酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

新宿逍遥

<新宿、街は地球の表皮に救うがん細胞のようなパソコン機能構造。その機能とバグ、ゴミ、各アプリケーション、機能同士の相互関係、影響。迷宮、そのクリーンアップ、リセット、汚泥そぎ落とし廃棄処分としての再起動、最終戦争、世界の終わり。あるいはもっとラディカルに星まるごと買い替え。世界の廃棄。あらゆる宗教の語る終末論。>

久しぶりに朝の新宿を歩いていた。
たくさんのイメージが頭に浮かんだ。

本当に汚らしい街だ。ごみごみとして雑然として。だがピカピカにふんぞりかえった大いなる歴史と権威とセンスを誇る一流店がそこにまじりあう。住み分けがなされていない、節操のなさ。これが極東アジアの特徴的スタイルか。これが日本のイメージか。風俗、ゲームセンター、電気店、安売り店、百貨店、一流店、流行店、老舗。るつぼ。奇妙に活気があり奇妙に汚らしい。近未来ディストピアSFのイメージ。どこかに無秩序な力業、治外法権、暴力の匂いがする。

(私は新宿が実は嫌いではない。少なくとも渋谷よりは好きである。)

互いに互いを風刺し合うのか、異なる次元の裂け目によって主体自体を変化させているのか、今の己に相応しい場所だけを嗅ぎ当てそこにフィルタリングされてゆくパーツとなるか…おそらくそのすべてを意識に浮かべてそこを歩く主体は多様な世界にバラけてゆく。

風景の底を歩きながら、その各々の細胞内にあっては統一されたものである世界のトーンについて考えた。(ここではあられもなく露呈されているのだが、世界とは結局すべてはそのようなものだ。)そして自分がそのどこに入り込んでもついて回る奇妙な違和感について考えていた。どこにもしっくりとはまることのできない、常に外を感じている。どれがホームベースなのかわからない。その寂しい心細さ、故郷のなさ。いつからだろう。物心ついた時には既にそうだったのかもしれない。本当の故郷がどこか別の場所にある、といつでも感じていた。自分がいるべき場所。(天の父とかそういう宗教的なイデアが故郷であるという感覚の発想はこういうところから来ているんだろう。「ここは、これは、本当ではない。」)

今ここにあるどこにも完全に属することができず、常に疎外を意識野に感じながら生きる種類の人間であることと、ものを書くことへの思い、あるいは知への思い、というのは無縁ではない、ということを考えたのである。

意識したときそれはすでに自明のものとしてあった。というより自意識とはその既成の世界という物語から芽生えたものであり、それへの疑問は己の成り立ち自身への疑問であった。自明のものからはみ出ている個所、そのアポリアに何か別の、世界からはみ出た別のものがある。意味以前が。「有」以前が。マトリックスであり真理であり虚無である故郷が。

システムと物語を対象化する視点、その論理を求め続ける、己の疎外感の理由を問い続ける。何故?何故?何故?別の物語によって対象化され、わかったと思った瞬間、そこにだって安住はできない。常に、反転、反転、反転。悟りの矛盾、悟ったと自覚した瞬間それは悟りではない。けれど別のもうひとつによってしかひとつの物語は対象化できない。

何故寂しい、何故苛立つ、何故その物語にそらぞらしさを感じる?どこにいても、どの論理にも。

どんな正義も信じないが、だが。
…実はどの正義も信じている。

それはすべてを超えたところがあるものであるからっぽのイデアを映す(いや寧ろそれをあらしめる)ミメーシスであるから。メタ・物語。常に外部であるところ。絶対に得られないもの。大学で習った、文学で言うロマンティック・イロニイの原理もそれと同構造である。

何故自分はこうなのだ…己の存在の在り方、ひいてはその存在理由を問うことそれはイコールである。

細胞を統べるトータルな法(ダルマ)がある、全体性を保持するナニカがある。それを信じた言葉がカントのおおいなる外部としての星空と心のうちなる道徳律の、その共通の信念、その宣言としての吐露ではなかったか。「構造」という存在の美しさに対する信仰のようなものだ。そしてそれは西田哲学のいう時空構造、生命構造が矛盾し反転し合う「限定」「逆限定」の関係性のなかである種の「動的平衡」を保つ世界像、その複合機能体系としての大いなる調和に内包された世界構造、それへの信仰のような世界像への思いと同一であると私は信ずる。

そして文学の意味は、意味を生成しながらその意味をずらし続ける、己の成り立ち自体を相対化し続ける言葉自体のその本質にある。ここに言葉のフィールドからのアプローチとして、動的平衡から世界像を浮かび上がらせる手掛かりが仕組まれている。

*** *** ***

昨日は昔の恩師と吉祥寺の喫茶店で長話をした。晴れた土曜の午後だった。
自分が壊れてしまう場所への恐怖とそれを乗り越えるというテーマについて話をした。彼はホメロスの神話を持ち出した。私は彼のその解釈に対し反駁を試みた。あれこれの異なる解釈を例示する。神話は構造だ。いくらでも可塑性を持った論理の迷宮。(その豊穣は、楽しい。)うん、そうか、と豆鉄砲ハトな顔をして言うから、そうですねい、でも先生がやっぱり正しいです、と言ってみたら、先生は何だかにこにこと楽しそうに笑ってやたらとチャイに砂糖を入れてかき混ぜた。(砂糖の入れ過ぎはよろしくないです、と言おうと思ったけどやめておいた。)

壊れてしまうということとそれを乗り越えるという意味の同時性。すべてを失うのかすべてを得るのか。本当はそうではない。問題はそこだ。

To be or not to be that is a question.

帰りたい。
帰りたくない。

信じたい。
信じたくない。

わからない。

桜・図書館・墓場

私は常々土曜午後の図書館は大変良いものだという信念を抱いているのだが、日曜朝の図書館というのもまた大層良いものである。

 

「今現在」に繋がれたままの地元の図書館ではだめである。隣町とか、ちょっと離れたよその街の、明るい、窓の大きな図書館がいい。今の日常認識、自意識からすら離れた純粋な概念、記憶のリアルの方に連なりやすい、実存としての図書館空間が開かれるから。幸福な風景に。

 

という事でうらうら春の日曜日である。

 

三階の子供コーナーから見下ろすせる窓の外の風景は、のどやかな春の陽射しが降り注ぐ墓場である。

 

雑木林の中にひっそりと佇む暮石。静かで安らかな趣のある美しい墓場である。ゆらゆら揺れる美しいソメイヨシノが、桜色の雲のように静かに咲き誇ってその眠りの上を覆っている。優しい花かげが揺れる。墓上に花を供える人がいる。

墓場の塀の向こうの道をのんびりと行き交う人々が皆一様に同じ場所で立ち止まり、同じスタイルで写真を撮る様子を眺めているのは愉快である。

全ては静かな懐かしい金色の陽射しにあふれた日曜の朝に包まれている。全ての思い出の中の日曜日を連ねてすぽんと開かれた異空間。私の見ているこの風景に重なる、その先に探り当てられるべきこの日曜日の概念こそが、立原道造の謳った「日曜日」のそれと重なるイデアなのではなかったか、などと考える。

 

私がただ純粋に、こんなにも激しく世界平和を願うのはこのイデアの中でだけかもしれない。

 

世界よ長くここにあれってね。

おやすみなさい

なんだかねえ。

 

べろべろヨ。

明朝きっと消さねばかも。

 

でもご機嫌なのオレ今、一人で部屋で泥酔で。起きてれば起きてるだけ飲み続けてしまう。ご機嫌なときはご機嫌だから、辛いときは辛いから。(そして実は弱いので翌日は一日最悪である。)

一月は正月で酒が飲めるぞ~♪っていうアレだな。
(あの歌好きである。「酒が飲める飲めるぞ♪酒が飲めるぞ♪」)

 

なんだかねえ。

 

ミョーに幸せだったのヨ、今日オレ。

一人寂しく豊かに幸せ。
寂しいけれど寂しくない。豊穣。

中央線沿線をひとりさ迷い歩く土曜日。様々な思い出や夢やなんかの中をずうっと泳ぎ渡るように歩いて、甘いお菓子(モンブラン周辺)のこととか柄谷行人の言いたいこととか韓国ドラマがどうしてあざとくおもしろいかとか自分幼児のころ母の拵えたフェルトのパンダをあんなに大切にしていたのかとかウルトラマンの怪獣をコレクションしていたのか、記憶にはあるのにまったくその情熱を理解できないリアリティを思い出せないこの記憶の構造の不思議のことを考えてたりしてね。記憶とは何か。

これは子供に対するオトナの持つファンタジー。…まあとりあえずそれってアイデンティティとは何かって本質んとこなんだよなとか思ったらわくわくしたり。

 

…イヤ何しろね、おそらく考えることが、換言するならば能動と受動の区別のないところで世界を「夢見ること」それ自体が、オレの実存とリアルと至福なのだ。生きているということなのだ。そしてそれ以外には何もない。(これは「草枕」で漱石が芸術に関して考えていたことにすごく関連した主体と客体の関係性のことなのだ。読み直さねばならぬ、あのあたり。「憐」と「非人情」のこと考えなおしてみたい。)

柄谷行人、中央線の中でちらちらっとつまみ読む。「意味という病」。(イヤ全然きちんと読んでないけど。)徒に衒学的で難解で思わせぶりなようではあるが、(そしてそのきらいがないとは言わないが)読めば読むだけその噛み応えはある。批評それ自体、自分がそこから何を汲み取れるか。

あらゆる修辞をツールとして、なおそれを超えた、その「向こう側」に行きつこうとする切実な思い、激しい熱い祈りが感じられる気がする。だからだ。探り当てたい、そこに行き着きたい。その「感覚」が、論理が、論理を超えたところに行き着こうとする論理というアンビヴァレンツを孕みながら、…それが「知」というものなのだろうと思う。興奮、おもしろさ。日々を眺めながら生きていること自体の。

寝るだすよ、明日が続くのなら、それを現実になるべく幸せに精一杯生きねばならぬ。今だけ一番大切だけどさ。

おやすみなさい世界、みんな結構大好きなのヨ、実はオレ。

断章(旅想・無声慟哭)

冷たい雨が降っている。

蕭々と降る雨に込められた古い静かな都であった。
延々と寂しく暗い川べりを歩いていた。

夜か昼かもわからないような薄闇の午後である。暗がりに白い灯りが灯っている。ぽうとやわらかく光りながらそれはたたずんでいた。白鷺になって川べりに降り立ったもの。

白鷺?考えるために私は立ち止まる。

水面を見つめるだけの白鷺というオブジェ。オブジェなのだろうと思っていた。静止画の中にたたずんでいたそれは、だがやがて重たげに身体を揺らせて飛び立った。

私の考えは少し驚きながらそれを追う。

佇んでいるとき、また高く飛翔しているさなか、彼は安定している。
地上に縫い留められた泥のような安寧の中に、或いはくびきと重量を完全に失った高みの中に。

そう、高みにあるとき、気流の中にその存在は調和している。己の翼の力強さに己の重さは凌駕され、ただ眩い光に包まれた限りない自由、ゼロとなって存在する。

だが、それが地上から飛び立とうとする瞬間には、繋がれたくびきや苦しみを引きちぎる苦しみのかたちが露呈する。地に固定され縫い留められたかたちの物語の中にあって隠され見えなかったその顕わな姿。顕なそのしがらみ、そして自らの重み。

決意に満ちた力強い滑走からテイク・オフの瞬間(あの瞬間が大好きだ)、そしてはじまる航空機のあの揺らめくような非常なるあやうさ。

飛行が軌道に乗るまでの、天と地の狭間にあってすべてを失う危険のメディア空間に彼はいる。奇妙に肉感的な重量感を苦しみながら翼はひたすら危うい頼りなさを燃やし尽くし激しく躍動する。隠されていた重さ、安寧の中麻痺させられていた感覚、常に己自身の重さ、周囲と絡み合いしがらんだかたちの重さとたたかっていたのだという事実の側面が露わにされる。地上の恩愛を、苦しみを、その重みを全て捨てて解放され輝く幸福だけの軽く、軽く、儚いイデアを目指す。自我をなくしたその先に還元されるということへの、そこへ飛翔しようとするときの、その葛藤を。煩悩を執着を。執着のその功罪のことを思いながら、その価値をことを思いながら、リセットする。断ち切る。ひとつの幸福のかたちを断ち切る。

そのときどこかが血を流している、その痛みに涙を流しているのを感じている。それは自分なのかそうではないのかわからない。確かなのは、天と地の双方を知ることができるのはここでだけということだ。

 

…賢治が最愛の妹を失った嘆きを謳った「無声慟哭」。
そこでは、死んだ者の魂が白く輝くその鳥となって地上のすべての重さのくびきから逃れ光の天へと旅立つのだという。地と天を結ぶ白い光の鳥。ひとすじのひかりの水脈を描いてとんでゆくものを残されたものは魂を半ばもがれもってゆかれるような痛み、寂しさと憧れのなかに佇む。

蕭々と降る氷雨の中ひっそりと佇む白鷺は、地上のすべての重量をその身に集め、浄化しながらほのかに白く発光する。来たるべきその瞬間を思っている。
旅立ちの。

凍るような氷雨に空は昏くたれこめている。

傘をさして、私はそれを眺めていた。この世と、違うところの境にいるものを見ている。時間の次元のズレた二重の風景。


我は我が旅の空を眺め、ほのじろく光る鳥を見ていた。
ただ傘をさして、この世ならぬ光景の中にいた。

夜が来る前に、宿へ帰ろう。ひっそりと古い街をそぼ降る雨の中。

東京。木曜日、寒の戻り。

明け方みぞれになる予報だったが降ってはいない。

うむ。みぞれは降ってない。

否応無く目覚めながら考えている。…だが現在の幸不幸を因果律で位置づけるのは間違っている。少なくとも今の自分にとっては。

というやうなことを。

間違っていないとするならば。


考えださなければならないことと考えてはならぬことを見極めねばならん。本当はきっと私はもう知っているのだが。

信仰

なんかあれこれいっぱい書きかけてるんだが、言葉がどうも降りてこない。ダメである。

で、今日は火曜日なので、何か宗教を信じたいなアと思い、あれこれ考えてみた。

古来の宗教でも新興宗教でも何でもよい。
だが苦行はイヤである。地下鉄にガスをまくのもイヤである。(そんなことするくらいなら自分で吸う。或いは教祖さまと一緒に吸う。平和である。平和大好き。)(ミッションとか任務とか役割とか楽しいかもしれないけどさ。やめときたいよなやっぱし。)クスリを使うのも憧れだが入手できないとか違法であるとかも面倒で不都合である。コカとかカヴァカヴァ(これは試したがダメだった。)とかナントカマッシュルームとかそういうのがいいんだけど。護摩を焚くとか。(LSDとかコカインはダメ、絶対。何故なら、コカは自然食品でコカインは加工度の高い加工食品だからである。いわば玄米と白米の違いである。加工度の高いものは人間の浅知恵なピュアな美学の快楽ばかり追ってるから害がデカい。ハマったらおしまいなやつ。)(まあなんでもハマったらおしまいである。)

インドまでお出かけする力もないし。喘息持ちなので基本煙を吸うのはダメである。大麻はタバコを吸えない人間には難しいらしい。(お香はとっても好きなんだけど。)第一バッドトリップ怖すぎる。(BANANA FISHよみなおしたばっかりなんで今やたらとコワイのだ。基本怖がりの事なかれ主義、危険な賭けはしません。)

で、取りあえず麦酒を飲んでるんだが。

ううむ。何もしないでスコンと悟ってスコンと救われたいんである。スコンと昇天したいんである。まあ神とはそもそもそういうもんであって、無限の贈与であり、限りない赦しであり愛であって、そうでなければ神とは認めないんだけどさ。ウン。確かにさ、どこでもなんでも「叩けよされば開かれん。」なんだけどさ。(でまあそれって中沢新一に言わせれば「自然」そのものみたいな気もするんだけどな。)(無限の贈与)(そしてきっとそれは非人情)

…いやそうなんだけど、だから問題は扉をたたくことができないっていうとこなんである。そこが一番難しいとこなのだ。

で、あれこれとないアタマを絞ってみたんだが、思うに、一番楽なのは、唱えるだけで救われるというアレ、賢治も愛した法華経なんではないか。(アレは苦行を伴っていたが。)

南無妙法蓮華経でんな。

内容なんかに拘泥しない、とりあえずお題目、内容なんかどうでもいい、信じます、ホトケの教えに帰依いたします、という意味であり、まあこれをひたすら問答無用に唱えるだけである。「信じますー信じますー。」

そうすると救われるというんである。
…一番よさそう。本質である。

これは是非やってみなければならぬ。
まあそれだったらレナード・コーエンの「ハレルヤ」を歌ってもいいんじゃないかなあなんて思ったりもするんだけど。踊りながらだったりするとより一層ご利益があるような気もする。

 

で、思ったんだけど。

レンゲってどうしてレンゲなのかなって。
ラーメンのスープすくったりするアレね。

調べてみたら、やっぱり蓮華の花の花びらに似てるからだって。まあそんなとこだろう。
しかしラーメンのスープひとくちすするごとにいちいち救われてしまうというのも何だか大変なことであるな。(でもいいかも。ラーメンスープひとくちすするごとに法悦エクスタシー。スープ一口ごとに永遠の生命がひらかれ、蓮華の花が降り天樂が鳴り響き心は輝かしい芳香に満たされる…)

 

…まったくしみじみしょうがねえなあ、生ける屍、社会のクズだなやオレ。

そういや高校二年か三年のとき、(BGMは舟木一夫「高校三年生」)一時期Z会っていう通信教育やってたんだけど、常に上位にハンドルネーム「にんげんのくず」さんってのがいて、このネーミングセンスがとっても気に入ったものだからいつも彼の順位を何となく気にしていた。毎回常に全国トップクラスな。当時たしかZ会っていったら難易度が高くて上位に名をつらねているような人たちは軒並み東大行くっていうことだったから、この「にんげんのくず」さんが今どうしているかなあと考えるとなんとなく楽しい。「にんげんのくず」を己のハンドルネームにするセンスと自覚をもったままその悪魔のようにキレる優れた頭脳で日本を切り回していてほしいものだ。(ワシも一応多少食い込んではいたこともある。成績いいと図書券とかもらえるのが嬉しかった。)(図書券は決して参考書なんかには使わない。必要最低限の参考書だけ親に買わせ、己の図書券はもちろん漫画や雑誌や小説に使うんである。)

 

それはともかく(何がそれはともかくだ。)、夕方ね、締め切りだからあわてて本返しに行ってさ、久しぶりに図書館で柄谷行人見かけてすっかり忘れてるなあとちらっと見たらものすごい思わせぶりなこのやろうな言葉遣いで、ムカっとしたんだけど、(何が「意味という病」だよ。…気になっちゃうじゃないか。)なんかちらっと読んだらなんかやっぱり嫌いじゃないなとか思ってつい借りちゃったり、(きっと読まない。)富安陽子の「サラとピンキー」新刊読んで豚のぬいぐるみピンキーとサラちゃんがヒマラヤで雪男とアイスクリーム食べる話もええのうと思ったり、川上弘美の新刊チェックしそこねてた、とリクエストしたり。おうちで岡崎京子だの春樹だの足穂だのちらっとひらいてなんかしかしあれこれつまみ読みしても何にも集中できず、どれもこれも素晴らしいんだけど。(こいういうとき敢えてバイブルには手を出さない。)(我がバイブルは安房直子、或いは三好達治周辺。)

 

カントのね、「わが上なる輝ける星空とわが内なる道徳律(Der bestirnte Himmel uber mir, und das moralische Gesetz in mir)」って言葉大好きでさ、これって構造的に法華経の理念とまったくおんなじだよね、とか思ってるんだけど、インド哲学アートマンブラフマンとかさ。(ここでBGMは戸川純「恋のコリーダ」。煩悩の船で~業の海をゆく~♪秩序崩壊の 夢を見ただけ♬ 胸中深く轟きて 声が聞こえる血潮の声が♬呼んでいざなう混沌の ブラフマン的大宇宙~♪)(この歌は「床の血痕拭いつつ♬子供のころを思い出す♬打撲に歪んだ男に比べなんて静かな一日の訪れ~♬」っていう朝の風景に非常に惹かれるんである。「レインボー戦隊ロビン」の主題歌に乗せて歌われる勇壮なリズムとメロディで雄々しく歌われるこのイメージ。なんだろうなあ。世界の果ての、世界の終わりの朝というか。始まりの朝と終焉の重なりの奇妙に白くて静かな明るいイメージっていうのが好きでね。鈴木博文の「朝早い死(Early Morning Dead)」がなんか優しい死に方の理想形みたいな心象風景として刻み込まれているんである。朝、老婆がひとり道端で死んでるっていう風景。)

 

時折その実感をまったく見失っちゃうのよオレ。カント先生。

 

…はよ寝よ。おやすみなさい春よ来い。

男子フィギュア・羽生結弦選手

普段まったくスポーツは観ないクチである。

オリンピックにも興味はない。(スポ根は嫌いである。その美学が基本的に嫌いである。極めて不健康だからだ。)(「あしたのジョー」の不健康さを見よ。)(戸塚ヨットスクールとかさ。)(セクハラやパワハラ、イジメ、ドーピングの蔓延、中国の美学纏足を思い出させる生物としての人間の奇形を生む権力構造、精神的土壌がそこにはある。)(美学の衣を着て正当化され隠される浅ましい卑しさや信じられない残虐さ。)(子供の頃は「ドカベン」とか「エースをねらえ!」とかそりゃまあ夢中になりもしたがな。)(美学のためなら死んでもよい、とかそういうのいやである。)(…そういう方が人間として幸せかなとは思ったりもするけど。)(美学に生きる、ということ、そんな風に生物として奇形であるのが人間というものやもしれぬ。究極のイデアとしての肉体美が本来の生物としての肉体の自然の破壊であるかのような。)(しかし基本そういうのって、ファッショや戦争に通じてゆく阿呆ぶりとしての本質を感ずる。)(イヤそういうの好きでやる人はいいんだけど、そいでそれが己だけにとどまるもんであるならばそりゃものすごく尊敬もするんだけど、ただそういうのが周囲のあれこれによって社会的なお手本になるとかがやなんである。)(自己犠牲の強制とかさ、モラハラに通じるんじゃん、って思うんである。)(強者が正しいとか勝ち負けがすべてとかそういう風なのが美学になるのがやなんだろな。)強いて言えばちょっと興味があるのは開会式、国の威信をかけて趣向をこらした豪奢で華やかなショーくらいなものである。

が、さすがに何というか、男子フィギュア羽生選手。
単にみてて美しくて楽しいしな、競技としての緊張感まで合わさってたりして、同じ時代にこの伝説の英雄が、とかあれこれ思ってしまったりしてだな、単に周りの熱が伝染しただけかもしれないけど、やっぱりわくわくと録画視聴してしまったわけですな。

一位から三位までの演技しか見てないし、専門的な技のこともさっぱりわからんのでアナウンス聞いて、はあはあ、これが四回転なんちゃらで…とか頷くばかりである。

が、専門家のような、選手に共振し、身体性を伴ったような深みのある楽しみ方はできなくても、素人には素人なりの、素人でしか見ることのできない「そとづら眺める」的な鑑賞、そして外側から見る時しか見えない、技術面や苦労の水面下、その美学を無視した、人間的なドラマを離れた客観物としてのシンプルな美、そのフォルムやイデア、魂だけを逆にピュアに感動的に感じることができる、という面もあると私は思う。漱石のいう芸術の本質「非人情」とはそういうものではないだろか、とかね。

例えばそれは、国を知らぬものが観光旅行で異国情緒を感じることと、その内面を知るものがその国のトリビアルからトータルまでを生々しく感じることの違いだな。知ってしまうと戻れない。一旦言葉の意味を知ってしまうと純粋に無意味な音韻としての言葉を官能として感じることはもうできない、というような。

 

ということで、まあそういうレヴェルで言わせていただきますとな、…素晴らしかった、うつくしかった。どの選手もそりゃそうなんだけど、違い、ということを考えるとより一層楽しかったんである。

もうこのレヴェルで躍動する身体たちは皆が皆、驚くほど美しく、人体の動きというのがこんなにも小気味よく快いイデアに近くありうるのかと、日常のしがらみを離れた神の領域、芸術、ということを思った。

だけど、やっぱり選手たちには個性が、違いがある。今、羽生選手に金メダルをとらせ、何か他の選手とは違うものにしているものが確かにある気がしたのは何故なんだろうって門外漢としてあれこれ考えちゃったんである。要するに感動しちゃったんであるな、きっと。

人間ドラマやスポ根とは全く離れたとこでね。基本的に実は私としてはあんまり彼個人に、人間としては興味がない。立派過ぎて私には理解ができないのだろうとは思うんだが、基本的に直接話したことのない人間には人間としての興味がないのだ、自分。メディアを経てる情報はだれかのこさえた物語だから。

(大学院のゼミで、学習院の怖い教授に教えてもらった。「TVで選ばれた画像で拵えられた解説で実況中継された野球は既にその試合そのものではない。」と。変な怖い先生だった。「昨今の女の子たちは既にあんみつそのものを食っているのではない、『フルーツティラミスクリームあんみつ』だの『小倉抹茶ばななあんみつ』だのという言語情報を食っているのだ。」とかあのときは理解できなかったけどなんか言いたいことはわかる気がするんだな。バルトの「表徴の帝国」てとこなんだろかねい、とかさ。)

でも本当に素敵で素晴らしいとは思っている、皮肉抜きで。ニュースで伝えられてくる人物像ね。)

まず、センスである。
日本の誇り。対外的にも内輪に対しても、その国、己の生まれた国に対する愛を、誇りをまっすぐに誇らしく打ちあげようとする態度。それは己の容姿を最大限に活かす戦略としても成り立っている。すごい。

ワシは愛国心もなんにももってない人間であるが、それでも、愛国心とか誇りとかって、こういうとこから芽生えるべき美しい愛しいものである、って、なんかね、そういうこと思ったんだな、この国にこうして生まれたことの幸福は、この誇りによって成る、と。そしてそれは、よその国の同じ構造をも尊敬の念をもって認めることのできるナンバーワンよりオンリーワン伊勢丹のコピーに合致したものであったりしたんだな。キレイゴト万歳。

音楽は、陰陽師清明。衣装は、平安貴族の公達の身に着けていたものを思わせるデザイン。振り付け、動きにはたっぷりとその伝統芸能へのリスペクトが満ち溢れ、外国の人にはエキゾチシズムへの憧れを、日本人には、伝統古典芸能への誇りと己自身を含んだ民族としてのルーツへの尊敬と憧れと誇りを掻き立てる。

 二位の宇野昌磨選手と三位、フェルナンデス選手、彼等の演技と比べてみると、その個性は際立つ。

 正直、たっぷりとした豊かな情感、人間ドラマたっぷりはらんだようなラマンチャの男、余裕のあるエンタテイメント性の可能性を考えてゆくと、フェルナンデス選手の方が勝ってるんじゃないかと思った。大人の成熟した男の色気みたいな、ラテン系独特の。(苦手である。)技術的なミス抜かしたら、金銀銅の順番もころんとひっくりかえったんじゃないかしらんとか。(技術的なとこオレにはようわからんかったしな。)

ここがなんというか、お国柄、民族性の個性が露骨に現れてるとこのような気がして、すごくおもしろいと思ったとこなのだ。

これに引き換えくらべると、羽生選手はなんというか、ものすごくストイックなのだ。日本人が本来舞を神の舞、神にささげるために舞っていたという、そういう激しい精神性、聖性を感じさせる。人間ドラマとしてのエンタテイメントではなく。選ばれた曲や演出のせいではもちろんあるんだけど、このポイント、それこそが民俗的な日本人の特性であるんではないかと。

ひたすらに性を越えたところにいる神にささげられた巫女としての少年なのだ、鋭く、危うく、例えて言えば剃刀のような薄く激しく切れ味の鋭い、舞。

氷上を舞う少年神、男神。(そして演技後生贄として捧げられる無数のプー。)神、という言葉は宇野やフェルナンデスにはあてはまらない。宇野昌磨はくらべると、ひたすら技術に勝っている、というような印象を受ける。

…とりあえず、とりいそぎ、熱いうちに。
深夜の酔っ払いなのできっと滅茶苦茶なので、また文章きっと直します。

 

*追記

普段日本に厳しい中国のメディアでも羽生くんは別枠ヒーローみたいだね。(やっぱねえ、基本、こういうとこからじゃなかなあ、草の根世界平和。)中国国営放送の女性解説者は次のような自作の漢詩を詠んだそうな。

容顔如玉 容貌は宝玉のごとく
身姿如松 姿は松のごとく
翩若惊鴻 飛ぶ姿は白鳥のよう
宛若遊竜 まるで竜が遊んでいるようだ

…ファンなのネ。

このいかにも中国的に大仰な比喩表現、神話的ヴィジュアルなびろびろの大風呂敷っぷり、よござんす。なんだろうねい、こういうおセンス。どこまで真面目なんだか計り知れない大陸的感性とでもいうべきか。なんにしろ、日本人的に見れば、ひたすら可笑しくて可笑しくてだけどお見事で、こういうのただ笑っていられればいいなあ、とかさ。

おやすみなさい。