酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

にんげんのこわれるとき

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大学時代、すぽんと賢治にハマって、卒論も修論もテーマは賢治だった。

漱石と賢治、春樹が好きとかもう何だかギョーカイ内では安っぽいミーハーちゃん扱いである。ゼミではみんな結構いかにも自分文学好きだぞな玄人っぽいシブイ作家を取り上げてた。永井荷風とか谷崎潤一郎とか横光利一とかさ。)

確か修論は「小岩井農場」を中心に論じた記憶がある。

長詩である。(賢治に言わせると「心象スケッチ」な。)賢治独特の、日本では珍しいタイプの長詩。ダダイズム風の実験的なスタイルをもっている。(賢治はダダの影響も受けていて、「春と修羅」随所に視覚的な文字列の配置の工夫などもされている。実はカレって結構新しもん好き、実験好きなひとなのだ。)

あれこれ考えごとしながら小岩井農場を歩いてく実況中継的なスケッチ風の詩なんだけど、(実際に手帳にメモを書きつけながら小岩井農場を行ったり来たりしたらしい。)ごく普通の周囲の情景描写から、心の中に浮かぶ回想や想像、独白が入り混じって主体が分裂してゆき、だんだん幻想世界に移行していく過程がぞくぞくするほどエキサイティングなのだ。ひとが狂っていく過程もこれと似たようなものかもしれない、と思ったりしてね。

で、好きな言葉がある。(いやたくさんあるんだけど。)

 「幻想が向ふから迫つてくるときは / もうにんげんの壊れるときだ」

自我解体の危機に瀕した葛藤のシーン、クライマックス。

ここの解釈は本当にいろいろな説があっておもしろい。 

見田宗介の「宮沢賢治」が大好きで、これで賢治にハマったようなもんなんだけど、ここでのその解釈は奮っている。得てして否定的にとらえられがちなこの「にんげんがこわれるとき」という意味を、この箇所を、あえて非常に肯定的にとらえているのだ。「にんげん」を「自我」としてとらえて解釈する。するとこれは自我解体の恐怖を意味することになる。が、それと同時に自我という牢獄からの解放という至福の時空への移行、この反転の意味を読み取ることもまた可能となってくる。彼はここを論の中心点として捉える。

この人の賢治はすごく魅惑的な解釈で学生時代はすっかりまるごと飲み込んじゃったんだけど、今ちょっと見てみたら、ここでは自説に引き付け過ぎていて、多少論理に強引さと無理がある。いやまあそれはそれでそれとしていいんだけど。この人のこの本の論理構成を成立させるには仕方ないとこだから。 

漱石の「行人」に、「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの3つのものしかない」という一節がある。「死か狂か宗教か」耐え難いこの世の業の苦しみ、自我の苦しみから逃れるための三つの選択である。

これは、「自我という牢獄」という視座をもっており、それは問題意識として先の見田宗介のものと一致している。死も狂も宗教も、「解脱」、すなわち牢獄としての<自我-この世>からの解放、自我放棄のための手法だからだ。

 賢治は、「小岩井農場」に於いて、分裂してゆく自我をそのまま表記し、五感が捉える外界風景と意識の内面のイメージが入り混じり溶け合うテクストを織りあげる。これが「心象スケッチ」という手法である。これによって、言葉の多元宇宙を出現させたのだ。すなわち文字通り「異議を唱え合うエクリチュールロラン・バルト)」の場を生成、バラけた自我をバラけたままに記述認識する。

そしてここからだ。ここでは、その混沌が極まったとき、全体の向かう方向性を敢えてトータルにコントロールしていこうとする新たなメタレヴェルの主体を発生させる仕組みが読み取れるのである。これは一種戦略的なエクリチュールのスタイルとすらいえるのではないかと私は思う。

この試みを、先の「死か狂か宗教か」の論立てにあてはめてみてみよう。

移りゆく時間と風景を眺めながら歩行する現実の主体を外枠にもちつつ、同時にそこから離れ遊離した意識の内面で、回想や宗教的な論争を繰り広げる分裂した複数の主体(自我)=多重人格という構図を織り上げる。そして現実意識を凌駕してゆく内面の幻想領域、という「狂」への危機的状態をつくりだしていく(或いは「(幻想が)向ふから迫つてくる」状態 )。

そしてこのクライマックス、ラスト近く「にんげんがこわれるとき」現れるのが次なる段階としての超越者的な声である。この声は、最初ちらほらとあらわれ幻想を警告する小さな声としてテクストの中につぶやきはじめ、そしてこのラスト部分にすべてを覆うようにして突如大きく膨らみ他を凌駕し統一し、高らかな意志の声でこのテクストを語り終えようとする一つの主体である。

 

 《もう決定した そっちへ行くな
      これらはみんなただしくない
      いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から
      発散して酸えたひかりの澱だ

 

ただしくない「これら」とは、対立しあい混迷する複数の主体の見ている複数の幻想風景、多様な意見のことである。エクリチュールのカオスな動きの中で、残虐な現実側の回想に捕らわれ自我の業に苦しむ主体(具体的な人間関係の軋轢の回想、妹を失った悲しみのフラッシュバック)、そしてそのアンチテーゼ、現実世界を嘆き否定し理想世界への解脱のみを願う主体(幻想の美しい仏教的天上世界のイメージ)を共に否定しながら、それらを止揚したメタ次元として、双方が「ただしい」かたちで存在する世界に向かおうとする。これはそのかがやかしい宗教に裏付けされた新たな外界現実に立ち戻ってゆこうとする強い意志の発揚である。

 

さあはっきり眼をあいてたれにも見え
   明確に物理学の法則にしたがふ
   これら実在の現象のなかから
   あたらしくまっすぐに起て

 

業の苦しみに満ちた現実世界、そしてそれを否定する形での遊離してしまった「宗教」的幻想。それらをすべて解放して言語化し、その分裂した人格としての場「狂」を経るかたちで再びまったくあたらしい現実へと差し戻してゆく構造。ある意味これは「死と再生」のミッション。すなわち、祝祭(ハレ)から日常(ケ)再創造、或いはあらゆる宗教に示されている終末思想と相似の関係構造をなしている。

死と狂と宗教(にんげん《自我》の壊れる場所、或いはそこから解放される場所)。エクリチュールはこれら自我からの解放のミッションをなぞる。そしてけれど自我ー主体崩壊ー死という破滅のかたちには流れない。「にんげんのこわれる」ぎりぎりのところでジャンプを仕掛ける。このミッションによる新たな自我の獲得、ミクロな自我を克服した、マクロな超ー自我による世界イメージというステージの獲得への誘導の構造を構築するのである。

「ちいさな自分を劃ることのできない
 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで」

心象スケッチというエクリチュールの手法によって、「ちいさな自分」ちいさな自我からの解放のツールとしての「死と狂と宗教」の取り込み、そしてそれが「生」と対立しない高次元の場で再構築された自我と世界の関係性、そのような大きな自我観へ至るための誘導が行われている。

それは、賢治の目指した「物理学」と「実在の現象」を統合した「ただしい」宗教の姿として謳われた。

…思うのだ。

これは、これこそは、もしかしたら彼が「農民芸術概論綱要」で主張しようとしたひとつの「芸術」(この詩の場合、エクリチュール)の姿そのものだったのではないだろうか。現実の読み替え、救済のツールとしての宗教=芸術である。

 *** *** ***

この長詩は、このように新たにトータルな形での宗教と現実を踏まえて進んで行こうとする意識の流れの記録、自我の苦しみと業をコントロールしていこうとするその心の道行きであるといえるだろう。

書くこと、エクリチュールを為すことの意味は、それが自己救済の手法であるところにある。あるいはそれはひとつの祈りのかたち、そのスタイルである、と言ってもよい。(卒論の方では、確かこのことが言いたかった記憶がある。書くことは祈りである、というような。忘れたけど。)

小岩井農場は長いんだけど、とりあえずラスト、クライマックスの「パート九」だけならそんなに長くない。ここに全文載ってます。

 

…でね。

こうやって力強く高らかに理想論を謳った後、最後の最後に凡夫としての「ちいさな自分」に戻るような、まっすぐでありながらもほんのりと揺り戻し的なイメージを持つラストがある。

大きな意思にみたされた高い次元を感じながらも、低いところにいる小さな個は決して失われない。

テクスト内での語り手と登場人物の視点の自在な移りかわりを利用して成立する「ちいさな自分」が見る風景とその主体を客観化して眺める、鳥瞰する二重の風景。この、めまいのするような視点の多重を利用したこの風景の深み、うつくしさは、常に大きな宇宙の中で「透明な軌道をすすむ」ひと(自分)を感じながら、現実のしがらみを生きる、現実の美しい風景を愛する小さな自分を感じ続ける双方への生命賛歌、世界賛歌への祈りからくる。そしてここに示される、切ないようないたましさと、ほんのりしたあきらめに似た優しさに満たされたものである高みへの意志。

この詩情、ここが好きなんだな、オレ。もしこれが詩としていいものであるとすれば(これは詩としては全然評価されてないようだ。研究対象ではあっても。…まああの珠玉の「永訣の朝」なんかに比べっちゃっちゃね。)、ここがあってこそだと思うんだな。

 

なんべんさびしくないと云ったとこで
またさびしくなるのはきまってゐる
けれどもここはこれでいいのだ

すべてさびしさと悲傷とを焚いて

ひとは透明な軋道をすすむ

ラリックス ラリックス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
わたくしはかっきりみちをまがる