酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

漱石忌

毎年12月8日には、太平洋戦争開戦の日であることととジョンレノンが狙撃された彼の忌日であることをしみじみと思い出す。

8月の壮大なセレモニーが行われる、あの惨劇に向かった戦争がはじまったこの日は誰も何も言わない、意外と知られていないので、ひとりひっそりと想像する。レノンの周りの人々、そしてニイタカヤマノボレ、トラトラトラの周りの人々。時代の匂いのこと。

底冷えのする静かな12月、奇しくもその日がレノンが銃殺された日であることを何かの符号の一致のように毎年考えてしまう。

何にしろ、なんだかココロは「戦争と平和」。
始まりと終わり、夏と冬、戦闘モードと平和モードの変遷。殺戮。過去と現在、未来のつながり。すべては人の心の中にあったもの。それが拵えあげたモード、さまざまに拵えあげられる歴史というもの。

 

そして翌日は、さらにひっそりと、漱石忌

大学時代、私がハマったのは、問答無用にまずは力技でヤラれてしまう漱石と賢治である。

文学部の中ではハナで笑われてしまうような、ミーハーで浅はかであると思われてしまうような嗜好ではあるんだが、正直言って実際そうなんだから仕方がない。(周囲の人間はもっとツウ好みの渋い文学部マニアック指向の嗜好をもっていた。普通の人は知らないだろう、読んだことないだろう、というような、教科書の文学史で名前だけ知ってるような。専門家らしくて学者さまぽくて憧れるけど羨ましいけど仕方ないものは仕方ないのだ。)

全然全く畑違いの二人ではあるが、共通している点を挙げるとすれば、いわゆる当時の「文壇」とは距離を置いていたということ、漱石は、だから文学史的には「余裕派」とかいうところで独自の理知的な文学として、他とは離れて置かれた場所に分類される。要するにものすごい個性的過ぎて分類できないのだ。賢治や漱石のキイ・ワードは「異端」。(鴎外もそう、「高踏派」とか言って、まあ当時主流であった自然主義とはまったく縁を持たない、それに影響されないところにあったということで。私は鴎外はさっぱりわからんし好きになれないしおもしろくない。正直言ってどこがいいのかさっぱりわからない。美文である(そして達筆である)(字の美しい人間には共感できないというジンクスのような思い込みが私にはある。)ということしか良さがわからない。とりあえず一生懸命読んでみても「だからなんなんですか」としか感想がでてこない。…読み込んでないせいなんだろうけど。)(私のゼミの恩師は漱石より鴎外の方に惹かれておられたが。)

で、二人とも、(賢治と漱石)戦後の教科書で育った我々にとってはまるで近代文学を代表するかのような世界的な文学者、文豪としての英雄的偉人という常識のようなイメージが持たれている。その秘密ポイントは教科書や戦後教育のとこにあるんじゃないかという気もするんだけど。

で、学者とか専門家とか一部の愛好家だけじゃなくて、ジャンルを超えたところでの一般人に熱烈なファンが多い。

一般人の人生を大きく揺さぶる力を持った一般人のための英雄なのだ。アカデミズムの塔にたてこもる文学者のためだけのものでなく。生活し思想する、その日常の中での人間の感性に訴えるところにある普遍性。文学のアルケー。(初心、ってことなんじゃないかねい、その持つパワーの源泉、思うに。アルケーって語感は。)(中沢新一的解釈)

でもまあ天才は天才。

誰もが思うけど誰も言葉にできなかったところを言葉にして見せたという天才。りんごが大地に落ちることにショックを受けたニュートンみたいな素直な感性を持っていた天才。

で。

まったくちがうんだけど、実際どこがどう違うのかな、ととりあえず考えてみた。彼の忌日に。そしてひねくりだした。

ざっくりメモ。

宮澤賢治は感性寄りで、夏目漱石は論理寄りである。
いわゆる右脳と左脳で、賢治が右脳、漱石が左脳。

だけどね、ベースはやっぱり共通なのだ。幻想の「現実」という物語の枠組みの恣意性を見極め超越し、個と集団、理知と感性が一つであるフィールドに二人とも足を突っ込んでいる。「異界・幻想もの」への傾向がその共通点を示している。賢治の方がより「向こう側」にイっちゃってる。漱石はそこに憧れながら壁を越えられないところで激しく苦しむ。そしてアカデミズムとは実はそこのところから生まれるものであると私は思っている。芸術論、文学論。

私は賢治よりも漱石にシンパシーを感じるのだ。ものすごく痛ましい。が、ものすごく面白い。私にとって賢治はまばゆい驚愕の対象であり漱石には共振するところにいる。賢治の方が天才と言えば天才であり、「向こう側」への感性に素直なのだ。詩人。言葉は彼にとってふわふわと踊る世界をつなぎとめるくさびとしての性格が強い。だが漱石は言語によって論理を構築する。…彼の幻想は美しい。「夢十夜」や「倫敦塔」のロマンチシズムはたとえようもなく深く美しい。…それは苦くて重い大人の悲しみからくるから深いのだ。子供の感性を持ちながら大人の楔を打たれ逃れられない者。

だが賢治のもつ美しさは違う。純粋な喜びだ。子供の喜びなのだ。だから、憧れる。

 

ざっとね、そんなことを考えた。忌日だから。なんとなく思ってたこと。これから考えられそうなネタになりそうなこと。

f:id:momong:20181209232243j:plain

今年のミッションだったラ・プレシューズのモンブラン。栗だった。メレンゲもクリームもとってもよかった。感動した。これで安心して今年を終えることができる。

 

「コンビニ人間」村田沙耶

こないだ、ポヨンと音がしたので見てみたら、

「『コンビニ人間』という本がある。感想を教えろ。」
という丁寧なメッセージが我がiPhone君に入っていた。

知らんがな。

「じゃあ読め。」

知らんがな。

…しょうがないなあ。
芥川賞をとったらしいのでちいとネットでの評を眺めてみる。
ふうん。読んでみるか。

これもご縁である。最近決まったジャンルや作家以外のものはなかなか手が出ないのでご縁は運命と受けいれることにした。

 *** ***

コンビニ人間」村田沙耶

2016年芥川賞受賞作。

読者レビューページなんかをさあっと眺めてみると、大まかな共通の感想として代表的な表現としては「サクッと読めるけどモヤモヤが残る。」。

で、とにかく「おもしろい」と。
読了して、あれこれ納得した

 

おもしろくない。
おもしろいけどおもしろくない。

うまいな、と思う反面、この、何とも読後感の悪いからっぽのあじきなさはどこから来るのか。さくさくと口当たりはよくうまい味付けがなされているのだが後味は妙にやにっこく人工的でからっぽ。胃の腑に落ちるまでもなく大した毒にも薬にもなりゃしない。

確かにおもしろいという意見はとってもわかるのだ。
さくさく読める文字通りのおもしろさ、気の利いた乾いた笑いにも似たアイロニックで鋭い感性、時代を映す、きちんとしたオリジナルな視点、その表現の巧さ。

そう、巧さ。
時代の問題意識を映し出すものとしての「新しさ」、新鮮さ。


で、問題の焦点としては、その読後感としての「モヤモヤ」なんである。
ここに考え語る価値がある。(「試験に出ますよ~」な感じ)これは問題意識であり、問題提起への読者としての反応であるから、落とされた爆弾に対しての。

「普通」と「普通でないもの」を分別し異質を排除する現代日本の社会のありかたを、排除される側を徹底的に戯画化することによって排除するその周囲の人間をも併せて戯画化する。人並みの情緒、感情を持ち合わせない主人公古倉恵子と、社会的にも人間的にもどこからどう眺めても最低最悪底辺のクズ男白羽(この評は今まで触れた感想のなかで全読者に共通である。)の組み合わせはうまい。

…だが、この白羽が、実は出てくる登場人物の中では一番リアルに人間臭いのだ。社会の圧力やさまざまの不条理、そしてさらにいえば、それに根差している己自身に苛立ち、適応もできず、逃れることもできずただ苦しむ者。苦しみが己に向かわずひたすら己を正当化し、他者を責め攻撃する方向に向かう凡人。…このリアリティには笑ってしまう。こういう「男性」って別に底辺じゃなくても多いのだ。ペダンティックに論理を振り回しているようでいて、その実まったく論理が通っていない、己の都合に合わせて、くるくると矛盾してゆく。要するに脳足りんのひねこびた幼児性に満ちたエゴイストである。周囲の価値観にがんじがらめにとらわれもがいてさまざまの価値観と論理の間で惑い、己のアタマを持たず、都合の良い論理を探しながらただ振り回されているだけだ。これを周囲の「まとも」な人間は、キモい、と切り捨てるだけだが、主人公古倉恵子は全く情緒と感情を欠いた合理性でもって非常に冷徹に分析し論理的なツッコミをいれる。ここがアイロニックで小気味よいところかもしれない。

そうして、サイコパス古倉恵子、結局社会的に「使える者」として受け入れられ存在を認められる喜びと安寧をもってコンビニ店員のプロトコルをもって適応し生きてゆく道を見出す「非人間」的な主人公に対し、リアルな「人間」白羽はひたすら破滅するだけの哀れな不適合不良品的なる存在となって別れてゆく。

カリカチュアとして見え透いて鼻につく主人公のサイコパス強調のエピソードも多いのだが、さすがにぐっとくる感性は時折きらりと閃くように鋭い。

ビジネス街のコンビニエンスストアに向かう、その生活感を欠いた朝の風景をナマの人間性が死にゆく街として愛しむ感覚に私は共感するし、主人公の感情を欠いた冷静な分析は率直にしてシンプル、可笑しみがある。「何かを見下している人は、特に目の形が面白くなる。そこに、反論に対する怯えや警戒、もしくは、反発してくるなら受けて立ってやるぞという好戦的な光が宿っている場合もあれば、無意識に見下しているときは、優越感の混ざった恍惚とした快楽でできた液体に目玉が浸り、膜が張っている場合もある。」p63

…新入りコンビニアルバイトの白羽が店長に叱られて「け、コンビニの店長風情が、えっらそうに」と呟いたときの分析法開陳である。(この状況設定自体がほとんどギャグではあるが。)

「差別する人には二種類あって、差別への衝動や欲望を内部に持っている人と、どこかで聞いたことを受け売りして、何も考えずに差別用語を連発しているだけの人だ。白羽さんは後者のようだった。(中略)まるで私みたいだ。人間っぽい言葉を発しているけれど、何も喋っていない。」p64

白羽のノータリンぶりを余すところなく描写しているのではあるが、とりあえず、この作品、個人的には、めいっぱい批判したい、否定したい心で一杯になる、アンビヴァレントに満ちた、これは何だろう、割り切れない、キモチワルイ、そう思わせる意味でこの爆弾には価値がある。

主人公をまったくの透明な情緒のない宇宙人のような人間として設定し、この無色透明な「鏡」によって社会を成立させている透明な論理性だけ映し出すと、奇妙な滑稽さがあぶり出されてくる。周囲を映しこむ魔法の鏡のような主人公設定の手法である。周りの「普通」の「まとも」の口の利き方を学び真似し社会のパーツになろうとする主人公。そのリアリティが不気味で可笑しい。この風刺は、まさに、誰もが多かれ少なかれそのようなパーツを演じることによってこの社会、この世界が成り立っていることを自覚させられる、そんな可能性と攻撃力をもっている。

本作にはきれいな論理がある、感性がある。評価されるという価値があることに私は納得する。

だけど。

だけどやっぱり、決定的な、普遍的な文学としての、人間としての、そのクレバーさを越えた「パッション」がない。実存主義的、という評をどこかで見た気がするが、それには「この先」が必要なのだ。断言するが、これは世界に、歴史に残る名作にはならない、要するに。(例えば春樹には歴史に残る価値があると私は思っている。普遍性と閉じられない論理、パッションがあるからだ。時代性や面白さとともに。私はそれを深み、深淵と呼ぶ。だが)この作品には新奇な意匠ととりあえず完結し浅くきれいに閉じられたタイムリーな問題意識と閉じられた浅薄な論理しか見えない。あまりにも「わかりやすい」風刺である。

巧い、新鮮な意匠。だが本作に限って、その先がない。

…だが、もしかしたらだからこその芥川賞、可能性に満ちている作品であり作家なのかもしれない。感性と知性、筆力の三拍子、みんな納得優等生芥川賞。そして、だけど、だからこそやはりこれをおもしろい、おもしろいと言って終わらせる読み方には納得できないのだ。小気味よいアイロニー、現代の歪みを不気味さを浮き彫りにした良作であるとして。

以前、西加奈子の「i」を私は必要以上に批判的に読んだけれど、それに似た、ほとんど計算されたような巧みさ狡猾さへの反発を感じるんである。反感としてはあれよりはずっと弱いけど。こざっぱりとそれを隠さず吐露していることによってむしろ小気味よいといってもいい。(「i」は狡猾に過ぎていやらしさを感じてしまったのだな自分。)

だから、この割り切れなさを残した可能性、素朴な読者の反射的第一印象としての不快な「モヤモヤ」を批判的に語ることによっての価値がこの作品の、このような作品の価値であると私はとりあえず位置付けたいと思っている。否定の、あじきなさの、その先に、存在の、人間への愛しさ、美しさや祈り、それらへのさまざまを盛り込んだ「文学」へ、もっともっと混沌へ、深淵への風穴をあける人間の「パッション」がひらかれるために。

f:id:momong:20181201223548j:plain
これは羽ばたいてるんじゃなくて、羽を広げてじいっとひなたぼっこしてる公園の水鳥。寒いんだね、トリもカメもおんなじだ。

 

「蜜蜂と遠雷」恩田陸

本屋大賞直木賞受賞、すごい人気のベストセラー小説。

読み始める。
なんだろう、なじみが薄いせいか、昨今の流行ベストセラー小説特有の文体の臭みに最初ウっと来るが、(YAしかり、時代小説しかり、ハーレクインしかり。そのジャンルに独特の文体がある。作家の個性の前に、なんというか、文体のOSとして。それは例えば萌えイラストとかおめめきらきら少女漫画とか、門外漢から見ると全部おんなじに見えるとかいうレヴェル。まあね、かわいこちゃんアイドルやジャニーズの男の子たちの区別がつかないとかそういうレヴェルで、中に入り込むときちんと違いの分かるゴールドブレンドになるんであって個性は個性、すごい違いがあるのではある。まあな、ネスカフェゴールドブレンドとハマヤブルーマウンテンとブレンディの区別のつかない人もいるんだしな。100円回転寿司でも老舗の職人技高級寿司でもジャンルとしては寿司は寿司でおなじだとかそういうレヴェルなのやもしれぬ。で、その違いが判ってこそその醍醐味、その面白さもわかるんであると思うよ。)慣れてくるとぐいぐいの力業。…なるほど納得の猛烈なグルーヴ感覚というかスピード感というか節操がないほどのおもしろさである。ザ・エンタンテイメント。

直木賞本屋大賞かくあるべき、なタイプの面白さ。
これはもう少女漫画である。「ガラスの仮面」を読んだときのような夢中になるストーリーの快感。お約束な定型キャラクター、映画の中のようなカッコイイセリフを絶妙に交し合い、美男美女天才が大活躍、来年は映画にもなるそうな。これ。さもありなん。

世界的なピアノコンクールをめぐって、さまざまの青春群像、それぞれのドラマがからまりあう。音楽の快楽、栄光の快楽。天才たちが試練を越え、ぐいぐい目覚めてゆく万能感。ドラえもんの万能感。生い立ちのトラウマやデジャヴをからめた青春ドラマってのはそれだけで切ないずるいセンチメントなんである。

浅薄だとかいうのではない。極上のエンタテイメント、ジャンルに貴賤はなくこれはこれとして本当に素晴らしい。きちんと深みもあるし、描く世界は魅惑的に美しい、わかりやすく感情を揺さぶられる名作、綿密に構築された物語の知性の館。音楽による世界構築。この盛り上がりに読者を乗せる文章力が作家の力の見せ所だ。…うまいなあ、この人。すごい才能ってのは世にはあるもんだ。豪華絢爛華麗なる文体。

ただね、モリモリに盛りすぎて、盛り上がりがサーヴィス過剰で、後半はおなか一杯の感も。みんな天才の演奏で大宇宙を浮遊し深遠と己のアイデンティティの琴線震えまくって大泣きしすぎである。イヤのせられるんだけど、これが結構いいんだけど。…しかし幾度も幾度もでサーヴィス過剰の感もあり。極上のフロマージュでとろけた後に最上級のショコラ、秘蔵のワイン、最高峰モンブラン…ゴンゴン連続でたらふくサーヴされたりしたらお腹一杯でどにもならんであろう。

でも心憎いばかりにエンディングもきれいにまとまっていてうまい。

 

あとね、読みながら、読んだ後、ものすごくものすごく考えた。
…これはどう考えてもアカデミズムからは遠い。私の考える「文学」とは違う。娯楽というジャンルは別っこの論理で論じられるべきであって文学としては考えられない。

という、まずは直観である。
ガラスの仮面」は私の考える「文学」とは違う。漱石や賢治とは違う。
もちろん物語であるという形式では繋がっている。だけど、決定的なところが違うのだ。

どうしてなんだろう。

難しい。明確な境界線はひけないから。
でも違うんだよ。

それを考えたのだ。頭が溶けるほど考える価値がある難しさおもしろさ。
「文学とは何か?」

まず前提として、問いがあるところが文学なのだ。
物語を美しく組み合わせきれいに落としこんですっきり閉じる、のは文学ではない。きれいに主張が見えてしまうのは違う。独善的に倫理や美学が語られる、ってのも違う。みんなドグマだ。ひたすら閉じられない疑問があり祈りがある、読者に投げかけられ永遠に考え続けることを強要する、「石炭袋、ブラックホール、宇宙の穴(銀河鉄道の夜)」がある、これが文学である。心臓を破ってその血を読者に、未来へと浴びせかける、これが文学である。(「こころ」《漱石》)

う~ん。違うか。もう少しきちんと言わないとダメだな。
とりあえず考えるよ、おもしろいと思う限り。

f:id:momong:20181118143428j:plain

 

おじゃる丸

おじゃる丸スペシャル「銀河がマロを呼んでいる」再放送してたから、また観てしまった。

やっぱりいいなあ、おじゃる丸
日本の誇るアニメ文化の中でも文学性を備えた類まれなるNHKショートアニメである。(しかしやはり長編よりも15分の枠組みのなかのレギュラー番組の中にこそその真骨頂はあると私は考える。)(因みに海外のものでは「アドベンチャータイム」が白眉だと思っている。このセンスには驚いた。やっぱり日本人とは違うんじゃないかなあという意味で素晴らしい。)(けどやっぱりおじゃる丸の深さとは、独特のこの日本的感性とは、うむむ、なんというか…「違うだろー」。)

ポピーザぱフォーマー」や「ウサビッチ」にも感服するけど、これら男性原理的なあじきない笑いや残虐性を伴った、突き放したスラップスティックな鋭さではなく、その透徹や不条理への思いを笑い飛ばすスタイルを、こんな乾いた批評性を保ちながらも限りなく優しい祈りを秘めたかたちで、抱きしめるかたちでの世界で表現した犬丸りんのこの作品(うつ病で自殺したって聞いて、さもありなんと思ったよ…このセンスと知性じゃなあ。)の女性性の深さを思う。「笑い」に対するスタイルの問題なのだ。世界と自分とのつながりをどうとらえているか。肯定への祈り。


この軽やかなナンセンスやパロディ精神の表層という深さは既に文学であるなどと思うんである。

そして文学とは何かということを考える。

何故聖書がゴリゴリとした折れやすい「閉じられた論理」としての教え、というよりは伝聞として、あるいは物語として語られなくてはならなったのか。法学や論理学倫理学のすべての基礎として「野生の思考」を生み出すすべての母体「物語」のスタイルをとらなくてはならなかったのか、というテーマにこれは行き着くのではないか。

 

…ということでおじゃる丸についてはいつかきちんとひとくさり語りたいところである。推しキャラクターとかね。「余は如何にしておじゃる丸信徒となりし乎」(内村鑑三)(すみません。)

寝よ。

おやすみなさいオライオン。
きっと明日(もう今日だ。)も今朝のような澄んだ夜明け。

f:id:momong:20181116022738j:plain

酔生夢死DAYS

一日じゅうがらんと冷たい海の底にいたのだ。
蒼黒い底なしの虚無の海。

どうして生きてるのかわからないくらい悲しく寂しいと思っていた。そう思いながら、遠い世界の幻のようなげんじつ、この視界に映る幕一枚向こう側の書割の世界の中、にこにこと笑い普通のひとのような顔をしてすべてに対応し話し社会のパーツを演じる自分を眺めながら一日を過ごした。(結局すべての人はこうして日常を支え合いながら生きているのだ。カミュのペストのあの街のように世界から「追放」されない限り。)

 

夕焼けが訪れて陽が落ちたら酒を飲む。部屋の中をまっすぐ歩けないくらいになるまで飲む。

うつらうつらと浅いうたた寝のあと、まだ夜が続き自分の部屋があることに驚き、己の穏やかな気持ちにおどろき、PCのディスプレイの中に思い出の友人たちが現実であるように見えたことに驚き、その穏やかな幸福に似た安堵に驚き、また飲んでは眠る。

今日は母が笑ってくれたので翌日の黎明を目前にしたこの時間にわたくしはやっと灯りを消して眠る。昔のことや、今日確かに街のカフェのクリスマスは私に温かったことを私の内側に確認し思い出して眠る。

f:id:momong:20181108034254p:plain
朝が来る前にきちんと眠るのだ。

あんなに寂しくて虚無と絶望の海の上澄みに存在しながらけれどその上に太陽が昇り知己がいて、とりあえず今日食べるものがあって眠って起きる部屋があってわたくしはほんとうに幸せだ。生きているのは奇跡なのだ。幸福なのだ、恩寵なのだ。酒のおかげで生きている気がするのはきっと幻想だろうけどな。おやすみなさいきっとまた復活の明日は来る。

また夜明けにはおきてさまざまを精一杯演じ創造しなければならぬ。できるだけ。それが続く間生きる。深奥に宿酔いを宿して生きる。酔生夢死DAYS.。

カミュ「ペスト」

「100分de名著」カミュの「ペスト」録画やっと観た。

「100分〜」はレヴィ=ストロース「野生の思考」テーマのとき初めて観たんだけど、それっきりで随分ご無沙汰してた。今回なんとなくどっこいしょー、と、久しぶりに溜め込んでた録画番組消費にかかったんである。週一でひと月分、全四回。

この番組やっぱりいいなあ。
カミュは「異邦人」しか読んだことないけど、初めて読んだときは予想外の面白さにびっくりしたんだった。

番組観だしたら、…やはりカミュってこんなにもすごいもんだったんだな。初回からぐいとつかまれた。そして二回目、三回目とビシビシツボにはまってしまってだな、これがもうじいんと胸に来てしまうレヴェル。

はじめて「異邦人」読んだ時も確か冒頭からもういきなり魂消たのだ。(これはあまりにも有名な最初の一文、っていうだけの意味じゃないよ。最初の数センテンスっていう単位で。)(「きょう、ママンが死んだ。」っていうアレは確かに訳文として衝撃的でカッコいいんだけど、文学としてオーソドックスに考えると、「ママン」っていう日本人にとって洒落たお坊ちゃん的なお仏蘭西お洒落イメージがあるのでちいと違うのではないかとも言われているという。それと、「死んだ」の切って捨てる荒々しさのあの衝撃の組み合わせの訳の独自性は、原文にはないニュアンスであって、「母」や「母さん」の方が原文に近いニュートラルなものだってね。まあ確かに。)(だけど訳文としてあの「つかみ」はやっぱいいと思うなあ。)(「ツァラトゥストラはこう語った」っていうより「ツァラトゥストラかく語りき」のほうがいいやん、っていうのと同じレヴェルで。)(訳のセンスのレヴェルなのだ。お洒落とか雰囲気とかそういうものだけじゃない。《そういうのもあるけど》「ママン」という甘いフランス菓子やフワフワした少女趣味なイメージが喚起された後たちまち「死んだ」と断じる、その切って捨てるような落差による主人公の語りのスタイルの提示、その切れ味、「こう語った」ではなく「かく語りき」と行ったとき現代の読者に与える印象はツァラトゥストラとの距離感の演出、それは既に言葉の「意味」の違いの範疇であるから。その「格調」とは。訳のセンスってのは文体のかたちを造形するスタイルを示すものであり、二次的ではあっても、いや二次的であるからこそ、ある意味創作でもあるから。「批評」と同じでね。)(異邦人、いやカミュ作品に共通する「母・ママン」への特別な思い入れの意味に関する視野に入れた「解釈」をそこには読み取ることができるっていう可能性のことだ。)

外国の名作なんてさ、そもそもの文化が宗教が言語が文法が違うんだから思考スタイルの基盤からして違う、見てる風景が違う世界が違う脳みその構造が違う、圧倒的他者だ宇宙人だハナから理解なんかできん、永遠にひたすらわからんのだ。その文化の産物を面白いと感ずるとすればそれは異国人から見たエキゾチシズムに対する嗜好によるものであろう。

…って思い込んでた自分には衝撃のおもしろさだったのだ。やっぱりね、カルチャーも思想基盤も確かに違う、理解できないとこが大きい、それでもエキゾチシズムとは異なる、それを越えたところにある、何か共通の問題意識を感じ、その衝撃を受けとることができる、その不条理への怒りのような思いの激しさへの共振に、その世界に対する視線と視点への共振に、己のその感動に対して驚いたのだ。魂からくる共振。その他者とのつながりの新しい可能性の発見に対して驚いたのだ。

 

それにしてもしかし、この「ペスト」の登場人物たちのものすごいかっこよさったら。…かっこよすぎる。(自分にとってかっこよすぎるとこは「異邦人」と対照し補完しながら考えていくとしっくりと納得できて一層面白くなる、ような気がする。つまり、「異邦人」で壊したものの再構築が「ペスト」である、という読み方ね。)(飛び立ち、舞い降りるというか死と再生というか破壊神シヴァから創造神ブラフマーへの螺旋というか。)(まあ創造維持破壊は元々世界存在そのものとしての神さまで三位一体だから分けられない、全てが全部っちゃ全部だけど便宜的にペルソナが。)(だってそれを言っちゃあおしまいよ。)

ここでこの指南役専門家、解説者が独自の用語をわかりやすくほぐしながら押し付けることもなく解説してく雰囲気もイイ。中条省平さん。マンガの解説本みたいなのも出してるんだね。(セールの電子書籍であったからついつい購入してみたけどこっちの解説はあんまりピンとこない。多作品を紹介して並べ立てただけでちいと概略的にすぎる印象。)なんとなく、さもありなん。(漫画への差別のない理解がさ。)そしてかっこいい憧れの書斎風の部屋で、古めかしいタイを結んだかっこいい青年が朗読する感じもイイ。

どんな番組かっというと、こういうのです。番組HP。

「ペスト」読んでみなくちゃなあ。

…と、さっそく図書館から文庫を借りてきて、ぢみぢみと読み始めてはみた。

読み始めてはみた。
とはいうものの。

結構な長編で古い直訳的翻訳のせいかとてもとても読みづらい。文体自体読みづらい。わかりにくい。名訳とはとてもいえない。まあ原作ももともと理屈のこね回しかたがすごいものなんだけど、いかにも仏蘭西語的な言い回しも思わせぶりで翻訳調なじむまで大変で、これはもちっとどうにかなるんじゃないかブツブツ…。と文句たれつつ、まあ長く辛いその世界の現実を味わわせるように、と言えばそんなもんかねい。文体は慣れだしな。(異邦人の方が短いし、やっぱり純粋におもしろく読めるレヴェルであったと思う。)(最近長時間脳みそがもたないのよオレ。)(TVみるのもおじゃる丸NHKの朝のドラマの15分が限界。)

まあね、とかなんとかいうことでとりあえず放送四回分、番組の印象、自分のための読書の手引き用メモを指標にしつつ、膨らませる企画をもって、一読の備忘録的な記録。(こればっかりいってるけど、いつかきちんとしたもっとまとまったわかりやすいかたちにつくりあげてみたいものだ。)

 

★放送第1回 「不条理の哲学」

ペスト(災厄)のはじまり。
鼠が狂う。人が倒れ始める。

社会システムがこの未曽有の事態に対応しきれず泡食って混乱しているうちにあれよあれよと災害は拡大し、強制的に街は封鎖される。(逆ベクトルな表現ではあるが、この「封鎖」閉じ込められるこのイメージは、カミュ的解釈によると、世界、社会システムの内側から外部へと「追放される」ものである。)(ちなみに一般にこの「ペスト」という災厄はナチス占領という災厄の暗喩と言われている事態である。)

旅行者ランベールの一見エゴイスティックな幸福(自分は旅行者だからこの街の災害とは関係ない、自分は恋人とともにフランスに生きるべき者だ、逃がしてくれ。)とそれを阻む医師リウーの社会的正義・理想抽象論の衝突。

リウーの言葉は「抽象」であるとランベールは批判。個人の幸福を侵害する「抽象」という意味合い。

ここで「抽象」とは何か?

「ペスト」は抽象である。リウーの正義、理想論もこれしかり。
相対する概念は現実、実際としてのランベールの個人としてのリアル、具体としてのその個的な幸福、一人逃げて恋人と暮らす。(リウーは本当はどこかでランベールの「正しさ」を認めている。法的な社会正義より個人の幸福の方が「正しい。」)(だが「抽象と戦うためには多少抽象に似なければならない。」と考える。)(新潮文庫p133)

ペストによって引き起こされる対立の図式としては、これは「個々人の幸福(家族揃っての日々、続いてゆくはずの日常の暮らし、個々の人間の間にある愛情)V.S.社会正義(ペストの宣告・患者隔離<殆どこれは死の宣告に等しい。>」にあたる。ここではもちろん前提となる「個々人の幸福(具体)V.S.ペスト(災厄、不条理としての抽象)」という図式はあらかじめ成り立っているものなのだが、この先に、リウーの呟く、社会正義(抽象)V.S.ペスト(抽象)という第三の図式もまた存在することになる。

抽象対具体(≒実存)(いや、「実存」とはこの二項対立のアウフヘーベンへの志向性をもっているというべきではある。)、この二項対立はさまざまなヴァリエーションで高く低く変奏されながら、いわば作品の理論の柱として終始謳われつづけているテーマとして読むことはできるように思う。

 

★第2回 「神なき世界を生きる。」

ピックアップされるパヌルー神父の意味。(パヌルー神父とは「抽象」が「真理」となるところである。新潮文庫p134)

彼の主張「ペストは神の審判のしるし」。これはいわば、反・実存(反・リウー・タルー側)とでもいうべき主張である。(後述するように、これが劇的に変化してゆくところが作品の読みどころである。)

あらゆる「不条理、災害」が天罰であるという論理。罪が罰される発想。逆に言えば神によって救いはある。ここでは真理が実存に先立つ。或いは優先される。論理としてはすっきりとシンプルに閉じられて完結している。「ほころびはない。

さてそしてここでもうひとり、医師リウーやランベール、パヌルーらといった信念をもつひとたち、今まで触れられてきたこれら主要登場人物とは対照的な、非常に興味深い登場人物がクローズアップされてくる。

密売人コタール。

小悪党である。が、彼の印象はある意味善良ですらある。平時には自殺未遂までする個人として背負わされたものである罪と罰の苦痛に苦しんできた者が、公に天から降りかかってきた災害、すべての人に等しく天から下される罪と罰の試練、ペストによって皆が己と等しい立場のものとなる、という状況のもとに、逆説的にそこから解放され救われるこのコタールの存在の意味。(これはすごい。)

「しかし、結局、ペスト以前にだっておんなじぐらい危険はあったんですからな、往来の激しい四辻を渡るときなんか。」(新潮文庫p214)

死の危険の確率なんて、日常という物語の中では隠蔽されている、したがってその物語から「追放された」ところで初めて気づくもの、その発見、あるいは意識するかしないかの違いに過ぎない、いわばペストの恐怖が抽象に過ぎないものであることがここでは看破されている。

個人的に、このコタールの存在が最もすさまじく気になるのだ。
リウーやランベール、パヌルーやタルーは抽象やそうでないものについてひたすら考えひたすら正義を求め正しい道を求め論理を求め、それ故に不条理に苦しむ、いわば求道者だ。

コタールは違う。
彼は、「抽象」に惑わされるプロセスを持たない。

(グランもまた対極の位置をもって抽象に惑わされない立場をもつが、これは己の人生に対してコタールと全く同じ態度をとっているといえるのではないか。)(構造として。)

彼は長い間その罪と罰の不条理とともに生きてきたことに極めて自覚的だったために。「後述するここでの特徴的な『モラル』の意味がグランとコタールを分かつものとなる。単純にいい人悪い人、自己犠牲エゴイスト、あるいは殊更な美学や正義という問題系から完全に離れた、無色の、純粋な論理構造としての「モラル」だ。」

結局最後には狂人となって銃を乱射し逮捕されてゆく寂しい結末を迎える彼もまた何かの犠牲者ではある。見捨てられた、世界から追放された恐怖と寂しさを体現するひとつのかたちである。

ペストの終焉(ナチス占領からの解放)の祝祭の中で破滅を迎える彼と、新しい日々の暮らしを再生しようとするグランの「同じ場(同じアパート)(解放による歓喜の祝祭に参加できない者たちの不幸な空間の象徴)にありながら生死を分かつ」イメージもまた実に論理的である。モラルの分かつもの。ペストからの解放の際、共に幸福を得られなかった者たちの、しかしそこで分かたれる生の明暗。


★放送第3回「それぞれの戦い」

パヌルー。タルー。リウー。グラン。それぞれがそれぞれの道でそれぞれの正義を探し、災厄と闘い、身の危険を顧みず献身的に奉仕する。

そしてオトンの息子・無垢な子供の激烈な苦しみと死、そのあからさまな不条理の露呈に出会ったときを契機として、それぞれの反応が劇的に論理展開してゆく。(人を裁く判事オトンの平時の冷ややかな俗物ぶりと、ペストに冒された息子への素直な愛情の吐露されるその極限状態の描写の対比は非常に印象的で…美しい。)(彼もまた献身に走るものとなる。)

神と罪と罰と。存在の辿る「道」(道義)ともいうべき命題の周りを彼らは巡る。

リウーは神の論理を打ち砕く不条理に直面し、打ちひしがれるパヌルーに告げる。「われわれは一緒にはたらいているんです、冒涜や祈祷を超えてわれわれを結び付けている何ものかのために。それだけが重要な点です。(p322)」

抽象や真理を超えたところにある実存を彼は語る。このあじきない実存を。だが。そこには真理や正義を超えた救済のために働く至高と信じられるものがある。パヌルーはここでリウーを、そのまるごとを認める者となるのだ。

カミュ作品で思うのだが、皆がそれぞれになんというか、恐ろしくまっすぐなのだ。人生に対して誠実なのだ。悪役、愚かであるだけの人間というのはいない。

そうだ、実際、そうなのだ、だから素晴らしいと思うのだ。
すべての人間に仏性を見る、むしろこれは仏教的ですらある。後述するが、カミュの思想のなかで宮沢賢治の思想に繋がってくるものがあるのもこう考えると宜なることであるかもしれぬ。

言わばこれは、金子みすゞ「みんな違って、みんないい」という命題をもっともっと辛口というか鋭く描き出そうとしている。(ここでその「みんないい」は、「みんなだめ」がそこに等しくあるところから始まる、意志としての「みんないい」だ。)さまざまの正義の、倫理の相対性のことを。まさしく賢治が苦しんだその倫理の相対性のことを。もっとも難解なこの問題を。


…パヌルーもまた鮮烈な印象をもつ思想を代表する者なのである。抽象と真理に殉じようとする側の者。だがそれはオトンの無垢なる息子の理不尽な苦しみと死のあまりの残虐さに直面してから、彼の第一の説教であらわれた理論のようにリウーの「実存」を否定する形をとれなくなる。これはペストが猛威を奮っている最中に激越なる痛みを伴った生きた血の流れるような説教が行われる形で示されるものだ。凄まじい極限状態における、その鋭くなまなましい具体を踏まえた上での「抽象」。ここで最初の高邁な説教においては民衆に「あなたがたは」と語りかけた主体パヌルーは「わたしどもは」と語るものとなる。ここで初めて論理は、抽象は、その身から発され己に帰する実存と一体化した命あるものとして打ち立てられはじめているのだ。

「異端すれすれ」とリウーは思う。いや暗に示されているように、彼の最後の論文(パヌルーは神学者だ。)においては既に異端であるところにある極限の信仰、そして殉教。この殉教のかたちも見事な描き方がなされる。

ペストによっての死ならばパヌルーの勝ちだ。彼は彼の神に選ばれている。
そうでないならば、彼の極限の抽象、真理、信仰、その血を吐くような説教に…彼の生涯は関わらない、意味に添えない。

そして、彼の死因のカードにはこう書かれる。「(ペストかどうかは)疑わしき症例」

この辺り、実に絶妙なんだなあ、カミュ。物語の論理は決して閉じることのないほころびを残したまま描かれる。開かれたまま、その思考のたえざる連続が読者に強要される。連綿と、その思考の遺伝子が受け継がれてゆく。テクストは常にダイナミクスの中にある。それは強要してくる。読者に、アンガージュマンを。考えろ、選べ、意志を持て、と。

文学ってすごいのだなあと急に思ったりするよ。(すみません文学部出身ですが。)

今の時代にも、というか今の時代だからこそどんぴしゃだ、という問題意識がざりざりと心に鑢をかけてくる。いつの時代どこの国でも通じるところがあるからこそ名作と言われる所以なのかもしれない。

極限状態における人間のエゴイズムを真っ直ぐに見つめる冷徹さと絶望と(いかにも仏蘭西人的な「仏蘭西語的な」」皮肉なものいいで語られる言葉。)、それでもその上でなお人の性善に似た正義への思いを信じる言説を綴る、その同じ筆が描き出すこの「実存」という思想のことを考える。すべては、ただ当たり前にそこにある。

万感の思いと無関心の振幅のなかで語られる言葉は、例えばまず春樹の言う「それだけのことだ。」と同じ性質をもつ語りである。これは「ほころび」なのだ。そして結局ここで切って落とされた後の余韻は必ずどこかで引き受けられなければならない。読者に、そして、矛盾しているようだが、あるいはそれは膨大なその作品全体の言葉がそれにあたるのかもしれない、ということを思う。

 *** ***

「しかし、筆者はむしろ、美しい行為に過大の重要さを認めることは、結局、間接の力強い賛辞を悪にささげることになると、信じたいのである。なぜなら、そうなると、美しい行為がそれほどの価値を持つのは、それがまれであり、そして悪意と冷淡こそ人間の行為においてはるかに頻繁な原動力であるためにほかならぬと推定することも許される。かかることは、筆者の与しえない思想である。世間に存在する悪は、ほとんど常に無知に由来するものであり、善き意志も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。人間は邪悪であるよりむしろ善良であり、そして真実のところ、そのことは問題ではない。」(p192)

「ペストがその仕事ぶりに示した、実効ある公平さによって、市民の間に平等性が強化されそうなものであったのに、エゴイズムの正常な作用によって、逆に、人々の心には不公平の感情がますます先鋭化されたのであった。」(p350)(生活必需品、食物の価格が高騰し、貧富の差が広がる。儲けようとするものが儲けつづけ裕福な家庭はなにも不自由しない。ここには死の平等だけがあった。)

 *** ***

そしてタルー。彼は、はてしないペストとの闘いの極限の疲労の日々の中で、ある日、同志・盟友、リウーに語る、己の「内なるペスト」。その告白。

「内なるペスト」とは、その意味とは何だろう。
(番組では、いじめる人間とそのいじめを放置する者の比喩で語られる。)状況を放置するところに己が既に加害に参加した事実がある。彼は、己がその加害の側に立っていることの苦しみを、判事であった父親が他者に死刑に宣告するシーンを目撃したところから常に抱いてきた。タルーはその「加害」という抽象された悪を「ペスト」と呼ぶ。あらゆ悪徳、悪しきもの、あるいはわろきもの。…そう、悪しき、というより、わろきもの。それは、巨悪であるというよりも、よくない、というだけで加害の一端を担っているというリアリティなのだ。その父の罪によって幸福に育てられた己の存在の自覚。

 

…この苦しみの形は先に予告したように、宮澤賢治にもよく繋がるものだ。裕福な質屋の息子として生まれ、その質屋が貧しい農民から搾取するようにして豊かに暮らしている、その加害の側に立ちそれを享受している己の存在の罪の苦しみが賢治を社会変革への志へ、そして最終的には自己犠牲的な行為へと駆り立てた。

タルーと同じ行動パターンである。タルーは若き日に家を飛び出し、正義を求めるためにゲリラ活動に参加した。そしてそのイデオロギー同士が、正義を求める心同士がぶつかり合って果てしない殺し合いになる地獄を味わってきた。「抽象」の倫理が人を殺すその現場の生々しい「リアル」。「倫理の相対性」への苦しみである。

「僕ははっきりそれを知ったーわれわれはみんなペストの中にいるのだ、と。そこで僕は心の平和を失ってしまった。(p375)」

「ペスト=災厄」の現場において、犠牲者となるか、加害の側に立つ者になるか、その二択なのか?…第三の範疇を彼は医者の立場に求めてゆく。それが一見自己犠牲に近い行為になってゆくのだ。生きたまま聖者になりたい、と彼は語る。

リウーがペスト(災厄)と闘うその第三の選択をなした「医師」であり、タルーの選んだ「道」としての盟友となってゆく理由がここにある。

 

「まあ、そういうわけで、僕は、災害を限定するように、あらゆる場合に犠牲者の側に立つことに決めたのだ。彼らのなかにいれば、僕はともかく探し求めることはできるわけだ。どうすれば第三の範疇に、つまり心の平和に到達できるかということをね。(p378)」

 *** ***

「異邦人」は、主人公ムルソーの個の視点から語られていた。彼は社会の内部に仕込まれた不条理をあぶりだし、その目隠しによって成り立っている社会の虚栄からあらかじめ排除されている己の存在の形に誠実であろうとした。ここではただ「<システム(世界、あるいは社会、論理、倫理、ー(物語)>V.S.<その外部>」の二項対立がクリアに成り立っていた。そして、ムルソーの強い感情によって、この作品では<その外部>へと飛び立ち逃れていこうとする偏向が強かった。

だが「ペスト」では、一種そこからの揺り戻しが見られるのではないか。

「異邦人」は、システムの外部へ、すなわち、ムルソーの意志的な追放の享受、死の方向へ投げ出されたままのところで終わった。この「ペスト」では、ここから新たに再び新しく世界の内部に舞い降り立ち戻り(…言わば生まれなおし、)あくまでもその中で(また己の内部で)(内部に含まれている己の「永遠の敗北」の中で)それと闘い続ける術としての知を語ろうとする。そのためには、前者のような個の中に完結することのできるひとり語りのドラマではなく、この「ペスト」のような倫理の相対性をなんら裁くことなくただ描いてゆく多面的な群像劇となる必要があったのだ。…おそらく。

 

★放送第4回(最終回)「災厄の終焉」

唐突なペストの終焉。人々の狂気乱舞の祝祭と傷跡に打ち沈む損なわれた人々の対照、そのこもごもがリウーの足取りから描かれる。

(この部分は、一般に、ナチス占領からの解放の描写としての解釈で読まれている。これはしかしやはりあくまでも抽象としてのペストからの解放であり、作品においてナチス占領という「具体」は可能性のひとつであるにすぎないと考えるべきである。…のだが。この部分の描写はナチスからの解放であるとしか読めない、とも思われる筆致である、とうかそう言われてもまあ仕方がないくらいのあからさまになまなましすぎる感情的な描写があることに間違いはない。ものすごい思い入れと理屈っぽさである。難解というかたくさんの論理がやたらめったら投げ出されていてものすごく読みにくい。前述したような抽象ー具体やなんかの、カミュのこの作品における理論のおおまかな骨組みを押さえてからその「たくさん」を解きほぐしていくべきなんだろな、研究者にとってはそういうのがおもしろさでもあるところだろうから。)(その「たくさん」はそれぞれがそれぞれものすごく深く掘り下げられるはてしない曼荼羅なものである。)(あまりにも大風呂敷になっちゃうから今できないけど。)(いっつもそんなことばっかり言ってるけど自分言い訳大王。)(いやだってさ、今お手洗い行こうと立ち上がったらまっすぐ歩けないくらい泥酔してるし。)(しゃべったら呂律もまわってないぞきっと。)(深夜ガソリン入れて勢いつけないと書けないんだから仕方がない。)(ガソリン=アルコホル)(そういや大学院の時の先輩は「オレ爆音でアイドル聴きながらじゃないと書けないんだよ、論文。」って言ってたな…。)(それもどうかと思う。)

終焉。やがて封印されてしまうであろう、一時は共有された人々のリアルな痛みの記憶のことをリウーは思う。タルーと妻、愛と盟友。個としての愛と救いをペストによって失い、一個の悲しみの闇となって、周囲の明るい解放の春の祝祭のなかを、いわば春のなかの修羅のようになってその万感のなかを歩きながら。

その終焉から新たに始まる終わりなき戦い、反抗。連帯。(語ること、忘れないこと、封印しないこと)…全てはリウーの「書く行為」へと収斂してゆく。その決意表明。

第三の選択、究極の救いへの道を探るべき、災厄を癒す者「医師」リウーはここで「書く者」へと収斂してゆく。

ここではじめて明かされる隠されていたこの文章の書き手の、その種明かしの意味はそこにある。忘れられてはならない、常に潜んでいる、永遠にいつでも襲い掛かる準備をしている、その災厄、ペストの記録を、記憶のリアルを過去とこのとき当事者の鎮魂のために、未来への思い祈りのために。それが「知」であるというところへ。

 *** ***

ところで、おまけというか、おう、と思ったというか。
さすが仏蘭西文学の専門家、語彙の翻訳についての考察も大層おもしろかったことを付記しておきたい。

モラルという言葉は、日本語では道徳、倫理、といった意味合いで訳されるが、モトはラテン語で風習、生活習慣、そして、「道」。ギリシャ語のエートスに近い意味合いを表すという。…これは深い。

倫理、というのともまたそのニュアンスが、意味の範疇が、微妙にズレている、異なっているのだ。翻訳と、その語のそれぞれの時空での意味の広がりの多様…そうだ、ああ、実にこれが言葉の、文学の、無限の深さ、豊かさ、面白さなんだよなあ。

f:id:momong:20181018234249j:plain
ベランダから、秋の夕暮れ。

学生時代

週末が来るとY君は私に聞いた。

「今週はどうする?」

「う~ん。」
しばし考える。

 

…と、彼はひんやりとした寂しい顔をする。
あれ、と思う。

どうして?

「考えるんだね。」

いやだってさ、来週のレポートのこととか友達との約束とかおうちで本読もうかなとかいろいろあるやん。デートもデートだけどさ。どっちが正しい過ごし方か。

「君はいつも計算してる。」
「オレはまず最優先でキミと一緒にいようと思う。すべてはそこから展開できる。だけどキミはどっちがいいか計算するんだ、いつも。」

ものすごく寂しい顔をする。私はこの顔に弱かった。

非常に遺憾に思った。不当な非難であるように思った…だが言われてみるとそのとおりだ。あのひとは聡明な人だった。その指摘は正しかった。

いつだって私は合理的に行動しなければならぬという計算をしながら生きてきた。強迫観念のように、生活のあらゆる局面で。

 

だがおそらく私は間違っていた。間違っている。
少なくともこいびととの関係性においては。

だけどやっぱり仕方がなかったのだ。

と、何十年も経ってから思っている。澄んだ夜空、秋の虫の鳴くオライオン。
おもしろいな、切ないな、いいもんだな、寂しいな、詮無いな、生きてることは。