酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「戦後思想の到達点 ~柄谷行人、自身を語る 見田宗介、自身を語る」

インタビュアー大澤真幸による対談集であり、柄谷行人見田宗介の入門書としてふさわしいという紹介文。ううむそういうことなら、この二人の組み合わせだったらとりあえず目を通さなければならんだろう、やっぱり。

大学時代、ということはつまり我が人生根幹に近い部分において、大きな影響を受けた思想家のものだから。

忘れてしまってはいるけれど、思想スタイルのベースには残っている、おそらく脳内の古い地層の中に。 

ということで、電車の中、さらさら流すつもりで開く。
(この類の文章というのはさらさら流すというのが一番難しいような気もするんだが、だんだん流し方のコツもつかめてくる。欲張らないことだ。)

頑張ってさらさら文章の表面を撫でる。

 

週末の午前中、空いた中央線車内に正月みたいな青空の光が反射して、座った椅子はふかふかとあたたかい。私は少し幸福になる。

懐かしい思考スタイルのベースに触れる。脳内で何かが反応してきらきらとあたたかく輝きだす。

そうだ、宮沢賢治夏目漱石にハマったのはこういう人たちがいたからだったのだ。何かを読むということの可能性に目を開かせてくれたのは、世界の豊穣と自由への解放の、そのわくわくするような気持ちへの一つの方法を教えてくれたのは。

徒に難解であったりするとも思う(特に柄谷行人)、そういうとこは読み飛ばす。今わからんもんはわからん。合わないとこは合わない。心の中にわからなさの森を消化することなくそのまままるごと抱えておく。…大体前提となる教養、知識が圧倒的に足りないからね。もうワシは高校生や大学生ではない。

だけど、なんというかな、ベースとなっている思考スタイル。
これなんだよ、これさえしっくりくるものであれば、なんか絶対納得できるんだ。些末なところでのあれこれは別次元だ。何かを考えるときの基本姿勢、発想の、その展開の方向性。志向性。これさえしっくりくるものであれば、しっかりと語り合える、言葉が通じるところにいる、という感覚を持つことができる。

 *** ***

ということで、どっこいしょ。

編者、インタビュアー大澤真幸による二人の思想の大雑把なイントロ紹介の序章から、第一章「『世界史の構造』への軌跡、そして『日本論』へ」。柄谷行人

ワシャ学生時代国文学専攻でしたからノ、柄谷行人はとりあえずまず「近代日本文学の起源」を読んだワケです。で、これが大層面白かったので、「畏怖する人間」とか「意味という病」とか一生懸命読んだんだけど、現在きれいさっぱり忘れていることはもちろんロンロン論を俟たない。

が、思い出すことができる。

…そう、漱石の読み方だったのだよ、漱石作品の、劇的ストーリーとしての構成の破綻の、その必然という視点。確かね、まずこれがものすごく面白かった。

漱石作品の中では、そのストーリーの流れを損なうかたちで、存在論的な問題系がぐいっと頭をもたげてくる。それが大きな存在のマトリクスの大海、無意識から攻撃してきて「意識と自然」の問題系を浮上させるために作品は劇としての構成を破綻させてしまう、という構図。

それは「行人」での「頭の怖ろしさ」と「心臓の怖ろしさ」という描写に端的に示される。…「頭の怖ろしさ」とは理性のレヴェルでの怖ろしさ、一般的な漱石研究で取り上げられるような意識における倫理的なレヴェルでの葛藤である。が、その「怖ろしさ」の外側に潜む存在論的な「心臓の怖ろしさ」、という二重構造を彼は読み取るのだ。

これが目からウロコ納得のワクワクの面白さ。

すべてがそこからコトンコトンときれいに繋がってくる。漱石作品の構造の深淵が見えてくる。

柄谷理論の根幹を成す構造、例えばここで彼のマルクス読解に如実に示されるような、「生産様式」ではなく「交換様式」に着目した、というその視点と繋がってくる。

すなわち、これは畏怖の対象としての「他者」の発見なのだ。或いは、コミュニケーションの非対称性というどうしようもない必然。他者の発見とはそういうことなのだ、という。…それはまた「こころ」での言葉と真実のどうしようもないズレの感覚、そのいたましい切なさ、理不尽ともつながってきて…

まあこんなとこだな、他にも難解な理論がズラズラ語られてたけど、それはさまざまのフィールドへの応用、各論に過ぎない。これだけ思い出しただけでワシはとりあえずもういい。

因みにこの発想はいつぞや後輩君から紹介されて読んだ「贈与と交換の教育学~漱石、賢治と純粋贈与のレッスン・矢野智司」(記事はここ)に直結してたから、この著者もきっと柄谷行人から影響を受けてるんじゃないかのうとか思ったんだな、ちょっとね、まあそれはオマケ。ただやっぱりあちこちで思想のミイムは繋がっている。シンクロニシティだか必然だか。よくわからんがそんなのはどっちだっていいのだ。

全ての論理の自己矛盾やトートロジーの解決法としてソクラテスの手法に活路を見出す論理の流れとかもね。おんなじ感じなんだよな、実に。

 *** ***

第二章。「近代の矛盾と人間の未来」

見田宗介の章。こっちの方がやっぱりしっくりと読みやすく肌に合う。優しい。そして易しい。シンプルでわかりやすいということは寧ろ明晰であることの証明であると私は思っている。(私の脳内に見田理論の回路ができあがってしまっているせいやもしれぬが。)好きである。このひとのおかげで私は賢治にハマったのだ。「宮沢賢治~存在の祭りの中へ」ものすごいおもしろさであった。そして「気流の鳴る音」。卒論も修論もこの論理基盤から拵えた、ような気がする。(忘れた。)

暗愚、闇と牢獄としての自我、牢獄としての「意味」をとらえる感覚は、その外側への輝くような解放の高次元の論地を開く。私のこの感覚は、原則的に見田理論に基づくものであり、例えばこのときの賢治詩(春と修羅・小岩井農場)分析の記事にも示されていると思う。

で、まあ逆にいうと、このインタビューで特に理論的に目新しい収穫があったというわけではないんだが、見田宗介個人的な体験なんかと理論を結び付けた「肌触り」の感覚、これが大層意義深い収穫だった。戦後にすべての秩序が崩壊したときの、そのときの子供に目に映った廃墟の風景の、むしろ「爽快な解放感」として感じられたその「森羅万象はすべて空である」という意味をなすもの、「すべてはフォルムを失ったマテリーとなっている」(p118)或いは6歳で母を失った「喪失」の原感覚、中学生の時のエゴイズムへの絶望の感覚のエピソードによるニヒリズムへの論理に対するアプローチの手つき、その感覚のことや。各理論を構築したその原動力になった個人的背景みたいなものネ。

この個的感覚は全て集合体として社会学的理論にも歴史と背景の時系列的必然があるというその感覚に拡大される。個であることと集団であることの共存。

あとの専門的なことも、きっと知ってれば知ってるほど深く面白く感銘深いものであるとは思うけど。週末数時間でやっつけて流しただけで情けないから、せめてコレもう一度読み返さねばという思いもそりゃあるけど、ウン。わからなさの森に飼っておくよ、とりあえず。

 *** ***

終章、全編を通じてだけど、編者大澤真幸の、すべてをきれいにつなげまとめるこの手つきが秀逸なんだなあ、きっと。

柄谷の、ノマド的なイメージを持つ原初にして最終形の概念、社会システムの中に仕込まれた「交換様式D(原初共同体的互報的贈与への高次元での回帰)」のイメージ、その鍵を握る自由と平等への欲動。

それは寧ろ無機的な志向性、運動性としてとらえられる人間の「原遊動性U」回帰運動の概念である。(柄谷はフロイトのいう「タナトス」をも無機への欲動としてのこの原遊動性への回帰運動として解釈する。)自由にして平等。

これが見田においては他者の二重性(敵と味方、相克と相愛)の同時性として自我の枠の牢獄から解放されたかたちで喜びとともに他者を受け入れる多義性、多様性、ポリフォニイ、交響するコミューン的なものへの回帰という方法論となって両者は重なってゆくものとなる。自由と解放と牢獄的なる世界の愛と歓びによる共存。

柄谷の言う、原初交換様式A(共同体的・互報的贈与関係)への高次元での完成系仕様とされる理想概念としての交換様式Dが、世界史のあらゆる交換法則的な局面(交換様式B…支配ー服従《保護》《略奪と再分配》)(交換様式C…貨幣と経済)において遍在する「原遊動性U(共同体からの自由、まったき平等)への欲動」が実現するある種の仮定された高次への理想であることを明確に認識することは、世界経済の閉塞と収奪と抑圧の構造からくる軋轢、そしてそこからくる戦争回避への方法を模索するためのひとつの手がかりとなり得る、十分に。

ここは実に難解にして実に単純なところだ。

大澤は二者の目指すところを双方の用語を融合させた「交響するD」という言葉によってまとめて見せる。柄谷にとっての(漱石から読み取ったものである)独自の「自然」とは、『自分に始まり自分に終る『意識』の外に広がる非存在の闇』(柄谷行人著・意識と自然~漱石試論)として定義される。(p220)柄谷によるこの「闇」の読解を見田の「存在の祭りの中へ」の賢治論によって展開させるとそれは反転という可能性に開かれるものとなる。恐怖の対象であり反転させると喜びの源泉ともなる、「輝く闇」としての両義の自然が見えてくるのだ。

そして、それは、大澤により、ドン・ファンの言葉を引いた「夜明けの光は世界と世界の間の裂け目だ。それは未知なるものへの扉だ。」から、「この裂け目は、<他者>がその二重の謎によって自らのうちに穿つ~(中略)それはわれわれを自由へと導く窓である。」と本書をシメる言葉となっているのである。

とにもかくにも、両者に共通するキイはあらゆる認識における「意味への疎外」の発見だ。見田における「コントロールされた愚」根を持つことと翼をもつことの同時性は、根を全宇宙として認識すること、というシンプルなまとめ、展望ではあるけど、極めて普遍的にして現代的なダイバーシティの意識が他者、他集団との関り方の理論の構造、図式化には具体的な問題を思考する上で非常に助けになるものであることを私はほのかで新鮮な驚愕とともに再認識する。普遍とはまあそもそもそういうものなんだけど。

 

…なんとなく、また春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が読みたくなってきた。「世界の終わり」の側の世界で、主人公が仕事として、来る日も来る日もただひたすら図書館で死体の頭蓋骨を読むシーン。あのイメージ。

f:id:momong:20200111143527j:plain