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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

罵詈雑言エキスパート

日本語の罵り言葉というのはおもしろい。

主として江戸弁的なイメージのもの。寅さんのあの「結構毛だらけ猫灰だらけ…」地口・啖呵売・香具師の口上に乗せられていくような芸としての悪口雑言。立て板に水で流れてゆくような言葉の奔流、芸術的な悪口雑言スキルに憧れる。なんだろう、既にそれは感情を昇華してしまうほどの芸術の高みにある。(ような気がする。)

馬鹿と阿呆だけでも地方によってニュアンスが違うっていうし、同じ言語文化領域内であっても文脈に応じてさまざまなヴァリエーションのニュアンスを持たせることができる。深い愛情を込めたバカ、という言葉もある。複雑な愛憎の含みのバランス。バカとアホ、馬鹿と阿呆、ばかとあほ。表記を変えるだけでもまたニュアンスが異なってくる。

(『全国アホ・バカ分布考』という罵り言葉の地方による違いを詳細に調査した研究本もあるようだ。読んでないけど。)

暴力のカテゴリに限りなく近い直情型からエスプリをきかせたやわらかなテクニックまで、(けだものからにんげんまで)微妙な駆け引きや心理状態を伝えるための危険なコミュニケーションツール、諸刃の剣の百花繚乱悪口言語ワールド、匕首に飛び出しナイフからベルセルクのドラゴン殺しまで、そのヴァリエーションは実に豊かである。

ばかとあほだけで伝えられる意味の振幅の広さ深さ豊かさには驚嘆する。が、まあやはりばかとあほだけでは語彙が貧しい。語彙が貧しいとなんだか感情までが単調で平板な薄ぺらな人間になってしまいそうな気がしていけない。人を罵るにしても、きちんとうつくしい知性をもって罵りたい。悪口ワールドは結構大切だと思うのだ。いやほんと。罵った時点でおしまいという正論はさておいて。

そうだなあ、なんとなく好きな言葉は、あんぽんたん、トンチキ、ぼけなすび、トーヘンボク、ゴクラクトンボ。それから脳足りん。(これは漢字で。「ノータリン」は今一つつまらない。個人的感覚として。)

柔らかい。どこかにヒューモアがある。

あんまり流通してないもののほうがいい。流通していない手垢のついていない語彙には「え?」という一呼吸がうまれる。理解に一呼吸置くと罵詈雑言のうまれるもととなった怒りの感情の激しさ、その蒙昧な暴力性はやわらげられてどこかに隙間がうまれる。それは笑いに似た隙間。笑いは知性だ。目のくらむような熱い激しい感情に冷水をぶっかけるような冷却客観化効果を生みだしてくれる、こともある。

とろい、とかおめでたい、間抜け、のろま、グズ、クズ、うすのろ、愚鈍、ロクデナシ、無知、愚物、あきめくら、鈍い、なんかはかなりいけない。害意が、傷つけようとする剣の刃が鋭利で頑迷である。大体漢語、熟語になるとその固さで大体ダメである。相手を傷つけようとする害意はどんなに表面上の正論や複雑な論理や倫理で覆ってみせてもそれ自体既にヘドロのように暗く黒く毒々しい感情に塗りつぶされた蒙昧に隷属する。

例えば寅さんのあの口上であたかも謳いあげられるように罵られたとしたら、意味よりもまずその表面上の言葉の流れの技芸に感動してしまう。そのとき心は既に日常散文の領域から非日常的な抽象、詩的な芸術の領域にワープしている。意味の戯れの奔流の中におぼれる。言う方も言われる方もだ。その言葉芸はばかばかしければばかばかしいほどいいのだ。言っててだんだんばかばかしくなってきて笑ってきちゃうのがいい。アドレナリン放出防止。

お互いにばかばかしさに笑っちゃえるようになればいい。
そうしたらその意見の相違について、傷つけられた心について、その二人は初めて冷静に語り始めることができる。憎しみのベースの上ではなく笑いを共有した共犯の可笑しみのベースの上に。

ああ憧れの罵詈雑言テクニック、罵詈雑言エキスパート、バリゾーゴン・アーティスト。アドレナリンの代わりにアルファ派でも誘発できるほどの達人になりたいものだ。