酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

流れ星

流れ星見た。

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久しぶりの晴れ間だ、とベランダに出てみたら、いきなりふわっと流れたのだ。
流れ星を見るといつも一瞬なんだかよくわからなくなって、どきどきする。美しい虹に出会ったときもそうだけど。とても貴重でとても特別なときに出会ったのではないか、というような心持ちを抱いてしまうのだ。

で、流星群が来るといつもベランダで頑張るんだけど、なかなか見られない。
なかなか見られないものだから、出会うとなにか特別で、何かいみじいことがおこるのではないか、と思うのだ。とてもいいことが。星の時間から、人類の時間に落ちてくるもの。(なんだっけ、「人類の星の時間」っていう概念があるよね。ツヴァイクか。歴史が動いたとき、輝き出たひとりの天才の、その特別なときの感覚を表す言葉、)

…だけどね、流れ星を見たことのない人はいるのだろうか、と考えてみたら、それは実はいないんじゃないかなあ、というようなことを思った。実際どうなんだろ。

 

写真はオライオン。
(数年前に撮ったやつ。星を撮るのは月を撮るより大変なんだぞ。)

季節がやってくると、毎晩のように私はこれを確認する。もう高校生の頃からずっと。

安心するのだ、確認すると。

学生時代、阿佐ヶ谷の自宅の前の小道に入った途端、いつもこの星が大きく私を迎えてくれた。こつんこつんと自分の革靴の音だけが街に響いて、視界にはオライオン。眼前におうちの玄関…安心したのだ、何があっても、いつも変わらず迎えてくれるもの、この、変わらないもの。壊れないもの。ひとが宗教に求めるものは、この世界のセーフティネットなんだろうな、結局きっと。必ず受け止めてくれる、過去に閉ざされ滞ることのない未来につながるねじれをもった約束、けれど過去のように永遠に壊れない、暖かく懐かしいところ。還る場所の保証。

東京駅。成田空港

ターミナル駅が好きだ。…いや、東京駅が好きだ。

中央線で武蔵野から東京駅へと向かう。車窓にお濠を見る頃になると、毎回私は新鮮にわくわくしてくる。神田を越えると、いつも遠く小さく見える風景が突如視界の中でぐうんと巨大化し、聳えるビルとなって現前する。そこに否応なく飲み込まれる感覚が好きだ。TVのニュース画面なんかで見る鳥瞰されたジオラマみたいな都市の記号としての風景じゃない、その内部の夢のリアルに吸い込まれ、ありんこみたいにちっぽけになってゆく自分。集合意識の中で見られた幻想、この大都会の夢の中に溶けてゆく。

外側から見る者から内側から見る者への転身。
己が「包まれている」ことを見るのだ。

(少しだけ、意識の変容を遊ぶ。自分が誰かの夢の中に生きている幻であるかのような気がしてくる。どちらが夢で誰が現実なのか、本当は誰にもわかりはしない。…これは鏡の国のアリス胡蝶の夢の無意味な問答の命題だ。目が覚めたら世界が滅びた後の廃墟なのかもしれない。)

なぜだろう、この、取るに足らない塵芥になってゆく、誰にも気にされない問題にならない支配されも裁かれもしない、誰も支配しないでいい、裁きもしないでいい、ナンデモナイモノになってゆく、空気のように無意味な存在、あるいは純粋な意識、純粋な主体となるような、世界そのものに溶けてゆく、還ってゆくような、…この、ほっとするようなアイデンティティ崩壊に似た感覚。無感覚と感覚の狭間におちこんでゆく夢の中の安らかさ。ただただ、自由だ。

これは、大自然の風景であってはならない。あれは、本当の恐怖だ。狭間ではない、完璧な無の側、その虚無の恐怖。全くの同一に還ってしまう。自分はゼロになる。痕跡すら残らない。全く別の時空の論理。完全な無。

私は恐怖する、あまりにも雄大な自然の風景、あまりにも強烈な美しさには凍るような寂しさと恐怖を感ずる。前人未踏の霊峰の、或いは宇宙から地球を眺めた空恐ろしい美しさよりも、高層ビルにものすごく光る夕陽の最後の一片。里の春の菜の花畑の夕暮れ、住宅街の駅前商店街の黄昏時の夕空の光の色に包まれた雑踏の賑わい、その半端さが好きなのだ、自然との狭間の、黄昏時、逢魔が時。危ういそのがけっぷちに立つのが楽しいのだ。終わりとはじまりの場所。

向こう側に解体されつくされ、魅了されつくしたら本当に虚無に帰ってしまいそうで怖いのだ。実際その場所に立ってしまったら、私はきっと呑まれてしまうんだろうなと思う。寧ろうっとりと。それがひとつの正しい死のありかたなのかもしれないと思う。

人間界の夢はもう少し有に近い、有と無の、存在と非存在の狭間にある。アルケーである。

さて逸れた。これは、大都会の高層ビル群に飲み込まれるときの気持ち。駅はまたそれとは違う別物、今の「飲み込まれ感覚」と関係はあるけど、また異なる意味の次元に根差した特別なもの。

それは明確に、旅人たちの行き交うメディアの場所なのだ。
これは空港にもまた、というかより一層こっちの方に顕著なことなんだけど。

…ああ成田空港、行きたい。どこかへぽーんと行ってしまうときの非日常への解放の入り口、境界。行き交うドラマや人生のワンシーンのリアルに立ち会っている、そのチャンネルをザッピングしている、図書館の書棚の狭間にいるような気持ちになる。ここは、あらゆる世界の多様に開かれたその可能性そのもの、メディアとしての場所。その空気の色、匂い、終わりとはじまりの気持ち、旅立ちのときのその永遠に空っぽな可能性のエナジイだけに満ちた時空を私は恋う。

…この感覚でいつも思い出すのは、春樹の「色彩を持たない多崎つくる~」なんだよなア。

駅のホーム、そこに行き交う無数の人生の、その雑踏に流れの中にただ存在するだけという感覚を己の存在意義のように見出し、そこにこだわる多崎つくるの意味。あれは「騎士団長殺し」よりよほど面白かった、気がする。いや、わかりやすいのだ。説得力もある。「女のいない男たち」もそうだ。たくさんのモチーフがテーマとしてきれいに符号を合わせるように打ち出されている。読み進めてゆくうちにパーツがハマってゆく、じわりと浮き上がってくる論理、その風景、意味。「騎士団長殺し」は結構な大長編だから、中編のこの二つと違ってきれいなテーマとして打ち出しにくいってのはもちろんあるだろうけど。(そう考えると、同じく同レヴェルの大長編である1Q84やねじまき鳥はすごいんだなってことになる。)


なぜ自分がちっぽけであること、誰にも気にされないこと、塵芥のような存在となることにほっとするのだろう、自由と解放は己の内部への沈潜とミクロの中に反転し開かれる超越されたマクロ、その同時性の眩暈、その矛盾のダイナミクスの中にのみ存在しうる。

そうだ、それは日常と同時に多様な要素からなるアイデンティティからも解放される感覚。その風景から、その時空から。だけどそれは両義のもの。手放すとき解放され、取り戻すとほっとする。己のレッテル。アイデンティティ。(これは迷子の楽しみだ。心細さと背中合わせ。本当に帰りつけないとき、個は永遠の夕暮れの寂しさの中に解体されてしまう。黄昏の、逢魔が時の、その「魔」に、「向こう側」にのみこまれる。)

半ば飲み込まれながら生きた旅人たちが、おそらく山頭火とかね、ああいうひとたちだったんじゃないかなあ。発し続けていないと解体されてしまう、ギリギリの縁を危うく生き続けた詩人たち。

賢治の「風景とオルゴール(春と修羅)」には次のような風景描写がある。

黒曜こくやうひのきやサイプレスの中を
一疋の馬がゆっくりやってくる
ひとりの農夫が乗ってゐる
もちろん農夫はからだ半分ぐらゐ
だちやそこらの銀のアトムに溶け
またじぶんでも溶けてもいいとおもひながら
あたまの大きな曖昧な馬といっしょにゆっくりくる

風景(世界)と不可分になる、明け渡してゆくにんげんのその恍惚のスタイルを、「演じる」ことや「己を限る」こととその外側を感じることの恍惚として、「半分溶ける」ことへの感覚を謳いあげた、これは「論理の言葉」でもあるような気がする。

携帯電話と蛇男

携帯電話の液晶画面に映りこんだ青空と雲がいやにリアルだった。僕は上を見上げ青空を確認した。
(携帯電話はいわゆるスマート・フォンである。触れるとなめらかに変化したり拡大縮小したりする美しい液晶画面を見るごとに、魔法をかけられたガラス窓だと僕は思う。向こう側には無限が隠されている、手の中の宇宙。)

…何処かおかしい。
頭上にある空と雲の配置とはあきらかに違うのだ。じっと眺める。すると、僕が怪しんでることに気が付いたらしい画面が、一瞬慌てたように震えたかと思うと、そのうち映っているフリをやめ、勝手にぐるぐると渦巻きはじめた。渦巻きながら青空は暮れはじめ、銅を溶鉱炉で溶かしたような夕暮れが、ものすごい金色のグラデーションを描いて輝いた。とろけて渦巻く黄金の中で金色の雲の影はぼろぼろとくらく輝きながら燃え焦げ焼け落ち、プルシャン・ブルーから濃い藍色、明るい真っ青な夕空のグラデーションを描いて、画面は早回しにとっぷりと暮れていった。

小さな画面の中に吸い込まれ、短く豪奢な夕暮れのショーに見とれていた僕ははっと目を上げた。

木漏れ日が緑金に滴りおちて金の影がゆれ、青空に真っ白な雲がぽかりと輝く真昼である。
そして木洩れ陽と鳩がまだらに埋まったハンカチの木の影が、一瞬揺れたかと思うと、そこから女の子が出てくる。

女の子?

「返して!蛇男が来ちゃうじゃないの!」

蛇男?

「…ええと、何を?…ええと、君は誰?」
「○○に決まってるじゃないの!あたしはミュウよ。」

○○がよく聞き取れなかった。日本語じゃないんじゃないか。いや、音声ではなかったような気もする。
女の子は金茶の髪の毛をふわりと振り立てて梢から飛び降りた。三階建てのビルディングほどの大木である。

光に透けるとやわらかな桃色をおびて光る髪、不思議なお日さまみたいな色が残像の尾を引いた。

北極のオーロラを孕んだ太陽はこんな風な色なんじゃないだろうかとぼんやり考えた。瞳の色は濃い琥珀。古代の昆虫が閉じ込められているような、上等の琥珀。人種がよくわからない。というか人間かどうかわからない。羽化したての蝉。生まれたての。と、口の中で呟く。その存在は、威勢のいい言葉とは裏腹の、ひどく頼りないやわらかな透明感だった。

日の光が凝ったようだ、と僕は白昼夢を思った。そして白昼夢というのはよくあることなのだ。

「あなたが磁場を狂わせたものだからあたしの日が暮れちゃったのよ。だからもう今日は今日じゃないわ。あなたの今日も私の今日も向こう側にとられちゃったの。わかったら早く返して、お互い元に戻らないと蛇男が出てきちゃうのよ、こういうときは。」

全然わかってないよ。どうしたらいいのさ。

「蛇男?」
「そうよ、どんでもないわ。時空の割れ目から湧いて出るの。魂を食うのよ。睨まれたら動けない。」

カエルかよ。

「甘い声で誘うのよ。ぞっとするような甘い声。…あれでいくつの魂を変色させちゃったかしれない。」
「もうね、死んだふりするしかないの、あんなのに魂食われちゃうくらいなら頭がイカれた方がましよ。」

魂を食われる?
「魂食われるとどうなっちゃうんだい?」

ミュウはおそろしい顔をした。琥珀の瞳がきらめいた。
「ばかじゃないの?見たことないの、魂食われた人間は結構いるのよ。どの世界のどの時空にもまんべんなくね。顔の色も目の光も何にもない、くすんだ魂。」
「甘い声で誘うのよ、まるで黒砂糖みたいな甘たるい声。いろんなこといって誘うの。本当の自分を見つけるんだよ、そんなのは君のホントじゃない、どこかに本当の自分っていうのがちゃんといるんだよ、自分らしく生きるんだ、とかね。もうホントものすごくばかばかしいことばっかり言って誘うの。阿呆らしくて全身鳥肌、世界の果てまで飛んでくわね、理性のタガが!」

まあな、ほんとに余計なお世話なことではあるが。
でも別に永遠に自分探しとかしてても別にいいんじゃないか。雑誌が特集してるとおりにさ。目くじら立てるようなことでもない。

自分探しなんて信じてするだけえらいじゃないか。ぼくなんか、ただぼんやりと目の前のレールに従って学校を出て入れたところに就職して、ひとりでアパートと職場を往復してるだけだ。日々に追われて、夜には疲れてただぼうっとTVをながめる。眠る。気がついたら、空っぽなんだ。大切なことも大切な人もいない。故郷からの便りも絶えてない。ひととき心を寄せ合い、優しい気持ちやほんのりとした夢をくれた女の子たちは、しばらくするとみんなぼくから去って行った。

もともとそうなんだよ、探すべきものなんて何もない。当たり前だろ。
ああだけど、きっとぼくには何かが欠けているんだろうな。

…まあだからそんなことでさ、それで魂食われるってのも確かに理不尽かもしれないとぼくは思ったんだ。

とにかくどうも物騒な話なので聞いてみた。
「ええと、じゃあぼくはどうすれば…」

と、そこでミュウは突然顔色を変えてポーンと跳躍した。見事だ。
飛んでいった先から声が降ってくる。

「ホラ来ちゃったじゃない!あんたもうまく逃げなさいよ。今あたしたちは本体のない影なんだから誘われちゃったらおしまいよ。ひとたまりもなく食われちゃうわ。」

見上げたら、青空の端にキラリと琥珀の光が光って消えた。

そうしてぼくはいつだってこんな風に取り残されるんだ。
携帯電話を覗き込む。

ためいきをついた。
「これだな…。」

奇妙なプログラムが立ち上がっていた。

 *** ***


待ち受けに蛇男なんていれたくない。
だが、電話を開くと自動的に蛇男・プログラムは立ち上がるらしい。ウイルス感染したかのようだ。削除はもちろん効かない。

意外なことに、特に生活に支障はなかった。
が、鬱陶しい。

蛇男はそれから日に幾度となくあらわれるようになったのだ。我が物顔に電話の中を跳梁し、既に僕の個人情報を食い荒らしている。うっかりアイコンを眺めていると、いつの間にか背後に現象化していたりする。さまざまにささやきかける。本当に望むこと、あんたが気付いてないものだってなんだって何もかもかなえてやると甘い声。

ああ、ため息をつく。
ぼくの携帯電話なんだが。毎月料金を払ってオプションのウイルスチェックサービスに入ってるんだが。

 *** ***

「おまえはあれが欲しいのか、欲しいのか?」
或る夕暮れ時、帰宅途上。夕闇に輝き始めた星々にみとれていたら声が響いてきた。
またあいつか。

おお、欲しいとも…

「やるよ、お前にあれをやる。簡単だ。
お前が喜ぶならおれ、あれをお前に全部やる。」

嬉しそうだった。はしゃいだこどものような声が僕の周りをはねまわった。蛇男。今日は道化師の派手な帽子をかぶたこびとの姿をして現れた。そして瞳は確かに蛇だ。ぬめぬめとさまざまの金に輝く虹の虹彩

一体どっから出てきたんだ。

ひどく嬉しそうにやつは言う。「なあ、ほしいんだろ。やるよ、全部お前のものにしてやるよ、おれ。」

そのとき突然、胸を突かれるような強烈な憐憫を感じた。

蛇男。かわいそうな蛇男。ヤツが少しでもが幸せを感じることができるなら、できることは何でもしてやりたいと思った。それは唐突な衝動であった。それは奇妙に激しい衝動であった。

そうだ、ぼくは彼にぼくをくれてやろう。僕の魂を。こんなうすぐらい魂、全然惜しくなんかない。まるごと全部くれてやる。この考えにぼくは夢中になった。どうして今までかなえてやらなかったんだろう。何かがストンと腑に落ちた。もともともう空っぽなものだ。

…蛇男はかわいそうなくらい喜んだ。笑ってくれた。
幸せそうに笑ってくれた。ああ、その瞬間は。…もうなにがどうなってもいい、というくらい、嬉しかった。変な話だけど。昔から定められていた通りの運命を正しく受け入れた、という気がしたんだ。

そしてやつは約束通り、僕にすべてをくれた。

夕暮れのひとときの永遠。
僕はあの時の空の輝きとちらちら瞬き始めた星の持ち主になったんだ。

だけど、その星はその時空に完全に一致したものだったし、その時空とはすなわちその時の僕を含んでいた。それを丸ごと切り取ったんだ、蛇男は。僕もそのときの僕を切り取られた。

そのときはね、変な気分だったよ。
一瞬、世界がひっくりかえって裏返ってさかさまになってぐるぐるまわって、…とにかく何がなんだかわからなくなったんだ。

 *** ***


「うむ。星に付帯してる。空間はあの光を焦点として折りたたまれてるんだ。」
「?」

気が付くと、ぼくは奇妙に無機質な白い部屋で、蛇男とテーブルをはさんで向かい合っていた。
テーブルの上には市販の風邪薬の瓶ほどの小さなガラス瓶が置いてあった。

ぼくは部屋を見回す。白い壁には無機質なアルミの窓枠、そのガラス窓の外には変に明るい青空が移っていた。遠くに飛行機が飛んでいる。

そしてテーブルの上の瓶には夕空が入っていた。星の瞬き始めた、柔らかな珊瑚や琥珀や天鵞絨の藍のさまざまのグラデーションに輝く空。確かにそれはあのあの空だった。僕が欲しいと望んだそのとおりの。

「ありがとう。」
しばらくはただ黙って蛇男と空を見比べていたんだが、やがてぼくはそう言った。

彼の顔はよく見えなくなっていた。邪悪に見えた虹色金色の虹彩の瞳ももうそんな風に見えなかった。かなしげな水色が見えただけだ。おそらく夢の中だから意識の焦点がけぶってしまってよく見えなかったんだろう。あわくやさしいみずいろ。ふりそそぐ。

切り取られた星空は、蛇男に頼んで、小さなガラスの砂時計の中にいれてもらった。

だからあのときの星はもう誰も見ることができない。ぼくがこうしてここに持っている。閉じ込められた時間、ぼくの手の中の宇宙はきらきらとあの世界の空の美しさの永遠を歌いつづけてくれる。

夜には部屋を暗くしてその小さな夕暮れをそっとひっくり返す。流れ出す星の時間、至福のとき。ぼくは確かにその時間の中にいたのだ、いや、いるのだ。ぼくはその時間の中に溶けだしぼくのかけらと一致する。その中に溶けてなくなってしまう。ああからっぽだ。そして本当にこんなに幸せであったことはない。

 *** ***

代償ね。
そうだね、ぼくの魂は彼のものになった。

ぼくは彼だ。

完全に魂を食われてしまったらそれはもう、存在としてゼロになる。だけど、それは例えばいわゆる悪魔に魂を取られる、というのとは違う。あれは0ではない。死後負債を払う、善悪の牢獄に繋がれたまま、永遠の地獄の側の存在になることを意味する物語だ。対して、蛇男に「食われた」魂はただ塵芥に帰する。が、そう、それは生きながら死ぬことではあるのだが、死にながら生きることでもある。世界に食われるのだ。それはひとつの解放の感覚をともなうものだった。ふわりと、解き放たれる。

魂を食われても、具体的には何も失わない。記憶や感情がなくなることはない。知識も能力も、何一つ失わない。友愛や倫理観、基本的な人間の精神のパーツは何一つ失われはしない。

ただ、穏やかだった。いつでも世界も自分の存在も、薄皮一枚隔てられた向こう側にある。ぼくはからっぽだけど、すべてはただ、あるようにしてあった。それだけのことだ。

…ああ、そうか。魂を食われることは、こんなにも安らかなことだったのだ。
寂しさと安らぎ。なんの欠損もない。もうほんとうになにも探さなくていい。

そう、それは果てしない寂しみではあったんだけど。

毎朝、海のように深い寂しさの中に目覚める。あおいあおいその海の青。どこまでも遠く深い海。揺らめく泡と淡く曖昧な薄い光の中を為すすべもなく浮上してゆく、ひんやりと冷たい胸の中を浮上してゆく。やわらかな寂しさのゼリーで満たされる。

小鳥のさえずりも透き通った朝の光もさらさらと流れる清いその大気もそのゼリーに包み込まれてしまう、いつかのように新しい新鮮な力、未来を夢見る力をもたらすことはない。けれど、そのゼリー越しにはね、くっきりと見えるんだよ、その新しい未来を夢見る力の姿が、その物語のうつくしいかたちが。そこからはみ出してしまって、それを受け取ることができなくなってはじめて見えるものなのかもしれない、淡く、かなしく、激しく憧れる。失われたもの。切ない青春の記憶のような。最中にいるときは憂愁でしかなかったものが読みかえられ芳醇な輝きを放っているそのかたち。

「それがもっと救いようのない闇であるってこともあるんだけどな。恐怖で気が狂うタイプの。」
「ケースバイケースだ。ひとによるよ。」

蛇男はこういう。
ミュウがぼくを救ったのだと彼は言う。ミュウがぼくに助けを求めてきたときのことを、彼はこう解釈しているらしい。

…その物語はまた別の話だ。そう、失われたもののことを、失われた魂のことを、ぼくはいま初めて語り出すことができるような気がしているんだ、閉じ込められたぼくの夕空の時間をそっと放つとき。

ことばが、うまれてくる。

そのために、ぼくは蛇男に仕込んでもらった。
ぼくの携帯電話には今、スタートアップ・プログラムの蛇男インディケーションのかわりに、白い部屋のアイコンがある。立ち上げると開かれる、その部屋への通路。ぼくは入り込む、そして組み込まれる。ミュウとぼくのこと、蛇男との世界を渡り歩くような冒険の記憶を、その言葉を、物語を紡ぎ出すことができる場所。過去の方向に失われるはずだったあのときの夕空を、その存在まるごとを永遠に保ち続けているプログラムだ。

「…これは変則だな。まあもともとがおれはここではミュウんとこのおれとは違うんだ。ミュウとお前の世界とでは違うんだ。もともとからっぽなものがからっぽでないみたいにつくられたとことそうでないとこじゃな。組成が違う。」

蛇男はこう言った。魂の食われ方にもいろいろあるらしい。で、しかも、あちらの世界では魂を食われることはもっと違う現象として顕れるものらしい。大体ミュウは人間ではない。とにかく頭がイカれることもなく魂を食われることが、ミュウたちには苦痛に近い恥辱として感じられるのだという。…もしかして、ここの人間の失われた魂が、どこかで具象化したもの、「失われた魂の国」みたいなとこの生き物なのかもしれない、とふとそんなことを思った。

まあね、ただぼくは本当に頭がイカレてしまったのかもしれない。医者はそう診断するのかもしれない。脳のホルモン分泌状態かなんかを調べて大層な病名をつけてさ。だがそれがなんだっていうんだろう。
大体イカれてるかイカれてないかなんて誰がわかるっていうんだ。

ぼくは胸の中にうつくしい蛇男とその白い部屋をもつことになった。

それだけのことなんだ。

窓の外には永遠に広がる青空、ひどく懐かしく晴れやかな、ストンと高すぎて胸の痛むような青空が見える。決してそこから外に出ることはできないけれど。そうして、遥かよりくる飛行船の銀色がときおりひらめくように通り過ぎる。そのときには、ミュウたちの笑う声がきらきらと降ってくるような気がする。部屋中にきらきらと細かな金糸が震えるような輝きが降ってくるんだ。星屑が降り注ぐんだ、花火の最後の一瞬の輝きような、あえかな。

蛇男がいる。(たまに出かけている。帰ってくると、大抵疲れた顔になっている。)そこからは、どこにでも行ける。どこにも行っていないのにどこにでも行ける。すべての場所はその輝く青空の窓の向こうに広がっている。宇宙は虚無や闇かもしれないが、それは同時に懐かしく輝かしい光の空間でもあるのだ。ペンと、紙と、キイボードがおいてある。ぼくは、プログラムを打ち込みつづける。

白い部屋に蛇男とともにいる。

がらんどうの部屋。嘗てみっしりと濃い何かが生まれたところ、空っぽの白い部屋。小さくて、とても広い、からっぽでがらんどうで、とてもあかるい部屋。いつでも、ぼくはここにいる。いや、ずっと前からそうだったんだ。ここから始まって、ここで過ごして、ここに帰ってくる。

かなしくて、あかるい、このひんやりと優しい光の中にいる。

マモー。いろいろ思いつき脳内メモ。

子供の頃から刷り込まれてきた、何しろ大好きだったルパン三世

劇場版第一作「ルパンVS複製人間」、ラストの巨大なマモーの脳のイメージは殆どトラウマになるほどの衝撃であった。

こないだ再放送してたから録画しといて観ちゃったんだけど、やっぱり感服した。

古き良き昭和の究極があのアニメーションにはあったと思う。

1978年の作品なんだけど、翌年の第二作、宮崎駿の「カリオストロの城」できれいに毒抜きされて封印され塗り替えられてしまった、昭和の哀愁と毒の真髄がこの作品には残っている。これはかけがえのないものとオレは思う。

全然ダメなエログロナンセンスアクション娯楽なのかもしれない。低俗なハードボイルド美学。それは、だけどここではそのあじきなさの残虐の中にどうしても生き残るひとすじの輝きとしての愛や信頼のようなものがある、その美学には徹底した透徹がある。徹底した軽さ。テーマは壮大で重いのに、その歪んだ欲望による重さのいやらしさを打ち砕こうとする壊滅的に徹底した軽さがある。

それはおそらく、欺瞞がない、という快さなのだ。男性原理の女性蔑視、セックスシンボル不二子ちゃんであっても。少なくとも彼女は馬鹿にされてはいないのだ。そして何しろ次元がシビれるほどかっこいい。

やっぱり刷り込まれている、ああやっぱりカッコイイ。そのあぢきない終末感、哀愁を孕んだ、その先の、ひたすら人生を燃焼させてしまう、そのホモ・ルーデンスな感覚。米ソ冷戦時代の、あの時代の空気。それを笑いのめすシニカルで雄大なパロディ感覚。未だ嘗てない、地球規模で世界が終わるという大きな危機感をいつでも感じながら科学万能主義はひたすら突き進んだ。輝かしい未来と破滅の両極の矛盾を生きていた日常。

かっこいいってどういうことだろ。
その潔さってなんだろ、って考える。寂しみを乗り越えるもの。より一層哀しいけど同時に笑ってしまうところへ昇華する、その止揚の構造を美学というんではないか。

手にしたものはすべて失う、いや、失うべし、とそれを宿命とうけとめ、それを遊びながら求め続け盗み続ける美学。(TVのエンディングテーマで、夕陽をバックに不二子ちゃんがバイクで走り続けるシルエット流しながら、「この手の中に~抱かれた~ものわああ~すべてえ~消えゆく~さだめ~なのさ~ルパン~三世~♪」って歌好きだったのだ。夕方の再放送枠で、多分おんなじ時間帯で「はじめ人間ギャートルズ」のエンディング「なんにもないなんにもないまったくなんにもない…なんにもない大地にただ風が吹いてた~♪」が好きだったのとおんなじ感覚でね。夕方の再放送枠の哀愁の素晴らしさったらなかったな。)


(全然逆の方法って言えばそうなんだけど、春と修羅小岩井農場

「すべてさびしさと悲傷とを焚いて/ひとは透明な軋道をすすむ」

っていう言葉がある、この寂しさを焚いて進む(いやもちろんだから軌道の方向は大違いなんだけどね。)っていう構造が同じであるように思えるのだ。

既に大切なものはどこかに失っている。そのひたすらのあきらめの上に成り立つ人生、というような、何か重たいリアルのため、ではなく、ただひたすら己を燃やし尽くすようにして己を賭して遊びを生きるスタイルとしての重さのないゲーム人生の感覚。「グスコーブドリの伝記」の冒頭で、飢饉で食い詰め絶望してすべてを投げ出して去って行ったブドリのお父さんの家を出てゆくときの最後の科白、すごくひっかかっているのだ。「おれは森へ行って遊んでくるぞ。」ここでおそらく死ににゆく彼の口から、どうしてこの遊びという言葉がでてくるのか。ものすごくさまざまに解釈される、深い言葉だと思う。「遊び」研究テーマ思いつきメモね。

そう、この、人生賭けるゲーム感覚、ルーデンスな感じ、今とてもひっかかってるのだ。)

 

とにかくね、なんかね、これを今観るとさ、どうしてか救われちゃったりするんだな。
どうしてかな、わかりそうでわからない。

ただね、誇りに思うよ、この時代に生きたこと。生きていること、この世代であること。自分と、自分が生きた世界が確かに存在したのだというリアリティ。

これは、世代の刻印。…ああ、例えばこういうことなんだな。誇りや矜持の根差すものの、感覚は。刻印、ということ。確かに存在したのだ、というただその感覚のリアリティだけ。世界と自分があのようであったことの証明と標本。

証明と標本、というのは、銀河鉄道の夜春と修羅にも繰り返し出てくる賢治文学において需要な意味をもつモチーフ、まあいわゆる賢治用語なんだけど。これを見田宗介がものすごく興味深い分析をしていて、いつも思い出すんだ。

この文章はメモだ。この感覚も、いつかもう少しちゃんと書いてみたいと思っている。証明と標本っていう意味の紹介も一緒にさ。

携帯音楽プレーヤー

音楽は好きだけど、電車に乗ってるときやお散歩してるときは街の中のさまざまの微細な物音に包まれているのが好きだった。風の音車の音人の話し声鳥の声その遠近による音響の立体。そして心の中にはナチュラルな脳内再生ミュージック、脳内くちずさみソングと、それら外界のざわめきは、しっくりと多重奏をかなでてくれる。
(というか、音楽聴きたいな、と思うときもあるんだけど、耳に合うイヤフォンや頭の痛くならないヘッドフォンに出会えなかったという理由もある。)

ところが最近、新兵器無線イヤフォンを入手した。コイツがなかなかいいんである。耳から落ちない。コードレス。3Dとかなんとか謳われている音質のよさ、電車内でも充分にひたれる、ほどよい遮音性。

…ということで、宗旨替え、というほどのことではないけれど、プレーヤーを持ち歩くことが多くなった。

光の薄い冬の朝の街でムーンライダーズの歌に救われた日もあったし、
春の陽射しの降る朝の街で静かにこぼれるピアノ曲大貫妙子の声に救われた日もあった。

週末昼下がりの電車ではキセルハナレグミ細野晴臣。気怠く懐かしい脱力ヴォイスと中央線。
夕暮れ帰り道では知久さん、たま、かなしいほど突き抜けたエロティシズムの祝祭。

ああこのひとときの陶酔、この快楽のために生きている、という気持ちになる。
人生をインテグレードする音楽の開く時空。「永遠の現在」ポケットに入り込む。

これを耳にはめた途端、世界が変わる。
この瞬間の感覚はいつもミラクルだ。

ソフィー・マルソーの「ラ・ブーム」だっけな、どってことない可愛い青春映画なんだけど。ダンスパーティに出かけた恋人たち二人が、自分たちだけヘッドフォンをつけるシーンをよく覚えている。その瞬間、騒々しい周囲の音楽から遮断され、ふたりだけの世界、そのヘッドフォンからのチークの音楽に酔いしれて踊る。観客は二人の世界を共有する。ヘッドフォンという小道具を用いたこの「二人だけの世界への移行」の切り替わりの演出がすごくうまいと思ったのだ。ヘッドフォンを付けた途端変容する世界。映画全体の空気を一気に染めかえる音楽効果のリアリティ。


演劇性、歌舞音曲、それらはいつも「ここではない世界」につながるための儀式、祝祭、呪術としてあった。ここにありながらここでないところに繋がる、ダブった時空。演じる意味、それは、ミメーシス。アイデンティティの変容、あるいはそこにありながらその牢獄からの解放を可能とする、トランスのための、常世へと通ずるメディアとなるための。

例えば賢治の農民芸術論概論において、芸術はイデアを模倣するミメーシスという行為であり、それはすなわち現実という観念によって閉ざされたこの世界を、その行為に付随する観念の相対化によって読み換える方法論であった、輝かしいものへ。

「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」
「詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画
われらに理解ある観衆があり われらにひとりの恋人がある
巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす」

賢治の言う「四次元」のありかたは、このような解放のツールとしての芸術を方法論とする創造的行為によって開かれるものであった。現実を生きながら四次を生きる、その多層構造の構築。


…鬱の人が、サングラス、マスクで顔を隠していないと怖くて外を歩けない、ということを言っていたのを聞いたことがある。己の存在を覆い隠すことによって、「見られない、裁かれない」という感覚、世界が己を評価し断罪するための視線から隠れている、守られている感覚を得る。薄い膜一枚。

隠れる、というのとは少し違うが、その薄い膜一枚によって隔たっている、外部によるレッテル貼リ、カテゴライズその他による己を限るものである論理の閉塞から逃れている、自らを閉ざすことによって外的圧力から免れ、内部に何物にも侵されない自由と解放を得る、という感覚としては、音楽で周囲から隠れたおのれだけの世界を創出する、という行為も似たものがある。世界がブレ、ズレる。主体はその内側の立ち位置の確保によって、固定され閉ざされたシステムという物語に対してのメタ位置に立つことができる。ミクロからマクロへの反転という図式である。

これは、例えば北村透谷が自由民権運動、政治活動に挫折して負け犬となって牢獄に閉じ込められたときはじめて発見することができた文学の深淵の構造と同じものである。
うろ覚えで恐縮だが、社会、政治というシステム、「現実」「外側」と信じていたその物語から排除され挫折したとき、牢獄において否応なく己の内側に開かれた瞳に写ったものが、「内部生命論」、すなわち「実世界」に相対する「想世界」という真理、その実存的思想であったのだ。

そのとき、主体は世界に組み込まれる抑圧を受けるものではなく、まさに主体として世界を作る、物語を作る力を発生させる状況の助力を得ている。魂の故郷ともいえる場所、世界に対する能動の発生する場所。読み替えの行為である。

例えば人々が電車の中で携帯音楽プレーヤーのイヤフォンをつけることもその一つだ。この機器の助力とは、本来脳内で打ち鳴らされるべき物語、演劇、音楽が外部にはみ出した文明機器によって得られるという特色をもつ。確か中沢新一がこのことを、脳が外部に延長される、というような言い方をして表現してたんじゃなかったっけな。電車内の読書だって構造としては同じものだ。心の中に別の世界を開いて多重の時空を生きる自由を得る構造。

音楽、絵画。そして映画、それが文学になるプロセスを心の中に発生させる能動性。
五感による物語とそれが抽象に組み立てられる創造のプロセスの中に生まれるダイナミクスの意味は、その中に「生きる」ことを可能とするところにある。

それは、世界と一体化し、世界が無限の意味に満ちていると感じられる瞬間なのだ。


豊かさとは、いつでも己の内側の自由によって保証されるべきものである。
(幸福とは手足を楔によって繋がれた状態である、ともいう。繋がれる幸福と解放される幸福、それを、対立としてではなく、多層として生きるということが、コミットし続けながら逃げつつける矛盾を成立させるテクニックということなんだろうと思っている。愛と、自由との相克を耐えて生きる、その方法論。)

「真鶴」川上弘美(改訂版)

「夜の九時ごろって、人は何を考えるのかしら。聞いた。
さあ。夜の三時や、あけがたの四時に感じることなら、知っているけれど。
青茲の答えに、顔をあげた。三時や四時?

三時は、少しの希望。四時は、少しの絶望。
きれいな言いかたね。
ばかにしたでしょう、いま、あなたぼくを。
ばかにはしなかった。でも、きれいすぎると思った。希望も絶望も、きりはなすことができるものではない。(p80)」

  *** ***

川上弘美のしっとりといろっぽく、少し怖いようなひらがなの使い方にぞくぞくしている。…「真鶴」再読、了。すっかり忘れていたのでまるで初めて読んだようであった。寝ぼけた蝉が鳴いている、八月終わりの深夜一時。

読了後、不可思議な感動で脳細胞がじいんと振動していた。
情趣とカオスを描き出すことを得意とするこの作家の作品群を分析するのは難解であるが非常におもしろい。極めて感覚的であり繊細さに優れているために、一見情緒ばかりに流れているようにも見えるのだが、実はその基底には論理が、法(ダルマ)とでも呼ぶべき「構造的なるもの」がしっかりと秘められている。だからこそこのジンとした感動なのだ。ここからはかならずその理由となる論理が、深々とした豊かさをもって汲みだされるはずだ。

そしてその論理が何故深く豊かなものであるかという理由は、それが、日常現実において隠蔽されているもの、構築された堅牢な構築物としての現実というひとつの物語の論理を越えようとする野生の思考、隠されたそのマトリックスをまっすぐに見出そうとする神話の論理に近いものであるところであるというところに由来する。

この振動が残っている内に、少しでもこの構造について、その異界の論理の持つ意味について、メモにでも書き残しておかねばならぬと思う。

ということで分析チャレンジ。

  *** ***

作品前半。主人公京(けい)の12年前失踪した夫・礼(れい)と、現在不倫関係(既婚、子持ち)にある恋人・青茲(せいじ)との恋愛関係をからめ、思春期を迎える一人娘・百(もも)、老いてゆく母との女三人暮らしの日々が描かれる。京の独白のスタイルである。この部分は、繊細な感性に流れてゆくような、いささか冗長にも感じられる京の日常生活の描写で、極めて繊細で鋭敏な感覚的情趣にあふれているにせよ、まあありきたりの恋愛小説の体をなしているようでもある。その域である。

が、中盤、一気に流れが変わる。伏線としてちりばめられていた異界性が一気にあふれ出し、この小説を凄まじく激しいものと変えてゆく。薄い膜一枚でようやっと保っていた日常現実のその被膜が引き裂かれ、カオスの闇に沈んだ深層がえぐり出されてゆくのだ。噴きあがる、どろどろとした灼熱のマグマにも似たその深淵と暴力性。

京が一人で真鶴にでかけ、祭りの夜、「ついてくるもの(霊のようなもの)」の女にいざなわれて異界に踏み込んでゆく、ここからだ。いきなりおもしろくなる。ぞくぞくするような川上ワールド炸裂。二重写しの現実と異界のあわいをおぼれてゆく。夢か、うつつか。現実の記憶か、捏造か、己の為したことか、他人の為したことか。或いはパラレルワールドか。…何もかもが現実感を失い、心象の中、主体の在り処さえ定かではない、悪夢を渡り歩いてゆくようななまなましいリアリティ。狂気。そして、そこにあるのは、まっすぐで激しい、心身二元論を無意味なものとするような、現象を成り立たせるものである原初の官能。

このエロティシズムは、 日常生活、社会性、その「現実」とされている論理秩序、あらゆる物語における制度の表皮を引き裂き、矛盾に満ちた「存在」の本質をそのままに突きつける「力」そのものだ。

ということで、全体の物語構造を俯瞰すると、夫の失踪によって精神のバランスを失った京が、東京<日常現実・生活(ふつう)・恋人青茲>の側から、真鶴<異界・夫礼(不在、死)>の側へ境界(祭り)を越えてダイブし、その死の側(ただし生のマトリックスとしての死。個の枠組みアイデンティティを放棄するという意味での死。カオスのエネルギーにみちている。不在と存在の矛盾がたわむれあうカオス。虚無ではない。)に存在を呑まれる試練を経て、そこで、心の中に巣くった夫の不在という<存在の幽霊>の呪を葬る。そして新たな日常現実としての東京に生還するという「死と再生」、或いはいわゆる「行きて帰りし物語」のスタイルをもった物語であると言えるだろう。

参考・ここで述べる現実と異界の二項対立構造は、先だって記事にした西田哲学の生命論理の構造に正しく合致するものである。現実ーロゴス、異界ーピュシスとする図式があてはまる。これを念頭において読んでいただくと、「矛盾」というキイワードの意味するところと共に、以下に述べるものの論旨全体を理解していただくための一助になるのではないかと思う。→参照「福岡伸一、西田哲学を読む」

以下、具体的に本作品においての異界と日常の関係性を追ってみる。

●日常現実と異界の関係・東京と真鶴

冒頭では、京が中盤の本格的な真鶴行きの前触れのようなかたちで、意図的にではなく偶然に降り立った真鶴での一泊が描写される。12年前に失踪した夫のことをずっと考えている。ここで、そこに心を捕らわれたままの京の現在を読者は知ることになる。京のなかでの「夫の不在という存在」という病んだそのかたちが「ついてくるもの(幽霊)」との関わりにおいてあぶりだされてゆく。

この旅は前哨戦だ。夫の残したメモから成立した、中盤の本格的な真鶴行きに先立つ予告編。

真鶴は、ここで、京にとっての「向こう側」の世界、すなわち「こちら側・東京」の日常生活の現実から消えてしまった夫(不在)の側に属する異界というトポスとして決定づけられている。

京の中での夫の不在が「いないのに、いるもの」であることは、恋人青茲の嫉妬心によって次のように看破されているところである。

「『いないもののことを、ぼくに思わせないで』
え、と青茲をみなおす。顔が、あおざめている。どうしたの、のぞきこむ。
『嫉妬だよ』青茲は言った。
嫉妬。すこし、息をのんだ。妙な言葉だ。青茲の口からでると。でるはずがないのに、でている。
『でももう、いないひとなのよ』つぶやく。
(中略)『いないから、嫉妬する』青茲はいった。」(p82)

そしてここではまた続けて、この「いないのに、ついてくるもの」、すなわち、京に憑りついた異界への誘いであるものとしての幽霊が、京の中にある、夫・礼の「不在の存在」につながるものであることが示されている。

「『いないのに、ついてくるから、嫉妬する』青茲はいいなおした。
ついてくる
その言葉に、びくりとした。
『ついてくるもののことを知ってるの』聞いた。
(中略)知らずに、偶然に言ってしまったのだということが、すぐにわかった。青茲に、知られたくない、とつよく思った。
とたんに、ついてきた。密度の高いものだった。」(p82)

●母と娘・女性性の持つアイデンティティの独自性

…そして、帰京。「こちら側」東京での京の日常生活の描写である。

京と娘の百との関係が、京の独白の中、現在の出来事と過去の回想のカットバック的な描写の中に浮かび上がる。血を分けた娘が自分と一体であったところから、別のものへと育ってゆく、その不思議な痛みや寂しみの感覚を母として描写してゆく。

産み落とした赤子は、いとおしい、ではなく、ただ自分に近くて大事なもの。その「近いもの」であった娘がそうでなくなってゆく過程の不思議。そしてこのとき同時に、京自身がその娘の立場であったときのことを思い、初めて己自身の母、老いはじめたその母の心を知ることになる。アナロジーとして重ね共有してゆく、と言ってもよい。母心、母という集合体の持つ心。

これは何を意味するか。

いわゆる母性愛、盲目的に献身的な愛、という単純な物語に帰するものではそれはない。もっと構造的なところに問題意識は焦点化している。

個を超えた普遍、「女」という性の持つ人間たちに共通のその「産むもの産み落とされるもの」の時間の経過による立場の移り変わり、或いは重複。ひとりの女は同時に母であり娘であるというふたつの立場の心を重ねもつ。このとき、個は、産み落とされ成長し個となり、産むことによって分裂し個を超えてゆく、連綿と繋がり繰り返される、この女の一生の歴史の流れの中に己を投げ渡しているのだ。それは或いはまた、「家族」という概念の歴史でもある。制度の中に組み込まれた「個と普遍」の図式が、ここでは、女三世代の日常の暮らしの中で、お互いの血のつながりの関係性の意味が「個とそれを構成しているものとして普遍」そしてそこにある「矛盾のありかた」のような構図であるものとして問われてゆく。

「青茲と結婚したなら、ずっとつづいていただろうと思った。青茲とわたしの仲が、ということだけではなく、もっと長い間かけてつながってゆくものが、きちんとそのままつながっていったろうと、思った。
 長い間、母よりももっと前から、百よりももっと後まで、連綿とつづいてゆくなにか。
 それはただの記憶でもないし、かといって遺伝子のような組成のはっきりしたものでもない、ただ、つづく、としか言いようのないものだ。」(p87)

個でありながら個を超えはみ出てゆくものである集団意識のような「つづくもの」を己の個という存在自体として見出だす。矛盾。それはつまり、「ふつう」であることと、(「ふつう」に属するものとしての「個」の概念は、ここではそれ自体が社会的システムに属するものである。)そこからはみ出る「ふつうでないもの」(個の枠組みを無視したところに発見される自己存在の在り方。)の矛盾にみちた共時性としての個という存在のかたちの発見である。

つまりここには、「ふつう(日常現実)」のところでは隠蔽されているものである、個を破壊する要素が個それ自体として存することによって成り立つ「ふつう」、という矛盾そのものとしての生命の構造が示唆されているといってもよいのではないかと思うのだ。

もちろん母と娘の関係性としては、父であり息子である、というところにも同様の構造が存在するわけだが、徹底的な違いは、それが観念的なものであるか、激しい痛みのリアリティを含めた直接的な身体性を伴っているものであるか、というところにある。「母」という概念には、己が異物(異質なもの、男性)を受け入れ、それによって己から派生した胎児と肉体的に完全或いは不完全の間をゆらぎつつ一致していた時間と、激烈な痛みとともに身体の外部へと産み出されたその己であり己でないもの、そこのある同時性の矛盾を体験する時間の経験が含まれている。そう、そしてここでこの「矛盾」とは、個を引き裂いて破壊してしまうほどの「激烈な痛み」として表現されるものであったのだ。

出産シーンには、その死と生の狭間の時空(或いは個の領域と個を超えた領域、アイデンティティの枠組みの壊れる場所)「ふだんの生活から、遠くかけはなれたところ~(中略)~いてはいけない場所」(p77)を体験したなまなましい身体性、という、存在にとって決定的な意味が伴われている。この「いてはいけない場所」と表現されているのものが、日常生活の世界論理を破壊するものである、すなわち隠蔽されている場所としての異界を示唆するものだと考えてもよいだろう。

これを見事に描き出した出産の際の回想シーンは、非常に印象的だ。
己自身の精神の変遷をどこか客観的に傍観する。ユーモラスなようでひやりと怖いような、この川上弘美独特の語り口。その際の精神の変遷描写とは、すなわち世界構造の認識に関する意識変遷であり、それは日常現実への違和をなまなましくあぶり出すものである。…素晴らしく揺さぶられる。少し長いが引用する。

「百が生まれるときは、ものすごく痛かった。
痛みというものをそれまで知らなかった。知っていたと思っていたのはちがうものだった。
(中略)それなのに、生みおえてしまうと、忘れた。きれいさっぱり、忘れた。
『かわいいあかちゃん』などと分娩してからたった一日ふつかしかたたないのに、平気で言っている自分が、へんだった。あんなに、激しい怒りのように痛くて、ぶつけどころのないものをからだじゅうに漲らせ、人のかたちをもう保っていられないとまで思ったのに、それなのに平気で『わたしのあかちゃん、よしよしいいこ』などと、かるがる言っていた。
(中略)子供を生む前と生んだあとの、妙な感じについては、ほかの『おかあさん』たちも、みなひとこと、あるようだった。
『考えていたのと、ぜんぜん、ちがう』くちぐちに言った。
世界が変わった、というのではない。でもちがう場所に行ってしまった。時々刻々と、いる場所は変化した。変わって、変わって、どこまで行くのかとおののいて、それからまた戻ってきた。けれどまだ、戻りきれていない。
生死にかんすることだからちがう場所だった、というのでもない。ただ、単純に、ちがうのだった。ふだんの生活から、遠くかけはなれたところだった。でも、ふだんの生活が、いくらでもしみ入ってくる感じもあった。痛みのまんまんなかに、生むときの、きばって踏みしめている足もとのあたりに。
(中略)いてはいけない場所。そこに、ほんのわずか、踏みいってしまったおそろしさが、子供を生む場所にはあった。
(中略)生んだすぐあとの、戻りきれてない感じは、まだ完全には、なおっていない。たぶん、死ぬまで、なおらない。」(p77~80)

この出産にまつわる異界との関係性の描写は、「日常」「現実」生活というものの、何かを隠蔽したものである不自然さ、異様さを浮き彫りにする。そしてそれはまた「ふだんの生活から、遠くかけはなれ」ていながら、「ふだんの生活が、いくらでもしみ入ってくる感じ」、隠蔽されるはずのいてはいけない場所、異界が実は日常生活と共にあるのだという矛盾構造があらわになる瞬間である。

この出産回想シーンは、真鶴での異界の道行き体験とのアナロジーを成していると考えてよいだろう。「世界が変わった、というのではない。でもちがう場所に行ってしまった。時々刻々と、いる場所は変化した。変わって、変わって、どこまで行くのかとおののいて、それからまた戻ってきた。けれどまだ、戻りきれていない。」

●「ふつう」と「ふつうでないもの」青茲と礼

「ふつう」について、青茲との関係性に託して記した箇所がある。

「青茲とは、とてもふつうなのだ。ふつうであることは、難い。ふつうでないことは、いくらもある。けれど、ふつうでないことは、たいがい持ちこたえることができない。いずれ、壊れる。壊れに向かうことは、易い。ふつうのことを持ちこたえることが、いちばん難いのだ。」(p89)

矛盾を孕んだまま日常を持ちこたえるという奇跡の現象としての現実、生命存在の構造についてこれは述べている。京は、「壊れに向か」った者としての夫・礼に属するものである異界・真鶴から帰還した。だがその体験は、単純な帰還、元の世界に戻った、というものではない。出産シーンで予告されているように「(いてはいけない、ちがう場所から)戻ってきた。けれどまだ、戻りきれていない。」ものである。

戻ったけれども戻っていない。つまりこの一連の「行きて帰りし物語」構造は「異界(ピュシス)」と「損なわれた日常(ほころびたロゴス)」のバランスを失った矛盾を止揚するプロセスであった、と解釈することができる。青茲も失い夫の呪も葬り、双方を否定することによって新しく獲得されたもの、「ロゴス化されたピュシス」として新たに再構成された場所としての日常生活を意味づける論理を示しているという解釈。「こちら側に戻っているが向こう側にもいる」のだ。作品は見事に構築された物語構造を完結させている。

向こう側とこちら側の違い、それは、「ふつう」でないところにある夫・礼、そして「ふつう」の世界に属する恋人・青茲との対照として次のように描写されているものである。

「いい、とささやく。青茲には言葉をつかうのだ。礼には、できなかった。」(p52)
身体的な官能の感覚を、相手に対し、言葉として表現するか、否かの違い。

また、礼の名を、京はなかなか呼ぶことができなかったが、青茲の名ははじめからスムーズに呼ぶことができた。

「礼は、引き潮のようだった。
踏みしめていても、からだをもっていかれる。」(p71)

礼に関してはすぐに「もっていかれてしまう」「にじむ」「うるむ」という海や水になぞらえた、存在すべてがするりと飲み込まれてしまうやわらかい官能的な表現がなされるが、青茲のときには「はじめる前は、少しのがれようとする。きもちと、からだと、両方が。はじめたくないのだ。ほんの僅かに。」(p52)という、身体行為に至る前のワンクッションがおかれている。それは、「ふつう」というロゴスの世界、「ことば」の世界の持つ間接性を意味している。シニフィエシニフィアンの間の、隙間。

川上弘美作品において共通した「海」のイメージの持つ意味は重く深い。マトリックス、生命の母胎、存在の故郷。個の壊れるところ、死後未生。それは「わたし」が「わたしたち」という集合体に溶け合ってしまうところであり、個を超えた生命の源泉としての集合体に戻ってしまう場所のイメージを持つ。海の生物の異界物語をあつめた作品集「龍宮」などにその兆候はもちろん顕著なのだが、それがもっとも端的に示されている作品としては、もしかして、まず「海石」《「パスタマシーンの幽霊」収録》をあげるべきなのではないかと私は思っている。読後の簡単なレビュではあるが、ここで少し言及した。)(アイデンティティとは何か、というテーマに関連して、「わたし」と「わたしたち」の関係を焦点化して取り上げた作品として印象深いのは「大きな鳥にさらわれないよう」であろう。ここではSF仕立てで、クローンという遺伝子操作による大勢の「わたし」が登場する。「大勢の、代替可能な、わたし」、「わたし」とは果たして何か。…非常に逆説的ではあるが、アイデンティティという規定されたものである幻想を一旦引き裂いて破り捨て問い直すこと、その禁忌に正面から立ち向かうことによって文学は個の持つ存在の意義、どこか損なわれたものである己への疑問と苦しみを救済する手法となり得るのだ。宗教や神話に親しいものである終末論、また死と再生のテーマのもつ意味、意義もまたそこにある。)

本論の冒頭の引用は、青茲のもつこの「ロゴス性」「ふつう」を端的に示すエピソードである。たとえばそれは希望と絶望をきれいに切り離して考えることのできる「ふつう」であり、それを「きりはなすことのできるものではない」と思う京と青茲との距離を決定的なものとする。

ということで、当然、ことばとロゴスに属する青茲と対立項を成すものとしての礼には、カオス、死と非人情(漱石の定義する非人情。「人情」という倫理の物語の枷から解放されたまっすぐな感性・知性としての意味を持つ「非人情」である。)の影がついてまわる。礼は、死を生の、生を死の一部として何の禁忌もなくまっすぐに見つめる眼差しをもつ。二つのエピソードを挙げてこれを例証してみる。

1.椿

「無慈悲な人だと思った。」(p70)
濃い血の色のままぽとりと落ちる椿の花を二人で見たときのエピソードである。礼は花を拾い上げ、手のひらでにぎりつぶす。
「『かわいそう』言うと、礼は首をひねった。
『どうして』
だって、ばらばらに、しちゃって。
どうせそのうち朽ちるものだよ。」(p70)

椿の残骸のついた指を、礼は京の口の中にさしこんでくる、甘い花の香りに陶然としながら京はその指を吸う。赤ん坊の百が京の乳を無心に吸っていたように、差し出されたものをただ衝動的に、「なにも思わず、ただうっとりと甘苦しく。」(p70)

…この、論理を越えた衝動的なるもの、死と生命の衝動の狭間の場所に直結したものとしてのエロティシズムを礼はまっすぐに体現する存在であった。

2.ナナフシ

礼と京とで滝を見に行ったときのエピソードである。
滝のはじまりについて二人は語り合い、人生の最初の記憶、自分の出てきたところについて礼は語る。

三歳の頃、庭の木についた虫をつまみあげようとして手のひらの中でつぶしてしまい、それを母に見せに行ったシーンの記憶である。母は一瞬その死を抱えた礼にたじろぐ気配を見せたのち、ナナフシという虫であると教えてくれた。
『母はおれをしんと見ていた。』

「『おれはつまり、そのナナフシの場面からでてきて、そこからはじまったんだ。滝のはじまりと同じようにね。それ以前は、全然知らない。自分のことなのに。』(中略)『でてきたところ、わたしは、よくわからない。』(中略)いつもわたしは忘れてしまう。でてきたところも、忘れた。
滝は飛沫をあげ、今さっきでてきたばかりのもののように、あたらしく落ちつづけていた。もう何百年とそこにあるものなのに。」(p146)

集合体としての滝のかたち、水の流れのイメージは、いみじくも先にこのブログで西田幾多郎福岡伸一の生命論に関する先のこの記事でも登場してきた例示である。

「福岡氏の主張「動的平衡」としての生命とは、蛋白質を含むとかDNAを含有するとかいう、「外部」から属性を規定される定義としての生命観ではなく、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という性質をもつものだ。つまり、中身としての物質的な実質は流れ変わってゆくものであっても、同じ形を、働きを保つ、その絶えず入れ替わり動きながら保たれる性質そのもの、を指すダイナミックな生命観である。」

そしてもちろんこの滝の構造モデルのイメージは、先に挙げた女の一生においての個の認識、「連綿と続いてゆくなにか」という、個でありながら個を超えたものであるおおいなる生命の流れに連なっている存在、その己の存在形式への認識にぴたりとあてはまるもの、存在と生命への共通のまなざしなのである。何百年とそこにありながら常にあたらしく落ちつづける矛盾として存在するもの。

礼の存在は、その死の場面からはじまっている。青茲のように「ふつう」の論理、ことばのワンクッションを必要とすることなく京を「いてはならない」原初の衝動の場所にもっていってしまう。直結しているのだ。

そして、死に直結した生、その狭間の場所に存在する力が、官能、原初のエロティシズムなのだ。

産みの苦しみ、その激越な痛み、そして異界(死)へ引きずり込まれそうになるときの官能、また性的な官能への欲望の三つが、まったくおなじもの、心身の奥底からなにかが「にじむ」「みなぎる」感覚として描写されていることは、そこが個が壊れる場所であるという共通の意味を持っていることを意味している。生と死と性。

計算しつくされているとしか思えないほどの見事な論理構築だ。痛みの果てが、死が、生のはじまるところが、性的なエクスタシーが、同じように「個が壊れる、個から解放される」ところとしての「高み」である、という図式である。

「ついてくるもの」女の集合体を思わせる幽霊によって異界をさまよう中、礼への思いをかきみだされ、ひきずりこまれそうになるとき、京の中に生まれたのはそのような身体衝動であった。

「にじみを散らして元にもどろうとするが、できない。次第にみなぎりはじめてしまう。礼としたときよりも、青茲とするときよりも、楽々とみなぎってゆく。
百を生むまぎわ、いきまないでください、と言われた。(中略)まだ早いから。あとちょっと。でも、まだよ。
五分ほどの我慢が、無限に思われた。同じ我慢を、いま、している。体は、みなぎりたくてしかたがない。あとひとすじ、ふたすじ、力をこめて目をつぶってにじみの中心に気をやれば、すぐにいちばん高みにゆける。でも、ゆかない。」(p126)

●帰還、そして、光。

「日がかげり、すぐにまた日差しがもどる。三人の、顔から肩にかけて、窓越しに光がさしている。身をかがめると、ちょうど光が額のあたりにきて、冠のようだ。同じ冠をつけ、同じ血をわけた、歳のことなる三人の女。」(p254)

京が最終的に帰京し、決心できず出せないでいた夫の失踪届を出し、新しい生活をはじめたときの平和な日常風景、三世代の女が描かれている情景である。この部分は、前後も含め、かなしいほどにきらきらとした光にみちている。

女たち三人の平和な日常を照らす窓越しの光は、再生された日常において認識される、存在の貴重さ、かけがえのなさを示しだす。それは、この彼女たちの在り方、奇跡として成り立っている存在の日常を祝福する輝きの冠なのだ。

このシーンに象徴されるのは、産み落とされ育ち、或いは理不尽な暴力によって損なわれ、或いは愛し交合し生み育て老いてゆく女の一生の道筋、そのかたちの、個を超えた普遍に満たされながら在る個々の風景。

たやすくこの世の論理枠を超えてゆく異界性を孕んだこのテーマは、川上作品のひとつの特徴である。これをより押し広げ、深め、実験的にピュアなかたちで取り上げてみせたのが、おそらく、「なめらかで熱くて甘苦しくて」であろう。さまざまのライフステージなる女の情景を描く短編を連ねたこの作品は、全編を通してトータルなかたちとして、ここに連なるテーマが打ち出されている。

そして、もうひとつ、どうしても気になるのがここでの「光」の描写である。…この小説の中では、何気ない日常の中の、このような光の描写がひどく印象的なのだ。日常のひとこまを一枚の絵画のように切り取り、意味あるものとする、その「物語化」する美としての彼方からの「光」への意識。これはおそらく作者の意識のなかで半ば意図的な光の持つ意味、その力だ。或いはそれは「向こう側」から「こちら側」にやってくる「力」のひとつのかたちであるということではないかと私は考えている。(精神のバランスを崩しているとき、京は「ついてくるもの」に付随する光の強烈さに目がくらみ、意識がホワイト・アウトする感覚を覚えている。強烈な「壊す力」でもある異界からの力、それは両義の、いや、ただひたすらの「力」なのだ。やわらかく美しい祝福と喜びの神ともなり暴力的な破壊の神ともなる。)

ここでの勲章と祝福の意味に満たされた光の冠の描写は、おそらく「光ってみえるもの、あれは」からの系譜に連なるもの、「ふつう」であることと「光」のもつ意味への関連の意識にもつながるのではないか。

「ふつう」であること、日常であることのいみじさ、そして、そこに射しこまれる彼方よりくるうつくしい「光」との関わりの描写。それは、例えば、希望、賛美のようなもの、…そしておそらく祈りに似ている。その物語の中に、そのようなうつくしさが存在すること、その奇跡のきらめきのようなものに対しての。

「光って見えるもの、あれは」もすっかり忘れてしまっている。気になるのでこれも再読して検証してみよう。再読課題図書である。

BEATITUDE

ひよこを殺したことがある。
まだ人を殺したことはない。

ひよこは、夏祭りの屋台で、渋る母にねだってねだってやっと買ってもらった大切なたからものだった。

確か、小学校に上がるか上がらないかという年頃だった。いつも学校帰りに校門の外でおじさんがたくさんのひよこを箱に入れて売っていた。小さな手がみんなしてふわふわとさわって、ほしいね、ほしいね、と言いいながら遊んでいた風景の記憶がある。よちよちと動き回るひよこは皆駄菓子屋の包み紙のように赤や青に染められていた。

お祭りのとき、機嫌のよかった両親が、ひとつなんでも買ってやる、と言ったときねだったのだ。屋台に並べられていたヒヨコたちから一羽選ぶ権利を。

嬉しかった、かわいかった。ふわふわでよちよちあるくちいさなやわらかい命、わたしのもの。赤や青や奇妙な色に染め分けられたカラフルな動くおもちゃ。何色のを選んだのかおぼえていない。あんなに迷って選んだのに。名前を付けて呼んでなでて餌をあげて、ふわふわの寝床を用意して、大切に大切に愛しんだ。その名を私は覚えていない。

そうして大切に大切に抱え込んで護って、まるめ込んだ姿勢で、ある日そのまま眠り込んでしまった。穏やかに晴れた春の昼下がり。

 

まどろみの中、突如、とりかえしがつかない、という気持ちで心臓が跳ね上がった瞬間、飛び起きた。訳が分からない不吉な夢。胸がどきどきと波打っていた。

ひよこはつぶれていた。

つぶしてしまったのだ。私がつぶしたのだ。そっと愛おしんでいたちいさなやわらかい命を、私の愚鈍な体躯が圧し潰したのだ。殺したのだ。生まれたばかりの無垢な命をもてあそんだ挙句殺したのだ。

 *** ***

蟻をいじめて遊んでいた。趣味であった。
潰したり焼いたり針で刺したりとか、そんな残虐でつまらないことをしたわけではない。基本、注射している自分の腕も見ることできない人間である。

蟻を観察するのが好きだったのだ。

行進する道筋を丹念に追い、巣をつきとめた。巣の中を想像し、掘り起こして観察しようとして間違って埋めてしまったり、それを補修する蟻たちの見事な連係プレーに感嘆したりした。蝶や蜻蛉の死骸をよちよちと運ぶ彼等を手伝ってやろうとしたり、さっと持ち上げて隠したりした。上から巨大な私が軽々と巨大な獲物を操作する。おおかた彼等の見る風景を想像して万能の神の視点でも想像していたのだろう。

ほんのひとかけの砂糖にまっくろになって群がる彼等を見て大層満足した。私の小手先三寸で狂喜する蟻社会。 生殺与奪の力をもっているのだと思ってでもいたんだろう。いやしい子供である。

一匹をそっとつまんでバケツに浮かべたコスモスの花に乗せたりした。花のボートだよ、きれいでしょう、と話しかけた。蟻は泳げない。

私がそういうことがしたかったのだ。本物の花の船にのってゆらゆら流れてみたリ、親指姫のようにチューリップの中にやわらかく射し込むひかりのお部屋で過ごしてみたり、そういうことがしてみたかった。だから蟻にそれをやったのだ。

当然、蟻は狂ったように逃れようとし水面に波紋を作ってはぐるぐると惑った。草を差し伸べて救いの梯子だよ、と差し出してよじ登ってきたものを丁寧に巣の付近に戻してやった。

悪意はあったのだろうか。本当にわからないのだ。自分のやっていたことに対する自分のそのときの心が。やっていたことはおぼえているのに。それは残虐であると自覚して陶酔していたのか、それとも本当に無邪気で純粋な遊びだったのか。

そのときの自分に問いただしてみたいと思うのだ。おそらく、なにもかもなにをいわれても真実だ。

 

BEATITUDE、八福。聖書のあの一節が私は大好きだ。

心の貧しいものは幸いなり、とかいう、あの一連のふかぶかとした知恵の言葉が。

ああ、苦しいですサンタマリア。

どうかどうか許されますよう。悪意のない巨大な罪業の集積が。