時間や場所とは、本来、普段わたしたちが共有していると信じている客観、抽象、絶対なものなんかではなく、極めてオリジナリティの高い主観を抜きにしては意味をなさない具体、個的、可塑性に富んだ概念なのである。
…まあナンダ、その、ライフワークだな、なんだかな。
五感と論理をもってわたくしは世界を読む。世界はわたくしに読まれることによって存在する。
のれそれが食べたいな。
…と、鰈を食いながら思ったのだ。春にしか出回らないあのすきとおったアナゴの稚魚。
ヒラメだのカレイだのアンコウだのウナギだの、平べったくて変な顔をしてひらひら泳いでる生物を食うのが好きなんだな自分。(もちろんそれはハモやアナゴやウミヘビでもよろしい。) (注・奇妙に濃い味つけのコテコテ甘いタレなんかつけたらダメである。)(ウミガメやすっぽんってのもなんだか憧れである。)(奇妙な生態をもつ生物を体内に取り込むと非常に充実した気持ちになる。)(八百比丘尼とかの信仰の所以だと思うんだけど、貝とか、変な生態を持つ魚介類には神秘的な海の神様の魔法な薬効が潜んでいる。ネクタルとかと通じるような、なんというか、天界ではないけど、それがなまぐさい地に根差したかたちとして海への信仰に翻訳されたもの。霊薬、エリクサーなんである。)(海への信仰と空への信仰っていうのはなんかな、パターンだよな、信仰の構造の基本。アマテラスの天とスサノヲの海。荒ぶるスサノヲはひょっとして唯一神の法としてのアマテラス信仰に巧みに組み込まれた反逆の記号としてのトリックスターだったんではないかしらん、などとふと。)(賢治もね、罪を犯した空の星たちが堕ちてきて罰を受けている流刑地が海の生物界だ、みたいな童話書いてるよ。「双子の星」。空がイデアで海がミメーシスというかたちか。)(あながち海の霊薬ってのはまったく非科学的ってことでもない。実際科学的栄養学的に魚介類に特化した薬効をもつ成分ってのは発見され続けている。ポピュラーなとこではタウリンとかオルニチンとかアスタキサンチンとか。)(…イヤ結局ただひたすらうまいなアってだけなんだけど。)
好きなもののことを考えたので、セットとして嫌いなもののことを考えてみる。
…例えば、茄子の味噌汁。
今は好きである、というか嫌いではない。
小さい頃、自分は虚弱な上に食に問題があって、偏食の上、モノをあまり食わないコドモとして母に苦労をかけた。菓子は食ってもメシは食わんというタイプである。菓子を食わせんでも結局メシも食わんので病弱で衰弱して始末に負えない。最終手段として母の捻出した折衷案は、果物である。(三歳の頃心の臓が弱って死にかけて何も食わなくなった時も、ブドウだけは食ったという。種なしのデラウエアをつるつると飲み込ませたのだ。)
おかげで母の中には葡萄信仰が生まれたらしい。いまでも葡萄を見るごとに「あんたの命の恩人(人ではなかろう。)」と呼び、「ブドウ糖があるんだからたくさん食べなさい。(意味不明)」と強要する。
…あと、椎茸がダメであった。今では大好きである。タマネギはカレーに入っているのだけはOKであとはNGサインを出していた。が、いまではなんでもイケる。実にオトナになったもんだ。
逆に、昔は大好きだったけど今は食えん、というものもある。
母特製の、甘い甘いあま~い関東風卵焼き。南部鉄鍋でぐつぐつ煮込んだ関東風の白砂糖山盛りのこってりすき焼き。(生卵つけて食うんである。家族四人でぐつぐつを囲んでひたすら一生懸命おいしがるんである。鍋奉行争う両親とひたすら肉を食う姉と。そして大抵それは土曜の夜であったような気がする。)(明日世界がなくなるというのならもう一度チャレンジする意向はある。)(だがあの場面のあの食べ物はもう決して再現されない時空の果てにある。)
さて、オチはない。
ただね、デラウエアつるつる剥きながらつるつる飲み込んでたりするとき、私の命を救ったという食べ物のことあれこれ考えるんだよね、なんとなくね。おいしいってこととただしいってことはどう結びつくんだろうとかさ、食べるってことは、世界との交感だからね。それは喜びであるのが基本なのに、社会システムの中で、ときにステイタスのシンボルというだけの意味になったり、純粋な苦行になったりする。不味い、ということの意味。それは純粋に精神的でもありうるし純粋に肉体的でもありうる。…そういやさ、愛と食べ物はよくメタファにされるよね。拒食症の解釈の時とかさ。 本来シンプルな喜びでさえあればいいことがさ、奇妙に複雑で難しいこの世の苦しみになるっていう人間の業は、どっから来るのか。難しいのはきらいだ。
デラウェアな、ひとつぶひとつぶ剥きながら食べるのまどろっこしいんで、ときどき一生懸命まとめてむいて、冷凍庫でキンとひやして、半分凍らせておやつにしたりする。暑い夏の日にいいんだよ。エメラルドグリーンきらきらしてとってもきれい。これな、ふるふるのゼリーにしてヨーグルトチーズムースなんかにあしらったら素敵なガトーができそうだな。
少女漫画とBLについてはなんだかんだ言いたいことがあってちまちまメモしたりしてたんだけど。
…昨日か一昨日か、ツイッタ界隈で「美術館のちょい悪オヤジ」の話題が盛り上がっていた。モテたいオヤジはうんちく身に付けて美術館女子を狙え、っていうやつな。
まず噴出していたのはそのダサさと低能さ、卑しさ、無自覚の暴力的ハラスメントへの激しい非難である。それはもうウットリするほど見事に完成され、知性に溢れた美しい批判のかたちであり、感服するほど気持ちのいい激しいディスりっぷり(変な言葉だな。)であった。
で、これを完膚なきまでに叩いた後の第二ステージとして立ち上がるのが発展二次創作である。この辺の笑いへの横滑りっぷり、このトコトン笑いのめそうとする貪欲さが好きなんだなあ、ツイッタ気質。自分自身をも含め、何もかもをパロディにする、なにもかも笑いへとずらす物語化への視点を持つ。その江戸庶民的な逞しさが好きだ。ものすごく大切なことだと思う。真面目に。
で、どう発展したかっていうと、基本、二通り。
まず、無知だけど知的な雰囲気大好き女子に付け焼刃蘊蓄たれて感心されて尊敬されてモテちゃって食事に誘っちゃってっていうプランが、美術館オタク女子に激しい切り返しを受けて撃沈するっていうストーリーのバリエーション。これは、社会的に暗黙の了解として男性社会における下位レヴェルにおかれ蔑視されてきた女子からのルサンチマン系譜である。
もう一つが、BL好きクラスタから発展した、女子ではなく男子同志の美術館でのナンパ物語変奏。「ボーイミーツボーイ@ミュージアム」である。こっちの突き抜けたぶっ飛び方が実に素晴らしい。ルサンチマンなんぞない。だけど、斜め上反応的でありながら、それはあざやかに男性原理を笑いのめし、性の消費を逆転させている。
そして更に言えば、笑いながらもそれを愛おしむ、親密な秘密共有サークル内で成立するのびやかなあたたかさがある。オタク自覚者同士に特有の共犯感覚。もちろんそれは発端となった元ネタの生じた社会原理への揶揄が基盤となっている。(これは重要なポイントなんではないか。)
…具体的に、その二次創作内容なんだけど、これが結構渋くてイイんである。ちょい悪オヤジイメージから発展しただけあって、BL(ボーイズラブ)というよりはOL(オヤジラブ)、いやむしろそれらを既にはるかに越えたZL(ジジイラブ)ジャンルの形成へと進化したらしいのである。時代は既にZL。もうこのあたり花盛りで素晴らしい。最も受けているのは「ちょい悪じじいとガチ教養じじい」絡みヴァージョンである。
なんかね、笑いネタなんだけど、ここでは、笑いっていうよりイイんだな、深いんだな、じんわりあったかいんだな、純愛、友愛。ZLってのは。(「最高の人生の見つけ方」結構好きなんである自分。)
BLにもやっぱり通じるとこがあるんだけど。…ウン、やっぱりBLについてはもうちっと語ってみたいな、これは、愛(エロスにしろアガペにしろ)を当事者としてではなく物語として眺める、というレヴェルで嗜好する感性だと思うから。これは後日の課題。
実は観つづけております。「小さな巨人」。
ここであんなにこきおろしておいて、と思われる向きもあろうかと思いますが。…いやあ、だってさ、楽しみ方がわかってきたりしましてな、キャラクターに愛着もつようになってしまったりするともうおしまいです。
でもね、でもでも、全然意見は変えてないです、ほんと。全然言ったこと撤回する気はないし今でもおんなじように思っとりますです。…だからさ、ただおもしろさの構造、そしてその持つ可能性として、こないだ比較したような「シン・ゴジラ」と同じ地平におくべきものではない、ということで。
電子レンジにオーブンの役割を求めてもダメである。
だからこれはこれで、このジャンルでは優れたエンタテイメントだと思うワケです。テレヴィ・ドラマというよりは舞台劇的なわざとらしいキャラクター、大仰な表情、せりふ回し、このこれ見よがしのわざとらしさを登場人物の丁々発止の腹の探り合い、劇中劇としての味わいで込み入った陰謀劇を楽しめるようになればめっけもの。お約束を楽しむ娯楽技芸の洗練。
あとね、これが重要なとこなんだけど、最初の「芝署編」ではウェットな人間ドラマに主眼がおかれすぎてた。これでイマイチ感が前面に出てたんだけど、これが今回「豊洲編」になって、警察内陰謀探り出し丁々発止及び謎解きゲームな部分に主眼が絞られてくると役者脚本の持ち味面目躍如、断然面白くなってきちゃったってことなのだな、つまり。「芝署編」で一通り紹介設定された登場人物像を自在にひねって善悪敵味方二転三転、視聴者を翻弄し楽しませ遊んでゆくゲーム本番到来なイメージ。
推理ドラマは閉じられた構造建築の美学。受け手は純粋に受け手となってそのストーリー構造の巧みさに乗せられていればよい。(だからさ、大体こういうドラマなんだったら、「悪役に利用翻弄される子を思う不幸なシングルマザー」だの「娘を不当に殺され誘拐テロに走る哀れな中小工場主親父」だののあまりにもイージーティピカルなおセンチ路線にハンパに頼っちゃっちゃダメなんである。いっぺんにつまんなくなってしまう。)
主人公香坂の家庭でのまぬけシーンと新人女の子役の三島が、舞台劇的とは異なった、いわゆるナチュラルな演技。これが一般的なTVドラマのうるおいというかほっと一息一服の清涼剤的な(男性原理企業ドラマ的の大仰に深刻ぶった筋立ての中での家庭、女性の柔らかな日常の微笑ましさ)味わいをさしはさんでるって匙加減もなかなか。
だからさ、娯楽に何を求めるなんだな。
(基本的にやっぱり好きなジャンルではないのでまあ惰性ではあるんだけど、次はこれどうなるんでしょうわくわく、の罠にはまった。)
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何をもって人は、自分は、今これを面白がっているのか。自分のどの部分がどのような箇所をおもしろいと感じているのか。心は何を喜んでいるのか。悲しんでいるのか。それは己の精神のどのような構造に基づいているのか。
芸術であろうと科学であろうと文学であろうと人間関係であろうと。対象がなんにせよ、これを見極めるのって結構重要なことなんじゃないかな、と思っている。自分とは何か世界とは何か、というテーマとそれは同義だから。
「僕の小鳥ちゃん」、「ホテルカクタス」。
江國さん久しぶりに読み返す。
この人の作品は、やっぱりこういう童話風というか、いわゆる大人の絵本という感じの作風のが好きだな。
ちょっと久しぶりの友人としっとりおデート。
わざわざ横浜の方から来てくれるっていうから地元のいいとこ見せなくちゃ、とひそかに張り切る。
この季節、西国分寺駅周辺で見られるとこといえば、まあにしこくんの脚線美と新緑麗しい武蔵国分寺公園くらいである。そして、書物好きの友人なのだ、これはもう是非都立多摩図書館に連れて行ってあげたい。
ということで、あいにくの荒れ模様、不穏なお天気だったけど、メーデーデート。
図書館は思ってた以上に喜んでくれて嬉しかった。「宝の山やあ~っ!」とあちこちにひっかかってなかなか書棚から離れず。ちいとくたびれて膝痛くなってきた自分、いささか心は痛んだがそこはかとなく幾度かせかして書棚からひきはがし、近くの珈琲屋に連れ出す。
居心地のいいカフェは地元の誇り。
クルミドコーヒーはどこもかしこも胡桃でいっぱい。温もりが嬉しい、実にいわゆる隠れ場な雰囲気のカフェである。そして「おひとつどうぞ」とテーブルに置かれた信州山胡桃。殻割りながら味わって食べる国産胡桃はこっくり味が濃くてやっぱりおいしい。(胡桃をつまみながらの珈琲ってなんだかちょっとオトナな気がする。深夜書斎でひとりウヰスキーなめながら胡桃を割るお父さんを覗き見て大人の一人の時間の深み、ひとときの永遠、その夜の時間の豊かさや秘密に匂いを感じ取る子供っていう物語のワンシーンを思い出す。あれは誰のどんな作品だったかなあ…。)
友人注文のてんこ盛りサンド。来た瞬間「ワー可愛い!」と叫んでしまう可愛さであった。イヤこの写真では伝わらないようなインパクトの可愛さでしたな。
(ちっちゃい。でも可愛い。可愛い。でもちょっとちっちゃい。…そんな忸怩たる思いを抱かせる一品。)
ふわふわチーズムースはちょっとクレメダンジュ風。胡桃のカケラと蜂蜜檸檬をかけていただくスタイル。
外は嵐、中は暖かなシェルター安全地帯。
ふにゃふにゃでもそもその私には、読書家で創作家で物知りな彼女はつい甘えてしまううんと頼もしい友人なんである。
人のことばかりで自分のことは自分の中に圧し潰して、人にぶちまけられない長女気質のひとである。とても敏くて賢いひとなので、奥歯にもののはさまったようなものいいをするワシの気持ちのひそやかな部分を一生懸命汲み取って励ましてくれようとする。
そういうのって、ときにえらく沁みてしまうもんなんである。
だから、彼女の抱えてる重たさを垣間見たときは、少しでもそれを軽くしてあげられるようなことが私にもできればいいんだけど、って思うんだな。それはかなりな衝動として。いやほんとのところ。
人間、優しくされると優しくなれるもんだと思うんだな、実際。
優しさとは一体何ぞという問題はさておいて。
ガラス窓に吹きすさぶ嵐の新緑はちいと暴力的なエネルギーに満ちた季節の風景。「なんかおもての嵐、わくわくするね。」と言ってみたら激しく同意された。
シェルターな時間はいいもんだ。