酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

レーゾンデートル

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毎年、9月の声を聞くと自分の中で解禁される歌がある。

9月の海はクラゲの海。」

ムーンライダーズ

 

これを聴いていて、原点ということについて思った。

高校の頃の風景、この歌を、このバンドを教えてくれた人達との出会いのシーンのさまざまを思い出した。この歌を聞いてきたとき思い描いた風景と、その時の自分と自分を含んでいた世界のまるごとのことを。

校庭の夕暮れ、その光の色、風の匂い、自転車置き場と駄菓子屋のアイス、語り合った夢や小さな恋やなやみごと。夏の光、秋のかげ。

過去も未来も現実も夢もそこにある。過去にみられた未来の夢は永遠に無限の可能性をもったまま損なわれることのない、完結した世界。一旦存在した現実や見られた夢はすべて存在した、それだけのものであり、そしてそのリアルは決して損なわれることはない。

…存在という概念のことを考える。

世界は、所与のものなのか?それとも、意志によって、自覚によって存在するのか?

どちらでもある。
けれどそのどちらか、ではない。

意志によって存在意志によって存在をあるべくあらしめるものとしてある。
(「羊をめぐる冒険」の「鼠」の信じる世界の存在の形のことを、彼のあの徹底した弱さと強さのことを考える。「俺は、俺の弱さがすきなんだよ。苦しさやつらさも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。」)

「どうしようもなく好きなんだ。」

それはそのとき超越として存在するレーゾンデートルである。唯心でもなく唯物でもなくそのどちらからのアプローチによってもアクセス可能なチートな存在のかたち。存在を始めたときそこには既に事実としての歴史がある。(ここには論理的には飛躍がある。それは意志や祈りと呼ばれる主体という力の介在を意味する。)

賢治の解釈した法華経的世界観による存在論はこのようなものではないか。「存在が始まったときそこには既に歴史がある。」感覚。あるいはそれは西田の語る「永遠の現在」に通ずる世界のかたちでもある。そして一旦存在したものは決してその存在自体を否定されることはできない。(これじゃナウシカだな。)

…そのような私の存在証明であり存在理由であるところのものを確かめる。
そうだ、そのために私はこれを聴いているのだ。

 *** ***

古式ゆかしくカセットテープを誕生日に贈られた。ものすごい思い入れのたっぷりつまった癖字が便箋にぎっしり書き込まれたレビューがそのまま長い手紙になって入っていた。これがムーンライダーズとの出会いである。

これらの歌に包まれた私の人生の基本があそこにある。その手紙を書いたひとがもうこの世にいないということが私にはよく理解できないし、これからも理解することはないと思う。それは、大切な人であったとか恋人であったとかそういうことでは全然なくて、単純に、誰一人あの風景の中のものは欠けてはいけないのだ、あのとき存在していたものが既にないということがすべて私には永遠に理解できないということだ。

個としての、あるいはそれ以前に繋がるものとしてのもっともっと深淵な人生の原風景的なるものとしてはもちろんもっともっと深いもの、もっともっと前の混沌のところにあるのだけど。

だけど。

喪失のことや存在のことやうつくしさのことや楽しさのことやさまざまを概念から感情の原型を育てた人生のエッセンスを学習していたアドレッセンスがあの風景の中にある。あの時触れたすべてのモノに人に風景に宿っている。歌は歌われるたびに本は読まれるたびに、一生「現在」する。例えばそれはアボリジニたちの言う「ドリーム・タイム」のひらく神話的空間のように「イマココに存在」し、「イマココ」を支えかたちづくる力となることができる。

「物語」。


(因みに元旦には「マニアマニエラ」や「青空百景」を聴くことにしている。「トンピクレンっ子」と「物は壊れる人は死ぬ三つ数えて目をつぶれ」がミッション。あれでやっと私の心は元旦を迎えることができる。)