酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

偽善

太陽直射直火焼き熱風ごうごうコンベック・オーブンな夏である。笑っちゃうほど世界が眩しい。

子供らは夏休み。

バイクでごうごう熱風に吹かれて走りながら、最近読んだガイジンの本のことを考えていた。

ガイジンはオレにはわからない。(日本人もそりゃわからないっちゃわからないんだが。)ほんとわからない。宇宙人と同じである。なんでみんなわかるんだろう。

…で、その本のひとつが本屋大賞をとったということで、賞の権威のタイプのことなんか考えた。人気度とかね。芥川賞とか直木賞とかノーベル賞とか本屋大賞とか。想定読者のタイプとか。アマゾンでの書評の自己顕示具合とか。

あと、類似構造をなすものとして、官憲と在野の誇りと美学。

民放とNHK朝日新聞と読売新聞。

併せて、偽悪と偽善。あるいは本音と建前。

もちろん偽悪とは偽善の裏返しに過ぎない、それはひとつのもの。どっちもキライだ。つまんない感情的な見栄っ張り美学なノータリンだから。本音と建前だって、人間を一枚のペラペラの裏表とする考え方だ。

でも、今ここでどっちかって問われたらどう答えようか、とか考えたのだ。

…私の心は偽悪に寄り添い私の言葉は偽善に寄り添う。

というようなことを考えたのだ。

とりあえず飲み過ぎで頭痛いから寝なくっちゃ。

おやすみなさいサンタマリア。

にんげんのこわれるとき

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大学時代、すぽんと賢治にハマって、卒論も修論もテーマは賢治だった。

漱石と賢治、春樹が好きとかもう何だかギョーカイ内では安っぽいミーハーちゃん扱いである。ゼミではみんな結構いかにも自分文学好きだぞな玄人っぽいシブイ作家を取り上げてた。永井荷風とか谷崎潤一郎とか横光利一とかさ。)

確か修論は「小岩井農場」を中心に論じた記憶がある。

長詩である。(賢治に言わせると「心象スケッチ」な。)賢治独特の、日本では珍しいタイプの長詩。ダダイズム風の実験的なスタイルをもっている。(賢治はダダの影響も受けていて、「春と修羅」随所に視覚的な文字列の配置の工夫などもされている。実はカレって結構新しもん好き、実験好きなひとなのだ。)

あれこれ考えごとしながら小岩井農場を歩いてく実況中継的なスケッチ風の詩なんだけど、(実際に手帳にメモを書きつけながら小岩井農場を行ったり来たりしたらしい。)ごく普通の周囲の情景描写から、心の中に浮かぶ回想や想像、独白が入り混じって主体が分裂してゆき、だんだん幻想世界に移行していく過程がぞくぞくするほどエキサイティングなのだ。ひとが狂っていく過程もこれと似たようなものかもしれない、と思ったりしてね。

で、好きな言葉がある。(いやたくさんあるんだけど。)

 「幻想が向ふから迫つてくるときは / もうにんげんの壊れるときだ」

自我解体の危機に瀕した葛藤のシーン、クライマックス。

ここの解釈は本当にいろいろな説があっておもしろい。 

見田宗介の「宮沢賢治」が大好きで、これで賢治にハマったようなもんなんだけど、ここでのその解釈は奮っている。得てして否定的にとらえられがちなこの「にんげんがこわれるとき」という意味を、この箇所を、あえて非常に肯定的にとらえているのだ。「にんげん」を「自我」としてとらえて解釈する。するとこれは自我解体の恐怖を意味することになる。が、それと同時に自我という牢獄からの解放という至福の時空への移行、この反転の意味を読み取ることもまた可能となってくる。彼はここを論の中心点として捉える。

この人の賢治はすごく魅惑的な解釈で学生時代はすっかりまるごと飲み込んじゃったんだけど、今ちょっと見てみたら、ここでは自説に引き付け過ぎていて、多少論理に強引さと無理がある。いやまあそれはそれでそれとしていいんだけど。この人のこの本の論理構成を成立させるには仕方ないとこだから。 

漱石の「行人」に、「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの3つのものしかない」という一節がある。「死か狂か宗教か」耐え難いこの世の業の苦しみ、自我の苦しみから逃れるための三つの選択である。

これは、「自我という牢獄」という視座をもっており、それは問題意識として先の見田宗介のものと一致している。死も狂も宗教も、「解脱」、すなわち牢獄としての<自我-この世>からの解放、自我放棄のための手法だからだ。

 賢治は、「小岩井農場」に於いて、分裂してゆく自我をそのまま表記し、五感が捉える外界風景と意識の内面のイメージが入り混じり溶け合うテクストを織りあげる。これが「心象スケッチ」という手法である。これによって、言葉の多元宇宙を出現させたのだ。すなわち文字通り「異議を唱え合うエクリチュールロラン・バルト)」の場を生成、バラけた自我をバラけたままに記述認識する。

そしてここからだ。ここでは、その混沌が極まったとき、全体の向かう方向性を敢えてトータルにコントロールしていこうとする新たなメタレヴェルの主体を発生させる仕組みが読み取れるのである。これは一種戦略的なエクリチュールのスタイルとすらいえるのではないかと私は思う。

この試みを、先の「死か狂か宗教か」の論立てにあてはめてみてみよう。

移りゆく時間と風景を眺めながら歩行する現実の主体を外枠にもちつつ、同時にそこから離れ遊離した意識の内面で、回想や宗教的な論争を繰り広げる分裂した複数の主体(自我)=多重人格という構図を織り上げる。そして現実意識を凌駕してゆく内面の幻想領域、という「狂」への危機的状態をつくりだしていく(或いは「(幻想が)向ふから迫つてくる」状態 )。

そしてこのクライマックス、ラスト近く「にんげんがこわれるとき」現れるのが次なる段階としての超越者的な声である。この声は、最初ちらほらとあらわれ幻想を警告する小さな声としてテクストの中につぶやきはじめ、そしてこのラスト部分にすべてを覆うようにして突如大きく膨らみ他を凌駕し統一し、高らかな意志の声でこのテクストを語り終えようとする一つの主体である。

 

 《もう決定した そっちへ行くな
      これらはみんなただしくない
      いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から
      発散して酸えたひかりの澱だ

 

ただしくない「これら」とは、対立しあい混迷する複数の主体の見ている複数の幻想風景、多様な意見のことである。エクリチュールのカオスな動きの中で、残虐な現実側の回想に捕らわれ自我の業に苦しむ主体(具体的な人間関係の軋轢の回想、妹を失った悲しみのフラッシュバック)、そしてそのアンチテーゼ、現実世界を嘆き否定し理想世界への解脱のみを願う主体(幻想の美しい仏教的天上世界のイメージ)を共に否定しながら、それらを止揚したメタ次元として、双方が「ただしい」かたちで存在する世界に向かおうとする。これはそのかがやかしい宗教に裏付けされた新たな外界現実に立ち戻ってゆこうとする強い意志の発揚である。

 

さあはっきり眼をあいてたれにも見え
   明確に物理学の法則にしたがふ
   これら実在の現象のなかから
   あたらしくまっすぐに起て

 

業の苦しみに満ちた現実世界、そしてそれを否定する形での遊離してしまった「宗教」的幻想。それらをすべて解放して言語化し、その分裂した人格としての場「狂」を経るかたちで再びまったくあたらしい現実へと差し戻してゆく構造。ある意味これは「死と再生」のミッション。すなわち、祝祭(ハレ)から日常(ケ)再創造、或いはあらゆる宗教に示されている終末思想と相似の関係構造をなしている。

死と狂と宗教(にんげん《自我》の壊れる場所、或いはそこから解放される場所)。エクリチュールはこれら自我からの解放のミッションをなぞる。そしてけれど自我ー主体崩壊ー死という破滅のかたちには流れない。「にんげんのこわれる」ぎりぎりのところでジャンプを仕掛ける。このミッションによる新たな自我の獲得、ミクロな自我を克服した、マクロな超ー自我による世界イメージというステージの獲得への誘導の構造を構築するのである。

「ちいさな自分を劃ることのできない
 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで」

心象スケッチというエクリチュールの手法によって、「ちいさな自分」ちいさな自我からの解放のツールとしての「死と狂と宗教」の取り込み、そしてそれが「生」と対立しない高次元の場で再構築された自我と世界の関係性、そのような大きな自我観へ至るための誘導が行われている。

それは、賢治の目指した「物理学」と「実在の現象」を統合した「ただしい」宗教の姿として謳われた。

…思うのだ。

これは、これこそは、もしかしたら彼が「農民芸術概論綱要」で主張しようとしたひとつの「芸術」(この詩の場合、エクリチュール)の姿そのものだったのではないだろうか。現実の読み替え、救済のツールとしての宗教=芸術である。

 *** *** ***

この長詩は、このように新たにトータルな形での宗教と現実を踏まえて進んで行こうとする意識の流れの記録、自我の苦しみと業をコントロールしていこうとするその心の道行きであるといえるだろう。

書くこと、エクリチュールを為すことの意味は、それが自己救済の手法であるところにある。あるいはそれはひとつの祈りのかたち、そのスタイルである、と言ってもよい。(卒論の方では、確かこのことが言いたかった記憶がある。書くことは祈りである、というような。忘れたけど。)

小岩井農場は長いんだけど、とりあえずラスト、クライマックスの「パート九」だけならそんなに長くない。ここに全文載ってます。

 

…でね。

こうやって力強く高らかに理想論を謳った後、最後の最後に凡夫としての「ちいさな自分」に戻るような、まっすぐでありながらもほんのりと揺り戻し的なイメージを持つラストがある。

大きな意思にみたされた高い次元を感じながらも、低いところにいる小さな個は決して失われない。

テクスト内での語り手と登場人物の視点の自在な移りかわりを利用して成立する「ちいさな自分」が見る風景とその主体を客観化して眺める、鳥瞰する二重の風景。この、めまいのするような視点の多重を利用したこの風景の深み、うつくしさは、常に大きな宇宙の中で「透明な軌道をすすむ」ひと(自分)を感じながら、現実のしがらみを生きる、現実の美しい風景を愛する小さな自分を感じ続ける双方への生命賛歌、世界賛歌への祈りからくる。そしてここに示される、切ないようないたましさと、ほんのりしたあきらめに似た優しさに満たされたものである高みへの意志。

この詩情、ここが好きなんだな、オレ。もしこれが詩としていいものであるとすれば(これは詩としては全然評価されてないようだ。研究対象ではあっても。…まああの珠玉の「永訣の朝」なんかに比べっちゃっちゃね。)、ここがあってこそだと思うんだな。

 

なんべんさびしくないと云ったとこで
またさびしくなるのはきまってゐる
けれどもここはこれでいいのだ

すべてさびしさと悲傷とを焚いて

ひとは透明な軋道をすすむ

ラリックス ラリックス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
わたくしはかっきりみちをまがる

パンあれこれ

しばらくパンというものを食べていない。

ふわふわやわらかな白いパンなんか、高校時代以来食べていないのではないだろうか。(自分、精白精製した白米白パン白砂糖の類は食べ物として悪だという信念をもっている。あれは特別なもの、祭りの食べ物、日常食にしてはいけないもの。)

姉曰く(当時高校〜大学生)
「朝ごはんにはサンジェルマンの(阿佐ヶ谷駅前にあった。)エクセルブランのトースト焼き立て熱々にバターとマーマレード、アールグレイよね、やっぱり。」両親の好みもこれに準じた非常に昭和スノッブイングランドな正統派趣味であったが、末っ子自分だけはその趣味には敬意を払いはしても迎合はせず、孤高にひとり異なるメニューを希望強行ゴリ押しした。(ワガママともいう。)あの店の、苦みの効いたオレンジピールぎっしりの美しいマーマレードは当時決して悪いものではなかったが、きちんとうまみのある上質の小麦の香りの、サクッとしていながらひきの強い、正統派イギリス食パン、こんがりキツネ色の焼き立てトーストにとろけてゆくミルキーに甘いバターの香り、は決して悪いものではなかったが。

…ことパンと麦酒に関しては断然イギリスよりドイツなんである。(そして紅茶よりも珈琲)ずっしりどっしりがっしりにワイルドで雑穀な感じがいいんである。真っ黒でずっしり重くて酸味の効いたプンパーニッケルなんか非常にイイ。そして同じサンジェルマンのパンでも、(阿佐ヶ谷駅前で一番便利なとこにあるパン屋だったのだ。)コンコンと叩けば釘が打てそうなガチガチに固いフルーツとナッツぎっしりのライ麦パンスティックがお気に入りであった。(あれでコンコンと頭を叩いて「文明開化の音がする~♪」などとくだらないことをして遊ぶのが好きであった。)(どうでもいいけど「叩けばホコリの出るカラダ」という言葉が昔からどうもとっても好きである。自分。)一生懸命噛むのがイイんである。よく噛む行為はブスボケデブを予防する。(噛む行為は咀嚼の筋肉運動による顔の輪郭のひきしめ効果をもち(ブス予防)、ゆっくりと食することによって過食も予防、(デブ予防)また咀嚼による唾液分泌には老化防止ホルモン分泌を伴っているという研究がある。(ボケ予防))

一時期はルヴァン方式、干し無花果等を用いて酵母を起こし、毎日餌を与えて育てては国産全粒粉&ライ麦その他雑穀ブレンドパンを焼いていたが、それは大変よろしいことであったんだが、あまりにも大変なのでくじけてしまった。(自分で酵母を育てるのは結構喜びであった。膨らむと可愛いのだ。)

で、パンにくじけたトラウマを負ってしまったせいか(ウソです。)なんとなく日常的には食わなくなってしまった。

…だけど菓子と同じように実は好きなんである、パン。
つまり、観念としての食べ物。加工度が高い食べ物。自然界の恵みのかたちをその跡形を消した形に加工した意味としての食べ物、肉体の糧ではなく、心のための糧、喜びのための。

 

それは、自然からではなく、夢や神、形而上の意味をもって形而下に降ってくる贈り物、人間だけのための食べ物(動物は栄養足りてるのに儀式や官能や心の喜びのためのおやつを食べたりしない。)、という位置づけをされたもの。アニミズムや自然崇拝、自然の恵み、その豊饒への感謝からくる信仰からの決別と、それが唯一神へふりかえられた、「概念」へ帰依を意味するもの、(パンやワインっていうのはホントそうだよな、キリスト教の信仰的な飲食物としての象徴。それに相応しい、この加工され洗練された観念としての食物。)…そして、われわれにとってはさらに、異国の食べ物。

…ちなみに漱石は下戸で甘いもの好きだったんだけど、当時はかなり高価だったハイカラな菓子やパン類も好きだったらしい。

(「こころ」にも確か「チョコレートを塗ったカステラ」の菓子なんか出てきたよね。甘そうだけどうまそう、チョコレートを塗ったカステラ。)(東京の先生んとこのおやつはハイカラなこういう菓子、語り手の青年が里帰りしたときの彼の父親に「うまいもの」と呼ばれたおやつが田舎な煎餅バリバリで、青年は憐みに似た田舎と古い時代への思いを抱く。こういう食べ物モチーフによる、新時代(都会)と旧時代(田舎)を象徴するかのような二人の「父的なるもの」のイメージ対比も巧みなんだよな、漱石。)

で、火鉢で食パンを焼いて当時大変な高級品だった苺ジャムなんか塗ったものを朝ごはんにしていたらしい。…まあ倫敦留学してた人間だからな。

(どうでもいいけど、ワシは漱石や賢治の作品がものすごく好きだが、生身の人間としての作者が目の前にいたら、すごくやなやつだと思うんじゃないかと思っている。)

で、特に我が国における昭和世代のパンに対する独特のファンタジックなあこがれや観念性については、かこさとしの既に古典とされている名作絵本「カラスのパンやさん」の人気に最も如実に現れているのではないだろうか、というようなことを思っている。

もうね、この絵本大好きで、何度も何度も眺めては喜び熟読し、ひとつひとつのパンの絵をなめるように眺めておいしい楽しい可愛いパンどもを想像したものだよ、幼児だったオレ。…こういうさ、フレーバーで目先を変えるとかキャラパン的な遊びというか、キャラ弁的なる食べ物文化って日本独特だよねえ、実際。

季節や行事にちなんだ商戦で、一斉にさまざまな意匠を凝らしたパンや菓子があふれかえる街のケーキ屋やパン屋。百花繚乱バレンタインやクリスマス、春には苺スペシャル、そしてさくらんぼからもも、西瓜へ。四季の変化を尊ぶ伝統的な伝統行事への精神を底に敷いた、それは変奏であるように思う。

かたちと味とイメージ、能書き、物語を味わうことが、食べ物それ自体を味わうことに先行する。なんだかね、この感じはアレだよ、アレ思い出す。

ロラン・バルトの「表徴の帝国、記号の国」日本。意味内容の不在、跋扈するイメージと物語の幻想の中で遊ぶ国だ。

 

オレ結構好きだよ、この国のこういうところ。
スノッブなグルメとか偉そうな美食家とかグルメ評論とかいやらしいとこにも通じちゃう功罪はあれこれだけどさ、とにかく精神が満ちてるんだ。実質より物語を愛する精神性。味わうことを、身体的な実質、実体というよりは物語と知性によって、記号として味わってしまう繊細さ。

まあ何しろさ、ケーキ屋やパン屋の前に漂う、オーブンから菓子やパンの焼ける匂いは、まごうことなきしやわせのカホリだな、万国共通で。 

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これはミョーに可愛らしい国分寺アンデルセンのパン、6月限定だったやつ。アンデルセンのすずの兵隊さんだって。(あれは哀しいお話だった。)カスタード詰めたデニッシュにチョコクリームとブリヨシュの兵隊さんがドン。

「ナラトロジー入門」 橋本 陽介

プロップからジュネットまで、という副題につられて読んでみた。
 
入門書としてきれいに鳥瞰されているのでよかった。大体、専門的な各論を読むよりも寧ろ、すっきりと大まかな概念を理解するにはこういうのがいい。
 
大学時代、ジュネットとかバルトとかヒジョーにわかりにくい訳文を一生懸命読んだけど、とっても興味深かった箇所の記憶はあるんだけど、結局なんかほとんど忘れてしまっている。かなしい。大昔だから仕方ないんだけど。大学時代もっとこの周辺がっちり身に着けておくべきであった。骨身に染みるまで。(いや少しはしみたとこ残ってるけど。ほんとにほんのシミ程度しかない。)

ナラトロジー。
 
「奈良トロジー」でも「奈良と露地ー」でもない。(iPhoneで打ち込んだらこう変換されてびっくりした。奈良の露地を研究する学問か。)物語論である。物語分析の理論。ナラシオン、語りの理論。フランスで発展したからナレーションじゃなくてナラシオンなんだよね。当然、用語もフランス語になる。イストワールとかレシとかシニフィエとかシニフィアンとか。(ソシュール以降の言語学と密接にかかわりながら発展してきたんである。)なんかいかにも専門ぽくて英語よりかっこいいぞ、お仏蘭西
 
…なんなんだろうね。英語だとイギリスとかアメリカの、なんというか何かを切り落としながらとことん目に見える合理的なとこばっかりゴリゴリ打ち出した直線的な骨組みの近代合理主義な理論を感じるんだけど、お仏蘭西は違う。もっと非常にムダに詩的な美学を重視したところにある別の次元の隙間を感じさせるようなしなやかさ、生命を孕んだ全体的な「合理」を目指すジャンルのイメージ。
 
レヴィ・ストロースとかのイメージなんだな、これは。記号は単なる記号であることを踏まえ、その意味を剥奪したまま認識理解し、その可塑性をもつ論理を都度生き生きと構築する読者サイドの能動性を視野に入れたしなやかな思考法。「野生の思考」ね。これ。
 
大体だな、菓子の名前も好きだしな。フランス菓子の名前、オレわかるぞ、大体。菓子用語に限ってなら。言われたらどんな菓子かどんな技法だかわかる。菓子は楽しい。どうでもいいけど「シニフィアンシニフィエ」っていうイカサマな名前の有名なパン屋もあるそうな。店名に惹かれて行ってしまいそうになるではないか。(そして本当に大層うまいパンを売っているらしい。)
 
 *** ***
 
物語論
それは、文学批評としては比較的新しい、20世紀に生まれた新批評と言われるジャンルに属する文学批評のための理論である。旧来の共通の指針を持たない感想文的な批評とは一線を画する。
 
旧来のものとは、印象的、感情的、作家還元型(ここで作品はあくまでも生身の作者に由来する。社会的背景や書かれている内容が研究対象)ばかりの「何が書かれているか」という個別の作品の「内容」の「解釈」であった。だがこれはひとまずそこから離れ、それが「どう書かれているか」というあらゆる物語の共通の枠組みそれ自体のメカニズムに焦点を当てたジャンルの理論である。作品、テクストそれ自体をのみ素材にする。構造分析である。
 
当然、言語学と密接に関わり合い、さらには「物語」が語られる、というスタイル、その言語伝達というコミュニケーションの場としての構造にも注目したために、読者という要素が作者と同等の重要性をもって立ち現れてくるものとなっている。
 
あらかじめの「事実」があって、言葉が透明にそれを映しとるのではない。さまざまに加工された誰かの言葉による恣意の物語行為によってその「事実」をあらしめているのだ、という考え方である。
 
 *** ***
 
ソシュール以前、19世紀から20世紀初頭にかけての言語学は、論理学と軌を一にしていたという。つまり、先だって真実があり、言葉はそれを写しとっていくものだという考え方である。言葉は対象にラベルを張り付け名付けるものとしてある。従って、ここではある語の「意味」とは、指示対象そのもののことであるとされた。
 
ソシュールはそのような「言語に先立つ実質の存在」を否定し、人間が言語によって世界を「分けている」のだという考えを打ち出した。(これってなんだか聖書の解釈の問題に立ち返ってておもしろいよね。新約聖書の有名な「はじめに言葉(ロゴス)ありき。」で世界が定義されてるやつな。)
 
彼によれば、言語による差異によって世界は分けられている。(カオスではなくコスモスとなる。認識可能なものとなる。)で、さらに、それは恣意としての「記号」である、と。シニフィアン(意味するもの)、シニフィエ(意味されるもの)の恣意による結合が言語である、という定義である。そう、それはただの「約束事」なのだ。
 
ということで、ナラトロジーにこれをあてはめれば、言語形式がシニフィアン、物語内容がシニフィエということになる。

記号論的な文学理論では、ある内容(シニフィエ)をどう表すか(形式、シニフィアン)の関係が問題とされる。」(p59)
 
また、さらにソシュール言語学で重要なことは、「語は体系を成す」、つまり、ある語は他の語との関係性によって意味を成すものである、という指摘がなされているところである。この指摘は構造主義の先駆けとして、後続の構造主義者たちに受け継がれて発展してゆくものとなる。
 
私たちが言葉に共通の意味を認識し意志を伝達しあっているのは、その語の属する意味体形構造が真理だからではなく、ただ習慣として無意識にその意味体系のネットワークの中で世界を認識しているからだという指摘である。これを可視化することによってはじめてメタ認知されたその構造が客観的に分析しうる対象となるのだ。
 
これはナラトロジーの考え方にぴたりと当てはまる。
シニフィアン、意味するもの」としてのテクスト、言説(レシ)のみに焦点を当てたとき、ここで「シニフィエ、意味されるもの」とはなにか、そしてその「語りの現場」において、作者とは、読者とはどのような関係性をもった構造を成しうるのか、何を意味するものとなりうるのか?という、物語構造からくるテーマが浮かび上がってくる。物語言説の構造を分析し明示された体系として浮かび上がらせる。これはナラトロジーの主要テーマといっていいだろう。
 
個別の作品の内容をさらに個別の価値観やフィーリングに引き付けた解釈・批評ではなく、物語一般の、その根本のメカニズムを分析する手法、寧ろこれは文学とは何か、という命題を根源的に解明していこうとする、テクニカルな構造分析のための科学である。(だがここでこの筆者は、日本におけるジュネットの受容が、小説解釈のための技法のみに限られ、その文学理論としての根源的な問題意識、その思想が抜け落ちていることを嘆いている。)
 
この性質上、ナラトロジーは必然的に二十世紀に流行した形式主義ロシア・フォルマリズム)やその後フランスで流行した構造主義と密接に関わりをもちながら発展してきた系譜をもつ。

なお、この本の序章では、プレ・ナラトロジーとしてアリストテレスの「詩学」という書物が紹介されている。「詩学」は詩を扱うというよりはむしろ物語分析のセオリーに近い分析法を示したものだったらしい。マルチ・プレイヤー、アリストテレス。この本を読んで初めて知った。
 
そこでは「悲劇」を論ずるにあたって、「悲劇」の特徴を「筋・特徴・語法・思想・思想・視覚的特徴・歌曲」の六要素から分析されているという。悲劇の設計図の分析である。つまり、悲劇を見て観客が感情移入し、悲しみを感ずるのは登場人物への感情移入等の「内容解釈」からくるが、この悲しみを感ずるのはなぜか、という普遍的なメカニズムを分析するのが「詩学」の方法なのだという。
 
個々の作品を「解釈」するレヴェルだけではなく、その解釈の手法そのものに焦点をあてた分析の理論、まさにナラトロジーの原型である。
 
とにかくね、わかりやすい平たい例を挙げてあるからいいんだな、この本。だって第一部、導入部はまず「水戸黄門」の例示である。…ということで、ここでまずナラトロジーの原型は、結局あの「お約束」的な物語の原型、パターンを分析研究するってことなんだっていうわかりやすい大元のイメージができるというワケだ。原型があり、法則があり、そしてその数限りないヴァリエーションが発展展開する。
 
 *** ***
 
ロシア・フォルマリズムの旗手プロップが、ロシアの民話、魔法物語を素材にしてパターン化し分析してみせた「昔話の形態学」では、民話(魔法物語)のパターンをすべて31の「機能」に分析されうるものとした。すべての魔法物語はそのお約束のバリエーションに分類されるのである。それは
 
機能1(家族の成員の一人が留守にする。)(留守)
機能2(主人公に禁を課す)(禁忌)
機能3(禁が破られる)(違反)
 
…というようにお約束のパターンが展開して31のプロセスを経て大団円に至る、という構造を示したものだ。
 
この基本的なロシア・フォルマリズム「物語の形態学」をもとにして、民話に限らない文学一般の、より高度に複雑化してゆく過程をRPGのように分岐した構造として分析していったのが後続のプレモンやロラン・バルトであり、それはソシュール等の言語学から出現した当時の仏蘭西構造主義と融合したものとなっていった。
 
バルトやジュネットらはまた物語行為を語り手と読み手のコミュニケーションとして考える視点を導入した。これはジュネット「物語のディスクール」に至って、
 
「語り手」が「語る」という物語行為によって「物語言説(レシ)(シニフィアンにあたる)」が生まれ、その物語言説はある「物語内容(イストワール)(シニフィエにあたる)」を示している。
 
という図式の定義として整理されるものとなる。
ここで大切なのは、ナラトロジーでは、生身の現実の「作者」とこの「語り手」を分けて考えることが重要とされているというところだ。作者とはテクストの外側にいる存在であるが、語り手はテクストの内部存在である。
 
この辺りはごちゃごちゃになりそうなとこで、自伝的小説の場合、伝統的解釈では作者と語り手が一致するとされがちだが、ナラトロジーでは物語内での一人称による作者は限りなく生身の作者に近くあっても、あくまでもそれとは異なる架空の「語り手」であるとされる。
 
まあ考えてみれば自伝と称して、巧みなフィクションだって嘘だって盛り込めるんだから当然だよな。(みんながやってる日記やブログだって何だかんだ、多かれ少なかれ、どっかで絶対虚構要素の盛られた物語なんだよね。自覚無自覚は別として。)で、例えば漱石の「猫」だってその語り手猫の視点に仮託されたのは作者漱石の思考法であり、客観化された自画像「苦沙弥先生」をパロって笑いを生んでみせる、ある意味ねじれて倒錯した手法をとっている。なにしろ語り手とは、ひとまずすべて作者とは切り離されたすべてテクスト内にだけ存在する純粋に架空の「視点存在」なのだ。
 
このあたりこっから先は、作者、語り手、内包された作者、とかなんとかいろいろ考え方があって複雑で、学者同士のかんかんがくがくの議論から浮かび上がってくるこれら語り手や読者の定義の概念はものすごく抽象的になりがちで難しい。
 
けど、いろんな作品にあてはめて彼らの考えていた作者や読者、作品の中に仕組まれた構造の事を分析し考えてゆくと、その作品からさまざまな「読み」の可能性が豊かに開かれてゆく、文学というジャンルの構造からくる世界の深みが、言葉の多義のおもしろさが豊かに感じられるようになってくる。
 
で、思うんだけど。
 
文学とは、物語とは、言葉によって構築される出来事と意味である、とするならば。

言葉を持つ人間によって成り立ってるこの私たちの認識している世界そのものもまた一つの大きな「読まれるべきもの」として考えることができるんじゃないかな。で、それは、「さまざまなエクリチュールが異議を唱え合う(ロラン・バルト)。」場としての一冊の巨大な本。それは、多種多様な意味の包含。矛盾、可能性、正解の不在を孕んだものとしての、「世界」という「複合機能体系」。
 
賢治が「ひかりの素足」で死後の理想の世界を描いたとき、神さま(的な超越的人物。ひかるすあしをもったひと)が死にゆく子供らに、天国の図書館のことを語るシーンがある。
 
「本はこゝにはいくらでもある。一冊の本の中に小さな本がたくさんはひってゐるやうなものもある。小さな小さな形の本にあらゆる本のみな入ってゐるやうな本もある、お前たちはよく読むがいゝ。」
 
これは世界の構造を示した仏教の「インドラの網」構造を図書館の本に託して語ったものとして考えられる。一冊の本とは、ひとつの世界なのだ。無限に連なり関係しあい響きあう、世界の構造。わたくしという現象を規定する有機交流電燈のネットワーク。
 
(ここで、わたくしもまた一冊の本、無限を孕んだ一つの世界そのものである。)
 
(『華厳経』に説かれる「インドラ網」とは、インドラ(帝釈天)の宮殿にかかる網のことで、網の結び目にそれぞれに宝珠がついていて、その一つひとつが他の一切の宝珠を映し出す構造をもっている。一つの宝珠に宇宙のすべてが収まるというダイナミックな生命観を示しているとされる。)
 
 *** ***
 
蛇足。
 
大体論文ってのははそういうもんだと思ってるんだけど、この中でも「序」、そして第一章「物語の構造とは」、二章「ナラトロジー誕生までの理論的背景」、そしてせいぜいが第三章の「作者と語り手」までで、その要旨、エッセンスがすべて述べられている。
 
後はジュネット説の解説(+筆者独自の「言語の違い、文法の違いによるオリジナリティ、翻訳の問題等(日本語だのフランス語だのによる概念の変化)」)の各論である。
 
で、前半を理解するためだけにめんどくさい各論に取り組むもんなので、この「序」の流れと概念がざっとつかめれば、自分で分析法編みだすとか研究するとかそういうんじゃなきゃ、まあいいんではないかと思う。
 
各論の精密さは一見精密なようで、実は精密ではない。ただ精密さを求めて、例外、例外による分岐、さらなる分類、と限りない泥沼にはまり込む構造になってゆくのだ。究極行きつくのは曖昧さであるという結論は見えている。(それでも分析というのはそういうものだ。花と花束の喩えが言われているが、要素と全体の関係、数限りない花々から成った全体としての花束の、その一つひとつの花を分析してゆくことと花束全体との関係、それはゲシュタルト心理学の要素プラスαという構造の概念と近似しているものであるように思う。)その中でおおまかな流れをイメージできれば上等。…大体言葉を扱う難解さとはその多義性による曖昧さに由来するものであって、そもそもがすっきりポンと分析されるものではない。
 
ナラトロジーの存在意義とは、その、共通の約束事や要素の分析からはみ出てゆく個別性、どうしても分析しつくせない唯一無二の「+α」の部分にどこまで近づくことができるか、というための手法であることに尽きる、と私は思う。分析理論は分析理論であり、これはただのマニュアルだ。ツールなのだ。この武器によって物語に仕組まれたさまざまの構造とその可能性に気付くことができるようになる。
 
このツールを使って個別の作品を分析しようとするとき、その構造の中にあってその構造を利用して構築される世界、それは、あるいはそこからはみ出てゆく矛盾に似た思い、過剰を含有するものである。芸術の衝動が、基礎技術と、そこからはみ出るようにして過剰に花開いてゆく天才的な個性の関係の相克やダイナミクスのなかに存するのであれば、どこまで冷徹で客観的に共有される分析が成り立ち、どこからジャンプがなされうるものとなっているのかを見極めること。そこに鑑賞の醍醐味がある。
 
…んじゃないかな。文学理論や批評の存在する意味っていうのはさ。

朝がなあ。
だめなんだ、最近。

昨夜は嵐。今年初の本格台風、記録的な大雨、そして警報が列島を駆け抜けて行った翌朝である。東京では一晩吹き荒れた。

早朝目覚めたら東のそら黎明の光。ベランダで、神々しいようにまばゆい光景に包まれた。雲間にぎらぎら輝く青と金の光のまだら。鬱金とあかがねのいろにくらく輝く雲のその濃い陰影。

嵐に浄化された新鮮に新しい世界のはじまりの朝。
ひんやりと新鮮に空気は澄み、吹き煽られむしり取られた木々と緑のほのかな芳香の中、小鳥がビチュビチュさえずっている。
すがすがと風が吹く。

寂しい。
こんなに申し分なく世界は美しいのに私の胸は冷たくがらんどうなままだ。
 
以前は朝が好きであった。
何とも言えない新しい気持ち。日々ひとの淀みはリセットされ、どこかからやってくる大きな新しい世界の朝の希望があまねく心に染み渡ると信じた。

ひとびとの、わたしのための優しい今日の日常がその新しい力で生まれ直して目を開くと。

けれどこの寂しみは。

明け方の濃密な悪夢からやってきたこの寂しみは、間違った場所からやってきた、存在を損なうもの。世界からすべての意味を奪ってゆく、エンデの「果てしない物語」でファンタージェンを蝕んだ虚無のように。
ああ、本当にあれと同じだ、この朝のがらんどう。悪いのは私だ。

無能感、無力感、虚無と絶望。この寂しさは何にでも化ける。

過去も未来もすべてを損なう蝕むがらんどうの虚無、すべてを食いつぶす魔物。

だけど、生きている。
 
しっかり生きよう。
身体が生きようとしている限り今日を楽しく生きよう。

三鷹にて、トポロジー。

トポロジーという言葉が脳内にこだますることがある。
(ロッテのチョコ菓子の研究ではない。)(もちろんトッポ・ジージョとも無関係である。)
 
もともとの数学的な意味というよりも、心理学寄りに発展した方面のとこである。
 
 *** *** ***
 
三鷹駅、南口に出た瞬間、その光景に、必ずいつも根拠のないいつか見た奥多摩駅前のイメージが擦過する。西側の小さなタリーズの建物を見ると、夏の日の昼下がり、ひとり冷やし珈琲を飲みながら読んでいた本の記憶がその風景ごと蘇る。(本の内容とその風景はセットである。代替不可能な一回性を、あらゆる読書の現場は意味するものだから。)(この意味は、例えば初めての絵本を読んだとき、たまたま出会ったその絵と文章の組み合わせが脳内で分かちがたく結びついてしまう現象で説明できる。同じ作者の同じ文章でも、異なる絵で描かれてしまった絵本として触れたとき、その印象は決定的にどこかで色づけられた読者各々の個別なものとなる。その「読書の現場」のかけがえのない一回性。繰り返し読むこととそれは対立しない。繰り返せば繰り返すだけそれは重厚に重ねられた意味を持ってくるだけだ。)
 
だが、北口は別次元にある。
駅を通り抜ける行為には結界を越えるイメージがある。
 
こちら側は吉祥寺に通じている。初めて北口の風景を認識したとき、吉祥寺中央図書館から歩いて来たからだ。そしてこっちの方が好きだ。ここは大好きな吉祥寺の街から図書館への道行きの世界に通じている、楽しく歩いたその記憶の道。(西側の多摩川沿い方面はそれに先立って歩いたことがあるが、ここはまた全く別。…真夏の昼下がり、阿佐谷や武蔵境の静かな住宅街をさまよったときの記憶のイメージである。そのころやたらと彷徨していたその中央線近辺の風景が、記憶の中で近似値を示し寄り添いあい溶け合うイメージとなっているからだ。)
 
…ことほどさように、風景、場所というのは個的なものである。場所。それは、時空、世界、と言い換えてもいい。

時間や場所とは、本来、普段わたしたちが共有していると信じている客観、抽象、絶対なものなんかではなく、極めてオリジナリティの高い主観を抜きにしては意味をなさない具体、個的、可塑性に富んだ概念なのである。
 
思い出がこびりついてしまった場所は、そのとき個的に所有された意味をもって記憶と存在自体と結びつき一体化し、それは既に見知らぬ土地、更地には戻れない。一度習得してしまった言語のように、意味を持たないただの音韻としての存在には戻れない。

抽象、客観、計測可能なものとしての時空の観念は、ただ共通概念としての理解の便宜のためだけの恣意的な約束ごと、記号に過ぎない。(シニフィエシニフィアンの関係である。)
 
その観念=記号がもつ、<個人に対する空虚>或いは抑圧、疎外について考えるとき、私はエンデの「モモ」を思い出す。灰色の時間泥棒たちが、モモの街の豊かな生きた人々の時間を奪いとっていった、その「時間」への感覚のことを。
 
時間の管理人、マイスター・ホラのところでモモが見た、本来の生きた時間とは、ひとつひとつの一瞬がすべて異なる美しさ、そのときそのとき最高に美しい一瞬の生きた命として次々に咲いては散る花として象徴されていた。時間泥棒たちは、人々の持つその時間の花を盗み取り、その美しさ、その生命を奪い、灰色の乾燥した葉巻にして貯蔵可能な、計測可能な、しかし死んだ時間にしてしまう謎の機関であった。これは、個々のひとびとのゆったりと充足した日々の生活、生きた美しい花としての時間(精神。魂)を食いつぶしながらはびこる病原体、一種、近代合理への批判としてのメタファとなっているといってよい。
 
個に属する(主観に属する)、計測不能な(一瞬は永遠を孕む。)具体としての生きた時間(=美)、そしてそれに相対するもの、共通概念(客観という約束事に属する)、量的に計れるもの(数学的な約束事に属する)、抽象としての死んだ時間(概念)。
 
場所も時間と同じだ。時空、というように、両者は結合し、初めて存在できる。本来不可分な「世界」そのものである。時間を持たぬ場所は存在せず、経つべき場のない時間は存在しない。ということで、以下、トポロジーに関してこの「意味を孕んだ場」としての考え方を「時間を孕んだ場」として扱ってみる。
 
トポロジー(位相学)心理学は、WIKI的な説明では以下のようなものである。(コピペ)
 
「クルト・レヴィンは1930年代にヴェルトハイマーら3人と一緒に研究したことや、ベルリン大学で学位をとった関係でゲシュタルト心理学者のひとりとされている。レヴィンは体験を通じて構造化される空間に興味を示し、それをやがて生活空間と呼ぶようになった。ケーラーが心理物理的な場理論を考えていたのとは対照的に、レヴィンは純粋に心理的な場理論を考えた。これはトポロギー心理学(トポロジー心理学Topologie psychology)との名称で知られるようになった。」
 
(これは《この後の部分の記述で》個人においても集団においても成り立つ構造である、とされている。ここがまた素晴らしく面白いキモのとこであると私は思う。)
 
「体験を通じて構造化される空間」。…個に取り込まれる、私的な時空の概念。
 
これは既に、外部と内部という概念を超越したところにある世界である。外部であったはずの世界、その風景は認識という行為によって個の内部に取り込まれる、或いは、「認識されなければ存在しない。」唯心論的な世界観の構造である。悟ったと認識した瞬間にそれは悟りではない、というような、「外部」の不在、真理の不在、唯物論や唯心論の議論の中にそれはある。
 
ゲシュタルト心理学にしろ、トポロジー心理学にしろ、これは世界の意味がすべて「関係性」「相対性」によって成っているという共通した概念を底に敷いている。とりもなおさずそれは、二十世紀のレヴィストロースに代表されるような仏蘭西構造主義とつながる、…ええと、なんていうんだろ、相対性理論なんだよな、ざっくり言うと。
 
でね、これ以上広げるともう風呂敷が大風呂敷になって広がっちゃって収集つかなくなるんだけど、私がナラトロジーに、物語理論にものすごく興味を覚える意味は、<テクスト=世界>を読む<主体=読者>、そして「読書の現場」の関係性が、そのままこんな風な、相対的な世界のありかたそのものにあてはめて考えられる構造をもった理論だからなんだよね。世界の在り方そのものを読み解く、なんかもう大興奮である。大興奮なのは、これが世界の豊饒と解放に、官能と至福に通じるからなんである。
 
うまく言葉にできないのがもどかしい。くやしい、でも書きたい。
…まあナンダ、その、ライフワークだな、なんだかな。
 
…で。
 
昼間には、世界は一冊の本である、という命題について考えながら中央線に乗っていた。

五感と論理をもってわたくしは世界を読む。世界はわたくしに読まれることによって存在する。
 
そしてわたくしもまた一冊の本である。内部と外部、主体と客体の、その絶え間ない反転の中に、世界と私の一体化した世界全体が現象する。

食べもの好き嫌いあれこれ

のれそれが食べたいな。

…と、鰈を食いながら思ったのだ。春にしか出回らないあのすきとおったアナゴの稚魚。

ヒラメだのカレイだのアンコウだのウナギだの、平べったくて変な顔をしてひらひら泳いでる生物を食うのが好きなんだな自分。(もちろんそれはハモやアナゴやウミヘビでもよろしい。) (注・奇妙に濃い味つけのコテコテ甘いタレなんかつけたらダメである。)(ウミガメやすっぽんってのもなんだか憧れである。)(奇妙な生態をもつ生物を体内に取り込むと非常に充実した気持ちになる。)(八百比丘尼とかの信仰の所以だと思うんだけど、貝とか、変な生態を持つ魚介類には神秘的な海の神様の魔法な薬効が潜んでいる。ネクタルとかと通じるような、なんというか、天界ではないけど、それがなまぐさい地に根差したかたちとして海への信仰に翻訳されたもの。霊薬、エリクサーなんである。)(海への信仰と空への信仰っていうのはなんかな、パターンだよな、信仰の構造の基本。アマテラスの天とスサノヲの海。荒ぶるスサノヲはひょっとして唯一神の法としてのアマテラス信仰に巧みに組み込まれた反逆の記号としてのトリックスターだったんではないかしらん、などとふと。)(賢治もね、罪を犯した空の星たちが堕ちてきて罰を受けている流刑地が海の生物界だ、みたいな童話書いてるよ。「双子の星」。空がイデアで海がミメーシスというかたちか。)(あながち海の霊薬ってのはまったく非科学的ってことでもない。実際科学的栄養学的に魚介類に特化した薬効をもつ成分ってのは発見され続けている。ポピュラーなとこではタウリンとかオルニチンとかアスタキサンチンとか。)(…イヤ結局ただひたすらうまいなアってだけなんだけど。)

 

好きなもののことを考えたので、セットとして嫌いなもののことを考えてみる。

…例えば、茄子の味噌汁。
今は好きである、というか嫌いではない。

小さい頃、自分は虚弱な上に食に問題があって、偏食の上、モノをあまり食わないコドモとして母に苦労をかけた。菓子は食ってもメシは食わんというタイプである。菓子を食わせんでも結局メシも食わんので病弱で衰弱して始末に負えない。最終手段として母の捻出した折衷案は、果物である。(三歳の頃心の臓が弱って死にかけて何も食わなくなった時も、ブドウだけは食ったという。種なしのデラウエアをつるつると飲み込ませたのだ。)

おかげで母の中には葡萄信仰が生まれたらしい。いまでも葡萄を見るごとに「あんたの命の恩人(人ではなかろう。)」と呼び、「ブドウ糖があるんだからたくさん食べなさい。(意味不明)」と強要する。

…あと、椎茸がダメであった。今では大好きである。タマネギはカレーに入っているのだけはOKであとはNGサインを出していた。が、いまではなんでもイケる。実にオトナになったもんだ。

逆に、昔は大好きだったけど今は食えん、というものもある。

母特製の、甘い甘いあま~い関東風卵焼き。南部鉄鍋でぐつぐつ煮込んだ関東風の白砂糖山盛りのこってりすき焼き。(生卵つけて食うんである。家族四人でぐつぐつを囲んでひたすら一生懸命おいしがるんである。鍋奉行争う両親とひたすら肉を食う姉と。そして大抵それは土曜の夜であったような気がする。)(明日世界がなくなるというのならもう一度チャレンジする意向はある。)(だがあの場面のあの食べ物はもう決して再現されない時空の果てにある。)

 

さて、オチはない。 

ただね、デラウエアつるつる剥きながらつるつる飲み込んでたりするとき、私の命を救ったという食べ物のことあれこれ考えるんだよね、なんとなくね。おいしいってこととただしいってことはどう結びつくんだろうとかさ、食べるってことは、世界との交感だからね。それは喜びであるのが基本なのに、社会システムの中で、ときにステイタスのシンボルというだけの意味になったり、純粋な苦行になったりする。不味い、ということの意味。それは純粋に精神的でもありうるし純粋に肉体的でもありうる。…そういやさ、愛と食べ物はよくメタファにされるよね。拒食症の解釈の時とかさ。 本来シンプルな喜びでさえあればいいことがさ、奇妙に複雑で難しいこの世の苦しみになるっていう人間の業は、どっから来るのか。難しいのはきらいだ。

デラウェアな、ひとつぶひとつぶ剥きながら食べるのまどろっこしいんで、ときどき一生懸命まとめてむいて、冷凍庫でキンとひやして、半分凍らせておやつにしたりする。暑い夏の日にいいんだよ。エメラルドグリーンきらきらしてとってもきれい。これな、ふるふるのゼリーにしてヨーグルトチーズムースなんかにあしらったら素敵なガトーができそうだな。

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