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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「シン・ゴジラ」と「小さな巨人」

普段、映画もドラマも熱心に観る方ではない。TVもほとんど観ない。
活字派である。隠遁している。
 
ということで、去年これは絶対と誘われて、久しぶりに劇場で観た映画であったせいか、単に傑作だったせいか、すっかり衝撃を受けて知恵熱的にシン・ゴジラにイカれたクチである。
 
ということで、新しく始まった日曜夜のドラマ「小さな巨人」。
シン・ゴジラの主役矢口蘭堂役の長谷川博己と人気だった「尾頭さん」市川実日子だっていうから、と、うかうかのせられて。
 
…というかまあ父が観るというのでついでに。
実家のリビングでぶつぶつ言いながら一緒に鑑賞した。第一回。
 
はあ、なるほど。
 
…というのが感想である。

イヤ実によくできていると思ったのです。ほんとに。
それなのに、おもしろくない。

いやおもしろいって言えばおもしろいし大層評判もいいようで楽しめる人は楽しめるものなんであろうと思うんだけど。
 
…という感じのエンタテイメント。

そうか、ドラマっていうのはこういうものなんだよな。人間ドラマ。社会ドラマ。善良なる人々が善良に楽しむエンタテイメント。
 
正直言って、オレあんまり。
 
ハアよく出来とりますなあ、ほんに才能のある器用有能な人々がケチのつけようのないきれいに出来上がった豪華で優等生な作品拵えとるんですなあ、っていう遠いまともな世の中を寂しく傍観するカタワものな気持ち。
 
あきらかにシン・ゴジラを意識した雰囲気作り。

だけど、あの映画のときの大興奮はまったくない。
独断と偏見かもしれないし、連続ドラマと映画を比べるのは畑違いっていうことももちろんあるし、そもそも狙いが違うとかいうのももちろんあるんだろうけど。
 
同じように現実をカリカチュアライズしたファンタジックな虚構エンタテイメントだとしても、いやそれだからこそ、奇妙に似ているからこそ、後世に残る作品と消費される時代一過性の作品との違いを目の当たりにしたような気がして、まあそういう意味で興味深い。
 
ネットでの評判みてみたら、とにかく好評で、よく知らんのだが大ヒットドラマ半沢直樹シンゴジラ足して二で割ったようなものらしい。
 
とりあえず、警視庁の中のエリートと現場たたき上げの二項対立で、巨悪を正義が倒す、っていうようなものらしい。

白い巨塔とか巨悪に立ち向かう正義の士。舞台は警察だけど、企業ドラマみたいなもんである。
 
企業ドラマに興味がない。で、謎解き犯罪ドラマにも興味がない。
だからあんまり、なんだよな。当たり前か。
 
だけどさ、企業ドラマっていうのは人間ドラマなんだよな。義理人情と企業利益からまって、利己的な金と名誉とるか社会正義や人情で義を通し弱い者の味方になる道をとるか、って二者択一的な。意匠は変われど、基本、それは任侠ものとまったく同じ精神レヴェルのためのエンタテイメントである。定義された物語ができあがっててその組み合わせのダイナミクスで物語ができあがる。その外側には出ない。だからふかぶかと精神内部に切り込んでゆくような何か現実側に切り込んでくるような知的な面白さっていうか文学性は出てこない。全部どっかで見たような設定とキャラクター。このお約束が楽しいっていうのはあるけど。役者の味で。ドラマ通の人だったら先見え見えだったり謎あてっこな知的ゲーム風な感じを楽しむんだろうな、推理小説みたいに。
 
 
で、ゴジラの方は規定の物語の枠をぶち壊すような文学性があるのかっていうと、あるんだな、これが。

深刻ぶった社会の歪みを拡大強調して正義の怒りを鼓舞するようなエセ現実ファンタジーではなく、逆に荒唐無稽にファンタジックな設定をしゃあしゃあと打ち出した虚構怪獣映画であるからこそ、カリカチュアとしての可笑しみとぶっとびの卓越が可能になっている。
 
そうだ、「小さな巨人」は実はカリカチュアなんかではなく、現実の劇画化であり、それは寧ろシステムを美化するタイプの物語である。カッコイイのだ。怪物役としてのティピカルな悪役ですら一種ピカレスク浪漫すら思いおこさせる「オトナ社会の酸いも甘いもかみ分けた現実のキビしさを踏まえた苦み」とかなんとかな美学をもっている。さまざまの物語の組み合わせ、感情の葛藤と犯罪ドラマの謎解きのからまった複合物語を楽しむためのドラマ。
 
ゴジラの方は、そういう「人間ドラマ」なんかじゃない。ここに悪役や愛や悲しみ悩み苦しみ憎しみ、どろどろな人情ドラマは存在しない。ただ単に突然降りかかってくる理不尽な巨大な災厄にあらゆる手を尽くして立ち向かう「力」の発動、そのシンプルで小気味よい対決がある。ダイナミクス。ケがれた日常の破壊、ハレとしての破壊的祝祭、終末思想、日常の破壊なカタストロフへの陶酔、そしてそこからのひたすら前向きな再生への意志。すべての宗教が唄うその死と再生のための破壊的非日常祝祭空間がシンゴジラのアクションシーンだ。(しかしゴジラ背中のビームのシーン、あのうっとりするような圧倒的な巨きさの哀しみ、あのひたすらの哀しみはなんなんだろう。)
 
前半の政府の中の非効率的で理不尽なシステムへの皮肉は明らかだが、ここでそれは怒りを呼び起こすよりも笑いを呼び起こす要素となっている。滑稽なのだ。憎めない。憎むべき人間がひとりも出てこない。ここには圧倒的な世界の理不尽というすべての小さな社会的理不尽を圧し潰す自然のアタリマエがあるだけだ。
 
それは、ウエットであるかドライであるか、という違いかもしれない。
一方は、淡々と流れてもいい日常生活や社会生活における人生を劇的で深刻な文字通りドラマティックな味付けをしようとするウエッティなドラマ。他方は、ひたすら降りかかる災難にわたわたと対応する人間たち、その個々の人生のたくさんのドラマを圧殺したところにある活劇アクション、その乾いたカリカチュアの味わいをもつ叙事詩的な映画。

小さな巨人の人間ドラマ、犯罪ドラマの伏線と謎には答えがあり、閉じられている。が、シンゴジラのそれに答えはない。投げかけられた思わせぶりな伏線、暗示はすべてが空白という真理であり、その続きが読者に開かれ投げ渡されてしまった「思考」のための空白という爆弾である。…それは「記号」、野生の思考を促すテクストなのだ。
 
ということで、ゴジラは読み込むべきテクストとしてあり、巨人はテクストとしてはとらえられないブツである。

ゴジラは常に解釈され続ける開かれたブリコラージュであり、巨人は閉じられ完成された物語構造を持つ堅牢な建築物であるからだ。(ブリコラージュ、野生の思考に関してはこちらの記事参照。
 
開かれたテクストのその記号は、読者に解釈を促し続ける。人はこのように、本来無意味な世界に意味を見出し続けることで生きているんじゃないかな、と思うんだな。

…なあんてしのごのいって、来週一応録画予約したワレである。
ころりとこりゃ面白いやとか言い出すかも。まだ第一回しかみてないもんね、小さな巨人