酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

恐怖の大王

恐怖の大王っていう訳のセンス、なんなんでしょうねい。un grand Roi d'effrayeur、アンゴルモワ。「合成怪物の逆しゅう」んとこでも触れたけど、ザ・昭和、というしかないような、あまりにもストレートなようでいて卓越したその言語センスに感服する。こういうおセンスは永遠に笑えるものであってほしいものだ。

いやもちろんトラウマなんですが。あの本は。(あれは怖がり小学生の自分にとっては、名前を言ってはいけないあのひと、みたいな禁断の愛読書であった。)

三つ子の魂、とはいうが、柔らかな幼い脳細胞に刻み込まれたイメージはその存在のアイデンティティの根幹に刻まれ、その一生を左右することになる。

幼い心に植え付ける世界イメージは重要だ。

幼いひとに与える本、言葉、文化は綿密にセレクトされたものでなくてはならない。それは人類の未来を左右する。


(綿密にセレクト、と言ってもそれは無菌でキレイゴトのみで育てろ、という意味ではない。大切なのは最初に刷り込む世界イメージである。例えば、無条件の絶対の愛情と安心に包まれ守られる美しい純粋な生命の喜びの日々。その基本を魂の根幹のところに育んでおけば、それはセーフティネット。その後人生を吹き荒れるすべての世界の多様に対し得る基盤となる。)

 

で、誰も悪くはないのに体調のひどさのせいでささくれた心持ちだった土曜日深夜。ずうっと、ひたすらただ眠りたかったんだよな、オレ。ということで、とりあえず飲めるだけ飲んだ。牡蠣エキスも摂取した。(阿呆である。)

寝るぞ。

オレが眠ってる間に、恐怖の大王、降ってこい。意識のない間に、オレの存在した軌跡をすべて焼き尽くせ。あのいとわしくいとしい昭和の日々を大切に抱えて、それに焼き尽くされたい。痛みや苦しみを感じる暇もなく。

…でも、矛盾だろうか、やっぱり残してほしい、生まれて生きた、オレが存在した証を、どこか誰の迷惑にもならないところに、そっと。

ちいさな墓標ひとつでいいんだ。

…おやすみなさい。

明日も続くんだったら、チョコレートたらふく食べよう。

自動トイレ

去年、友人の新居に遊びに行ったらトイレが自動だった。

個室に入ったら便器のふたが自動的に開いたんで私は仰天した。その感動を激しく訴えたら、友人に鼻で笑われたのではあるが。

そりゃなんかどっかの施設の立派なトイレならわかるけどさ、個人宅でそんなんやっぱ驚くやん。

…大体だな、私は便座があったかいのとかもものすごくイヤなんである。ウォシュレットとか受け付けない。誰もいないときにずうっと電気使って待ち受けてるとかなんか節電という美学の敵だしなんか「待てど暮らせど来ぬ人を」みたいな切なさもあって落ち着かないことこの上ない。自分ちでトイレがずっと私を待ってるんだな、とか思うともうものすごいプレッシャーである。

というわけで何故かついてる自宅マンションのトイレの装置の電源は抜いたままで暮らしていた。

んだが、最近家にいる者が電源を入れ、わたしに抜くなと命じた。

 

…地獄のような自動トイレ生活の始まりである。

ドアを開けると便座が開く。ういーん。
用を足すと自動でなんか動く。ぶおーん。

ああああああ。

自宅トイレに何かいる感覚が許せない。人間トイレでは孤独であるべきだ。
ずうっと電気食らいながらじいっと一日中待機してて部屋に入ると待ってましたと動き出す。

腹が立つ。

こんなものに慣れたくない。

いやだようううう~!

 

…いやね、これに慣れてしまう自分がいやなのヨ。
きっと慣れてしまう。瓦解は早い。

なんでも当たり前になってしまう。なんでも当たり前になってしまうのすごくいやであるがなってしまうのだ。どっかで食い止めないと。一度道を踏み外したら戻れない。犯罪だってそういうもんだろな。

100円ショップできたころだって、当初はものすごく嫌悪していた。安かろう悪かろう、センス悪い、労働力搾取。あれこれ言いたてていたが一度便利に味を占めたらもう平気で愛用する。私はその程度の人間である。

これに慣れたら、なんで自動で開閉しないんだよ、不便だなあとか言ってしまう自分になってしまうんではないか。

ああああ。オレはもうだめだ。堕落だ。憎むべきは自動トイレ。

不可知の許容

とと姉ちゃん、どうもおもしろくない。やっぱりオレ朝ドラって昔から基本的にはダメなんだよな、としみじみ。(カーネーションてるてる家族は別だけど。梅ちゃん先生も好きだけど。)

子供の頃から、といってももちろん学生時代は朝8時台のドラマなんか観たことはない。子供は朝学校に行ってるものだからだ。

観たことがないにもかかわらず非常に嫌いであった。

母のせいである。母が毎朝欠かさずみてて、それをネタにしては主人公の健気さを解説し、ダメダメな私と比較してはいちいちダメ出し説教するもんだから、ものすごく嫌いになってしまったのだ。

ちらっと観てみたら思った通り、何しろ教育的で教訓的で正義ヅラして世の闇を作る、イジメ構造を構成する諸悪の根源洗脳装置、女性同士で苦しめ合う、ほとんど殺し合うような構造を拵える、一見リベラルなようでいて世のシステムに迎合したものすごい権力主義的、…一貫して、寧ろ世の中に害毒を垂れ流すぢょし教育マニュアル脚本である。愛されるためにちょっぴりドジでお茶目で明るい献身的で有能で幻想のスーパーウーマンコンプレックスを世に植え付ける主人公キャラクター。人生理不尽耐え忍んでそのシステムに組み込まれてその上で「勝て」。

例外的に好きなのはその他の要素でドラマとしてものすごく突出したおもしろさをもってるものだ。あまちゃんなんかはもちろん例外。カーネーションも。(でもあまちゃんは実はそれほど好みではない。私の周辺の人々はもれなく夢中になってたけど。)

でも、あまちゃん以来、なんか周囲に押されて観はじめたら、小ネタとかセットや衣装とかだけで楽しいし、脇役とかものすごく惹かれるキャラクターもある。ということでとりあえずなんとなくあれこれ文句たれながら観ている。

で、現在進行中「とと姉ちゃん」である。

先日の放送、花山伊佐治の告白、言葉の持つ力についての考え方、あの長台詞について。

感動の、泣かせるシーン。苦しい暮らしの中、言葉の持つ力によって心が救われ、また戦時中はお国の都合のスローガンに騙され、死に至らしめる権力の道具にもなった、その双方に加担した、生粋のジャーナリストである彼の混乱と罪悪感による挫折、という非常にティピカルにお約束の正論。

パターン化した戦時中の言論統制に対する言及。個人的にあの脚本においての熱血告白の不自然さにはかなり白けた。大体、やってる途中に気づかぬはずはないだろう。死人の出る犠牲を強いる「ウソ」を喧伝する仕事の虚偽を。何を今更罪悪感による自己批判反省感動譚に、という感覚だ。

…が、逆になんかいろいろ考えたんである。あの当時の人々の感覚の信じられなさについて。それはほんとうに気づかなかったのかもしれない、という可能性について。そのさなかにある人々のメンタリティについて。

人間、都合によって己の認識能力をかぎりなく誤魔化すことができるのかもしれない。己のおかれた立場、その時代と状況の正義の論理にあてはめられねば存在できない。だからそのために己の知性や認識能力をさえ無意識にアンバランスに欺いてゆく、という不思議ないたましい自己防衛技術について。多分、自分もその時代に置かれていたら考えはその時代の公式に則ったパターンを描くのだろう、という、今ここでは全然リアリティのない想像の余地について考える。自分なんてアテにならないのは確かなんだ。個はスタンドアローン攻殻機動隊)なんかではない。

…例えば江戸時代の人間の感覚、コモンセンスもパラダイムも今とはまったく異なる地平に置かれていた、とかそういうようなの。聖徳太子の時代とかになったらもう宇宙人レヴェルでわからないものだろう。

つまり、理解のできない感覚について、その常識、その論理の中に生きている、その「違う感覚」ということについて。己の存在の意味の定義が根本からして異なるということを理解するメソッドについて、その困難さについて。
(春樹作品に散見される、諸悪の根源は「想像力の貧困」からくるというような主張のことを思い出す。)

 *** ***

(あらゆる人文学は、これらをデータとともに検証することによって、驚きと共にその「想像力」を育て、不可知領域をきっちりと設定するためのメソッドなのではないか。それは或いは己の内部にひそめられていたものの発見である。そして或いは何らかの枠取りによって限られていたその時代、その時空、その思想的パラダイムのなかに埋もれていたものの限界と定義を外側から知ることにより、その「異なるもの」の発見によって逆にアイデンティファイされる己の枠を知る、他者との関わりの在り方を知る手立てである。)

 *** ***

それはおそらく世界の宗教上のいがみ合いとかそういうのにもものすごく関連している。政治的な、一握りの権力者の卑しい利権構造に支配され組み込まれた虚栄や無理解や唯我独尊正義みたいなのと通じている。

 

そうだ、現代の視線から見ると、あの頃の人々の感覚は情報コントロールや洗脳教育によって騙されたもの、すなわち蒙昧や闇として受け止められている。馬鹿じゃないか、残虐行為を正義などといって、何故、…といった感覚。

だが、もちろん現代の我々と寸分違わない優れた知性、暖かい人間性、高潔な魂をもったひとびとがこぞってそれに、必ずしも強要されたというだけではなく、自ら意志によってそれを扇動する側に回ったのだ、信じていたということはおそらくあったのだ。ありえたのだ、そしてあり得ていることなのだ。半ば己の意志によってやむを得なくあえて知性の目をふさぐ。

愚か、というのはたやすいが「愚か」の定義もまた流動的であるという恐ろしさのことを考える。

もちろん絶対に蒙昧と闇だ、あの時代の悲劇は。戦争は、問答無用にそうなのだ。

だからこそ、大切なのは蒙昧と闇へのまなざし、それへの想像力のことなんだということを思う。今のご時世の問題意識にものすごく重大に関連して。

敵対しないために、憎しみによって暴走しないために、みな同じ人間であるという基本的な感覚を持つために。鬼畜米英などというウルトラお馬鹿でセンスのない知能のない言葉が決してお笑い以外で表舞台に出てくることのないように。

 その想像力は不可知に通ずる。信じられない残虐を実行することのできるメンタリティへの道筋の不可思議を解きほぐそうとする。例えば、テロ、IS、正義感の高揚、イデオローグ。どうしてそれが存在するのか。現象には必然がある。普遍性がある。個人的な特性に属するものではない絶対的な論理構造が。

そして不可知は己からそれを切り離すための論理ではなく寧ろ己につなげるための論理なのだ。通過儀礼がメディアとなって、通過前と通過後を分断すると同時に結び付けるものであるように。

それは、不可知のままにとりこむ、わからなさの森を脳の中に飼っておく、その意識の操作によってしか成り立たないものである、おそらく。

のうなしとのうたりん

「のうなし」よりも「のーたりん」の方がより劣っているイメージがある。

のーたりん。一生懸命でもどっかでどうしてもネジが一本抜けてる、とか、或いは漫画なヴィジュアルでいうと、目が上下左右に自由自在にふにゃふにゃ乱れてて、何言ってもふにゃふにゃ笑ってるひとなイメージ。

「無し」より「足りない」方が数量的にはマシなはずなのに。と、子供の頃から私は不思議に思っていた。

もちろん脳無しではなく能無し、ブレインではなくアビリティの脳違いってことだったんだけど。(だってさ、とりあえずひらがなで言っちゃえばおんなじ「のう」やん!)

無能、能無しは、その場においての有用性、「つかえねえ、スキル不足、クズ」の罵り。脳みそはちゃんとしてる。他の場面ではアタマのよい人である可能性を残す。そしてこれは、基本、単なる語義である。


が、脳足りんは意味的には純粋に機能障害である。知能が足りない。考える力がない。言ってしまえば明らかに理不尽な嘘である。やはりこっちのがあらゆる場面で辛くなる絶望的に究極の悪口なのではないか。(無能ではなく無脳、となるとこれはもうただの無脳症という病例である。)

 

…だけど、どうしてか「無能」「能無し」よりも、「脳足りん」の方が(カタカナよりひらがなや漢字表記がなんだか好きなんだな。)愛情や親しみが含まれてるような気がする。

「無能」。その場の論理における合理的論理的な有用性において無益である、という、感情を含まない定義としてざっくりと機能的な漢語で表現する。この「無能」は、鋭い。鋭すぎる。というか、なんというか、ひたすら突き放している。ただ語義通りを突き放して述べる。…巧妙に軽侮と悪意と罵りのニュアンスをのっけながら。

一種、冷酷である。

対して、「脳足りん」は少しやわらかい。意味はひどいんだけど、あんまりにも恣意的であるがゆえに、かえって可笑しみがあって柔らかな笑い、愛情の隙間を感じるケースが多い。不条理であることを知りながら敢えて発する言葉には、傲慢さがない。近しいものへの、それゆえの戯れ。見捨てるニュアンスを持たない仲間ウチの感覚。或いは、共犯者の感覚。己を高みにおいて上から視線で決めつけるのではない、己もまた理不尽な罵り方で同じ地表に、ただ単に感情に走っていること、泥をかぶってることをどこかで自覚した感情のためのコトバ。

必ずしもそういうケースばっかりなわけじゃなけど、和語はやわらかく、どこかにこんな愛情の隙間を残す。もっとみんな使えばいいのに。

まあね、あとね、ただ如何に使い古されているか、単純にその言葉の新鮮さ、という要素もある。単純に、よく使われる言葉は陳腐になる。使うときあんまり考えない傾向が出てくるからだ。

そういう手垢のついた言葉、上滑る意味だけ、悪意を示すだけが狙いの考えなしな言葉に触れると魂が減る気がする。そのエスプリの欠如は既に害悪だ。

脳足りんってあんまりみんな使わないからね、ただ単にそういうことでもあるってことよ。

新鮮な言葉を使おうとするとき、人はその言葉になんらかの個人的な気負いと責任のようなものを負う。

そういう、自覚と工夫と独自性のあるアートな罵詈雑言はそれはそれである種の魅力がある。(ということもある。)

だけど、だから、罵り方のパターンがお仕着せの十把一絡げ、工夫の見られない貧しいものである場合。(あんまり知らないけどちょっとのぞいたときの2ちゃん的な世界のイメージ)鼻持ちならない裁きの傲慢さに満ちた上から目線な言葉。己の言葉に責任を持つ気のない独自性に欠けた言葉でいっぱいなところの場合。

そういう言葉は、却ってそれを発した人間の感情や思想の深みの方が殺されてしまう…気がするんだ。言葉は言霊、発したものを逆支配するからね。

特にあまり丁寧に推敲されることもない、使い捨てな話し言葉に近いくせに書き言葉として残ってしまう、クレバーな鋭さだけに特化したネット用語って危険だと思うんだな。「基地外」とかそういうの。


こないだ書いた記事「悪口雑言エキスパート」の付録だな、これは。

自家製が好き

病院が嫌いである。

医者が嫌いである。

薬が嫌いである。

 

で、裏返して言うと、一旦踏み込んでしまうと全部結構好きなんである、自分。嗜好として、おそらく。

ハマったらおしまいだな、と思うから忌避してるんである。おそらく。
特にクスリ。

何しろ己の身体を使っての人体実験っていうのは究極のおもしろさなんではないか。まさに命を張った最高にスリリングな体感。他人に害を加えないですむしねえ。他人と関わる責任って駄目なんよオレおこちゃまだから。

基本的に拒食症とかってこの原理だよな。不随意的なるものであるはずの身体を己の意志によってコントロールしうるという発見のおもしろさ。

要するに神への冒涜である。己でコントロールすべきではない領域を支配する禁断の喜び。畏怖すべき大切な領域を自ら侵犯し、壊してしまう、なんというか…これはタナトスというものか。

(これが他者に向かうと一気にマッドサイエンティスト臭芬々、犯罪ホラーサスペンススリラースプラッタ(違)映画な雰囲気に。)

 

で、とりあえず法に触れるのは困るし踏み外す覚悟ができるまえは「我ナチュラリスト」ポリシーに則しておきたいので、折衷案としては、なんだな、アレ。


…酒である。それから、珈琲、カカオ、スパイス。あとカヴァカヴァとか(今はアウトなのかな。)(マジックマッシュルーム焼いて食うとかコカの葉を噛むとかは一度やってみたいなあ。)

ホントはランニング・ハイとかそういうのが一番好きなんだけど。健康的に神さまな感じの孤独にして博愛な脳内自己完結快楽。脳内分泌、副作用ナシいいとこ ばっかり幸せホルモン、自家製ドラッグ。やっぱこれだよなあ。ぬか漬けでもザワクラウトでも食べるラー油でもジェノべーゼでも自家製が一番だ。

 

結局、古今東西あらゆる宗教的な修行の歴史は、脳内に究極の自家製ドラッグ、幸せホルモン分泌するための人類の叡智を振り絞ったメソッドの歴史なんだと思うんだな。心身の苦痛、恐怖からの解放、究極の快楽、すべてはこの法悦ドラッグの効果。

 

しかしね、キミ。
例えば、激しい喘息の発作で一晩じゅう眠れずひとり苦しむ長い長い夜、呼吸できずチアノーゼを起こしかけたあげく、一本の静脈注射でたちまちすうっと呼吸できるようになったときのあの感覚。あらゆる苦痛がほどけてゆく肉体から解放されるような麻痺の感覚、あの不自然な臭いのする(そのときいつでも鼻の奥に、自分の血が内蔵が奇妙な薬の匂いでいっぱいになるような独特の感覚があった。)激しい快楽の一瞬を一度味わってみたまえ。あの瞬間を法悦といわずして他に何があろう。

あれはやわらかな光に満ちた赦しや慰撫や解脱、ナチュラル・ハイなんかではないとこがミソ。禁断の匂いと共に暴力的に一気に来るとこがミソなのだ。

わっかんないなあ。確かに不健康な不自然な感じなのに、刷り込まれてしまう快楽は、その不健康さもセットにして愛してしまう。

どうしてだろう。本当に不思議だ。
きっと単に愚かだからなんだろうな、結論から言うと。

…味わったその苦しみのせいかなあ、と考えたりする。
誰のせいでもないならば、どこにも行けなくなったその恨みは、きっと何か、きっと自分の中の何かを壊してしまう。その課せられた理不尽へのどす黒く濁ったエネルギーに満ちた憎しみが、ハンパにその理不尽を我に課した神さまへの歪んだ恨み憎しみ怒りのようなものになってしまうせいじゃないかと。構造から言うと。

大体ね、愚かであるからやめなさいと賢いひとたちが口を酸っぱくして叫びつづけていても、欲望と憎しみの連鎖で戦争が永遠に続く人類だもの、人間だもの。(みつを)(違)

既に高みからの澄んだうつくしいもの、正しい光の満ちた恩寵だの赦しなるものを受け取るレセプターが損なわれてしまっているのだ。まっすぐな視力をもった目は濁りふさがれて正しいものがきちんと見えなくなってしまっている。もうどうしようもないのだ。わかっていても開けられない。だから、理不尽を理不尽とし て強いるもの、ひきつった笑いと共に納得させてくれるもの、その禁断の悪魔寄りのいびつな快楽に、タナトス寄りのその快楽の色にひきよせられてしまうの だ。おこちゃまな感じの逆説。

ピュアな自然の愛を、絶対を信じていながら、信じない、愛憎の振幅、その理不尽の裏表をたっぷりと歌ったこの詩の一節を私はしょっちゅう思い出す。

「佳(よ)い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。」

(「あばずれ女の亭主が歌った」中原中也


なんぴともジャンキーに対し石持て打つことはできぬ、とワシは思うのヨ。

病院

急に左耳が痛くなって怖くなったので耳鼻科に行ってきた。

地元の小さな耳鼻咽喉科、なんかモゴモゴしててあんまり言葉の通じないものすごいおじいさん先生で不安が増したんだけど。

まあ大したことないんだろう、ほっときゃなおるようなこと言ってたからそうなんだろう。

 

行く途中、バイクで行ったんだが、目の前で白バイに狩られたお気の毒な車に遭遇した。白バイ警官の颯爽としたウルトラマン的制服と赤ランプピカピカの権威ピカピカのドライビングテクニックは眩いばかりである。

病院ばかり集まったビルで、通りががった神経精神科の前では「俺を怒らせると何するかわかんないよ。」と静かな声で電話してる男性を目撃した。

耳鼻科の待合室では推定年齢80歳の非常に上品な老婦人が待合室文庫(?)のあだち充「タッチ」を熟読しておられた。

世のなかはいろいろ私の脳みそのキャパシティを超えた怖いことだらけなのだ。あんまりすべてを理解解釈しようとするのはやめておこう。

おやすみなさい世界。

へべれけと七夕

今夜もへべれけおやすみなさいぐう。
…と呟いてさあ眠ろうとしたとこで、ハタと思いついた。

へべれけって、どういうこと?

ランダムに調べてみたら、なんとギリシャ神話由来という御説があるらしい。へえ~(ほんとかよ)。

「 ヘーベーのお酌という意味のギリシア語「ヘーベー・エリュエケ(Hebeerryk)」が短縮されたとする説が、定説かのごとくいわれている。ヘーベーとは、ギリシア神話に出てくる青春を司る女神の名前で、ゼウスとヘーラーの間に生まれ、ヘラクレスと結婚をしている。」なんてね。

ヘーベーにお酌をされると嬉しくて飲みすぎてしまって泥酔、という…この語源説、さすがにこりゃ信憑性は薄いらしいが。

「へろへろ」「べろべろ」「べろんべろん」と同系と考えるのが妥当であろう。

って結んであったからまあそうなんだろう。語源っていうのは何にしろあんまりあてにならないんだぞって大学時代我が恩師は常々仰っていた。

「へ」と「べ」とラ行の組み合わせの擬態語に「~っ気」でへべれけ…わかるようなわからないようなで言葉っておもしろいよな、つくづく。言語学的に調べたらいろいろ出てきそう。

アカンくだらないことしてて寝くじってしまう。

ああアカン日付かわって時計の針はくるくる、もう7月5日午前様ライン数時間超過…今夜もへべれけおやすみなさいぐう。

…って言って思い出したんだけど、今年ももう街は七夕飾りひらひらだよね、善男善女こどもたちの短冊の願い事拝見するのって結構おもしろい、よね。

善男善女のは大体さ、自意識たっぷりで世間向けの感動TV番組タイトルみたいなのばっかりで、世の中こんなにうつくしいかなあと、穿った思考に流れがちな己を恥じつつやっぱりエライひとはエライよなあ、と頭たれちゃうばっかりなんだけど、こどもたちのはウケ狙いも含め、ワイワイ騒ぎながら書いてる様子も思い浮かんで大変楽しい。

「てつおくんより大きくなりたい」とか「宇宙に行きたい」とか「天の川ほんもの見たい」とかはわかるけど。「理科りっぱになりたい」とかは文法的によくわからない。そして「あんぱんまんになりたい」となると一瞬「そおかあ。」と納得してしまうようでいて実は全然わからんレヴェルである。

叶ったらどうするんだ。オレはやだよ、あんぱんまんになるなんてさ。

 

言葉っておもしろいよな。今夜もへべれけおやすみなさいぐう。