在することはないのだから。)

いやね、もちろん最もスリリングな最も恐ろしいリアリティはここに示されている、と言う視点もある。そう言ってしまえば確かにそのとおりだとも思う。すなわち、権力の自律性というリアリティ。

個としての己を権力に明け渡したオブライエンは、既に個としてのアイデンティティを失ったがゆえに永遠の権力の一部としての存在になっている。ビッグブラザーは権力の自律性そのものの象徴なのだ。一旦確立され働き始めた権力構造は内部の個という細胞を入れ替えながら「ただそれ自身存続のために」働き続ける。もはや誰のためでもなく何のためでもなく。狂ったリヴァイアサン

このテーマは、大きい。

古今東西、イマココ現実にいつだって現れ続けている普遍性としての寡頭体制はすべてこのような権力の自律性の下に、いつだってアタマをすげ替えながらもはや内部の人間にはどうしようもないかたちで稼働し続けるものとして存在する。ものすごい残虐性がそこには必ず付随している。まさにこの作品が描くような。これがリアルだなんて信じられないほどコワイ。人間かくも愚かだなんて実にコワイ。(誰か嘘だと言って。)


…そしてもうひとつおまけ、作品の落としどころ、ラストのシメかた。ここで男女の性愛、純愛の敗北が決定的な個の魂の敗北とすりかえらえているところに私は一気に物語の定型性と浅薄を感じてしまったんである。個とは何か、という大きなテーマがここで卑近な物語に単純に落とし込まれてしまっている。愛を失った己への絶望が、この敗北感が、さらなる徹底した敗北へ、自発的な二重思考への、思考停止へのウインストンの精神への決定的なスイッチとなっているこの物語構造に対し、広げた風呂敷に比して陳腐であるいう感想を持つ。

こんな浅薄な論理の上に砂上の楼閣を築いている、このつくり自体が戦略で方便であるといえばまあそうなんだけど。好みとしては文学としての深淵「不可知の知」としての「わからなさ」をちいとは仕込むべきであったということで…ううむ、まあねえ、やっぱしまあ戦略的思想書みたいなもんとするんならストーリーとしてはきれいにまとまってるっていうべきなのかな、こりゃ。

 *** ***

この文章は私のただの忘備録、思いついたままの感想文、殴り書きのメモだ。

もっときちんと冷静に考えた構成の文章にするためにはこの本を読み返さねばならんだろうがちいと無理かもしれぬと思う。少なくともしばらくは。ダメージが大きすぎる。ココロ弱いのよオレ。

朝が好きなのだ (ムーンライダーズ・サエキけんぞう・パール兄弟・宮沢賢治)

朝が好きなのだ

私は本当に朝が好きなのだ。
何もかも新しい、きらきらと木漏れ日の落ちる新しい朝。

そして大切なのはそれが終末感とともにあるというところだ。始まりと終わりが一つのものであるところで世界は完全になり私は解放される。

この構造がずっと好きだった。ほんとうに、たまらなく。
この構造を見つけたところに私は執着していたのだ。

自覚した記憶があるのは高校のときのムーンライダーズ鈴木博文の歌にハマったときだった。朝と終わりを歌う歌の系列があった。一連の。朝と死の組み合わせに私は魅了された。

そしてこのときの気持ちは一体何なんだろうとずっと考えていた。

なんてかなしいのだろう。寂しくて悲しくてせつなくてやりきれない世界や人生の何もかもが無意味に終わってしまったという感覚と、何もかもこれから始まるのだという未来の可能性の朝が新しく新鮮に輝いて見えるその矛盾が一致するところに発生するナニカ。ここにはなにかとてつもなく新しい未知と可能性と無限が輝きと美しさの中に存在している。未来が過去を飲み込んで過去が未来をのみこんで双方が違うものに止揚されるところ。虚無の反転するところ。存在と無が絶え間なく交互に明滅するという矛盾のスタイルを背負った存在としての「わたくしというげんしゃう」(賢治のアレ。春と修羅の序の、曼荼羅やインドラの網を思わせる存在認識の構図「有機交流電燈」な。)

私は体感する。この日常の中に。
場所に飲まれることを自覚する、場所に支配される己の存在のパーツとしてのある種の矮小さを、支配されている、パーツとしての、なのに支配しているものと私が同一である感覚、これはいわゆるマクロコスモスとミクロコスモス、アートマンブラフマンの一致するところとして古今東西の人々が必死で言いあらわそうとした論理、論理を超えたその矛盾のところにある純粋な「感覚」、決して孤独であり得ない孤独の、その幸福感のことをいうものなのではないのか。

何もかもが肯定される場所、人々はあらゆる文化、宗教、学問、物語をもってそれらを言いあらわそうと存在を示そうと存在を確実なものとしてつなげていたいと願って歴史を刻んできたのではないかと思う。日々の中に、些末なひとこまひとこまの一瞬の中にそれぞれが永遠が属しているというその感覚を、それが至福であるという感覚を。

永遠の現在、と西田幾多郎が言ったものの構造のことを考えている。
すべての知は、敬虔で純粋な存在の喜びのために。

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台風一過の青空の朝、夏と秋が行き交う気配がした。
朝のごみ捨てのときマンションの中庭の木洩れ日が揺れるのを眺めその中をゆらゆらと歩くときこんな幸福の構造について考える。

それは、夏の終わりに少し似ている。終焉。世界の終わり。
それが終末感に重心を置いたものか再生の予感に重心を置いたものか。情趣はその振幅の中に揺れる。

ムーンライダーズの「9月の海はクラゲの海」だ。
夏の終わり。ここに再生の予感は読み取りにくいかもしれない。だが歌詞はうたう。このリフレイン。

Everything is nothing
Everythingで nothing
九月の海はクラゲの海♪

そう、「色即是空 空即是色」。

ひとつの世界の終焉、ひとつの存在の終焉は、別の論理の中で新たなる形での存在の再生でもある。たとえばここで己の個としての死は個自体の、アイデンティティ自体の枠組みが意味を成す一つの世界の存在のかたち、その論理基盤をもたなくなるために死すら意味することができなくなるところに意味付けされてゆく。

世界は再生する、存在は永遠。(けれどそこに今のスタイルの自分はいない)

 *** ***

…これは作詞がサエキけんぞうなんだけど、同じく彼が作詞して歌っているバンド「パール兄弟」の「色以下」にも印象的なリフレインがある。

Less than colour 
色以下 色以下
(本当に欲しかったものは色以下)
(肉眼で見えなかったものは色以下・動いてもとらえきれない快感)

 *** ***

物語をつくるもの、詩人、アーティストたちは皆己の五感を研ぎ澄ましその感覚の源泉をとらえようとする。既成の社会的な枠組みの物語としての五感(視覚が捉えたこの刺激、これは赤色だ。という物語の判断と認識)に捉えられてしまう前のその官能の源泉をとらえようとする。カオスからコスモスが生まれる現場をとらえようとする。五感以前、或いは超・五感。

それは常に現場であり常にオリジナルである意味発生の現場性のところにある。歌われるごとに鑑賞されるごとに読まれるごとに発生する神話的現場。暗喩に満ち可塑性に優れた意味と官能、物語の始まり、ダイナミクスのカタマリ。

賢治の「春と修羅」のカーバイト倉庫にも似た構造が透けて見えるのを私は感ずる。

 *** ***

まちなみのなつかしい灯とおもつて

いそいでわたくしは雪と蛇紋岩(サーペンタイン)との
山峡(さんけふ)をでてきましたのに
これはカーバイト倉庫の軒
すきとほつてつめたい電燈です

     (みぞれにすっかりぬれたのだから
      烟草に一本火をつけろ)

これらなつかしさの擦過は
寒さからだけ来たのでなく
またさびしいためからだけでもない

 *** ***

これは初版本のものだが、後に賢治自身が徹底した推敲を加えた「宮澤家本」では後半がこのように変えられている。

 *** ***

汗といっしよに擦過する
この薄明のなまめかしさは
寒さからだけ来たのでなく
さびしさからだけ来たのでもない

 *** ***

「なつかしさ」と「なまめかしさ」。
この変更を私は非常に興味深く感ずる。感官を擦過するなまめかしさがなつかしさとその源をおなじうするという感覚。官能と精神性の関係性、そのバランス。

分岐以前、「色以下」だ。
始まりと終わりが同期する存在の場所。

 *** ***

ヤマボウシ(甘くてうまい。小鳥との争奪戦)もほんのり色づいてきたし、大好きな無花果のはしりも店頭に並んできた。昨日は初梨。西瓜や桃とのお別れは寂しいが無花果や栗を希望として今日明日を生きねばならぬと思う。

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ショーン・タン

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さて、先日帰省した。こないだ実家で導入したおニューのパソ君にまつわる(周辺機器含めた)一切の設定その他のデジタル関係引っ越し作業一気に請け負ったんである。

疲れ果てた。
が、大層喜ばれたんで、まあえがった。

 *** *** ***

というこれはこれで、要するにのそのそと実家地元町立図書館へでかけたということなんである。(どこに行っても図書館をチェックするタイプの人間なのだ。)図書館にはそれぞれご当地な品揃えの個性があっておもしろい。絵本やアニメーションで大好きなショーン・タンのスケッチブック「烏の王さま」も発見したのでついでに借りてみる。

期待せずに開いてみたこれが意外にヒット。彼の作品の圧倒的なイマジネーションの奔流の秘密についてあれこれ考える機会になるような、実に興味深いものであった。ああ、この人の作品たくさん観たいなあ、なんてあらためて思った。絵本も映像作品も。

絵本を見るとこれの映像が見てみたいな、と思う。映像をみると絵本としてのスタイルについてのあれこれを想起させられる。

永遠に続く夜、静かな地下のバーで壁一面に彼のうつくしい作品を無音で流し続けている、そんな場所にいたいという夢を見る。

 *** *** ***

「絵を描くとき何が楽しいといって、意味はいくらでも後回しにすることができて、ひとりスケッチブックと向き合っているあいだは何か特別なことを¨言う¨必要に迫られないというところだ。(中略)絵の中からこう語りかけてくるのだ『ねえ、これは何だと思う?』。」

(なんだか賢治とおんなじことを言うんだねえ。)

彼にとってそれはいつでも「メッセージ」というよりは「問いかけ」なのであるという。彼がお話を作るのはこの問いかけに対しての答えへの試みなのであると作者自らがこう語る。「まずありき」の与えられた己のイマジネーションのその意味を知りたくて、それでお話を感じ考えてしまうのだ、と。彼の絵は観るものに物語を感じさせ、考えさせる多義をはらんだ「問いかけ」、混沌からコスモスへと生まれ出ようとする力の源泉の噴出する場所、そのトリガー。お話を拵えるとき、彼は既に読者である。世界と遊ぶ者。世界を遊ぶ者。

「文脈の束縛から解き放たれて、観る人の想像力にゆだねられたこれらの絵は、一つひとつが¨まだ語られていない物語¨の入り口なのだ。」

これは、メディアとしての¨テクスト¨(ここではイメージ、絵)(要するにシニフィアン)が共同作業で作者と読者がお互いの共有する地平を乗り越え第三の止揚空間「読書の現場」を作り出す創造の構造をそのまま表した言葉である。

そしてここで興味深いのは、彼がこう述べているところにある。
己のテーマがどこにあるのかを発見するくだりである。それは、

「自然の形と人工物の形のあいだに生まれる対立関係で、このテーマは僕の絵や物語にも繰り返しあらわれる。人や動物を描くのには、それとはまた別の根強い興味が働いているーー個々の人間や動物が、互いや周囲の環境とどうかかわっているのか、また彼らがある場所に対していだく¨帰属¨の意識とは何なのか。」

「間」なのだ。
自然と人工、人と動物。その間に生まれる関係性と、それらを囲む世界全体との関係性。三位一体とでもいうべき世界全体の、三者ダイナミクスから生まれるその¨在り方¨、構造を捕える意識から彼の絵は生まれてくる。

そしてさらに、そこに在る「帰属、懐かしさ、慕わしさ、愛おしさ、安心、己の居場所」という感覚。帰属意識、それは或いは存在を許されている愛されているという、存在自体へのアプリオリな全肯定。あらかじめ絶対的に許されている。原罪は既に贖われている、という感覚。己は世界の一部である。すべてはそこから始まり、終わる。カオスから生まれ、カオスを故郷とし、そこからの対立によって存在し成り立ちながらその故郷へ還ってゆく、存在という世界構造。意識、無意識の関係性の成す構造もこれと同じものだ。対立しつつ、抱かれつつ。

彼は述べる。

「意識と無意識をつなぐ道路に向かって開く、小さな窓のような落書き、こういうのを見るたびに、僕は魚釣りを連想する。-広い海に当てずっぽうに糸を垂れ、何かを釣り上げるのに似ているから。意味のないはずのところに意味が生じたり、たまたま隣り合わせた無関係のイメージから予期せぬ効果が生まれたりして、それまで波の下に隠れて見えなかったアイデアが釣り針にかかるたび、僕は新鮮な驚きを感じるのだ。」

世界の発見。絶えず新鮮に生まれ続けるもの、己との関わりのあいだに、その時だけ立ち上がる「永遠の現在」という世界の在り方…芸術という行為は、鑑賞者であり創造者であるその止揚されたところ、狭間にある主体と客体の間の溶け合う場所を得る行為なのではないか。「読書の現場」という、世界の、存在の祝祭空間、讃歌である。

神をたたえるために人間はある、というキリスト教に顕著な宗教の智慧というのは、この「存在の祝祭=幸福」を得るための方法論のことを言っているのではないかと私は考えている。あらゆる学問、哲学も芸術も宗教もすべてはこの、自他を乗り越えたところに目指される幸福に支えられた、その上で耐えられてゆく日常現実の絶え間ない創造のためにある、と。

 *** *** ***

で、まあこの総論的なショーン・タン論の上で、各々の作品の各論的なるものがあるわけで。

以前読んだ、前述した「帰属意識」を前面に打ち出したと考えられる絵本については私も当時すでに記録していた。「アライバル」が例示される。

記事はここ。

もちろん作品ごとに、微妙に読者対象とテーマはずれてゆく。どれもが素晴らしく味わい深い。

例えば、「夏のルール」。

少年(小学校低学年男子と推定される)の夏休みのイメージをさまざまに連ねた絵本。これは問答無用に力業な圧倒的なリアリティのイマージュ、夢の論理に近い。

…記憶、クオリア、完全でピュアな観念、イデアにちかいところにあるイメージ。過去は記憶の中で夢と想像と現実の境界を越えた一つの完全に個的で完全に自我をこえた時空、アボリジニのいう「ドリーム・タイム」に似たところにある特殊な神話的物語時空を形成し続けている。

読まれるごとに「永遠に現在する」読書の空間、それは、己の「イマ・ココ」の現実を実際に左右するエネルギーに満ちた、その源泉であり、現実を「読み替える」ための技術としてとらえることができる。一般に言われる「癒し」というユルい感覚的な言葉も、その語の定義の論理をトコトン突き詰めればこのようなラディカルさに行き着くはずだ。自己破壊の恐怖をも孕んだ解放の物語の源泉。

圧倒的なイマージュ、自我を形成していながらそれを越える境界線を描くところにある、それは例えば子供の頃の夏休みの記憶の風景。既に心象風景に近いもの。世界はひたすら無限で未知でわくわくする未来と可能性に満ち、とても怖く、けれど、楽しいものとして意味を織り込まれて在る。

ここで私がショーン・タンが大好きだと思う重大な彼の特徴がもうひとつある。そのイマージュの織り成す物語の最後が必ず優しさへと希望、未来へと読み替える祈りに繋がっているところだ。(最後のこれは「恣意」だ。)

さらに言えば、これを読んで脳裏につるりと繋がった意味構造が私の中に浮き上がる。ショーン・タンの切ない優しさの秘密と、私のバイブル安房直子さんの作品群に共通に響くもの。彼女の作品にも同様な構造があると私は考えたのだ。

つまりそれは、茫漠とした破壊や死や虚無をも孕んだ世界への恐怖、そして世界以前の怖さやそこにあるマトリクスの恍惚をそのままに見据え、最終的には何もかもを受け入れながらも、それがすべてを包み込む祈りのようないたましい優しさに覆われているところにある。つまりそれが「美」として表現されているかたちのところにあるのではないか、という…私のこれは仮説である。(確信である。)

世界のうつくしさ。優しさ。すべてを包み込む母のような。切なさもかなしさもあじきなさもやるせなさもすべてすべて昇華し包み込む、それはどこかあきらめにも似た痛みを超えたところにある超越時空。

絵本、という絵画の体裁のなかにそれは仕込まれることができるし、そのとき同時に大抵は物語、テクストにも同じものが仕込まれている。

この本では、非日常としての夏休みのわくわく、日常から離れ、妖怪や妖精、付喪神的なるものへの感覚に根差した家の中のミステリー、夜のミステリー、街のミステリー、お祭りのわくわく、…そしていさかいや孤独の牙城に閉ざされる心理的イメージの物語の中に仕込まれたものとしてそれはある。

そして最後の「優しさという祈り」は、己の孤独に閉じ込められた少年を、命がけの勇敢な冒険によって救ってくれる英雄的な兄の姿として描かれているものだ。

 

…或いは「レッド・ツリー」。

繊細な感覚を持った若い女性の日々、世界から拒否されるような孤独と恐怖の日々を救う仕掛けが絵本のスタイルならではの非常に巧みなもので、ストーリーを持った絵画としてそのままの「美」として言葉以前に心に響く。短い言葉すらデザインされた絵画の一部となっている。…「うつくしい」のだ。恐怖すら。

朝、部屋を出てから絶望と恐怖のモンスターの徘徊する悪夢として描かれる彼女自身の日常の一日は、そこをさまよう小さな頼りない少女の姿としての己を暗い色彩で寂しく描き出す。だが最後に「それらすべてを最初から」読み替えるための美しい輝きとしての「レッド・ツリー」が実は最初の頁から仕込まれていて…

絵画として味わうべき絵本ではある。


で、最新作「セミ」。

非常に短い。絵本としてもテーマとしても個人的にイタいとこであまり好きにはなれないが深い寓意に満ちていて、やはりラストの一種の「どんでん返し」シーンの絵画と言葉のコンビネーションからなる物語の壮烈さが深々と心に沁みてきて、どこか心の中がかきみだされるものである。

現代の人間社会のシステムの中で踏みつけられ使い捨てられた命が最後に人間たち自身が隷属するその社会を笑い続けるところへと空高く飛翔し昇華されてゆく、その構図のままにさまざまに解釈されてゆく痛みの物語。

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おうい雲よ

…って言いたくなる空だなや。

 

夏キライ、猛暑辛い。バテバテ高温多湿キライ早く秋風…とは思うけど、やっぱりスコーンと青い夏の空、まっしろくてもくもくの雲、8月の夏休みの空は好きである。(特にまっさらできらきらの朝、そして長い長い夕暮れ)(湿度さえなければ、こんなに強烈な猛暑でなければ、きっと江戸時代くらいの夏だったらオレ夏好きなのかもしれぬ。ただし限定一週間、長くて二週間。)

おうい雲よ、の有名な詩は山村暮鳥
「いちめんのなのはな」の人だね。

このひと、こういう小学校一年生の教科書に出てきそうな素朴で優しい牧歌的風景を描く詩の人として有名だけど、実は若いときは先鋭的で、前衛的、アグレッシブな実験的詩作の人だったそうな。「聖三稜玻璃」なんつう難解な詩集を出している。青空文庫でこの詩集ながめて「おうい雲よ」とのあまりの格差に、若気の至りと年老いてからの境地という、さもありなんな話とはいえちょっとびっくり。

いやまったく違うってわけじゃないし、(実際「なのはな」はこの詩集に収められたもので、なるほど実験的スタイルであり、知に角が立った病める月のイメージなんか仕込んでたりする。)これはこれでなかなか面白い詩集ではあるんだけど。なんというか、世界に抽象的概念を一生懸命読み取り盛り込み感じようとする。おそらく文芸への新しい可能性を追いかける時代の流行ってのもあるんだなあ。…こういう感じね。

 *** ***

  十 月

銀魚はつらつ
ゆびさきの刺疼(うづ)き
眞實
ひとりなり
山あざやかに
雪近し。


  印 象

むぎのはたけのおそろしさ……
むぎのはたけのおそろしさ
にほひはうれゆくゐんらく
ひつそりとかぜもなし
きけ、ふるびたるまひるのといきを
おもひなやみてびはしたたり
せつがいされたるきんのたいやう
あいはむぎほのひとつびとつに
さみしきかげをとりかこめり。)

 *** ***

…で。

つまりだな。

こういうタイプの転向ってなんか好きである、自分。
なんというか、抽象的な概念をこねくりまわして、言語のスタイルをこねくりまわして、事象に、世界にあらゆる意味を重ねる試みの正しさにおぼれ、そして疲れ、新しいステージとして何かもう一段階深いかたちで、抽象と具体を溶け合わせた第三のフィールドとして一見「平易な風景」へと回帰するように見えるアクション。「舞い降りる翼」的な、その懐の深い優しさ、のような長い時間の果てにあるもの。

個我の、その日常に感じる牢獄の苦しみ、それをもがきながら破壊し、個のかたちの現実での破滅を意味するその外側を知覚する恐怖とその向こう側にある真理や解放の祝祭へ、…そしてそれから再び見いだされる故郷としての日常へと「再生」する。その螺旋。まったくあたらしいかたちで。

日常現実破壊から、そこへの回帰への運動、具体から抽象へ、そうして再び具体へ。
死と再生。現実のくびきから飛翔する翼の強さ、そして再び新たなかたちでの自由を孕んだまま舞い降りる翼の強さ。

それはおそらく、創造、という力の示すもの。

螺旋を描き現実の平易に回帰してくる者。けっして「若気の至り」「あの頃はやんちゃして」というレヴェルの過去への安易な甘えや怠惰や否定を持たない。既存の型を壊し、生き生きとした存在としての風景を「発見」する「創造」という体験はそのまま生かされている。そしてそれらすべてをインテグレートし統合する回帰の姿が、雲や菜の花、故郷の風景であるという構造。このような優しいテクストとしてコトバのファンタジーの、シニフィエシニフィアンの結びつきへのセンスオブワンダー、その原点としての詩作という芸術スタイルにもどったものであるという構造。

…そう、好きなのだ。これが、このような、二項対立を止揚してゆく世界の読み替えという再生の物語を孕んでいるようだから。ひとつの人生の季節をめぐるものがたりとして。

とりあえずちらっと詩人の略歴を拾ってみた。
サライ」web記事から。味気ないwiki的なものより素敵にまとまっていたから。


「大正3年(1914)萩原朔太郎室生犀星と、詩、宗教、音楽の研究を目的とする「人魚詩社」を設立。その後さらに、第2詩集『聖三稜玻璃』の刊行で、先鋭な表現意識による前衛的挑戦を繰り広げ、詩壇に大きな波紋を投げかけた。多くの非難を浴びる半面、「日本立体詩派の祖」とも呼ばれた。

大正9年(1920)、胸を患った36歳の暮鳥は、職を解かれる形で教会を離脱。暮らしを立てるため、童話や童謡にも手を染めていく。長からぬ余命を自覚することで、詩風も自ずと変化し、枯淡の中に清明の味わいを醸した。

掲出の『雲』と題する詩がその典型。ここには、無垢なる童心にも似た、東洋的な無の境地さえ感じられる。かつて先鋭的技巧に突っ走った暮鳥が、この頃は「だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない」とも語っていた。

大正13年(1924)師走、暮鳥は41歳の誕生日と詩集『雲』の刊行を目前に、生涯を閉じた。」

 *** ***

このね、「だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない」という科白。これがものすごく気に入ったのよ、ワシ。

本日の大ヒットである。

死を前にして、何もかもそぎ落としたとき、くすくす笑いたくなるような優しい楽しいうつくしい風景を、幸福を、個の形を、己の人生を、世界まるごとをこんな風な風景の物語に回帰しあるいは見出す感覚。それを幸福と感じている幸福。子供と老人と死に近いものだけが持っている視線なのかもしれない。死後未生のそのふちにちかいもの。

存在自体を美と歓びとしてとらえるという幸福を感ずる能力。或いはそれは、老人だけがもっている己の中のこどもの再発見、という構造の中にのみ存在しうるものなのかもしれない。

 *** ***

「雲」

丘の上で
としよりと
こどもと
うつとりと雲を
ながめてゐる

  おなじく

おうい雲よ
いういうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平の方までゆくんか

***

「風景」

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな

脳足りん (どんぐりと山猫・ほんとうにほしいもの)

脳足りんが嫌いである。
ものすごく嫌いである。大嫌いである。これこそが諸悪の根源であると思っている。

まったく実に切実な話なのだ。実害が酷すぎる。

…だがふと我と我が身を振り返ってみると、己が脳足りんでないとは決して言えないと言う事実に直面せざるを得ない。これでは絶望に至る道筋である。

だってさ、自分が一番嫌いだなんて結局世界全体全てが嫌いだなんてことにもなりかねないではないか。やりきれない。

 

だが。
だがしかし。

 

だがしかし、なのである。

なんかね。つまりね、そうやって決めつけきれないとこがある、っていうのもまた確かなのだ、と思うから。

その「絶望に至る脳足りん」とは、単なる一つの論理地平、論理基盤によって成立するひとつのパーツとしての概念に過ぎない。そう、それは個に属するものでも存在そのものの本質として語るべきものでもない。これも確かなのだ。寧ろ構造として語るべきものである。…ではでは、ということならば。

ここで救いの方向性を探す、ということでがっぷりと考えるべきテーマは「脳足りんとは何ぞ」。

最近心身の弱りとそのお脳の弱りも加速度がついてきたことでもあるし、昨日からずっとこの脳足りんという言葉についてものすごく一生懸命考えていたんである。

私の考える私の憎んでいるその「脳足りん」とは一体何なのか。機能としての脳足りん、精神性としての脳足りん、脳足りんをめぐる考察。

 *** ***

…いや例えばさ、こないだうっかり韓国ドラマを観てしまったんだけどな。そいでヒロイン、というかヒーローの運命の恋人のキャラクタ設定があまりにも脳足りんなんでなんかイライラしてしまってだな、ということがある。

恋敵役の女性の方がずっとかっこよくて一途で魅力的で愛しくて健気で「こっちにしろよ」とかすごいもどかしかったりしてて、まあそういうことで「脳足りん」とは何かというところに思考の焦点が合いましてな。(これではわかりませんな。)(イライラしたのはそのヒロインの、主人公ヒーローの真心も愛情もひととき通じ合ったはずの心のことも周囲の罠によるほんのちょっとした誤解でたやすく疑い裏切りと決めつけ聞く耳も持たなくなる、直接己の心身の、感官の触れた相手を信頼しない阿呆さ。)(こういう人間は怖い。)(己の感官による直観とによる判断からくる知性の基準で人を見ない、周りの拵えあげたイージーな物語の評価と価値基準によって己の頭で考えることなく他者を疑い判断し裁く、オルテガのいう悪しき「大衆」に通ずる脳足りんさである。)(その外側としての「事実」の可能性の存在に「考えが至らない」。)(閉ざされた怠慢な思考スタイル。)(井の中の蛙としての正義の思考)(=外側に対して脳が足りん、なのだ。)(こういう脳足りんは信頼にも愛情にも値しない。)(彼女は賢いというキャラクタ設定だがそれはここでそれはまったく説得力を持たない。)(脳足りんとはここで知能指数的なるものではなく人間性に直結してしまう知性に関する言葉となる。)(そしてそれは韓国ドラマ的なる人間ドラマに必須の、物語をおもしろくするための原型的定型としてナラトロジー的に解釈することが可能となる、個ではなくすべての人間に適用可能な性質としての脳足りん、という概念に至るものなのである。)

→(以下少々蛇足)

脳足りんという言葉自体はワシは結構好きである。(たらふくとかしこたまとかあんぽんたんとかすっとこどっこい、こういうのも好きである。そういう語彙をもっともっと自在に繰り出せるように私はなりたい。豊穣な言語世界へと飛び立ちたいという純粋な欲望。あんぽんたんワールドへの憧れの翼。)(寅さんの口上とかもうほんと尊敬の憧れ。)(思うに、書き言葉《エクリチュール》ではなく話し言葉の中には《パロールの現場ね。》二極の美学があるのではないか。むしろエクリチュールに属するものとしての、訥々と丁寧に選ばれる意志と思惟との「個の知」を示すスタイルをもつ面と、立て板に水、流れるような、既に個の思考をはみ出した伝統や慣習、パラダイムに属したものである定型、「場の知」を示すもの、そのスタイル。《定型》)(そしてこれは人は如何にそれを己と世界の関係性に合わせて「現場を構築」するか、という問題に関わる文法としての美学である。)語彙としてはまあ特に特異なタームであるということではなく、要するに馬鹿(莫迦)とか阿呆とかアホとかバカとか蒙昧とか愚鈍とか、まあ一般に愚かしさ一般のシニフィアンなんであるが。(ノータリンと表記するとまた昭和的な別のニュアンスが加わったりして味わい深いんだが個人的にここでは漢字表記にこだわってみたい。カタカナ表記とのニュアンスの違いを楽しがりたいんである。)

閑話休題

お陰で先日友人と近所の居酒屋で飲んだときの話題は「皮膚感覚としての知性と精神性としての脳足りん」ということになった。大層盛り上がった。これはこれで楽しかった。

そう。私がここで言っている感じているもの「脳足りん」と名付けたその感覚、感じ取ったナニカ、その構造と概念は何か、なんである。この言葉をそのナニカに恣意的にかぶせてシニフィアンとするアプローチ、そのような手法を以ってその正体、シニフィエを突き止めたいと思ったのだ。このイラつき憎しみ哀しみそのわろきものの構造の正体を。

それは、例えば「無能」という概念と対比されることによってその性質をクリアにされることができる、かもしれない。「脳足りん」は「能足りん」なのではない。能が無いというのは脳が無いのとはまったく意味が違う。それは「わからない」のではなく「できない」という感覚を意味する言葉なんである。「無能」はあくまでも「能わざる」、なのだ。能力、テクニック、手足がないのだ。一方、「脳がない」のはシンプルに言って文字通り物理的欠損、障害である。どうにもならんのだ。わからないのだから。…言い換えよう。そもそも自覚できないのだから。そもそも認識できないのだから。換言すれば知らぬこと、できないこと、してしまっていることを自覚していないことを脳足りんというのではないかという仮説が成り立つ。(自分が一体何をしているのか、自分の言動が世界に何をもたらしているのか、…相手をいかに傷つけているのか。罪を犯しているのか。)

だから己の無能さを自覚するとき必ずしもその人は脳足りんではない。むしろ脳があるから己の認識の外側という存在を感覚することができるのだ。世界に対する、或いは他者に対する敬意、そして逆説的だが己の存在に対する敬意、尊厳をも獲得することができる。

宮澤賢治に「どんぐりと山猫」という作品がある。
あらすじとしては、一郎が山猫から裁判に呼ばれ、金のどんぐりたちの「誰が一番偉いか」という争いを調停してくれと依頼を受けて解決する、といったものである。

 ***  ***

「裁判ももうきょうで三日目だぞ。いい加減に仲なおりしたらどうだ。」
 すると、もうどんぐりどもが、くちぐちに云いました。
「いえいえ、だめです。なんといったって、頭のとがっているのがいちばんえらいのです。」
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。」
「そうでないよ。大きなことだよ。」がやがやがやがや、もうなにがなんだかわからなくなりました。山猫が叫びました。
「だまれ、やかましい。ここをなんと心得る。しずまれしずまれ。」
 別当が、むちをひゅうぱちっと鳴らしました。山猫がひげをぴんとひねって言いました。
「裁判ももうきょうで三日目だぞ。いい加減になかなおりをしたらどうだ。」
「いえ、いえ、だめです。あたまのとがったものが……。」がやがやがやがや。
 山ねこが叫びました。
「やかましい。ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ。」
 別当が、むちをひゅうぱちっと鳴らし、どんぐりはみんなしずまりました。山猫が一郎にそっと申しました。
「このとおりです。どうしたらいいでしょう。」
 一郎はわらってこたえました。
「そんなら、こう言いわたしたらいいでしょう。このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説教できいたんです。」

 ***  ***

途端にどんぐりたちはみなその生命を失ってただのどんぐりになってしまうのだ。

…非常にさまざまの読み方ができておもしろい話ではある。
ひとつの読み方として、この「価値観の相違からくる、己に都合のいい価値観だけが一番正しいとする心-「金」のどんぐり(『価値』によって成立存在する者)たちが生み出す世界の争いごと」の物語である。

これは、賢治が生涯苦しんだ「倫理の相対性」とも繋がる、賢治作品の通奏低音の一つとしてとらえることだってできるのではないか、と私は考える。

限られた己の認識の姿を想像だにできない「脳足りん」たちはそこ(己のアイデンティティを形作っている論理基盤を超えたもの)を指摘され認識しようとするとその個としての存在を失ってしまうのだ。

「いちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらい」
無能者である。デクノボーである。虔十(虔十公園林)である。

 ***  ***

極言するようであるが、ここで脳足りんは己が無能であるとこがわからないことを言う、知らないということを知らない類の、己の認識行為をメタ認知することのできない無知のことを言う、己だけが正義を知る王であり他者に対してどのような暴虐、仕打ちを行なっているかを知ることができない、そのような阿呆っぷりに対する罵詈雑言に類する批判を孕んだ言葉なのである。

だから冒頭で述べたようなその「実害」とは全ての不都合は自分以外のもののせいであり他者を非難攻撃することがこの世の正義であると思い込んでいるところからくる。お近づきになると大変な災害に見舞われる。

脳足りんとは欠損である。己の内側のアポリアを見つめる眼差しを持たず、全ての正義の論理は完結して己の内側にあるという考えの外への視点の欠けた思考スタイルの欠陥、悪気と自覚のないばかりに悲しいほどに痛ましい浅はかさや醜悪さを晒した恥知らずで傲慢な正義の別名である。外部或いは他者という概念を想像すらできないのだ。

(「想像力の欠如」と村上春樹は確かこう言っていた。すべての暴力とわろきものの根源。)

アプリオリに正義と真理が己の中にあるところから始まる演繹的思考スタイル。思考の演繹スタイルにおける欠陥は、その最初の命題、前提としての命題に誤りがある場合、そこから構成されるすべての思考に意味がなくなるところにある。そしてそれはまた必ず他者を損なう力として作用することになる。

「ぼくちゃんが理解できることだけが、ぼくちゃんの正義だけが正しく世界の正義である。ぼくちゃんの正義を同じように信奉しないものは馬鹿で悪」という土台としての命題から始まる議論には全く意味がない。そこに対話はない。他者との対話は成り立たないのだ。

私はこの思考法を脳足りんと呼んでいる。

おそらく。

 ***  ***

で、前述したようなこの構造から導き出される「機能としての脳足りん」ね。
己の自我と正義のステレオタイプの枠組み、自尊心を守る防御の機能、そしてそこに己を閉じ込め蒙昧の牢獄としての機能、人はその中でたやすく権力に操作される大衆と堕することができる。

「防壁」としての脳足りんの、精神性において二つの側面を持つ機能である。

ジャーナリズムとメディア論に通じたリップマンはメディアで操作される大衆のステレオタイプの情緒的世論について著書「世論」でこのように述べたという。(こないだ「100分de名著」の録画「100分deメディア論」観だしたら面白くって。)

『偏見を打ち砕くことは

我々の自尊心に関わってくるために、はじめは苦痛であるが、

その破壊に成功したときは、

大きな安堵(あんど)と快い誇りが与えられる。』

 ***  ***

そしてそれは、銀河鉄道でジョバンニが鳥捕りに問うたあの問い「ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですか」或いは「ほんとうの幸」へのその問いとまなざしの欠如と重なるものとして考えることができるものなのではないか。その「脳足りんの枠組み。限界」を超えるというテーマは、現実とされる既成のステレオタイプな価値観に彩られた(例えば経済、例えば名誉、例えば虚栄)日々の生活の中で眼のふさがれた蒙昧としてとらえられるものだからだ。(鳥捕りのエピソード、っては何にしろアンビヴァレンツに満ちたような、なんとも噛み応えのある難しいテーマを孕んでいる。イメージの不思議さも相まって魅惑的なんだよな。)

だんだん風呂敷が広がりすぎてきましたが。

 ***  ***

…ジョバンニはなんだかわけもわからずににわかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたように横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一一考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですか、と訊こうとして…

 ***  ***

ほんとうにほしいもの。
例えば相手の愛情と信頼が欲しい、尊敬を勝ち得たい。愛されたい。

そのとき、脳足りんのアタマには、脅しと暴力とマウンティングでそれが得られるなんていう阿呆な考えがどうして発生するのだろう。簡単にまず相手を下においてみる、己の力の優位性を確保する、その上で相手をコントロールする、という最も脳足りんでストレートな幼児性を持ったやりかたに走る。方法論に走る。支配したい、優位性を感じたい、屈辱を味わわせたい、という形をとったように見える歪んだ欲望のその深奥にあるピュアなもの、「ほんとう」。ただ、愛されたい、限りなく徹底的に(存在まるごとを)許されたい、自分の思う通りのものであってホシイ…愛らしい、美しい思いではあっても、ここに「他者」は存在できない。「脳足りん」なのだ。「ほんとうの幸」を見失っているひとたちの姿の脳足りんなかなしさは(自分も含め)ただかなしい。

 

これって一般に小学生男子に顕著であり、成人男性においてその精神構造の基本となっている思考法であるように見受けられるんだな、特にね、どうもね。(イエすみません偏見わかってますちょっと今歪んでます、いろんなトラウマとかで。あくまでも人間性と個性の問題なのでひとくくりにすべきではないのですがもちろん。地図が読めないナントカみたいなのとか日本人はこうアメリカ人はこうとかいうステレオタイプの思考停止みたいなカテゴライズもまた脳足りんの一種ではあるんだけどさ。)

 

疲れた。梅雨早く明けてくれお天気人間青空とおひさまがないしおれてしまう。

 

紫陽花ももう終わりだよ。梅雨明けしたっていいと思うんだけどな。
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