酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

秋の夜長

深夜だ。

ベランダに出ると湧きあがる静かな秋の虫の合唱に包み込まれた。

頭上にひとつ、ぼうっとけぶるようなあえかなお星さま。るうるうと様々の音色の鈴を振るような虫の声が深みを湛えたハーモニーを奏でている。

それは大地からうまれた音楽のように湧き出でて、空と星のうつくしさに賛美と称賛を、そしてその誉を湛える歓びのコラールをささげている。地上から天上へと向かって昇ってゆく。世界全体がその慎ましい柔らかな音楽で包み込みながら。

覆われていく。

地上から星空の世界までがすべて一体のものとなるような、地球がその魂の深奥から静かな歓びをうたいあげるコラール。

星が震えるように明滅しそれに応えてゆく。

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竹下文子の「星とトランペット」や足穂の「星を売る店」レメディオス・バロの「星粥」のことおもいだした。大切な本たち、家出したときみんな私の本棚に置いて来てしまった。

「星とトランペット」は、主人公が深夜の散歩で出会った金色のトランペット吹きが、きらきらとそのきらめくような音色を響かせると、星がきらきらと落ちてくる。それを拾って集める星拾いやなんかのお話。夢の空間に迷い込んでゆくこのシーンが大好きだった。

いわずと知れた魅惑の足穂ワールド「星を売る店」も、足穂一流のキッチュで粋で洒落た素敵な都会の夜の夢の世界。天体と都会の宇宙のファンタジー。街の小さな星を売る店、好奇心に駆られて入ってみると、店内には煌めく小さな星々が並べられている。店主の説明によると、金平糖やすうっとした星のパイプタバコ、おもちゃの電車のエネルギーになる。そんなお星さまのお話。

そしてバロの「星粥」。これは小説ではなく絵画。深みのある色合いを重ねた繊細でうつくしい絵だ。私はこの絵でバロにはまった。

金色の大きな鳥籠の中に、ぽっかりと浮かんだお月さまを飼っている。星屑をあつめたおかゆをひとさじひとさじそのお月さまに食べさせるシーン。…そこは光の交感する世界の秘密を秘めた夜の部屋。

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「モモ」の、マイスター・ホラの館、宇宙と繋がった時間の花の咲くうつくしい部屋のシーン思い出す。世界が宇宙と響きあっているその秘密を隠した「どこでもない場所」。

…絵からたくさんの物語があふれだしてきそうではないか。

美しいお話や絵画のイマジネーションが音楽のように心を満たしてゆく。このひとときだけの私の自由。

うつくしいお話は無限の映像を、うつくしい絵画は無限の物語をはらみ、音楽のようにきらめく織物のように次々と美しい命を紡ぎ出してゆく。その豊穣に満ちた世界。私は世界というテクストの豊穣を読み、無限の存在曼荼羅宇宙へと解放されてゆく。

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文学、絵画、舞踊、音楽。

人は感じたことを考えたことを、歓びを、哀しみを、怒りと、感謝を、祈りを…表現することを。書くことを、そして他者のそれらを読むことを、求める。

人々は次々とその創造行為を共有し参加してゆくのだ。芸術行為、そのアルケーはすべてが祝祭空間に似た、何か目に見えない崇高なものに己を捧げてゆく欲望に似ている。

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さて、ナラトロジーという学問があるのだが、ここには「読書の現場」という概念がある。

物語を読み取る「読書の現場」。

そこでは、作者と読者が、物語の消費と生産が、読むことも書くことがすべて既に一体となり、等価なものとなっている。ひとりの言葉の個がひとりの個の読者に読み取られるとき、その一期一会の現場で、はじめてかけがえのない唯一無二の物語が立ち上がる。作者と読者が、互いに個の牢獄から解放された開放がその想像力のダイナミクスの中にのみ共有と共存の奇跡を成り立たせてゆく。

そこでは何もかもが生まれる場所。

誰も裁いたり裁かれたりすることなく世界の存在そのものが大前提の価値、うつくしさとして認められ許されてゆく創造の場なのだ。

…解放。歓び。感謝。賛美。真理。善きもの。うつくしいとはそういうことだ。

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ああ、そんなうつくしい星々の物語をたらふく展示した博物館のお話を読みたいな、書きたいな。

世界が美しいのは正しいことだ。