酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

イーストウッド

録画してた「パーフェクト・ワールド」。

うっかり目頭熱くなってしまった。「グラン・トリノ」でもそうだったんだけど、どうしてこうイーストウッドにはたやすく泣かされてしまうのだ自分。こんな人間ではなかったはずなんだが。

理不尽と痛ましさ、どうしようもなさを突き抜ける潔さ。
音楽と残虐と。…ううカッコいい。
(そういや私の父は昔から大層イーストウッドを好んで観ていた。メリル・ストリープとかね。いやルパンの映画もTVの前に並んで一緒に観たけど。マモーのやつとか。)

 

弱ってるせいだ。今のオレは赤子の手をひねるようなもんだな。…マディソン郡もいいのかしらんいっちゃおうかしらん。

お涙頂戴力業韓国ドラマ典型的少女漫画その他は現実の鬱屈を忘れさせてくれる。こういう力業な物語、娯楽っていうのは搾取される側の一般小市民の日々の辛さを慰撫しその知性の都合の悪い方向への眼をふさぎ眠らせるための大いなる戦略であるのかもしれない。都合のいい道徳を上手に仕込んで。

江戸時代に被差別民を設定し或いは悲惨で残酷な美しい自己犠牲のドラマをプロパガンダにした古今東西の権力の共通したパターンを描く戦略構造。

「これと比べたら自分の不満なぞとるに足らない口にするのも恥ずかしいワガママだ」と思わせるための。

 

あらゆるテクストはプロパガンダに利用されてきた。

…逆も言えるのかもしれぬ。

例えば「アメニモマケズ」は時の権力に利用されることによってそれを利用し生き残ってきたテクストであるという解釈もあるという。

 

…やっぱ弱っている。「なめとこ山の熊」を眺める。「春と修羅」を眺める。「銀河鉄道」を眺める。ひとつひとつの言葉遣いにいちいち胸が刺される。描き出される風景のうつくしさに。

「おお小十郎、お前を殺すつもりはなかった。」

 

梅やらっきょう、しとしと滴る濃い緑、ぼんやり浮き上がるどくだみにくちなしに紫陽花。

梅雨が来るのだ。くらくあじきなく輝かしくまばゆい短い夢のような青春のような五月はもう終わりなのだ。

毎夜、今日の続きの明日が来ないことだけ祈りながら酒を飲んでただ眠ろう。
誰かこれを終わらせてくれないか。めんどくさすぎてうんざりだ。

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栗子さん 終章

なんかあれこれあってしばらく離れてたらよくわかんなくなって飽きちゃって書いてて面白くなくなっちゃったんだけど、とりあえずせっかく書いておいたものだしそのときのやりたい放題思いついたままの無茶苦茶メモのままこれでひとまず区切り線、栗子さんモンブラン狂騒曲。

いやあ最近の日々のあれこれは激しくて疲れちゃって脳細胞痺れちゃって慢性疲労頭痛胃痛のレヴェルアップにまけて日常生活でも顔に死相は現れるし転ぶし落とすしココアこぼすしなんかもうダメなのよオレ。

ということで深夜泥酔のままアップ。
(あんまりひどい間違い矛盾はこそこそ直していくかもしれません。)

 

 ***

その年のモンブランへの挑戦において本当は一体何が栗子さんに起こっていたのか。

…ここで繰り返し繰り返し挑戦し続ける彼女を襲ったのは、実はその度に繰り返された失望であったのだ。

チガウコレジャナイ。

その失望とは、寧ろ既に永遠にこの希望は叶わないという確信を伴った絶望であった。

…それは口に入れた途端襲ってくることもあったし、一瞬閃いた一筋の光のような希望の後の激しいショックにも似た味覚が感ずる違和感、そして次の瞬間の絶望の感覚であることも多かった。

 *** *** ***

2017年、降り落ちてきた天啓による栗子さんのモンブラン行脚は、各店一斉に限定モンブランを開始する9月中旬に始まった。

栗子さんは、それを人生の初期の輝きを再び得るための儀式だと思っていた。
そして考えた。最初が肝心である。

己の人生のトータルな救済のために芽生えたこのほのかな光明を、うっかり出だしで躓いたりして再び失うわけにはいかない。吟味されない適当なところで精一杯の努力と覚悟なく入手された滅多なモンブランで失敗するわけにはいかない。相応の手続きが必要なのだ。

研究に研究を重ねたのちに選ばれたスタート地点は、食べログ評価東京一との評判、しかもご近所中央線西荻窪の行列必須の数量限定モンブラン。これぞ運命である。他の選択はありえないように思われた。そう、そのように信じなくてはならない。信じる者は救われる。運命は、啓示は、それを信じることによって運命と啓示である。

初秋のある日曜日、きらきらと夏の名残の光のこぼれるインディアン・サマー。陽射しまばゆい美しい朝であった。ああ、今日だ。目覚めた瞬間栗子さんはそう思った。

電車に乗る。幻想四次鉄道TOKYO・中央線。異なる次元へつながる鉄道。どこかで境界を越え、結界を超え、懐かしい見知らぬ街の駅に立つ。そっと懐かしい街の愛らしい洋菓子屋の前で行列の最後尾に立つ。

約一時間後、彼女は高鳴る胸を押さえ、宝石箱のようにケーキの箱を捧げ持ち、ふわふわとした心もとない足取りで帰宅の途についていた。手が震えるような興奮である。眺めて夢見るだけの異次元に属するイデアが今結界を超え、この手の中にあり、己がまたそのイデアにつながる存在として生まれ変わる。今、その驚天動地天地鳴動の前にある。栗子さん的に。

ザ・ミッション。大切な儀礼である。味わう前に心を鎮め平らかな落ち着きで臨まなくてはならない。みそぎを終え、読書をする。

午後のあたたかい珈琲タイム。
穏やかな日曜昼下がり。とっておきの美しいケーキ皿、金色のフォーク。もう後には引けない。最初に禁を破るかのごとき処女航海、そのエクスタシーを存分に味わいながら最初のひと口を運ぶ。ああ、もういい。もうここまでで十分だ、という気もした。

ふわり。「おッ?」
一瞬、狂おしいほとの期待と喜びに瞳が輝く。ラムだろうか、洒落た優しい洋酒の風味、ヴァニラ、ふんわり軽く甘い上等のミルク、クリームの風味が懐かしい官能をかすった。優れたパティシエの魂のエッセンスを感じた。

…だが、次の瞬間がっつりとやってきたのは、その洋菓子の味覚の全容。その衝撃をまともに食らったダメージはあまりにも大きかった。そう、ダメージ。栗子さんの無防備な味覚は、その味蕾は、衝撃的なその未曾有の爆撃弾連続掃射によって殲滅された。一気に奈落の底へ。洋菓子そのものへの拒絶反応である。異様に肥大した脂肪分の旨みと鋭く突出した砂糖による甘み。他の繊細にして美麗なる官能の芸術としての美点を全てをぶっ飛ばすその破壊力。

その味わいとは間違いなく本来の人間のキャパシティを越えたものであった。一瞬何が起こったがわからなくなる過剰な味覚刺激。その激越な甘さ、ごってりとまといつくクリームの臭みとしつっこさの猛烈ぶり。大脳前頭葉の理解のキャパシティを越えて振り切られるメーター、人間による文化としての味覚刺激物。作られたもの。これは被造物としての人間の食すべきものではない。神のたもうた恩寵ではないところからくるもの。人間が魂と官能の喜びという尊い賜りものを冒涜しつくしたあげく知恵と祈りの栄光を自ら創造しようとした結果の芸術というかなしい罪業。似て非なるミメーシス。甘く優しい無垢なエデンの恩寵は、薄皮一枚間違った時空で、人類を地獄絵図の滅亡に導くものとなる。天使が薄皮一枚の違いで悪魔となったように。

間違っているのは私ではなく世界の方だ、と栗子さんは断定した。

こんなものに耽溺していては世界はどんどん間違ってゆく。途上国は搾取され先進諸国では心身が病まれ医療費はうなぎのぼり、戦争が起こり天変地異が発動され、人類は愚かしい種としての成人病(生活習慣病)で滅びることになるだろう。そしてそれは世界自体にあらかじめ内包されたプログラムによる宿命なのだろう。

 

***以下、ちいと脱線。読み飛ばし推奨メモ***

食べる、という行為は、呼吸と並び、世界と自分との関係性のかたちを優れて端的に示し出す行動である。

すなわち、交換、交感。

己の内側に外部の世界を取り込む行為は外部を内部に呼び込むと同時に内部に入り込んだ外部はその内部を外部の一部とすることをも意味する。取り込み、排出する。呼吸する。

ここで己はその有形無形の化学反応の行われる現場、その現象の過程に過ぎない。また世界のパーツである。外部と内部を交換しつつ分裂増殖破壊を続けエネルギーを発生させる現場としての細胞体であることを示しだしている。自我の枠組みの堅牢性は全く意味を持たない。

従ってそれに対する仮主体としてのスタイルがすなわち個としての世界との関わり方の認識スタイルを示すものである。要するに個としての己と全体との関わりを規定する認識であるということができるのだ。それは身体性、体感としてのリアリティからくる構造の論理である。

食べるもの(外部・全体性)が己に取り込まれ(内部・個)やがてはそのもの自身となってゆく、という生物学的な身体的な構造を、精神および概念、存在そのものへあてはめた適用、応用である。

例えばそれは、食べ物に対する認識としてまず浮かんでくるものが料理名という概念であるか、コンビニ・フードの概念であるか、食堂や料亭のイメージであるか、はたまた記憶の中の食事シーン、お母さんの味噌汁の味的なイメージであるか、その基準がその人の世界との関りをひとつ象徴する基準でありうるという考えである。

己が世界をどのようなかたちで認識しているか、という問題は、とりもなおさず己が己自身をどうカテゴライズされる人間として規定しているか、という問題なのである。

素材ではなく料理名で食べ物を認識するのなら、世界を素のかたちではなくより限定されたある一定の文化圏において成り立っている世界の概念、規定され名付けられた意味の物語で構築された物語内での意味で認識していることを示しているし、コンビニ文化内での認識もしかり。双方、鮭があの生物としての魚の形ではなくバタ焼や塩焼きやおにぎり、つまり命の連鎖から切り離された食材としてのパック詰めされた切り身としてのイメージしか持たないものであり、後者は特におにぎりや瓶詰フレークのブランド名、商品名による味の評価、経済流通の中での資源の意味合いの強いものとしてしかとらえられないものであることを示す。己がパーツである世界をそう位置付けるなら、己の価値もまたしかり。その価値観の中で位置づけられるものとなる。例えば生物としての人間或いは生活するものとしての人間、というよりはそこから遊離した貨幣価値の中、限られた文化圏(例えば因習、国家)としての社会制度の中に組み込まれた、文化的なるものとして価値づけられ存在するモノである、と。例えば有産者階級、無産者階級、あるいはお上と下々という上下関係、カーストみたいな。…人間としての価値がソレなのだ。知性でも人間性でもなく、身分で貴賤が決まる。汚らわしい生まれ、尊い生まれ。社会制度においてどのパーツを請け負っているかによって己を価値づけることになる。光と風と四季の美しさと己との呼応、星空と秩序と己の内部の道徳律の共振、生まれ育てられた愛情、生命のつながり、連鎖、感謝や祈り、他のすべての世界の美しさの価値とは切り離されてしまう。計算できないところにある別体系にある価値とは。(それらはすべて呼吸する大気、食する食べ物ともつながっているのだから。)

認識イメージがこれらに偏重した場合には、金を払って購入したものをどう扱おうと自由であり、生命や労働への感謝やいただきますという畏敬や礼儀も必要ではなく、不味さを罵倒し踏みつけて捨てても何ら良心に恥じることもなく倫理的不都合もない、ということになる。(なりがちな可能性を持つ。)さらにそれを贖う資本力をもたぬ者はその社会の中では人間としての価値もない、と。

食べる、着る、住むという基本的な「衣・食・住」が、あたたかな生命の通った基礎としての意味よりもむしろ社会的な立場、身分を象徴する意味合いを濃くしていった文化が飲食店に対する虚栄を孕んだスタイルであろう。そこではより一層生活という基盤からは遊離したものとなってゆく。一流店に行った、ミシュラン五つ星に行った、SNSでそれを吹聴して喜ぶ、あるいは吹聴していると言って蔑む。いい店を知っていると自慢する。そのセンスを持っていると自慢する。

自慢のしあいっこはいい。前向きだし楽しい。だけどさ、マウンティングとか貶め合いっこになってくるとねえ、ちいと参っちゃうんだよな。疑心暗鬼のスパイラル。なんかどうしても大切なとこ忘れすぎてるよな気がしてして疲れる。命をつなぐための食が文化に偏重しうっかり命や喜びから遊離していった結果、逆に最も大切なものを損なう構造を持つに至ってゆくことを思う。何のための国家か何のための文化か何のための制度か、なんのための愛国か。(そして問いは浮かぶ。なんのための美学なのか?)

とにもかくにも良くも悪くも、そういう人たちは、人の間の物語の中に生きている。それは男性原理的なるものに重なる度合いが高い。すなわち、社会的に生きている、より強く社会的生物としての人間である、という気がする。逆に、まったくそういう方面に注意を払わなすぎると社会不適合人間となる傾向が強くなるってことなんだがね。

モンブランで言えば、芸術としての洗練を尊ぶか、素材としての栗の風味を尊ぶか、というようなレヴェルの話である。栗子さんは栗風味のケーキではなくケーキ向けアレンジを施した栗、その素材の洗練というレベルを求めた。チガウコレジャナイ、は、イデアと具体とのズレでもあるが、多分にその要素も強い。社会不適合側に近いわけですな。

…まあね、理想は双方のバランス或いは融合。…平たく言えば好みである、というだけの話だが、ここでは単に偏重傾向のことを言っているのだ。

***閑話休題***

 

…ということで、苦痛であった。現存するモンブランは、夢のように思い描いたかつてのモンブラン、既にイデアの領域に投げ上げられたあの幸福なモンブランとは似て非なるもの、まったく非なるものとしてそれはそこに存在していたのである。

失われた楽園とはもう二度と取り戻せないものであるからそう呼ばれるのだということを彼女は知った。純粋な消費の楽園には戻れない。

そう、もう己はここに生きてはいないのだ。今ここにあるのは現在だけ。
現在するモンブランのことを実は既に愛することはできないのだ。感知しその味覚を分析評価することはできても、それは概念である。対象と一体となった官能の中に埋没し忘我恍惚となり三昧境に至る道筋は最早彼女のものではない。遠い記憶の、懐かしくかなしい、あの世界と一体化した生への憧れとして、その感覚は遠い春の日の記憶が淡くかすむようにほのかに輝いていた。

モンブラン

けれどそれでもそれは唯一の救済の道であった。
永遠に失われているからこそ、決して取り戻せないものであるからこそ、終わったもののもつ生きた物語のリアルがそこには逆説的に永遠として生きることができる。概念がその憧れでもって囲い込みその輪郭をこねあげ創造するものである真実。

栗子さんはそして今なお己のモンブラン道をひたとみつめていた。
その道の向こう側を見つめていた。あれは決して失われてはいない、というその論理の矛盾が矛盾でなくなるどこにもないその場所の存在を彼女は確かに確信していた。

牢獄からの救済の道であるであるところ。この世の生の牢獄からの、唯一の。トラップにあふれた細い細いかそけきその道の向こう側のイデアを。

そのときはじめて彼女は悟ったのかもしれない。人生の終わろうとするこの時期になってもたらされた、あの優しい春の陽射しのあの高いところから降りこぼれるようにしてやってきたモンブランの啓示の理由を。その必然、その意味を。

 *** *** ***

その秋冬、彼女は彷徨し続けた。名店と呼ばれる店を探し求め、週末ごとに淡い期待をこめた挑戦は続けられた。幾度でも幾度でも裏切られ続けた。期待と失望を繰り返し、その度に心挫け、もうあきらめようと思いながらも彼女はその冬、虚しく報われない努力を続けた。そして彼女はその徒労のプロセス全てをあらかじめ知っていたのである。

それでも。
それでも、もう一度、あの片鱗を、どこかこの風味を感ずる己の楽園の場所を、その存在の確信を得なければならなかった。手立てはこの虚しく繰り返される徒労を繰り返す以外にはなかった。

たしかに、この向こう側にかすかな記憶が呼び覚まされる思いはあったのだ。それを探りながら繰り返すことによって、個々のモンブラン体験、その個々性を奪われた向こう側に形成される抽象としてのイデアモンブランがある。それはイデアであることによって失われた過去を現在と未来に永遠に生きさせるものとなる。

誤解のないように言っておこう。個々のモンブランはそれとしては各々それぞれ素晴らしい味わいの優れた芸術品であり、現在を生きる人々の心身の幸福、喜びを生み出すことのできる品々であった。ただ、栗子さんが求めるものはそれではなかったというだけの話である。求めても得られないものを彼女は求め続けていた。求めても求めても決して与えられ満たされることのない永遠の空腹。

年は明け、光の春。凍るような空気の中に明るい光だけがまばゆい如月であった。
栗子さんはとぼとぼと寂しい街を歩いていた。凍えていた。空腹であった。頭痛と憂鬱と寂しさに閉じ込められたひとつの修羅が光の世界の気圏の底を澱みながら動いていた。

寒さと寂しさは耐えがたい。
コンビニエンス・ストアに入り込む。明るい人工の町の物語。マシンの注ぎだす熱い珈琲で手を暖める。

少しほっとする。瞳を上げ、ふと見上げる空が光る。
まばゆい。また春が来るのだ。

栗子さんは瞬きをした。何かが視界に飛び込んできたのだ。光の粉。同時に、胸の底を掠めた懐かしさに似たもの、艶めかしい光の擦過。

そのとき、突如己の中に何かが閃き目覚めるのを感じた。降り積もっていたもの。

それは荒々しく激しい欲望であった。それは寒空の下、血管を駆け巡り魂まで熱く満たした一杯の熱いコンビニ・コーヒーの魔法のせいかもしれないし、奇しくもその瞬間通りがかった洋菓子屋の窓の中に素晴らしく美しいモンブランを楽しげに食するご婦人方を目撃したせいかもしれない。

欲望。渇望。
今必要なモンブラン

それは今回のモンブラン行脚の中で一番だと認定した目白エーグルドゥースの柔らかく洗練された甘い夢ではなく、西荻窪アテスウェイの少々の主張と意地を密やかに示したあれでもなく、ピエールエルメの前衛を感じさせるとんがった芸術でもなく、力業なホテルニューオータニスーパーモンブランでも、素朴さのバランスを追求した中野ラブリコチエのものでもなく、素材ガッツリの三鷹の究極のモンブランでもなく、また菓子屋の洗練を栗という独自性ではないところに求めた類の基礎的素材上質さをもつ誇り高き吉祥寺レピキュリアンのものでもなかった。(ジャンポールエヴァンはここに属する。)

それは、理想のモンブランでなくてはならなかった。イデアとしてのモンブラン
銀座で一番うまいと豪語して見せる老舗みゆき館のどっしりとしたあの重ねた歴史の風格、その誇り、モンブランの権威の論理にも取り込まれえない、けれどそのすべてを包含した、その外側に位置する絶対の幸福としてのモンブランでなくてはならなかった。過去のすべての幸福を連ね統合凝縮した虚構にも似た真理のモンブラン

決して得られないそのモンブランのことを考えながら、満たされ得ない飢えのことを思いながら、栗子さんは突然「幸福になった」。柔らかく優しく寂しく甘い光によって心がいっぱいに満たされていた。

矛盾である。だがそれは確かにそのとき永遠の現在としてまた儚いひとときの現在として同時に成立していた。栗子さんは、既に得ていた。

…欲望さえあれば人は生きられる、欲望の持つダイナミクスこそが未来を拓く希望と光に満ちた幸福を開く力なのだ。イデアを希求する心がイデアをあらしめる力なのだ。たとえそれが決して得られないロマンティック・イロニイだとしても。

それを或いは単に夢見る力と呼んでもいいだろう。生きる力とはすなわち夢見る力である、と。痛ましい残酷さをまるごとその輝きの中にのみこみつくし、至高は、至福はただそのままにつよく輝く。

そして幸福とは、自分を幸福にしてくれるもののことをよりしっかりと抱きしめられる時空が次々と開かれてゆく現象を生み出す力の別名である。それは世界を読み変える、染めかえる力であるから。

巻きなおされ読み直される時間。概念と記憶、欲望と幸福の理論から成る物語界に存在しながら生きるための切符を得る。

 *** *** ***

…そう、栗子さんはただもう、何もかもから逃げたかったのだ。この限られた風景から、閉ざされた未来から。この家からもこの自分からも、あの場所からもこの場所からも、誰からも彼からも、何もかもから逃げ出して、この世界から逃れたかった。ずっと、ずっと。ずっと長い間。

理不尽な、この世界。己の存在にとって不都合な、己のありようが彼らにとって不都合であるという、この世界から。そして不都合と裏返しの欲望に縛り付けられている自分から。

更には、かつて己をあんなにも幸福にした物語の風景からすら。…ただ、だれでもないものになりたかった。愛や繋がり。夢見た幸福な風景からすら逃れたかった。

なぜ生まれたのかわからなかった。

だけど。
だけど、と栗子さんは呟く。

だけど、今、その過去に対し、ひとかけらの後悔もない、と。

ありがとうモンブラン
与えられた恩寵。

胸苦しくなるほどのがらんとした空虚、寂しい痛みを伴った終末感。そして何もかも忘れてゆく。誰でもなくなってゆく、至福だ、と栗子さんは思った。これ以上幸福な人間はいない、と思った。

だって、それでも自分の人生を自分は覚えている。そして少しもそれを否定する必要なく、ただ、そっと抱いていられる。

 *** *** ***

そして桜の舞い散る四月。
あちこちのモンブランももうおしまいである。

栗子さんはぼんやりと窓辺に座って桜吹雪を眺めていた。

この非日常的な淡い幸福感。もうなんの希望もないところにいるけど、春の陽射しの中、ただ世界がうらうらと美しく見えるとたゆとう光の色の中に思いだすことばかりだった。生まれてきてよかった、という言葉が浮かんできて、ありがたいことよなあと栗子さんはつぶやく。なんの意欲もなくて未来もなくても。

そして楽しかったこともかなしいこともその差異が峻別し難くなってくる、その距離の向こう側を眺めていた。

思い出のリアリティとは、ただ、存在というだけである。他の何もかもの雑物をそぎ落とされたピュアなもの。

ああ、存在だな、という、ただそれだけ。
それだけで、どうってことはない。それは意味でも無意味でもない。

だが。

世界が存在することそのものが、おもしろいなあ、おもしろかったなあ、と、理解し尽くせないけれど大好きな本を読みとくようにそれを眺めるということが栗子さんにはそのときできたのだ。わからない中にあわあわとしていて、恐怖や痛みの圧倒的な現実感が淡い概念と変わり、その多重の世界観のリアリティの中を純粋に遊ぶ。それがなんだか至福なのだ。世界の果て、世界の終わりの風景が広がっている。空と、海だけが見える。向こう側には、その至福感。

ひどく寂しいのだけれど、少しも寂しくない、それはただこころの静けさが多層に奏でられる場所。

鈴木慶一の歌を口ずさんだ。幸せの洪水。そのきらきらと輝くイメージを思い出す。なにもかも、間に合わない。幸せの洪水に飲み込まれる。流された愛の果てにいるのは砂の妖精。…そんな風景を描く歌を。「幸せ掴む手が沈む。愛してるっていっても間に合わない。君の右手を離さない♪」

小学校の校庭の桜がひかってはらはらと散っている。遠い記憶の風景が目の前の桜に重なってあるようで、なんとなく切ない。至福とはこの胸の痛みや悲しみがそのままがらんどうになって染め変えられたもののことをいう。

人生のはじめと終わりが近しく親しいものとして彼女の傍らに優しく寄り添っていた。

そしてね、うつくしい桜のひかりばかり見ているものだから、心がすっかり桜餅になってしまったので、それはやわらかな桜餅のように優しい終末であったのだよ。死後未生。

終わりであっても構わない。終わりを恐れず抱きしめながら、そのままもう少しだけ生きていることだろう。
春は何かが終わって、そうして始まる時期なのだ。


心を占める、桜餅とモンブランの映像。…もちろん、もはやさくらモンブランなんていう安易でラブリーで外道な商品に惑わされるような栗子さんではなかったのだけれど。

目の前の桜色の光と香りの中に、栗子さんはくすくすと笑っていた。間違ってないけど、やっぱりくだらないな、一生懸命考えてることが桜餅とモンブランだって。

ゆらゆらと桜色の木漏れ日が彼女を優しいまだらに染めていた。
だけどな、くだらないけど、だったら世の中にくだらなくないことなんかない。だから、その奥のどこかにまたまったく別の正しい欲望と希望が隠されているかもしれないさ。桜餅とモンブラン

 

…というような気もした。
ああ、くだらないな。幸せの、幸せの、洪水

読書会「なめとこ山の熊」

大学院のゼミの後輩君が眩いほどの行動力の持ち主で、自宅をサロンにしてさまざまなイベントを催している。 

なんだか私と誕生日一緒とか好きな歌手が一緒とか編み物をたしなむとか(彼女は副業でオーダーメイドドレスのブランドなんか立ち上げてちゃった手作りプロなんだけど。)奇妙にあれこれ符号が一致してて、前世では姉妹だったのではという疑いがもたれているひとである。(背はすらりと高くて社会性に富み行動力があって公共心があって優しくてまっすぐでやたらといい人で、っていうとこが全く違うので、光の面を彼女が、暗黒面を私が受け持ったかたちである。)そして高校の先生も母校の大学の講師もやっちゃうし洋服の個展なんかも開いちゃうものすごいひとなんである。 

…あれ?やっぱり一緒なのは誕生日だけですね。なんとかとスッポン。
(月もスッポンも好きである。どっちもうまそうだ。) 

まあとにかくその彼女が自宅イベントで、こないだから賢治の作品を読むっていうテーマの読書会をシリーズで開催されておられるんである。

今度月末土曜日には第二回、取り上げる作品は「なめとこ山の熊」。 

…第一回が、「アメニモマケズ」だったんだよね。

両方、私の苦手な、というかひたすら苦い、苦しい、重苦しい。賢治作品の中ではヒジョーに重要ではあっても、自分個人的にはどうもあんまり好きじゃないやって言いながらプイと目を背けたい、苦苦苦なケンジ・カテゴリー。

非常にざっくりとした簡単なイメージでこのケンジ・カテゴライズについて説明してみよう。


賢治作品では岩手の土着性と奔放なユニバーサリティの両極が不思議な形で融合している。それはすなわち現実としての岩手の生活のなまなましい厳しさから心象のイデア的概念、ファンタジックな理想郷イーハトーブを両極とした距離を示しているわけなんだが、ワシはとりあえずその単純な二項対立でさくっと分けて言ってみると、現実から逃れていこうとする翼の部分が好きなのだ。

はじけてぶっとんでゆく新しもん好き未来派野郎賢治の超ー仏教的にしてラディカルな「意味以前」のマトリックス・パワーが好きなのだ。言ってみれば優れてナンセンシカルに見える、ひたすらただ「このように見えて仕方がない」、目的性の失われた解放された意味の戯れのように見えながらトータルなダルマに貫かれた美しい構造世界の中に遊ぶ姿に惹かれるのだ。痛ましいほどのしがらみや罪業の苦しみからの開放への、飛翔への祈りをも含め。それは賢治作品すべてに瀰漫する「祈り」の中でも、ただひたすらおめでたいこどものようにまっすぐな希望の側面を、理不尽への悲憤慷慨や倫理や自己犠牲のような無辜へのゆがんだ欲望に引き付けられた思想性やイデオロギーの物語からのがれた形で保存している。

 *** ***

アメニモマケズは賢治にとってはまず作品ではなく苦渋なリアルに満ちたメモであったと考える方がとりあえず妥当だと思っているし、(まぎれもなく賢治テクストであるという意味ではもちろん作品ではあるのだけど。)なめとこ山の熊もしゃべる熊や舞台などファンタジックな要素でできあがっているといえばそうなんだが、土着性、具体性の要素が強く、ゴリゴリと押し出されているテーマはなまなましく痛ましい搾取と殺戮の悲劇である。町ー山、商人ー漁師、経済至上主義ー自然、搾取する側とされる側。もちろんそれをひっくり返す仕掛けは、その懐の深い豊かな力とたとえようもない美しさ、熊と漁師のかなしい絆の描き方の中にしっかりと書き込まれてはいるんだけど。

そう、とにかくやっぱり賢治は全体性として賢治。あんまり~とか言って決めつけたまま目をふさいでいるのもナンだし、と読み返してみた。「なめとこ山」。

 

…やはりキツい。今個人的に精神が弱っているせいもあって胸が痛くなるほど辛くなった。

そしてだけど、忘れていた、あるいは新たに感じた。その文章の魅惑、そのうまさ。文体の素晴らしさ。描かれる風景の土着ならではのなまなましさと透明な美しさを一体のものとして貫いてゆく豊かさ、ものすごいエネルギイに満ちた個性、力強い美しさ。ラストシーンの圧巻。

ううむ。私の基本姿勢は変わらない。だが凝り固まった記憶の思い込みに修正を加えながらきちんと読み直す価値は、その醍醐味は十分にある。

 

読書会なあ、ちいとなあ、行ってみたいなあ。ドラえもん、どこでもドア…

姪っ子お誕生日会

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さて先日は実家での姪っ子お誕生会。
料理大魔王母がここぞとばかりぶんぶんと腕を振るった。

こないだお取り寄せしてからそのおいしさにハマったということで、メニュー構成は小豆島の上等なお取り寄せオリーブオイル三昧イタリアン。

アヴォカドのヴィシソワーズ、人参のレモンオリーブサラダ、しらすと小松菜のパスタ、魚介ごろごろごちそうパエリャ、鯛の刺身の胡桃ソース、蕪のピクルス、フルーツとナッツぎっしりパン等々。

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朝から台所は戦場、大変な騒ぎである。

下手に邪魔して大魔王の逆鱗に触れないように、こそこそと皿ならべたり疲れて気の立った大魔王が父とけんかしそうになるとこを必死で止めたり、戦場で討ち死にしないようになるべくこそこそと動く。

…ということでヤレヤレフィナーレの誕生日晩餐。皆様に大好評でおいしいおいしいの声、大魔王もご満足でよござんした。

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〆は姉のお持たせコージーコーナーケーキ。箱を開けたときの、この「わあ~っl」っていう華やかなトキメキは何物にも代えがたい。あとね、各員の思惑乱れ飛ぶ丁々発止のケーキ選び争い。 

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ティラミスミルクレープと散々迷った末、主役の姪っ子が選んだのは、真っ白なレアチーズケーキ。弟がティラミス好きだから譲ったのだな。

「この真っ白な清純さにヤラれたの。清純な少女を好むおじさんの気持ちがわかるワ。」みたいなよくわかんないこと言いながら。

そして見てたら「うま~いうま~い」って言いながら後から二人してちょこちょこと交換したりしている。仲良しの姉弟ってのはいいもんだ。(そして二人ともチーズ系が好きなのだな。)

姉は抹茶小豆ケーキ、なぜか大変慌てた様子で「こ、これは私。」とそそくさと皿に取る。…ワシに渋皮栗モンブラン選んできてくれたんだから誰も奪わないやい。(やっぱり他のどのケーキよりも強力な魅惑のオーラに輝いていると私は思う。モンブラン。)(中身の和栗フィリングんとこはもう少し量が多くてもよくってよ。)両親は「ママは何でもおいしいの~。」のオトナのゆとり。

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コージーコーナーケーキはでっかくてきれいで、味わいも日本人万人に受けるバランスの優等生だ。(繰り返すが個人的にはもう少しだけ中身の和栗のフィリングは多くっても…以下ry)

…みんなでごちそうで最後にケーキで「うま~いうま~い」なんて言ってるのはいいもんだなや。

「君たちはどう生きるか」吉野源三郎

高校入学前の春休みの課題図書であった。
入学早々これの感想文を提出するのが新入生の入学儀礼。我が母校の毎年の習わしであった。

ので、少なくとも私の周辺の世代の同窓生は全員これを読んでいる(はず)。

 

ということなので、これの漫画化されたものがいきなりベストセラーになっちゃったってんで懐かしく思い出してしまったんである。そういや結構どっぷりよかったような気がするな、切れ切れに覚えている断片は、結構自分の人生に食い込んでたりするかもな、というような記憶を呼び覚まされ、読み返したくなった。コペル君。

連休、実家にいる間にさささっと流してみた。

で、がつんとやられた。

 

こういうのって、精神が弱ってるときには特にヤラれてしまうのだ。
好きなのだ。この直球ストレート、陳腐なほどのミエミエの教育的な例えばなし、まるで道徳の教科書のような出木杉君のような不器用なほどのまっすぐさ。けれどここにはカケラほどのあざとさも衒いも押し付けも上から目線もなく、ただただまっすぐで深い知性と希望と祈りと明るい優しさがみちている。王道をゆく。NHKと朝日新聞その理念。完璧な理想の大人のおじさんに導かれるお育ちのいい頭のいい心の優しい、そしてきちんと弱さももっているひたすらいい子の中学一年生コペル君の成長譚。次世代に託す祈りがみちている。(濁りへの視線はない。あるのはノブレスオブリージュ。)

自分があざとさとひねこびれと外連味とエゴと罪業のカタマリなものだから、こういう眩いものに対する憧れが人一倍強いのだな。…井戸の底から輝きの天をかなしく仰ぐ修羅である。

あとね、やっぱり時代の匂い。少年たちや女学生たちの独特のキャラクタライズと語りくち。素朴さ。あの昭和の時代に満ちていた時代の空気の匂い。(初版は1937年、戦後改変され出版されなおした。)そのときに夢見られていた未来のもつエナジイへの錯綜した郷愁。これは未来への郷愁なのだ。そして、普遍としての祈りと。

今の時代にこそ、と思われるいたましい言葉があふれている。

この書が、漫画化されたという機会をもって(漫画がどんな風に解釈されたものであるか未読ですが。)今の時代にベストセラーになったことを私は福音として受け取る。

 

…アカン不安定になっていると涙もろくなってしまう。幾重にも重なったのすたるじやという個人的な思いによって、けれどそれだけでもなく、目頭が熱くなるようにジンときてしまったのはそれほどナイショではない。


…ところで高校入学前の自分、これにどんな感想文書いたんかねい。まったく覚えてないや。(明日TVで特集やるみたいなので録画予約ただいま完了。)

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栗子さん(命題その3 モンブランは涅槃である)

早春の土曜の朝である。
のどやかな晴天。春ぼらけな青空の下、町はゆるゆるとまどろんでいるようであった。

栗子さんは、駅に向かって歩いていた。人生における誇りについて、すなわちその内実として考えられる要素である自身の存在意義というものを滅びと豊穣という両義の概念として設定する仮定について熱心に考えてながら歩いていたのである。

彼女の本日の目的地は名店の誉れ名高い目白の菓子屋、エーグルドゥースである。モンブランの天啓を得てから早一年、いよいよ誰もが逸品として絶賛する名物の搾りたてモンブランを目指す記念すべき土曜日であった。

思考は穏やかな陽射しに包まれた春の気配の中、なめらかに歩行する。

世代構造は、否、時間構造は一つのトコロテン製造機をモデルとすることができる、と栗子さんは考えた。時間はうまれる。新しい時間と世代が次々と世界に導入されてゆくことによって、古いものは否応なく中央から辺境へと、終末の場へと、その世界の外側へと流され押し出されてゆく。栗子さんは、そのところてんのように若い世代へと取って代わられ終わりゆく世代という構造とその持つ力、意味について、そしてその図式の中に今己が位置している終盤という感覚のリアリティについて、その論理構造をためつすがめつ検証していたのである。

生まれ育ち盛んになり中心となりやがて若い世代にとって代わられ疲弊し枯れ果てただ捨て去られてゆくものとしての個々の世代、個々の人生?

否応なく期待膨らむ名店のモンブランについての思考と並行しながら、その疑問について、否、という方向に向かうイデアを孕む論理を栗子さんは感じ確信しその証明について考えていたのである。

土曜の午前、おぼろな春の陽射しは濃やかな金の粉のように降り注ぎ、柔らかく平和な町と栗子さんを包んでいた。
梅と沈丁花がかわるがわる香っていた。

あるいはそれはモンブラン・クリームを絞り出すモンブラン口金のついた絞り出し装置であっても良い。世界のマトリックスであったクリームのカタマリは絞り出し袋という「世界」、生まれ死すこの物質界の「絞り出し運動」という現象によって最終的に細分化された完成系の美しいラーメン的麺状(モンブランクリームには店のレセピーにより、太麺、細麺、ちぢれ麺その他のヴァリエーションがあるのもラーメンと同様である。)となる。既に生まれ直すことが不可能となった世界の果てのその外側にすべてを統合したモンブランは完成するのである。インテグレーテッド・モンブラン。それは内側を包含しつつもそれら全てからすでに逃れている。かつて絞り出し袋という世界の内側によって夢見られる意味内容であったという記憶を包含しながら、常にそれが失われたところで、そこから逃れたところでのみ成立している決して触れることのできない非在としての存在、矛盾、そして真理としてのモンブラン

仏教系の論理構造の中で言えば。これはパッテーカラットー、永遠の現在。すなわち時間や空間の法則に制限された「世界」の「外側」である涅槃の領域に他ならない。

ということで、命題は以下のように提示される。
モンブランは涅槃である。」

含意すべきことは、彼女はそのとき、世界に満ちるこの光、穏やかでやわらかな春の喜びに浸潤されそれに満たされていた、ということである。ということで、結論はすぐこの光の中に、その正しさによって正しく導き出されてきた。シンプルだ。過去に夢見た無限の未来の中に世界の全ての豊穣がある。永遠に、それは創造されたものだから。それが己が存在したこと、生まれ育てられ生きたこと全てに対する誇りだ、この限られた時代の中に恩寵としての永遠を包含して所有し所有されながら生きた誇り、そしてこの誇りこそが、己が生まれ生き死んだ、その存在の祝福を証明する力なのである。幾度でも幾度でも、永遠にそれは証明され続けなければならない。

 

…と、このあたりで目白に着く。エーグルドゥースはパリの裏通り、古い仏蘭西映画に出てきそうなお洒落さに満ち溢るる外観を呈した店構えのフランス菓子専門店パティスリーであり、名実ともに東京の誇る名店であることに間違いはない。週末午後ともなると店内はラッシュアワーの山手線或いは悪名高き東西線内の人口密度である。すなわち明らかな過密である。

さて実はここではしかし、モンブランモンブランとは呼ばれない。名店の意地を示すため「トルシュオーマロン」というオリジナリティを誇示した商品名を冠せられているのである。

アルプスの山のかたちを模したというmont-blancではなく 、torche aux marrons、栗の松明、炎のかたちをした栗のお菓子の意味(トルシュってのは英語のtorchなんですな。)であるが、この名称は中東部のアルザス地方のほか、主にフランス東部での呼び名である。他の地域でのモンブランと菓子の内実としては同じものである。日本でのモンブランは本家本元パリのアンジェリーナ経由で現存している自由が丘のモンブランが正統な発祥の店だから、ここは名店としてのオリジナリティ、意地を示したところだったのであろうと栗子さんは推察した。

発生当時、日本中で大流行となった苺大福の時流に乗ってそれを拵えながらもあくまでも「苺大福」におもねりきるスタイルをとる屈辱に耐えることができず意固地に「苺餅」という独自の名称にこだわった一筋の心意気、かの名店阿佐ヶ谷うさぎやのようなどこか愛しい意地ではある。トルシュオーマロン。

…順番が来る。
「お待たせしました、ご注文はお決まりでしょうか。」ケーキ屋の女の子というのは大抵とても優しく愛らしくにこにことしている。辛く寂しい日であってもひととき心を温めてくれる陽だまりのような存在なんである。

さて、栗子さんは意志が強い。百花繚乱菓子の世界、美麗なる芸術品の並ぶウィンドウに、一瞬すべての理性をかなぐり捨ててすべてを買い占めたい欲望、就中低温でじっくり焼き上げた栗のクリームに生クリームを絞ったフォンダンオーマロンなどという別口の魅惑的なブツに心揺れつつも、欲望に打ち勝つのだ。己の身体能力と経済能力及び正しいモンブラン美学について冷静に見極めた上で初志貫徹、重々しい口調を以てトルシュオーマロンをオーダーする。

 

その日、柔らかな午後の陽射しに包まれた帰途、栗子さんの感じていた幸福感に関してはことさらに言い立てるまでもないであろう。彼女はその心象の風景の底で、内部になよ竹の輝夜姫を秘めたあの竹のように神秘の光を放つケーキの箱を抱えて帰途を歩く存在としての己を幻視していた。

土台に秘められたサクサクのメレンゲととろりとまろやかなクリーム、繊細なかたちに絞られたマロンストリングスの絶妙のマリアージュを味わうための賞味期限は一時間である。

イムリミットぎりぎりでなんとか珈琲タイムにもちこんだ栗子さんは、高鳴る胸をおさえつつブツにフォークを差し込む。いついかなる時も新鮮な緊張感がほとばしるこの瞬間。

サクリ。メレンゲの砕ける快い音がした。

ひと口ほおばって、栗子さんは目をまるくした。
「…こんなの、初めてー!。(こないだつい観てしまった過保護のカホコさん風)」

 

感激のモンブラン
フォークを入れたら、サクッと音がする素晴らしいさっくりメレンゲ。同じように音のするサクサク具合が自慢のこないだのラブリコチエ(音がしたのはこれが初めてだったので大層感動した。)に比べると、けれど芯のところに少しほろりねっちりの気配。ほろほろと砕けるニュアンスを秘めている。

メレンゲの土台にホイップクリーム、そしてマロンクリームの三層構造。非常にシンプルであるが、これが本当に素晴らしい絶品であった。一口食べてびっくり仰天のレヴェル、ほろりとマロンクリーム、すっと溶けるよに柔らかで優しい生クリーム、さっくりメレンゲの妙なるハーモニー。

「どっからどうしたらこんなに一口でびっくりするよな、でもあくまでも上品で何とも言えない甘くて優しいミルキーでマロンで、でも洗練で、って風味が出るのだろう。栗、クリーム、メレンゲ、香料。それぞれの素朴さの生きた上質な素材を味わうものでありながら総合としてはどれともいえない、素材とは異なる次元の総合芸術としての突出した洗練と調和をもった味わい。ひとくちで「びっくりする」この衝撃。名店とはこのようなものなのか。こんなの初めて、すごい!なんておいしいのでしょう。皆が褒め称えるのがすごいわかった。もう別格である。エーグルドゥース!」

栗子さんのツイート記録である。

 

だが。
ここで明記しなくてはならないことがある。

それは、やはりどこか栗子さんの心の喜び、純粋な消費の楽園の快楽とは異なるレヴェルの地層にあった概念としての美味であったという事実である。薄皮一枚向こう側。分析と論理によってその評価は下されていた。それを喜びとして受け止めていたかというと、…それは、その薄皮一枚のところで危うい。少なくともそれは無垢な喜びと言うことのできないある種の夾雑物を含有していた。客観化、概念化されたもの、小賢しさを孕んだうつろな官能。

涅槃としてのモンブランはここでどう位置付けられるのか。
次回、総括してみよう。

気まぐれに続く。

栗子さん(命題その2 モンブランは愛である。)

さて栗子さんはもちろん栗が大好きだったのだが、何しろとにかく菓子が好きであったのだ。幼少のころからその執着ぶりは顕著であった。子供とは得てしてそのようなものであるが、女児栗子の執着とはその中にあってもひとしなみとは言い難い鋭い際立ちを見せていた。既に並外れた情熱と呼ぶべきレヴェルに達していたと言ってもよい。(それにしても菓子は食っても飯は食わん虚弱な子供とは実に始末に負えない親不孝な存在である。)

愛である。そして愛するもの情熱を抱くものに対し、その愛は対象を征服しまた同時に対象に己の存在を捧げる、「支配ー被支配」の双方向へのベクトルの欲望構造を持つ磁場、愛という名の不可思議なエナジイに満ちた特殊な次元に由来する磁場を構成する。そして種々のヴァリエーションを展開しつつ、その概念法則に正しく則ったダイナミックな相互行為へと発展するものである。

あふれた情熱が向かう方向性とは、具体的には、まず対象周辺に関する情報、知識である。限りなく広く深く且つ微に入り細に穿ったその詳細な知識を欲望し、また身を挺してその徒となるのだ。味わい尽くしその快楽と喜びに己を投げ渡すために、人はその消費から生産までのレンジを総体としてすべて網羅し手中にしたいという支配被支配の一体となったいみじい磁場、その欲望と恍惚の中に自身のもてる力の、その存在のすべてを投ずる。…天才、オタク、或いは好事家はその極に偏った者のことを言う。常人とは異なるレヴェルの異様に突出した学習意欲がそこに見られる。

…栗子さん幼少期、菓子への愛の話である。

このときまで女児栗子にとって世界とはただ純粋な贈与であった。全身でただそれを歓喜して消費する。失われた純粋なる消費の楽園。

そう、これはいわゆる「失楽園」構造である。宿命として失われるべき幼少期の楽園時空。禁断の金のオレンジ、知恵のリンゴ以前。

そしてこの栗子の人生の初期においても、その禁断のセオリーは不可逆という必然の運命を伴いながら正しく発揮されていったのである。

楽園の道を踏み外すその道筋を、彼女はまずおやつの摂取法にこだわってあれこれと工夫するところからはじめた。

当然バウムクーヘンは一枚ずつ丁寧に剥がして食す。ミルフィーユやパイ菓子もしかり。レモンケーキも薄いホワイトチョココーティングの部分で舐め溶かしてみたリ剥がしてみたり、解体工程にはあれこれ創意工夫をこらさねばならぬ。ひよこまんじゅうは皮の部分をきれいにはがすところからはじめる(頭からスタートする)。カンロ飴は舐めている途中幾度も取り出して日光にかざし、その宝石のような美しさを愛で尊ぶ。(宝石の中には輝ける光をゆがめた異次元多元宇宙があった。)最低三回。

フルーチェの日は家族のイベント・デイである。その制作作業は末っ子栗子さんの役割であった。ときめく胸をおさえ、フルーチェのモト(ペクチンなる秘法物質の含有された魔法の液体である。)の入った箱を取り出しミルクを用意する作業の初めから「モモのきれっぱし、モモのきれっぱし…」と心の中で絶えず唱えながらできあがりを思いながら拵える。凝らされた念と呪文は決して途切れてはならぬ。作業中の栗子さんにはみだりに話しかけてはならぬのだ。ぼたもちがどっこいしょになってしまう。

…そしてそのまま実際に食する場面においてとろりと甘い柔らかなミルクジェリーの中につぶつぶとちりばめられたうすべにいろのモモのきれはしを探り当て、ついにそれとの邂逅を果たした僥倖を尊びながら味わうグランドフィナーレに至るのである。(フレーバーの中ではモモが一番好きであった。)食後、家族四人が打ちそろったリビング、一日を終えた穏やかな時間。

カルピスは初夏の午後だ。窓には白いレースのカーテン、きらきらまばゆい午後の光。できあがった氷入りカルピスをストローですする際には、グラスが空になるまでに様々な飲み方を試してそのいちいちの心境による味わいの違いを確かめる。一番の苦行としては、ソファの背もたれに足をかけてうつぶせの半逆立ち状態になり、床に置いたグラスからストローですすってみるという試みがあった。その類の修行において失策をおかし、グラスの床にひっくりかえし大層叱られた悲劇の事例は数知れない。おやつを一口食べては家の中を一周してまた一口食べては一周して最後まで完食するのもまたひとつの儀式であった。(この場合、部屋で一回り踊る、或いはでんぐりがえしひとつ、という簡略ヴァージョンも可である。)ピアノの練習曲を一回弾いては自分のご褒美に飴玉一つ、という儀式も行った。(飴は私有隠し財産であったため母にばれると取り上げられる危険を孕んだスリリングな儀式であった。)(隠し場所はフィリピンのお土産の人形の形をしたポーチであった。スカートの部分に飴玉を詰め込んでいたのである。)

それら純粋な消費様式への儀式的こだわりは、しかし当然そこにとどまるものではなく、彼女が成長してゆくにしたがって、おのずと変化していった。深まる愛の世界の法則、それは消費サイドから生産サイドへの興味の深化と広がり、重点のシフトである。

それは、更に言えば対象に対する極めて個的な垂直方向の思い入れの方向から、社会的共通認識的な価値観を孕んだ水平方向へと、その知識への立体的有機的拡大への欲望というかたちの広がりとも重なっており、栗子自身の成長、その社会的人格育成における原則に則りそれにシンクロした側面をもっていたものである。個から社会へ。自己幻想(菓子とは魔法の食べ物)、対幻想(菓子に関する家族内暗黙のルール)から共同幻想(菓子の一般知識)へ。世界は物語は絡み合いながらひたすら複雑化の一途を辿る。(「共同幻想論」はすっきりしたいい概念だと思うんだな自分。)子供から大人への階段。セオリーどおり順序正しく。…個・栗子はかくの如く社会的生物として成長していったのである。蛇の誘惑に応じ、禁断の知恵の果実のエクスタシーへ。失楽園のはじまり。

書物を研究した。(資料は主として母の本棚にあった婦人の友社の料理本シリーズ。)
菓子のジャンル、その製法、その歴史、そのヴァリエーション、知識への興味の広がり。まだ見ぬ異国の、或いは古来の菓子へと、百花繚乱菓子界のそのルーツは多岐を極めるものであった。菓子学である。当時の風潮から、守備範囲としてはアジア中近東への興味よりは主として洋菓子、せいぜい和菓子分野少々にとどまるものではあったが。

初めて一人で拵えた洋菓子は、忘れもしない小学校三年の夏休み。
女児栗子は人里離れた岡山の山の上に住んでいた。図書館に行くには週末等母の都合と機嫌がよく、車で町に連れて行ってもらえる機会に限られる。従って、研究書は母の蔵書に限られた。

選ばれた一品は、くだんの婦人の友社料理本シリーズの中の一冊「お菓子とのみもの」から「シルバーケーキ」なる、卵白を泡立てて膨らませるスポンジケーキの類であった。

一生涯の記念となる、華麗にして見事な失敗作品であった。

…まったく膨らまなかったのである。(卵白の泡立てができていなかったのだな。)それはケーキというより「お焼き」と称すべき寂しい物体であった。

だがここでくじけないのが女児栗子である。
奮起した。

その夏休み、猛然と菓子作りの修行に邁進したのだ。
夏休みの宿題もそこそこに、閑さえあればレセピーを研究し、材料をねだっては、次々と未知なるフィールドへと挑戦、果てなく渦巻く嵐の吹き荒れる挑戦の海に漕ぎ出した。

バタークッキー、ドーナッツ、みたらし団子、アイスクリーム、シュークリームにタルト、バナナクリームパイ、ブラウニー、アップルパイ、フルーツケーキ、そしてマーマレード・ケーキ。(これへのこだわりは知る人ぞ知る「ナルニア国物語」に所以する。「素敵にねとねとしたマーマレード・ケーキ」である。)

 *** *** ***

(因みに児童文学に限らず、作品中の食べ物がおいしそうである、食べてみたいという欲望を心に生じさせしめる作品はそれ自体が必ず名作であるという信念を栗子さんは持っていた。が、就中それが児童文学である場合、人生の根幹のところに刷り込まれた永遠の憧れの食べ物としての人格まで食い込んた心象としての意味を持ちうる重大な要素をもつ。またそれは時代、世代に共有されるものでもあることは特記しておくべきであろう。「ぐりとぐら」のカステラ、「からすのパンやさん」のパンの類である。

…この「共有」。ここで個人は世代としての集合意識を他者と共有するメディアパーツを、己自身の個的意識の反転のダイナミズムを孕んだ、すなわちアートマンからブラフマンへの反転を可能とする核としてその魂の深奥部分に見出す者である。共有とはそのような意味を持つ。己の所蔵するもの(内側)が他者にも所属する外側に通ずる反転ダイナミズムを孕んでいるという図式である。この意味は、己は世代と時代に所属する存在であり、また自身がそのパーツであるとすることを認める構造に通ずるものである。己の内側を他者に投げ渡す、そのときの自我崩壊の恍惚、さらにそれが共時共振なものであることによる仲間意識、己が個でありながら同時に個でない、世界を構成する要素でもあることを感ずる、共有の幸福な一体感。

これは先に述べた愛の論理と全く同じ構造であることにお気づきだろうか。双方、これすなわち個と集団、個と世界の関連論理構造であり、さらに言えば個と国家との関連構造とも繋がってゆくものである。)

 *** *** ***

…話がそれた。
とにかく栗子さんは粘り強い自己研鑽、たゆまぬ修行により家庭内及びその周辺で「この子は菓子作りが得意である。」評判を確固たるものにしていったのである。

時は過ぎ、精進を重ねた女児栗子も思春期に突入。いよいよ嬉し恥ずかしティーンエイジャーである。さらに中学入学の折、父の転勤によって東京杉並、中央線沿線住民となった。こここそが故郷を持たぬ栗子さんの人生の青春の故郷となった場所である。

中学、高校と進み、友として学内に同好の士を得た女子学生栗子さんの魂は、同志と菓子について熱く語り合い研鑽しあう喜びをもまた知るところとなる。

菓子への情熱は果てることなくいや増し、ますます盛んになるばかりであった。受験期に菓子職人栗子に対し的外れの受験勉強を強要する母との確執により台所に関わる権利を奪われ、菓子研究実践機会を一時絶たれたブランクを経たものの、10代後半からのその情熱にはまた目を見張るものがあり、それはやがて華麗なる創作菓子の形を持って花開いていった。浮かんだアイデア、レシピ、あらゆるアレンジのためのメモの分厚いノートもまた幾冊も引き出しにたまっていった。

だがここで彼女の運命には大きな変節点が用意されていた。
プロローグで延べた、健康および思想上の理由により、彼女が一般菓子類を断つという「菓子断ち」の道を進んだという岐路である。

そこで何が起こったか。
ベートーベンである。

聴力を失った音楽家。それでも彼は作曲を続けた。
音は、音としての具体性を奪われたときその概念、抽象のみが機能することになる。音楽のイデアだ。奪われた具体性の分だけその思いは激しく純化されたものとなる。創作することこそがその内実としてのイデアとしての消費の喜びをも得る唯一の道となったのである。

己は味わうことができない、想像することしかできない。けれどそれでいい、いやそれこそが至福なのだ、というところにたどり着く。己がそれを味わうことは重要ではない。ただ、作りたい。作る過程が、その味覚の快楽を想像しながら創造することが究極の味覚の快楽のイデアだ。情熱は形を変える。己の欲望が形を変える。ひたすら、他者の喜びのためにしかその欲望は満たされないものとなる。それはその快楽を、喜びを、己のものとするための他者の喜び、という、抽象性へと昇華された非常に純化されたひとつのエロティシズムにも似た欲望のかたちである。

それは、例えば読書の喜びの構造にも重なってくるものである。
読者ー作者ーテクストの三位一体という抽象を掬い取るナラトロジー応用理論、それは作曲家と演奏者、聴衆という構造である。演奏するパーツとなり全体を感ずる、全体との一体感を得る恍惚のイデア。演奏者にして聴衆である磁場がある。作者であり読者である磁場がある。流れる音楽、読まれる現場という現象がその磁場を形成する。双方の立場がそこでひとつのものとなる。区別がなくなる。…愛の磁場とそれらはまったく同構造をなすものだ。生産者として消費するという意味。すべてを得るために己を投げ渡す原初の欲望。


…栗子さんはそれからひたすら周りの人々の喜びを生み出したいがために菓子を拵え続けてきた。
長い間、とても長い間。

けれど、きっとそれはやはり少しずつのひずみを重ねていったのだろう。賢治の自己犠牲の歪みのように。自己であっても他者であっても誰かがその犠牲になった上での幸福は完全には享受祝福されない。不完全な幻想四次。ともに喜ぶのでなければ喜びは喜びではない。喜びの共有は理論的には成り立っていたはずのだけれど、自我崩壊の完全なイデアを模するミメーシスはあり得ないのだ。少しずつ、少しずつのバグが、歪みがたまっていったのかもしれない。

反動が、あの早春の日の啓示であった。
栗子さんは消費者を内包した完全な生産者でありたいと願い続けてきたが、突如封じられていた失われた消費の楽園を恋う心を開放してしまったのだ。

純粋な消費者になりたかった。誰かが誰かのために凝らした物語をただ喜びその生産の過程をもすべて追体験し理解したうえでひたすらの消費をも得る、逆のアプローチ。すべてのそのレンジをそのようなかたちで再び得たいと願った。ベートーベンが再び消費の側に回り、概念ではなく「身体」にその音楽の官能を響かせたい、と願ったかもしれない、その強い願いのことを想像した。

…そう、それがモンブランの啓示に集約されたものである。
ここでモンブランは消費されるべきテクストである。

消費者である現実を失ったとき、栗子さんは知ったのだ。ベートーベンが聴力を失いながら音楽を作り続けることがいかなる意味を持つのかということについて。脳内に響くイデアとしての完成形の音楽はしかし今一度具体によって確かめられねばならぬ。

とにもかくにも天啓には従わねばならぬのだ。
栗子さんは失われた究極の消費の楽園へと向かった。


いざ、モンブラン
だがそのとき既に季節は春から初夏、栗の季節を遠く離れ、モンブランもその季節を終える頃であった。

栗子さんのモンブラン巡礼はその年の秋を待たねばならぬことになったのである。

気まぐれに続く。