なんだかねえ。
べろべろヨ。
明朝きっと消さねばかも。
でもご機嫌なのオレ今、一人で部屋で泥酔で。起きてれば起きてるだけ飲み続けてしまう。ご機嫌なときはご機嫌だから、辛いときは辛いから。(そして実は弱いので翌日は一日最悪である。)
一月は正月で酒が飲めるぞ~♪っていうアレだな。
(あの歌好きである。「酒が飲める飲めるぞ♪酒が飲めるぞ♪」)
なんだかねえ。
ミョーに幸せだったのヨ、今日オレ。
一人寂しく豊かに幸せ。
寂しいけれど寂しくない。豊穣。
中央線沿線をひとりさ迷い歩く土曜日。様々な思い出や夢やなんかの中をずうっと泳ぎ渡るように歩いて、甘いお菓子(モンブラン周辺)のこととか柄谷行人の言いたいこととか韓国ドラマがどうしてあざとくおもしろいかとか自分幼児のころ母の拵えたフェルトのパンダをあんなに大切にしていたのかとかウルトラマンの怪獣をコレクションしていたのか、記憶にはあるのにまったくその情熱を理解できないリアリティを思い出せないこの記憶の構造の不思議のことを考えてたりしてね。記憶とは何か。
これは子供に対するオトナの持つファンタジー。…まあとりあえずそれってアイデンティティとは何かって本質んとこなんだよなとか思ったらわくわくしたり。
…イヤ何しろね、おそらく考えることが、換言するならば能動と受動の区別のないところで世界を「夢見ること」それ自体が、オレの実存とリアルと至福なのだ。生きているということなのだ。そしてそれ以外には何もない。(これは「草枕」で漱石が芸術に関して考えていたことにすごく関連した主体と客体の関係性のことなのだ。読み直さねばならぬ、あのあたり。「憐」と「非人情」のこと考えなおしてみたい。)
柄谷行人、中央線の中でちらちらっとつまみ読む。「意味という病」。(イヤ全然きちんと読んでないけど。)徒に衒学的で難解で思わせぶりなようではあるが、(そしてそのきらいがないとは言わないが)読めば読むだけその噛み応えはある。批評それ自体、自分がそこから何を汲み取れるか。
あらゆる修辞をツールとして、なおそれを超えた、その「向こう側」に行きつこうとする切実な思い、激しい熱い祈りが感じられる気がする。だからだ。探り当てたい、そこに行き着きたい。その「感覚」が、論理が、論理を超えたところに行き着こうとする論理というアンビヴァレンツを孕みながら、…それが「知」というものなのだろうと思う。興奮、おもしろさ。日々を眺めながら生きていること自体の。
寝るだすよ、明日が続くのなら、それを現実になるべく幸せに精一杯生きねばならぬ。今だけ一番大切だけどさ。
おやすみなさい世界、みんな結構大好きなのヨ、実はオレ。