酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

レッキンボール

つい甘えてしまったとき、しっかりと真摯に受け止めてこたえてくれる古くからの友人というのは人生の宝だ。現在を過去が救ってくれたような心持ちの9月7日である。

感謝というのは胸の中で暖かい温度感をもっている。

じいんときたのは自分でもおぼえていなかった自分の言葉が人に与えた何か、という現象に関してということでもある。

こんな言葉をもらったのだ。

 *** *** ***

K(本名)は覚えていないかもしれないけど、

「音楽みたいに形のないものばっかりだけじゃなくて、人間とか形あるものを好きにならないと、心の痛みがわかるようにならないよ。」

って、何かの機会に、オレ、キミに言われたことがあるのを思い出したよ。
 
この言葉は、しばらくのあいだ、すごく強く自分の中にあったのですよ、いましめとして。
(中略)
だから、
昔の自分に助けられていると思っていいよ。
 
 *** *** ***
 
この人は、私が高校生の頃から、その音楽や芸術全般に対する卓越したセンスと才能と不思議なカリスマ性をもっていて、吹奏楽部の指揮者だった。いい加減でぷらぷらへらへらした態度で妙に孤高なとこがあって、そしてそれなのに、(主として男子に)異様に慕われていた。
 
もともと決していわゆる勝ち組になるタイプではなかったのだ。美大に進んで、己を曲げない苦しい生き方を選ぶしかなくて、きっととても辛い思いを経てきたのだ。でも私は彼が羨ましいし、相変わらず音楽に対するセンスは抜群だ。彼が毎月リストアップするラジオDJ的なノリの「今月の音楽」はハズレがない。
 

…今の私に、と、お気に入りの歌を勧められた。涙ぐみそうになる。この歌の歌詞きちんとわかりたいけどわかんなくてもいい。うらぶれたダミ声聴いてるだけでいい。

「鎖のちぎれそうなレッキンボールみたいな娘」って表現がイイんだって。
 
トム・ウエイツやレナード・コーエン、場末のうらぶれた酔いどれオヤジの歌って昔からいつでも好きだった。井戸の底から空や月を恋うようなその祈りのような歌。

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賢治

朝、でかけようとしたとこで、iPhone君がぽよ~んと鳴った。
大学時代の友人からメッセージである。

彼が次男君(中一)の宿題の読書感想文に付き合ってたら、賢治の銀河鉄道の夜のことで質問された。わかったら教えてって。

「なんで鴈がお菓子になるのか?」
「なんでジョバンニの切符だけ特別なのか?」
「ほんとうの神様はたったひとりなのか?」

…いやそれぽんと聞くか?
「なんで?」ったってなあ。(知るわけないだろ。)

それ全世界の先鋭の研究者がはりきってカンカンガクガクやってるとこなのヨ中学生。

だからな、こんな風にあっさりきかれてもなあ中学生。
自分で考えろよ中学生。

答えなんかないんだからさ。
(ってかお父さんどこまでいいパパなんだよ羨ましくて目頭熱くなるぜよこのやろう。)

ということで、マンションの大規模工事説明会と家人のくだらない顔を見てぐったりくたびれた後、このままおうちに帰ったらひたすら魂腐るし、と、街の公園のベンチで風に吹かれていた。平和に土曜日を楽しむ人々を眺めて緑の空気を吸って冷やし珈琲をすすりながら子供の本を読んで、そいでぽよんぽよんと思い出したようにいろいろ聞いてくる彼に返信しつつ考えた。
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晩夏だ。

蝉が鳴いて風が吹いて水面がきらきらしてるのって幸福だな。

 

そしてやっぱり賢治を考えるのは楽しい。

 

今年は生誕120周年で、花巻ではいろいろ記念イベントがあったらしい。素晴らしくうつくし銀河鉄道の夜イメージのイルミネーションやらなにやらやってたらしい。

賢治記念館は山の上の素敵なとこにある。カレが実際弾いていたというかっこいいチェロなんか飾ってあった。

行きたかったな。
…イヤ、行きたいな。

人生もうだめだと思ったときは、とりあえずあきらめる前にもう一度あすこへ行ってからにしよう。

午後、銀河鉄道さっと読み返してしばらく目をつぶっていろいろ思い起こして考えて、少しでも中学生の参考になれば、とあれこれ即席で殴り書きして送り付けておいた。

親の方にはそれでもそれなりに結構納得してもらったみたいで嬉しい。

明日は雨。
酒もまわった。寝よう。

シン・ゴジラ試論「現実対虚構」に関して。(「春と修羅」を手掛かりに)

 
2011.3.11の東日本大震災原発事故。
あの出来事なくしてはこの作品は成立しえなかった。
 
初代ゴジラ第二次世界大戦後9年のあの時代に生まれた原理とこのことは重なって見える。
 
… 昭和29年。核の時代の幕開けだった。実際に行使され、兵器としてのその恐るべき破壊力が確認された。大国間の緊張状態にあって両国で激烈な勢いで発達し たそれら核兵器、核エネルギー開発の時代。この年の3月にはビキニ諸島での水爆実験が行われ、第五福竜丸死の灰を浴びるという事件が起こっている。人類 が地球環境を破壊しもろともに滅亡するというヴィジョンが未曽有のリアリティをもって立ち現れた時代。
 
人類にとっての世界そのもの、未来そのものの存在の確かさが根底からくつがえされた。滅亡のリアリティの読み込みと共有である。
 
それはすなわち恐怖と危機感の時代であり、倫理なき科学技術の暴走への危惧の萌芽の時代であることをも意味した。権力争いや欲望、盲目的な知識欲の行きつく先、その愚かさの果てが見通せるところに来た。…警鐘を鳴らさなくてはならない。
 
その危機感のムーブメントの流れの中に生まれた「怪物」。
被爆国日本の世相において、そのような驚愕と危機感を鮮やかに示しだした怪物がメガヒットエンタテイメント、初代ゴジラだったのである。
 
 
…とすれば、この「シン・ゴジラ」の脅威のリアリティは、あの震災と原発事故以後の国全体の危機への自覚の共有、その圧倒的なリアリティによって成り立っている。
 
あの震災の日から5年が過ぎた。
 
ある日突然、圧倒的な力で日常が破壊されるという恐怖。突如巨大な悪夢が牙をむき、日常現実を木っ端みじんの破砕するというリアリティ。
 
触れるだけで飛び上がるような痛み、生々しいあの恐怖が、国全体の共通認識として植え付けられたあの日から、5年。
 
我々の多くは、その痛みに反射的にヒステリックな感情を噴出させてしまうことなく、多少の客観性をもった表現を許されるところに来た。だが決してそれは、恐怖と痛みは、風化していない。
 
シン・ゴジラは、その絶妙のタイミングをもって現れた映画であるともいえるのかもしれない。なまなましいリアリティから決して離れることなく、そこからその 意味を冷静に未来のために考えてゆく、知として深化させてゆくための起爆剤、或いは歴史の中に置かれようとするマイルストーン。痛みと恐怖のリアリティに 立脚したところから始まる未来を模索する思考、思想の構築と深化をそれは求めたものである。
 
 
だが初代とシンが決定的に異なるところがある。
それは、破壊される街、破壊される日常現実の位置づけだ。或いは、その価値。
 
初代ゴジラにおいて、破壊対象となった街は、人々が戦後やっとの思いで復興を遂げてきた街、庶民の貴い平和である。かけがえのない貴重な日常現実、暮らしそのもの。だが、世界じゅうに蠢く戦争への指向、科学技術の暴走が、それを根底からくつがえす暴力的な災害、ゴジラを呼び起こす。
 
呪われ、呼び起こされたあらぶる神の理不尽で圧倒的な暴力を前に、なすすべもなく蹂躙される被害者たちの悲劇や嘆きが描かれる。
空襲を思わせる突然の脅威、防空壕を思わせる避難所。何の重みも意味もなくちっぽけな虫けらのように目の前で奪われてゆく大切な人々の命、蔓延する悲痛な嘆き、廃墟。
 
それは先の戦争のなまなましいリアリティ、身体性としての恐怖である。
 
作品中、女学生たちによって、被害者のための鎮魂歌が歌われるシーンがある。…これは、そのまま戦争犠牲者への鎮魂の歌だ。この映画は、ある意味哀悼と鎮魂のための作品であるといってもよいかもしれない。
 
 
翻って、シン・ゴジラ
ここで破壊されるものは何なのか。
 
破壊された街は、その日常は、初代ゴジラの破壊した街とは物質的破壊という現象では同じかもしれない。だがその持つ意味合いは大きく異なっている。
 
ここで中心に描かれるのは人々の悲劇ではなく、政府の対策に焦点を絞った「闘い」のドラマであり、ここで被災者への鎮魂歌は歌われない。このことは、二つの作品の中で破壊されたものの意味の違いと大きく関わっているように思われるのだ。
 
この「破壊されたものの意味」を、映画のキャッチコピー「現実対虚構」という闘いの構図の意味から考えてみたい。
 
 
●「現実と虚構」
 
震災、原発事故。対応に追われる政府、その頼りなさの露呈。あのとき、ニュースで流される政府や対策本部関連の対応コメントにおいて、「想定外」という言葉が、繰り返し繰り返し使用された。「まさかこんなことが。」皆が共通に感じた言葉があふれ出た。
 
「当たり前に永遠に続くかと思われていた平和や爛熟した物質文明の繁栄を誇る日常が、ある日突然たやすく失われうるものである。」
 
この現実味を帯びた危機感の発揚、そしてそのドラマティカルな共有。作品はあのときのこの衝撃を、詳細で綿密な細部の描写、行き届いた小ネタのリアリティによってえぐりだす。(作品中、この「想定外」やアナウンサーの絶叫する「信じられません、まったく信じられません!」の科白は繰り返し使用されているもの である。)(そして、細部にわたるこの綿密な小ネタの仕掛けこそが「あの日々」をまるごと共有した我々をこの作品の中のなまなましさの中で再び結びつける 役割を果たしているものなのだ。)
 
あれは ぬるま湯の幻想が打ち砕かれた新しい時代のはじまりだった。
 
突然の災害によって破られたぬるま湯の幻想。これは、作品の、突然のゴジラ来襲によって破壊された日常現実、という構図と重なっている。
 
…とすれば、或いはゴジラによって破壊されたのは、「現実」だと信じていた幻想(虚構)だったのではないか?
 
…ではいったい何が日常現実という幻想を構成していたものだったのか?
 
この映画のキャッチコピー「現実対虚構」は、「現実」には「ニッポン」、「虚構」には「ゴジラ」とルビがふられたものであった。 
 
一体その「現実」ニッポンとはどこにあったのだろうか。今まで現実を構築していたと思っていた「情報」は一体どこからどこまでが「現実」と呼べるものであったのか。
 
「現実」とはなんなのか。
 
「現実と虚構」というこの問題提起のありかたは、作品中意味ありげに登場した宮澤賢治の詩集「春と修羅」の暗示と関わっているように思う。
 
 
 
シン・ゴジラは、小さな船の発したひとつの小さな異変のサイン、牧博士の謎の失踪シーンから始まる。
 
博士がその最後に残したものは、船に残された折り鶴と詩集「春と修羅」ときれいに揃えられた靴だった。
 
この折り鶴のモチーフは伏線となって、アメリカ側からもたらされた博士の謎の暗号資料を解読するカギとなった。では春と修羅はなんだろう?
 
放射能関係の事故で最愛の妻を失い、放射能を無害化する研究を行っていた博士が、どのような修羅を生きていたかを考えてみるのが妥当だろう。
 
修羅とは、本来正義を求める神であるが、己の正義に固執しそれをこじらせたために道を外し、ひたすら矛盾の苦しみのどうしようもなさの中で闘うしかない者、そしてその果てない闘いの場所の意味である。
 
春と修羅」はうつくしい春の風景の中にありながら、心象的には苦い怒りの世界にいる「すべて二重の風景を」ゆく、この矛盾と怒りの修羅としての自己を描く心象スケッチだ。
 
…これはまさしく虚構と現実の二重写しの構造ではないか。
 
妻を失い苦しむ牧。彼は世間的には隠蔽され封印されながら確実に存在する放射能と核の恐怖をリアルに感じ続け怒り続け苦しみ続けた。この修羅としての己の世界と、無知で無神経な人々がそれに気づかず、うわつらの消費文明を謳歌している、豊かさと幸福の夢にあふれた華やかな世界、その春の景色との二重写し。
 
そのどちらも間違っているのだ、と修羅は知る。
「 まことのことばはここになく/修羅のなみだはつちにふる」
 
…そして、ゴジラはその二重の風景の接点を暴力的に作り出す、荒ぶる神だ。春の風景に殴り込む修羅。交わることなく並列していた二重の世界の均衡を破る力、二項対立のフィールドを作り上げる起爆剤。
 
牧博士が自らゴジラを目覚めさせる起爆剤となった、という示唆はこの詩集の存在においてその説得力を持つことができる。すべては、第三項、止揚された「まことのことば」の方向を模索するためであるとすれば。
 
エネルギー問題を解決する福音であると同時に、滅亡、盲目的な破壊の凶器である荒ぶる神。それは善悪の彼岸、世界に秘められた『純粋な力」の顕現。破壊と再生のシヴァ神、あらゆる宗教が語る世界の終わりの日を体現する使徒であるところのもの、シン・ゴジラ
 
その代償の部分を隠蔽したまま理想の「春」の幻影をつくりだしていた現代日本のシステムの歪みは、作品の前半部、アイロニカルに震災の際の政府や報道陣、 人々を戯画化して描写したところに示されている。「想定外」の事態には対処しきれない政府の後手後手に回った大慌ての対応のお粗末ぶり、体面を重んじ責任 を逃れる体制の澱みと歪みの露呈。非能率的で保守と澱んだ権威主義に硬化したあらゆる権威のシステム。
 
このシステムの上に営々と紡がれてきた街の営みがまるごと、オモチャのようにやすやすと壊されてゆくのがゴジラの圧倒的な破壊シーンだ。実際のあの震災の経験から賦与されてしまったそのリアリティの重みは我々観客にとって、まずは…、問答無用の恐怖だ。
 
だが、それはまたまごうことなき陶酔でもある。恐怖とセットの、ぞくぞくする、陶酔。どこかに感じて続けていた、己を限り縛る日常の歪み、澱み、閉塞。その呪縛から解放される感覚。一つの現実の崩壊。
 
カタストロフ。死がなければ再生はない。まったくあたらしいところに、ここではない正しいところに生まれ変わりたい。
 
そして、そう、奇妙なほど、この映画の中での空と海の描写は美しいのだ。無条件に心に沁みる。無常の果てにある美しさ、どこかにある絶対のまことの場を暗示するような。
 
春と修羅「序」
 
シン・ゴジラ」においては、その圧倒的な荒ぶる神の対処を、初代ゴジラのように限られた天才博士ひとりには請け負わせない。 また、初代にみられるような災厄と恐怖のアイコンとしてだけでないゴジラ、(核)(自然エネルギー)(神)の「両義」性への視座もまた明確に確立されている。
 
それゆえの葛藤がマキ博士の「春と修羅」なのだ。彼は賽を投げたものとして、既にゴジラ側(虚構)に移行した。
 
「私は好きにした。君たちも好きにしろ。」
 
彼はこの言葉と共に失踪する。純粋で莫大なエネルギーの両義の可能性を、まずは、いまあるかたちの「現実」に対する破壊パワーとして投入する、だかしかし、 同時にその向こう側の福音への手がかりを残した。ゴジラの中に秘められた、エネルギー問題を解決する可能性を秘めた新元素、正しい倫理のもとにそれが運用される科学の力の勝利への祈り。…賭けたのだ。
 
ゴジラに血液凝固剤を飲ませて凍結させる作戦の「ヤシオリ作戦」というこの命名は非常に示唆的だ。日本神話で、荒ぶるヤマタノオロチを酔わせて退治する、その酔わせるために用いられた酒「八塩折之酒(やしおりのさけ)の名から来ているからだ。…オロチとの闘いに勝利したときその身体から三種の神器のひとつ、 クサナギノタチが得られる。ゴジラとの闘いに勝利したとき、我々はその身体の組成から全く新しいエネルギーの可能性を秘めた、新元素の秘密を知ることができる。)
 
一つの疲弊した(我々にとって)リアルな「現実としてのニッポン」を「虚構ゴジラ」によって完膚なきまでに叩きのめされた後、新たなる世界、新たなる現実、まことのことばを目指してそれを打ち立て守ろうとする者たちは、その残されたメッセージの手がかりを頼りに闘う。
 
 新たなる現実構築のために仮設される能率・能力主義の日本政府。内閣官房副長官矢口を中心とした「巨大不明生物特設災害対策本部」の活躍。
 
そしてこれは 個々の人間ドラマではない。個を滅したところにうまれる群舞の美を描く。理想的に機能するシステマティックな組織の生み出すネットワークの力の描写に焦点をしぼり、個々の人間ドラマを排除する。ひたすら現象として純粋な「力」の象徴としてのゴジラ(虚構)に向けて、その純粋な「力」をもって闘う、その小気味よい流れと動き、一種「虚構対虚構」ともいえる物語性とエンタテイメント性。
 
パーツとしてのキャラクターが各々のフィールドで各々の役割と有能さをもって小気味よく活躍し、素晴らしい理想の連携プレイを見せる。指令部から実行部まで、よどみなく美しい法、論理に制御されてすさまじい情報量と共に息つかせる間もなく圧倒的に作戦は流れてゆく。律動的な美学に彩られた作戦実行の現象が淡々と描かれる。ゴジラの破壊シーンと並ぶ、この映画の見せ場だ。
 
…少し深読みにすぎるかもしれない、しかし私はもうひとつの「春と修羅」がここに重ねられているのではないかと思うのだ。
 
春と修羅「序」。
 
「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です」
 
システムとして機能するひとりひとりの人員は、相互ネットワークのひとつの灯りとして一つの全体を構成するパーツだ。…これはおそらくインドラの網に繋がっている。理想の、真実の宇宙の姿。現実の相対性を意味するものである多元宇宙。
 
歪み澱み疲弊した日常、「現実ニッポン」の破壊を受け入れ、まことのことばを目指した新たなる現実(或いは新たなる虚構)としての世界、新生日本、その再生をかけて闘うものたちの総体としてのドラマ。
 
「スクラップ&ビルドでこの国はのし上がってきた。」
 
ラストシーン、内閣総理大臣補佐官、赤坂のこの科白は、理想をあきらめないものとしての「虚構」が常に新たなる「現実」をよどみなく限りなく再生させ続ける力なのだというメッセージであるようにも思える。現実とは、常にまことを目指す自らの意志でその情報を選びとり、総体として「作り上げる」「生成し続ける」ものである、と。
 
初代ゴジラは戦死者の追悼と鎮魂を歌いながらの未来と再興を願う「当時の今」のための映画であり、シンゴジラは歪み澱んだ世界を切り裂き膿みを吐き出させるカタストロフ、破壊と再生のための「現在としての今」のためにリアルタイムの警鐘を打ち鳴らしている映画だ。
 
ゴジラのすさまじい破壊シーンのクライマックス、今在る姿の東京が絶望に包まれた瞬間、鷲巣詩郎の音楽が陶然となるほどの崇高な神聖さを奏でる。まるで讃美歌のような。…破壊神への普遍的な欲求は誰の心のなかにも潜んでいるに違いない。それは神の国、新たなる世界の再生を意味するものであるから。

シン・ゴジラ速報

周囲のあまりの評判の高さに負け観てまいりましたシン・ゴジラ

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何なんだよこの「シン」ってタイガージェットシンかよ、とか思ったら、どうやら「新」「真」「神」とかかけてあるらしいという噂。

 
…評判の高さ納得。
 
感想はひとことである。おもしろかった(タメイキ)。
(イヤ自分エヴァンゲリオンどこがおもしろいのかどうして人気あるのか全然理解できなかったし正直バカにしてるくらいなんでコイツも全然期待してなかったんだけど。予習のためハリウッド版ゴジラみようとしてつまらなさに挫折したし。…ごめんなさい映画のひとたちの偉大さ知らなかったのネ自分。映画ってすごいのネ。)
 
これは是非とも映画館で観るべき一物。ご家庭でちんまり画面ちっちゃい音でこそこそ鑑賞してもダメである。
 
イヤ何しろ映画館自体数年ぶりでただでさえ大興奮の大緊張。入り口へのエスカレーターはまるでTDLのスペースマウンテンの最初の上り道。わくわくと緊張のあまり腹痛起こすかと思った。(ホントにお腹痛くなった。)

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で、オレの未熟にして老化したかよわいつくりのお脳は未だ興奮状態。 余りの情報モリモリでオーバーヒート機能停止。再起動のためにはとりあえず麦酒で冷却しなければならないのです。このままでは眠れない日常に戻れない。
 
ただね、いっぱいいろいろ考えたいのです。(もし無事ちゃんと再起動したらね。)とりあえず冒頭のマキ博士の残した「春と修羅」(あの復刻版オレもってるぞ。)の意味をぐるぐるとこねくりまわしている。
 
そしてひとこと自分用メモ。
何故面白いか。一番の要素はこの作品がすべての要素、すべての領域における知によるカリカチュアとしてみることができる、というところにある。なんかこれだけは思ったんである。物語を超えるものを描くことは、その物語をなぞり物語性をあばきだすことでしかなしえない、という言説が確か大学の時読んだ物語論的な本のなかにあった。非常に印象深く脳髄に焼き込まれている、これを思い出した。
 
ものすごく熱い思いが、もどかしいほどの真摯なメッセージがこめられているエンタテイメント、そのカリカチュアのありかたへの感動なんだ。
 
とそんな風に思っている。とりあえず。
で、春と修羅関連、そしてカリカチュアというテーマにおいてもうちっと書いてみたいと思っている、とりあえず。
 
(「ゴジラかよ」と尻込みするワシをムリムリゴリゴリ推しで誘ってくれて自身は三回目の鑑賞の癖に付き合ってくれたZ君ほんにどうもありがとう。オススメ漫画まで抱えてきてくれて貸してくれてありがとう。もう久我山に足を向けては眠れません。

キリン4

朝方、どろどろとした悪夢の断片を渡り歩いた。
寝た気がしない。頭の芯がしんしんと痛み、足元がおぼつかない。
 
朝はいつも乾いた絶望とともにやってくる。悪夢はデフォルトだ。いつも同じ、おなじみのシーン…だが、その禍々しさに慣れることは決してない。
 
毎朝ピチピチに生きのいい新鮮な絶望だ。枕に顔をうずめ俺は小さくうめく。
 
這いずるように起き上がり、顔を洗う。底なし沼の泥のような悪夢の残滓はうっすりと全身にからみついたまま離れない。うすぐろい俺は家を出て、うすぐろく勤め先に向かう。ルーティンは救いだ。
 
…あの日から繰り返し見るその朝方の夢。
 
飼っていた犬が死んだのだった。だが俺が悲しむ前に母が泣いた。そして父と姉がそっと母に寄り添った。ふたりして顔を上げ、奇妙な灰色のまなこを光らせて俺を見た。
 
俺は逃げた。
 
わあ、わあ、と、叫びながら、俺は走る。
かけがえがなかった。味方だった。俺だけの、と思っていたこともあった。
 
だが俺はかなしみそこねたのだ。
 
どんなに走っても逃げきれない。贖われない。
 
どんどんどんどん忘れてしまう。どんなに走っても追いつかない、この手からこぼれおちてゆく、大切だと思っていたはずのもの。つかんだものはぼろぼろと燃え落ちる。
 
それなのにどんどんどんどん襲ってくる、どんなに走っても逃げきれない、奔流のように全身にかぶさってくる、望まない記憶の嵐。目のくらむような痛み、鈍色の朝のがらんどう。
 
父が、姉が、周りの人間が何を言っているのかもう全然わからなかった。既に文法が狂っていた。感情ってもんがないの、となじられた。仕方がない。それを表現する文法を俺はもたなかったのだ。
 
日々しずかに降り積もり、ある日あふれるようにして無理解は臨界点に達する。
 
犬が死んだ。
 
そして俺は家を飛び出した。
 
もっと早くそうするべきだったのだ。
 
薄汚い部屋を借り、その日暮らしを始めてから何年たったろう。あの日から俺の中の日々は更新されない。
 
 *** *** ***
 
繰り返されるその日々のいつのことだったか。
その夜、俺はキリンを買ってきた。
 
どうしてキリンなんか手に入れようと思ったのかわからない。
 
夜の街を酔ってふらふら歩いていた。いつものように泥酔していた。もうどこの街だったかもおぼえちゃいない。そうだ、朝には記憶は頭から抜け落ちていた。…ただ脳裡におぼろな映像が焼き込まれている。裏通りに一つ場違いな灯りを煌々と灯した小さなキリン・ショップ。その前に俺は佇み、やがてドアを開ける。俺はキリンを買う。それは明るく薄青く透き通った美しいガラスのようなキリンである。
 
前後の脈絡もなく、脳内海馬の迷宮の中にぽかりと開けたキリン・ショップ時空。頭の中のうす青いランプに照らされた範囲だけ開かれた、ぼんやりまるく明るく切り取られた風景。そんな頼りない夢の記憶だ。
 
だが、朝。それは枕元にちんまりと座っていた。
まるで生まれてからずっとそうして一緒にいたように。
 
俺は布団の上で目を開けて、ぼかんとした気持ちでカーテンから漏れる光を眺めた。そして、その光にふちどられたキリンを。
 
何だろうこの奇妙な感覚は。
 
…ああ、そうだ。
久しぶりに悪夢を見なかったんだ。
 
それは手のひらに乗るピンポン玉ほどの大きさで、全身深い闇の色をしていた。夢の記憶の澄んだ空の色とは似ても似つかない…俺の悪夢を囲繞していたあの闇の色だった。
 
夢の中の記憶がよみがえる。夢の中で感じていたその感情をなぞる。キリンになんか興味はなかったのに、そいつを目にした途端俺は夢中になった。透き通るような無垢な空の色の輝き。欲しかった。こいつは俺のキリンだと思った。絶対に手放せない。これは俺の…半身だ。
 
闇の色になっても、闇に朝陽の微粉をまとったキリンはやはり美しかった。しばらく眺めていたが、ヤツはただじいっと半分目を閉じていて、眠っているのか起きているのかもわからない。長いまつげがかぶさってその瞳はよく見えない。
 
おそるおそる話しかけてみた。
 
「…おい、おまえずっとここにいるんだろ。餌とか手入れとかどうするんだ。マニュアルとかあるのか?」
 
キリンは半眼のまま答えた。
 
コクーン・ストラップをあんたの携帯に取りつけといてくれないか。ショップで一緒に買ってきただろう。で、いつでも持ち歩いてくれればそれでいい。いつも持ち歩くんなら鞄でもいいがな。」
 
しわがれた不景気な声だった。
 
「知らんやつだな。キリンは飼い主の感情の動きから外界情報を摂取し、交感し、自らの存在のためのエネルギーを発生させるんだ。一日携帯しておいてくれればいい。我々は物質的に、またエネルギー波動体としても在りうるが今ここではほぼ観念的な存在として在る。」「…それにしてもあんたの夢の波動、ひどい味だな。調律が滅茶苦茶だ。聴覚系への作用調整まで乱れた。ひどい声になっている。」
 
…この声は俺のせいってか。
 
 *** *** *** ***
 
キリンとの生活は悪くなかった。
 
何も変わっちゃいないはずなんだけど、一日が終わってキリンを部屋で取り出すときなんだか少しほっとする。あいつは何もかもわかった風でスカして座ってるだけなんだがね。誰かが自分の何もかもわかってて、その上でただシレっとして一緒にいる。それだけのことだった。それだけで俺はばかのように楽になれた。…ほんとうにそれだけで。
 
「だいぶん過剰な波動を吸い取ってるからな。」はあ、さよで。
 
悪夢を見ていないはずはないんだが、朝、その名残の痛みが少し淡くなったようだった。
 
「だから波動を…」わかったわかった、どうでもいいさそんなの。
 
やっぱりキリンは相変わらずずっとあの悪夢を請け負ったかのような深い闇の色だった。そして皮肉な口を利く。いつも半眼で不遜で不景気なつらがまえをしている。
 
それが瞳をきちんと開くことなど滅多にない。だがたまにまっすぐに視線を合わせてきたときには、俺はその度はっと胸を突かれたような気持ちになる。…明るい緑。どこか胸の奥の深い深いところがきいんと痛くなるような、そんな輝かしい五月の新緑の色なのだ。記憶の中の風景のような。そして全身には微弱な金の光のもやをまとっている。最初に見たとき朝陽をまとっていた、あのときのように。もやはキリンの身体の深い闇をほのかな輝きに透かすようにして優しく包みこみ、それを不思議に穢れのない透き通ったものに見せていた。
 
…まあキリンだからな。
(だけどそれにしても、あの五月のまばゆい朝のような、抜けるように明るい青い空の色は一体どこへいったんだろう。 )
 
 *** *** *** ***
 
「何しやがる!」
「あんたが望んだんだ。」
俺はあんなもの…いや、もしかして望んだのかもしれない。
 
…そうだ、多分望んだのは俺だ。
 
 *** *** *** ***
 
ある金曜の夜だった。
初夏の宵。いい風が吹いていた。俺はTVを消して窓を開け放ち、缶麦酒を開けた。
 
日々、大してなにも変わっちゃない。が、職場の人間からとの会話が少し増えた。家出した後の俺しか知らない人たちだ。
 
ぎごちなく、少しだけではあるが顔の表面で笑顔らしきものをつくれるようになった。思ったほど向こう側は俺のことを恐れたり軽蔑したりしているわけではないのかもしれない。
 
キリンのことを相談したりしてみたんだ。皆争うようにして教えてくれた。「よかったですよ、前からずっとお勧めしたいと思ってたんです。」「何も傷を持ってない人間なんていないですしね。」なんて言ってな。
 
初めてあたりに目を開いたような気持ちになった。何だかほんのりと嬉しかった。
最近、金曜の夜はそれなりに優しい開放感がある。皆がそれをもっていることを俺が知ったから。
 
キリンはいつものお気に入りの場所、食卓の上のカトラリ用籐籠に収まっていた。
 
「なあ、…オフィスのSさんが言ってたキリンの夢見っておまえはどうなんだ。」
「どうとはなんだ。」
 
このやろう。
コイツはわかっていてこういう言い方をするやつだ。
 
「だからさ…。ソノ、いろいろ見せてくれるっていうか。」
「水を汲んできてくれ。窓際に。大きめの丼みたいなものでいい。」
 
キリンの指示通り、大きな丼に水を汲み、窓際に運んだ。
カーテンを開けると、月明かりが窓のシルエットに四角く切り抜かれて床にほとりと落ちた。おおきな手巾のようだなとオレは思った。
 
「ハンケチが落ちましたよお嬢さん…」
その瞬間、何故こんなばからしい言葉を呟いたのかわからない。月あかりの手巾。記憶のうずみの中になにかが閃いた。優しい誰かの姿。
 
床においた水面にもゆらゆらとそのつきあかりが映る。
そして移る…
 
えっ?
 
ひっくりかえっている。
俺は水面を見下ろしていたはずなのに気が付くと月を見上げていた。
 
「…おい。」
「心配するな。現象を解釈するフィールドが必要だったから月光と水の分子構造を使った。あんたの意識をそこに仮想コピーしてみただけだ。」
 
確かに見下ろしている自分の視界もどこかに感じていた。不思議な感触だ。夢の中で行動する自分を上から眺めていたり自在に視点が動いたり、全体を把握していたり焦点のあった視界が異様に狭く拡大されていたり、それらすべてが同時に知覚できる。…神の視線とはこういうものなのかもしれない、と、ちらと思った。多元複合視点。或いは複合主体、…或いは既に崩壊したアイデンティティ
 
世界の網目が見えた。ネットワークをかたちづくり信号を送り関係しあい鏡のように互いを映しあう、たくさんの夢が浮かんでいた。さまざまの感情に明滅していた。あらゆる形をとりあらゆる色彩のヴァリエーションをもった世界の模型、夢のかたち。(キリン・ネットワークはインドラの網だ、とキリンはささやいた。)淡い優しい光を放つもの、深い藍にそまったもの、虹色に輝くもの、冷たいもの、白熱したもの、そして瀝青のようなねっとりした陰鬱な闇に覆われたもの…ああ、あれは俺の夢だ。
 
どろどろとした気配を漂わせた深い闇の夢はひとつではなかった。似たような夢に憑かれたやつが大勢いるんだろう。
 
だが闇の夢の珠のその内側の禍々しさは、つながったネットワークの他の光をほのかにうつした虹色のもやをうっすりと映しており、それぞれがさまざまの色彩を含有していた、どれも同じ闇でありながらどれもが個であり微細な光を孕んでいた。
 
キリン・ネットワーク。世界は網目で構成されており、そこに果てはなかった。永遠に続く認識のみがある。認識されないものは存在しないのだ。
 
空腹を感じた。
身体の感覚はないのに空腹感だけが忽然と存在していた。
 
俺はこのさびしい空腹のために泣き始めた。おんおんとおらぶように泣き続けた。赤ん坊のように泣いていた。不思議とは思わなかった。
 
「お食べなさい。」
 
声がした。キリンの声ではない。俺のキリンのものではない声。
 
「お食べなさい。闇は、すべての始まり。わたしはすべての存在の母なのです。」
 
俺の夢の凝った奇妙な像が浮かんでいた。あれを食べろというのか。
 
 *** *** *** ***
 
言われるままにそれを食った。空腹だったからだ。
それは、昔の、そして新たな、俺。

闇をかみ砕く。こめかみから火花が散るような、不快感。…痛み?
(…いや、それはいっそ清々しい快感であったのかもしれない。)
 
火花はぐるぐる回転し、俺の頭はくらくらと回転する。吐き気がする。闇は俺の内に広がる。外側に俺は広がる。引き裂かれるのか収斂するのか、そのどちらでもある。
 
少しずつずれ、齟齬をきたしてきたたくさんの文法の相対性が地平の異なる闇の次元で出会う。そこで法は見えなくなった。だが確かに存在していた。ちがうかたちで。キリンの言葉で、網目の言葉、世界の言葉で。
 
新しい目が切り裂かれる痛みと共にひらかれる。
 
理解した。
 
悪夢の連鎖は俺そのものである。夢魔
己を食ったのだ、俺の存在は崩壊した。どすぐろいものが俺の存在の底の蓋をこじあけて闇のマグマのようにあたりいちめんに吹き上がった。
 
あたりは闇だった。ありとあらゆる理不尽と悪意と憎悪と不寛容と蒙昧、想像力の欠如。
 
長い長い時間。
 
だったような気がする。一瞬だったのかもしれない。
 
目をつぶり思い出し続けていた。
 
ずっと気づかなかったことを。闇の中の色を。がらんどうの色を。いつもただ寂しかった。胸の奥のがらんどう。だから食いつぶし続けた。決して埋まらないがらんどう。
 
何か取り返しがつかないことがある。いつの間にか俺の足元はずれていた。
 
最初はこうじゃなかった。どんどん取り返しがつかなくなる。どうしてだかわからない。いろんな人から言われてきた。よくそんなに自分勝手に甘えられるわね、そんなに人を傷つけてばかりでよく平気ねって。
 
何も好きで人を傷つけてきたたわけじゃない。文法を知らなかったんだ。そしてだけどその文法は絶対なんかじゃない。なぜひとびとはそれを信じていられるのだろう。
 
ただ確かなのは、すべて食いつぶした、失くしてしまったというこの確信だけだ。
そして残ったのはがらんどうのままのがらんどう。がらんどう人間。悪夢だけを生み出し続ける一個の夢魔。毎夜追いかけてくるなにか。俺自身の成り果てたもの。
 
長い時間のあと、井戸の底になにか一粒の豆のように光るものが見えた。
 
 *** *** *** ***
 
井戸の底、身に覚えない誰かの理不尽な不幸は、苦痛は、恐怖は、罪は、苦く重く苦しく、…そしてその奥の、井戸の底に沈んだ最後の一点は、その光は。
 
哀しみであった。
 
からっぽになったパンドラの箱に最後にただひとつ残されたもの。それは希望などではなかった。ただ、誰かの、(…俺の?)何かを悼む、哀しみ。
 
哀しみは、全身を痛みで覆う。あまやかな痛み。…ああ、心がしびれとろけるように甘く、優しい。
 
絶望と虚無、闇をやわらかなしずくでみたすもの。昏いものへの頭の芯がしびれるような衝動の快楽とは全く反対の痛み、心の内側からしみだしてきて全身がやわらかく浸されてゆく。
 
光ではなく、それは寧ろ闇の仲間、けれど優しい闇、涙に似たやわらかな痛みであった。
 
ほんの少しあきらめに似た感情。
 
 *** *** *** ***
 
ひどい気分で一瞬反射的にキリンを責めたが、そうだ、確かにこれを望んだのは俺自身だった。
 
哀しみは拭われない。希望は、この哀しみの先にある。
俺は新たな何かと共に、また目覚める。
 
 *** *** *** ***
 
俺はその日曜を静かな明るい公園で過ごし、買い物をし、夜には街はずれの小さな食堂でひとりつましい食事をするだろう。そして月曜日、目覚ましと朝日とともに起き、コーヒーを沸かしてパンをかじり、職場に向かう。今度同僚に誘われたら断らず、一緒に酒を飲んでみよう、映画好きのR君の話を聞いてみよう、キリンのことや、本の話をしてみよう。
 
俺のキリンはいつも深い闇を祈りのような微弱な金色のオーラに包んでいる。
そして明るい五月の新緑をいつでもその内側に秘めている。
 
絶対に手放さない。皮肉屋で不景気な声のキリン。俺の文法、うつくしい、俺の、半身。
 
 
 *** *** ***
 

キリンはシリーズでしてな。ここに投稿してあります。

キリン1

キリン2

キリン3

キリン5

「もののけ姫」あれこれ。

今夜の金曜ロードショーは、もう何度も地上波TVで放送されてきたジブリもののけ姫」。好きな人は何度でもみてしまうジブリマジック。
 
何度も観てると余裕ができてて、SNSであれこれ雑談しながらみんなで観てる感覚があったりして、これが楽しい。最近はツイッターでも、ネット上にこういう共時的な特別の「場」が形成されたような祝祭的盛り上がりがなくなってきて寂しいけど。
 
で、こういうのがあったころ、何年か前にツイッター上で友人とあれこれ言い合いながら観てた記録があったので思い出して参考に残しておくことにする。
 
***
 
(当時宮崎駿原発関係発言の云々が取りざたされたんじゃないかな。それと絡めて考えるとどうなるのか、と、突っ込まれたような。で、その物語のなかでのエボシ一派をどういうふうに位置付けるか?というテーマでつっこまれた。)
 
***
 
え?う~ん、そうだなあ、ぼんやり大雑把なイメージで乱暴に言ってみるとだな、まず
 
A・自然の側、もののけ側がある。
 
そして、

B・権力欲に基づいた社会システムある、
 
とまず二項。
 
生命の根源の喜びや尊厳を忘れた、社会的富や権力への利己的、盲目的欲望が歪んだ形で肥大したそのシステムは、「自然の力」のバランス、存在、尊厳を損ない、一方的に搾取する、という構造を作り出す。
 
A・ゲタの赤鼻氏、手段を選ばない、何もかも壊しても構わない、天地の何もかもを得たいという目の前の権力への衝動の快楽に身を任せる男性原理の象徴のような彼。(それはほとんど盲目的な衝動、保身、権力、富)
 
そして、第三項が、
 
C・エボシ一派。
 
なのではないか。これは、その社会システムの中で発生した、抑圧された弱者の存在というスタンス。(タタラの村が、女性主体であるところはが象徴的。)貧しさ、生物としての尊厳を損なわれる蔑視。彼らが、「現実」の日々の暮らしのために、自然を搾取する必要悪を請け負う「正義」。手を汚し毒に穢れるのは彼らだ。
 
だから、原発を巡るイメージでいうと、AとCがまったく異なる原因ながらも(Aは根源的に悪(というか目の前のシステムによる利益のみに焦点を合わせた純粋な衝動と破滅を隠し持つ原理)、Cは人間主体で考えたときは一種の正義ともいえる。)原発推進を支持する。それに、徹底的な原発反対派としての、B・もののけ側、サン、がいる。
 
とあてはめてみると、またセリフや展開のひとつひとつが、いろんな示唆に見えてきておもしろいんではないかと。
 
あきらかに巨神兵なイメージの「損なわれた獅子神さま」は、自然(生命)の持つ純粋なパワー。善悪の彼岸であって、人間によって誤った扱いをされれば荒ぶる力となって何もかもを滅ぼす恐怖の大王となる。
 
そして、闇雲にもののけ側が正義というわけでもない。AとCの共存をめざし、よりよい未来を求める人間の苦悩の果て、理想のかたちをとったのがアシタカだ。Bの反動的発生としてのCを、同じくBの対極にあるAとの共闘を目指すものとして位置づけようとする彼の構想。人間を守るために自ら荒ぶる神の呪いを背負い、その許しと浄化を求めてさまよい、たたかう。
 
アシタカは、ラスト、ナマの自然としての女性、サンを愛しながらCに戻る。このラストの示す願いのかたちがメッセージであると、とりあえず言えるのではないかと。
 
 *** *** ***
 
すべてのひととそのおかれた立場には必然がある。原罪という意味を含め。
Bを含め「悪」といえるものは、本当はないのかもしれない。
 
(もちろんここでの原発っていうのはひとつの喩えではある。)
 
 *** *** ***
 
追記。

ふと思ったんだけど、ラストのサンとアシタカのありかた、春樹の「1Q84」のふかえりと天吾のありかたに重なるのではないか。
 
ふかえりは「向こう側」の巫女、パシヴァ「受け入れるもの」としての女性であった。彼女はあまりにも向こう側に近いため、言葉を持たず、その存在のままでは人間界に理解されることができない。
 
天吾は「向こう側」を「知覚するもの」レシヴァであり、彼はふかえりを翻訳、媒介することによって「向こう側」と「人間界」を繋ぐメディアとなる物語を編むものとして存在する。
 
サンとアシタカのありかたとものすごく重なるのだ。「1Q84」でのカオスとしての異界「向こう側」は「もののけ姫」ではそのまま「森、自然界」となる。女性、男性のありかたの重なり方を含め。
 
…これは、たった今思いついたメモ。

廃墟と希望(日曜美術館「花森安治」・三木卓「惑星の午後に吹く風」)

先日の「不可知の許容」の「とと姉ちゃん」つながりである。

普段みないんだが、日曜美術館。通りがかったら母がみてたんで、つい一緒にみてしまった。花森安治の特集だったのだ。

花森安治は「とと姉ちゃん」の花山伊佐治のモデルになった天才編集者。「暮らしの手帖」編集長。)

で、面白がってみてたら、いきなり心に何かコトンときた。こないだ読み終わってからずっと心にひっかかっていた三木卓「惑星の午後に吹く風」を思い出したのだ。

 

何か繋がった。コトコトと脳内でいろんな論理が動き出しかたちづくられて繋がって生成されてゆくこの感じ、不透明で混沌で味気なかった世界が自分の中でいきいきと意味を持って物語をもって立ち現れてくる感覚。

うわおもしろい。

これって絶対なんか快楽物質分泌されてると思う。

そしてこれこそが、私にとって生きる意味そのものだ、この感覚こそが。おそらく。

 

 *** ***

花森安治による「暮らしの手帖」創刊

戦後、物質的にも精神的にも、崩れかけながらも信じていたひとつの世界がついに完全に崩壊した、8月15日。そして映し出される、すべてが破壊された後のような廃墟の風景。何もかもが失われた世界。ひとつの世界の終焉の後の風景だ。(もちろん実際には破壊されていない地域もあったから世の中一応まわっていたんだろうけど。)それは、物質的な廃墟であると同時に人々の心象風景を象徴するものとしての廃墟でもあった。

戦争、男性中心主義による大いなる精神論、壮大な国家論に振り回された結果がこの無残な荒廃であったことを実感する花森。復興の闇市でフライパンに感動する花森。「本当に大切なもの」を女性目線の生活主体の視点に変えてゆくパラダイムシフトの瞬間である。新たな価値観による世界の復興、再生への模索。

そして創刊された「暮らしの手帖」の表紙は、今見ても古びた印象を持つことなく、非常にうつくしい。(私はもともと「暮らしの手帖」をものすごく高く評価している。並々ならぬゆるぎなさ、そのおセンス、その信念。古き良き昭和の夢の魂を永遠にもっている。)(あのフォントと言葉遣いには問答無用に説得されてしまうのだ。)

花森はもともと非常にハイソサエティな育ちであり、ハイカラさんであり、芸術家肌であったという。挿絵は深みがありながら明るい色遣いで、西洋風の可愛らしい夢のおうち、街並み。お洒落な部屋、食卓を描いたもの。夢のような理想の家族の、あたたかで豊かな心濃やかな暮らしへの想像力を掻き立てる。

しかしそのなかには瓦屋根や和風テイストの小物がひそやかに配置され、そのために独自の無国籍な夢の世界を演出している。これはジブリアニメの無国籍なエキゾチシズム演出の手法と酷似したものだ。

復興の力へと直結するものである、豊かさへの夢、欲望。この時代に求められていたもの。

この雑誌は、夢と希望の力を育むための指標としてのそのうつくしい理想のヴィジョンと、実際的に役立つ暮らしの知恵の記事の二つの車輪によってそれを牽引した。「画像や言葉による夢、希望、それらによって掻きたてられた心の力に裏打ちされた現実の生活」という図式である。

 *** ***

さて翻って三木卓「惑星の午後に吹く風」。

これは、近未来が舞台のSFである。

ぐいぐい読ませるとか重いとかものすごく切ないとかいう激しい作品じゃない。だけど個人的に何だか今の精神状態にしっくりきてしまった。ただ静かな気持ちになる、その静けさと寂しみ。

瀰漫しているのは、未来への希望のない終末感。ほのかなほのかな絶望感。既に終わった世界の残滓のような日々。諦念の中、ただ静かに繰り返され消費されていく日々。

イメージとしての「廃墟」だ。(舞台となっている未来世界は実際には廃墟ではない。高度に文明化された管理社会である。)(主人公のまなざしを通した心象としての世界イメージのことね。)

この作品、この終末感のつかみきれない構造、この得体の知れなさがどうも気になっていた。で、ここに、先に花森の例で挙げたような、戦後の激しい喪失感と実際の廃墟の風景がことんと重なったというわけである。(こちらには未来への復興の希望の要素はないが。)喪失、廃墟のイメージを媒介にして、先の例の激烈で暴力的な終末感の構造を、この緩やかな、真綿で首を絞めてゆくような老化、衰退としての終末感に重ねてみると何か見えてくるような気がした。

そうして読み直してみると、若い世代に託された「再生」への祈りのようなモチーフがきちんと書き込まれていることに気づく。或いは、「救済」への。

それは例えば戦後の廃墟においては花森が提示してみることのできた未来への夢と希望のヴィジョンを求めるやるせない祈りである。

なぜ「やるせない祈り」なのか。

それは、前者においては力強く現実化するものであったものが、後者においては既に失われた可能性として認識されているからだ。瀰漫する淡い絶望感の所以はここにある。先がない、未来のない感覚。

それは、これから新たな価値観をもって復興するべき若い可能性を持った時代であるか、考えうるすべての発展を味わい尽くした後、輝きに満ちた未知の未来への夢を失い、既に疲弊し老化しつつある時代であるかの違いである。

 

 若いころはエリートで、省庁関係の研究職にもやりがいを感じていたが、ふとしたことから出世コースから外れ、妻に去られ、隠遁生活のような自然保護区管理人として暮らしている50歳の主人公。(未来人の寿命は長く、肉体的にはまだまだ盛りの世代。まだあと50年は壮年期とされている。)

ここに転がり込んできたのが、20世紀に冷凍され解凍されたばかりの若い女性アマリア、そして、自殺志願の若者レッドウッド。

アマリアはその時代の社会問題となりつつあった、若者世代の、性的欲望の淡さ(による人口の先細り予測)の傾向に反し、あらゆる男性の欲望を激しくかきたてる性的魅力を放っていた。

レッドウッドもまたその時代の社会問題となりつつあっていた若者の特徴を色濃くもっていた。生命への執着の淡さ、知識層に如実な自殺願望。そして彼もまたアマリアに恋い焦がれ、二人は恋人同士となる。

(主人公チャンチンもまたアマリアに焦がれており、複雑な関係ではあったが三人はよい関係を保っていた。)

レッドウッドの死後(悲劇的な自殺)、主人公チャンチンを彼の兄が訪ねてくる。彼は時代の疲弊についてチャンチンと語り合う。哲学的な問答である。

レッドウッド兄(以下「兄」)はひとりの人間の成長過程を人間の歴史に重ね合わせてみせてから、こう言う。

「この時代の人間はもう、(中略)死までの未来が実体として見えてしまっている。」

「ああ、それはそうかもしれない。考えてみれば、人間の歴史とは(認識による)限りない時空への伸長の歴史だったということができる。或いは意識のなかでの対象の縮小化の過程。」

「そうです。で、そういう過程を生じさせてきたのは何であるかというと(中略)つまるところ人間の認識の能力です。」

兄のいう「時空の伸長」とは、例えば小さな地域の認識から地球規模の認識へ、そして宇宙規模へ、と限りなく人間の認識能力(そして支配能力)が拡大していったことを指す。世界は認識されてゆけばゆくほど、その未知の領域に属するものである深淵、威厳、威光、謎やロマン、ファンタジー、といった夢憧れを失ってゆくものであることを言っているのだ。不可知、神の領域が失われてゆく過程。(「対象の縮小化」)

兄は、人間は認識しつづけることによって発展してきたが、どのような発展もその成果よりも遥かに大きな闇を同時に生じさせてきた矛盾に似た原理をも語る。そして、あらゆる認識の外側にある超越的存在(神)をその認識の場から排除したことを語る。

闇は無限に広がりつづけるのに、憧れを生むはずの有為の認識対象は縮小化する。

ここで闇とはつまり、超ー外部としての絶対の存在、神によって保証され、祝福され、救われるということができなくなった場所のことではないのか。認識の限りない伸長が無意味であると感じたときの、その未来と希望の失われた閉塞感がうまれるどんづまりの場所。

チャンチンはこの話を聞いて、己の認識による宇宙の存在のありかたを思い、そこで自分が宇宙の運行における神の不在を感じたときの、その意味のなさに絶望したことを再確認する。そしてさらに、己の認識の外側にある無限に思いを馳せ、そのとき激しく恐怖する。

ー虚無。

「ぼくたちは、超越的なものを信じることで身を守るということをしてきたのに、そのマントを脱がざるを得ない方向にどんどん進んでいるといわれるのですね。」

 

チャンチンは独語する。「今のぼくは幼いころよりはるかに生きて在ることが苦痛である。幼いころの成長しようとする意欲は、まわりのことに目をつぶらせた。ぼくはそれに便乗して生きていった。しかし、ぼくを駆動するエネルギーが減衰の方向に向かいつつある今、超越的なるものは信じられないのに、バッハになぐさめられたりしながら砂を噛む思いで生を維持している。」

己が、過去、希望のあった時代の遺物(音楽、インテリア、芸術、飲食物)を愛好し、そこに存在した「未来への希望」の痕跡によって、その逃避によってかろうじて慰められながら生きていることの自覚である。

さて、ここで、絶望と諦念からの解放、異なる光、希望を示す記号がアマリアである。発展の途上にあり、認識を超越した神をも信じていた過去の女性、クリスチャンであり、男性を救う女性の象徴であるアマリア。

彼女がチャンチン、レッドウッドはじめ現代の男性をすべて魅了する理由はそこにあった。未来に向かう希望の力を有していたものとしての過去に属する女性。神に通じ、そして求めるものを受け入れるものである未知の、憧れの対象としての異性の象徴、それが「希望」としてのアマリアである。

この、希望の存在による未来への駆動力という構造は、別の章、チャンチンの学生時代の恩師の存在の言及の個所にも繰り返し示されているものだ。

その恩師から「学ぶということの奥の深さを身をもって教えてもらった」が、「今振り返ってみると、あの先生はほんとうはどうだったのだろう、という思いが起こってくる。」

学者としては己自身なんの成果も残さなかったその先生が、数多くの学生たちを感化し育て、偉大な学者とその実体としての成果をも生み出した。

「それは詰まるところ、かれのなかの学問に対するあこがれのレベルが高かった、ということではあるまいか。その結果、かれには中身はなかったけれど、われわれのなかに学問へのあこがれをつくりだす刺激を与えることができた。」

この思考は、チャンチンがレッドウッドのなかにアマリアへの憧れを発見したときのものである。すなわち、「あこがれ(希望の灯)による生きる意欲の発見」という、その「構造」の発見なのだ。

 *** ***

日曜美術館、番組では、最後に花森が好んで描いたというランプのモチーフの絵をいくつか映し出した。

ナレーションで、「世を照らす灯」の象徴として好んだモチーフであったと解説されていた。

この「世を照らす灯」とは、とりもなおさず、個々人の、個々の家庭の、その暮らしの中でのひとつひとつの小さな喜び、希望を見出すための「心の灯」にほかならない

村上春樹のいう「小確幸」だ。)世を照らすものはその心の希望の総体だ。

人は、世界は、社会は、その各々のレヴェルでの未来を照らす希望の灯がなければ現在を生きることはできない。おそらく。

 

(老化と衰退の果てにおいて、それは未来の希望を担った次の世代、或いは過去、あるいは、すべてを超越した存在(神)へと託されることで代替される。)