酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

栗子さん(命題その2 モンブランは愛である。)

さて栗子さんはもちろん栗が大好きだったのだが、何しろとにかく菓子が好きであったのだ。幼少のころからその執着ぶりは顕著であった。子供とは得てしてそのようなものであるが、女児栗子の執着とはその中にあってもひとしなみとは言い難い鋭い際立ちを見せていた。既に並外れた情熱と呼ぶべきレヴェルに達していたと言ってもよい。(それにしても菓子は食っても飯は食わん虚弱な子供とは実に始末に負えない親不孝な存在である。)

愛である。そして愛するもの情熱を抱くものに対し、その愛は対象を征服しまた同時に対象に己の存在を捧げる、「支配ー被支配」の双方向へのベクトルの欲望構造を持つ磁場、愛という名の不可思議なエナジイに満ちた特殊な次元に由来する磁場を構成する。そして種々のヴァリエーションを展開しつつ、その概念法則に正しく則ったダイナミックな相互行為へと発展するものである。

あふれた情熱が向かう方向性とは、具体的には、まず対象周辺に関する情報、知識である。限りなく広く深く且つ微に入り細に穿ったその詳細な知識を欲望し、また身を挺してその徒となるのだ。味わい尽くしその快楽と喜びに己を投げ渡すために、人はその消費から生産までのレンジを総体としてすべて網羅し手中にしたいという支配被支配の一体となったいみじい磁場、その欲望と恍惚の中に自身のもてる力の、その存在のすべてを投ずる。…天才、オタク、或いは好事家はその極に偏った者のことを言う。常人とは異なるレヴェルの異様に突出した学習意欲がそこに見られる。

…栗子さん幼少期、菓子への愛の話である。

このときまで女児栗子にとって世界とはただ純粋な贈与であった。全身でただそれを歓喜して消費する。失われた純粋なる消費の楽園。

そう、これはいわゆる「失楽園」構造である。宿命として失われるべき幼少期の楽園時空。禁断の金のオレンジ、知恵のリンゴ以前。

そしてこの栗子の人生の初期においても、その禁断のセオリーは不可逆という必然の運命を伴いながら正しく発揮されていったのである。

楽園の道を踏み外すその道筋を、彼女はまずおやつの摂取法にこだわってあれこれと工夫するところからはじめた。

当然バウムクーヘンは一枚ずつ丁寧に剥がして食す。ミルフィーユやパイ菓子もしかり。レモンケーキも薄いホワイトチョココーティングの部分で舐め溶かしてみたリ剥がしてみたり、解体工程にはあれこれ創意工夫をこらさねばならぬ。ひよこまんじゅうは皮の部分をきれいにはがすところからはじめる(頭からスタートする)。カンロ飴は舐めている途中幾度も取り出して日光にかざし、その宝石のような美しさを愛で尊ぶ。(宝石の中には輝ける光をゆがめた異次元多元宇宙があった。)最低三回。

フルーチェの日は家族のイベント・デイである。その制作作業は末っ子栗子さんの役割であった。ときめく胸をおさえ、フルーチェのモト(ペクチンなる秘法物質の含有された魔法の液体である。)の入った箱を取り出しミルクを用意する作業の初めから「モモのきれっぱし、モモのきれっぱし…」と心の中で絶えず唱えながらできあがりを思いながら拵える。凝らされた念と呪文は決して途切れてはならぬ。作業中の栗子さんにはみだりに話しかけてはならぬのだ。ぼたもちがどっこいしょになってしまう。

…そしてそのまま実際に食する場面においてとろりと甘い柔らかなミルクジェリーの中につぶつぶとちりばめられたうすべにいろのモモのきれはしを探り当て、ついにそれとの邂逅を果たした僥倖を尊びながら味わうグランドフィナーレに至るのである。(フレーバーの中ではモモが一番好きであった。)食後、家族四人が打ちそろったリビング、一日を終えた穏やかな時間。

カルピスは初夏の午後だ。窓には白いレースのカーテン、きらきらまばゆい午後の光。できあがった氷入りカルピスをストローですする際には、グラスが空になるまでに様々な飲み方を試してそのいちいちの心境による味わいの違いを確かめる。一番の苦行としては、ソファの背もたれに足をかけてうつぶせの半逆立ち状態になり、床に置いたグラスからストローですすってみるという試みがあった。その類の修行において失策をおかし、グラスの床にひっくりかえし大層叱られた悲劇の事例は数知れない。おやつを一口食べては家の中を一周してまた一口食べては一周して最後まで完食するのもまたひとつの儀式であった。(この場合、部屋で一回り踊る、或いはでんぐりがえしひとつ、という簡略ヴァージョンも可である。)ピアノの練習曲を一回弾いては自分のご褒美に飴玉一つ、という儀式も行った。(飴は私有隠し財産であったため母にばれると取り上げられる危険を孕んだスリリングな儀式であった。)(隠し場所はフィリピンのお土産の人形の形をしたポーチであった。スカートの部分に飴玉を詰め込んでいたのである。)

それら純粋な消費様式への儀式的こだわりは、しかし当然そこにとどまるものではなく、彼女が成長してゆくにしたがって、おのずと変化していった。深まる愛の世界の法則、それは消費サイドから生産サイドへの興味の深化と広がり、重点のシフトである。

それは、更に言えば対象に対する極めて個的な垂直方向の思い入れの方向から、社会的共通認識的な価値観を孕んだ水平方向へと、その知識への立体的有機的拡大への欲望というかたちの広がりとも重なっており、栗子自身の成長、その社会的人格育成における原則に則りそれにシンクロした側面をもっていたものである。個から社会へ。自己幻想(菓子とは魔法の食べ物)、対幻想(菓子に関する家族内暗黙のルール)から共同幻想(菓子の一般知識)へ。世界は物語は絡み合いながらひたすら複雑化の一途を辿る。(「共同幻想論」はすっきりしたいい概念だと思うんだな自分。)子供から大人への階段。セオリーどおり順序正しく。…個・栗子はかくの如く社会的生物として成長していったのである。蛇の誘惑に応じ、禁断の知恵の果実のエクスタシーへ。失楽園のはじまり。

書物を研究した。(資料は主として母の本棚にあった婦人の友社の料理本シリーズ。)
菓子のジャンル、その製法、その歴史、そのヴァリエーション、知識への興味の広がり。まだ見ぬ異国の、或いは古来の菓子へと、百花繚乱菓子界のそのルーツは多岐を極めるものであった。菓子学である。当時の風潮から、守備範囲としてはアジア中近東への興味よりは主として洋菓子、せいぜい和菓子分野少々にとどまるものではあったが。

初めて一人で拵えた洋菓子は、忘れもしない小学校三年の夏休み。
女児栗子は人里離れた岡山の山の上に住んでいた。図書館に行くには週末等母の都合と機嫌がよく、車で町に連れて行ってもらえる機会に限られる。従って、研究書は母の蔵書に限られた。

選ばれた一品は、くだんの婦人の友社料理本シリーズの中の一冊「お菓子とのみもの」から「シルバーケーキ」なる、卵白を泡立てて膨らませるスポンジケーキの類であった。

一生涯の記念となる、華麗にして見事な失敗作品であった。

…まったく膨らまなかったのである。(卵白の泡立てができていなかったのだな。)それはケーキというより「お焼き」と称すべき寂しい物体であった。

だがここでくじけないのが女児栗子である。
奮起した。

その夏休み、猛然と菓子作りの修行に邁進したのだ。
夏休みの宿題もそこそこに、閑さえあればレセピーを研究し、材料をねだっては、次々と未知なるフィールドへと挑戦、果てなく渦巻く嵐の吹き荒れる挑戦の海に漕ぎ出した。

バタークッキー、ドーナッツ、みたらし団子、アイスクリーム、シュークリームにタルト、バナナクリームパイ、ブラウニー、アップルパイ、フルーツケーキ、そしてマーマレード・ケーキ。(これへのこだわりは知る人ぞ知る「ナルニア国物語」に所以する。「素敵にねとねとしたマーマレード・ケーキ」である。)

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(因みに児童文学に限らず、作品中の食べ物がおいしそうである、食べてみたいという欲望を心に生じさせしめる作品はそれ自体が必ず名作であるという信念を栗子さんは持っていた。が、就中それが児童文学である場合、人生の根幹のところに刷り込まれた永遠の憧れの食べ物としての人格まで食い込んた心象としての意味を持ちうる重大な要素をもつ。またそれは時代、世代に共有されるものでもあることは特記しておくべきであろう。「ぐりとぐら」のカステラ、「からすのパンやさん」のパンの類である。

…この「共有」。ここで個人は世代としての集合意識を他者と共有するメディアパーツを、己自身の個的意識の反転のダイナミズムを孕んだ、すなわちアートマンからブラフマンへの反転を可能とする核としてその魂の深奥部分に見出す者である。共有とはそのような意味を持つ。己の所蔵するもの(内側)が他者にも所属する外側に通ずる反転ダイナミズムを孕んでいるという図式である。この意味は、己は世代と時代に所属する存在であり、また自身がそのパーツであるとすることを認める構造に通ずるものである。己の内側を他者に投げ渡す、そのときの自我崩壊の恍惚、さらにそれが共時共振なものであることによる仲間意識、己が個でありながら同時に個でない、世界を構成する要素でもあることを感ずる、共有の幸福な一体感。

これは先に述べた愛の論理と全く同じ構造であることにお気づきだろうか。双方、これすなわち個と集団、個と世界の関連論理構造であり、さらに言えば個と国家との関連構造とも繋がってゆくものである。)

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…話がそれた。
とにかく栗子さんは粘り強い自己研鑽、たゆまぬ修行により家庭内及びその周辺で「この子は菓子作りが得意である。」評判を確固たるものにしていったのである。

時は過ぎ、精進を重ねた女児栗子も思春期に突入。いよいよ嬉し恥ずかしティーンエイジャーである。さらに中学入学の折、父の転勤によって東京杉並、中央線沿線住民となった。こここそが故郷を持たぬ栗子さんの人生の青春の故郷となった場所である。

中学、高校と進み、友として学内に同好の士を得た女子学生栗子さんの魂は、同志と菓子について熱く語り合い研鑽しあう喜びをもまた知るところとなる。

菓子への情熱は果てることなくいや増し、ますます盛んになるばかりであった。受験期に菓子職人栗子に対し的外れの受験勉強を強要する母との確執により台所に関わる権利を奪われ、菓子研究実践機会を一時絶たれたブランクを経たものの、10代後半からのその情熱にはまた目を見張るものがあり、それはやがて華麗なる創作菓子の形を持って花開いていった。浮かんだアイデア、レシピ、あらゆるアレンジのためのメモの分厚いノートもまた幾冊も引き出しにたまっていった。

だがここで彼女の運命には大きな変節点が用意されていた。
プロローグで延べた、健康および思想上の理由により、彼女が一般菓子類を断つという「菓子断ち」の道を進んだという岐路である。

そこで何が起こったか。
ベートーベンである。

聴力を失った音楽家。それでも彼は作曲を続けた。
音は、音としての具体性を奪われたときその概念、抽象のみが機能することになる。音楽のイデアだ。奪われた具体性の分だけその思いは激しく純化されたものとなる。創作することこそがその内実としてのイデアとしての消費の喜びをも得る唯一の道となったのである。

己は味わうことができない、想像することしかできない。けれどそれでいい、いやそれこそが至福なのだ、というところにたどり着く。己がそれを味わうことは重要ではない。ただ、作りたい。作る過程が、その味覚の快楽を想像しながら創造することが究極の味覚の快楽のイデアだ。情熱は形を変える。己の欲望が形を変える。ひたすら、他者の喜びのためにしかその欲望は満たされないものとなる。それはその快楽を、喜びを、己のものとするための他者の喜び、という、抽象性へと昇華された非常に純化されたひとつのエロティシズムにも似た欲望のかたちである。

それは、例えば読書の喜びの構造にも重なってくるものである。
読者ー作者ーテクストの三位一体という抽象を掬い取るナラトロジー応用理論、それは作曲家と演奏者、聴衆という構造である。演奏するパーツとなり全体を感ずる、全体との一体感を得る恍惚のイデア。演奏者にして聴衆である磁場がある。作者であり読者である磁場がある。流れる音楽、読まれる現場という現象がその磁場を形成する。双方の立場がそこでひとつのものとなる。区別がなくなる。…愛の磁場とそれらはまったく同構造をなすものだ。生産者として消費するという意味。すべてを得るために己を投げ渡す原初の欲望。


…栗子さんはそれからひたすら周りの人々の喜びを生み出したいがために菓子を拵え続けてきた。
長い間、とても長い間。

けれど、きっとそれはやはり少しずつのひずみを重ねていったのだろう。賢治の自己犠牲の歪みのように。自己であっても他者であっても誰かがその犠牲になった上での幸福は完全には享受祝福されない。不完全な幻想四次。ともに喜ぶのでなければ喜びは喜びではない。喜びの共有は理論的には成り立っていたはずのだけれど、自我崩壊の完全なイデアを模するミメーシスはあり得ないのだ。少しずつ、少しずつのバグが、歪みがたまっていったのかもしれない。

反動が、あの早春の日の啓示であった。
栗子さんは消費者を内包した完全な生産者でありたいと願い続けてきたが、突如封じられていた失われた消費の楽園を恋う心を開放してしまったのだ。

純粋な消費者になりたかった。誰かが誰かのために凝らした物語をただ喜びその生産の過程をもすべて追体験し理解したうえでひたすらの消費をも得る、逆のアプローチ。すべてのそのレンジをそのようなかたちで再び得たいと願った。ベートーベンが再び消費の側に回り、概念ではなく「身体」にその音楽の官能を響かせたい、と願ったかもしれない、その強い願いのことを想像した。

…そう、それがモンブランの啓示に集約されたものである。
ここでモンブランは消費されるべきテクストである。

消費者である現実を失ったとき、栗子さんは知ったのだ。ベートーベンが聴力を失いながら音楽を作り続けることがいかなる意味を持つのかということについて。脳内に響くイデアとしての完成形の音楽はしかし今一度具体によって確かめられねばならぬ。

とにもかくにも天啓には従わねばならぬのだ。
栗子さんは失われた究極の消費の楽園へと向かった。


いざ、モンブラン
だがそのとき既に季節は春から初夏、栗の季節を遠く離れ、モンブランもその季節を終える頃であった。

栗子さんのモンブラン巡礼はその年の秋を待たねばならぬことになったのである。

気まぐれに続く。