酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「明日、晴れますように」続七夜物語 川上弘美

第一声。

…やっぱり素晴らしいな、川上弘美

最初入りにくかったけど、「七夜物語」はむしろこの作品のために書かれたのだ、とすら思える。

例えば(ちょっと出来合いの設定を感じさせるありがちなファンタジー異界への参入方法)(本を読むとその世界に入る)、というような、よくできてはいるけれど、むしろきれいにできすぎていて、「わからなさ」という、「感じ続け考え続けることを強いるところであるはずの文学性」を欠いた「子供を子ども扱いした作品」のように感じてしまったところがあったのだ。都合のいい無理を感じさせる物語展開構成や、透けて見える思想や倫理観。

で、それに伴う、或いは伴わない寂しさが感じられた「七夜物語」は、この作品の前提を拵えるためのプレテクストであったと。イヤもちろん前者のあれはあれでやっぱり川上弘美節、それだけでは決してない、素晴らしいその繊細な感覚、感情描写。そこに一旦入り込めばそのひとつひとつはとっても素晴らしかったんだけど。

そしてむしろ、逆説的に言えば、この、短編を重ねるオムニバス構成から出来上がってきたようなこの「続編」よりも、ストーリー的に読みやすく、「面白い」ものであるかもしれない。

だけど、あえて私はこちらを取る。これはむしろターゲットを子供向けにした前作よりも、大人のための優れた文学として深化を遂げた文学作品に発展したものだと思う。(もちろん子供のための文学としてこれは素晴らしい。すべての子供にこのような作品を読んでほしい優れた児童文学としてその意味は重なっている。)とにかく私は非常に深い感銘を受けた。…救われたのだ。

*続編前にこないだ「七夜物語」再読したときの準備運動記録がこれ
https://yamamomo.hatenablog.com/entry/2024/06/13/012849

*最初に「七夜物語」読んだ時の感想はこれ
https://yamamomo.hatenablog.com/entry/20120709/1341842811

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読み終えて、ああ、と思った。
連載にしてほしい、このグリクレルの物語。重ねてほしい、この物語世界のモチーフのひらめく、この夜の世界をめぐるオムニバス。

時空を超えて、さまざまの年代のさまざまの子供たちの、その人生をめぐる世界の優しさ寂しさ豊かさ、そして赦しと救済を語る川上弘美のこのうつくしい言葉で。

絵(カイ)の、「犬はまだいる」。
の犬に対する感情の動きの描写や
りら(仄田りら)のイジメ被害に対する感情の自己分析の描写や。

もう、なんというか、胸にぐっとくる。彼ら彼女らの、この宇宙人のような「そういうものだ」「当たり前だ」を受け入れられずに異化することができる、「イデア」な子供らの論理の真っ直ぐさ。彼らは問い続けることができる。そして好悪の理由を考え続ける。

…何しろ川上弘美の感じるところであるこの言葉のセンスが好きなんだよな、まず。

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この本は、ここで読む、と決めている。
私の避難場所、隠れ家図書館の地下室。
この地下室では、何もかもから逃れることができる。守られている。シェルターなのだ。

しがらみ、己の欲望や罪業や喪失からすらも逃れられる。そんなものはみな地上の争乱と騒乱の中に置いてきた。
ここでだけ私は自在な図書館オバケの精神の中にある。誰でもないとらわれない魂でもって自在に本が読めると言うのはそう言うことだ。

並ぶ本の背表紙は扉だ。どこでもドアだ。
無数に並ぶそれらの眺めて、そのひとつひとつの素晴らしい可能性にじいんと感動し、これを読まないで絶望するなんて馬鹿げている、とその時本当に思う。人間は、その祈りや思考にこめられた世界を言葉に込め、そのメディアとしての言葉の「向こう側」の、言葉を超えて広がる無限へとつながるものである世界を構成している。その魂のほんらいのうつくしさは、夢見る豊かさは、素晴らしい、と。

夕暮れの、戻らなくてはならない時刻。これからなのに、図書館の夜の時間。

もっとずっとみょうちきりんな夜の世界、その眷属である生き物たち、やまもとたちやグリクレル、夜の学校の中の不条理な世界、不思議の国アリスのような世界での冒険を読み続けていたかった。

続きは明日、と。
晩夏の光、長い眩い夕暮れの光の中、斜めの森のとろりとしたオレンジ色の光に染まるお寺の墓地の森を眺めながらバイクで走ってゆく。
この由緒ある寺と大木に守られた墓地の風景も好きなのだ。時折日暮れに荘厳な提灯の灯りが無数に灯され、立派な葬儀が行われている。どのような富貴なひとが葬られているのだろう。そこでさまざまに行き交うであろう生者や死者をめぐる人々の想いやお金の動きのいみじさを思う。

そして夜は流星群。
ベランダから流れ星ひとつ。

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(翌日夕暮れ)

読了。
胸いっぱいな思いと、タメイキ。

居丈高な正義の倫理は緩やかな寛容さをもった曖昧さへ。

落とし物たちのものであった弱いもの捨てられたものの正義だけが正義なのでもない。ただそうなるべくしてなったのだ。

七夜物語で生硬であった言葉たちは進化し、柔らかく寂しく、世界はうつろい変わりゆく存在たちの世界になる。

ここに「断言」されるものは決してない。

すべての存在はその存在としてあるがままの赦しである。うつくしくないものは間違っている、ただそれだけ。問い直す、問い直す、問い直す、こどものことばで、にんげんではない者たちの言葉で、大人になってしまったにんげんを超えた視点によって。その誠実でまっすぐな易しい優しい言葉で。

人をいじめて喜ぶ心でゾンビになってしまう人間と、「ほうそくせい」のない理不尽の発見。ラスト近く、怒涛のように語られる東日本大震災のエピソード、その現実の東日本大震災をめぐる理不尽な犠牲と言う概念を経て七夜物語は深化した、と言うこともできるのかもしれない。

他者を貶め傲慢になっていた、と気づき、しかしそれが安易な自己否定に反転するのは、非が人にあるか自分にあるか、の二者択一という、正義と言う理不尽の裏返みだ。己を否定し責めることは人を責めることと同義なのだ。

たとえ自分が、人よりも優しくない、エゴイストである、人間よりも動物やほかの存在に対して愛しい大切、思い入れ、を抱くものであったとしても、それを否定することはない。己のエゴを否定し傷付いてはいけない。全てがそれぞれのエゴを含んでいる世界全体そのものがあるがままにうつくしいのだ、と感じることだ。

それは決して他を、変わりゆくものを否定しない。(そしてそこに他者を責めて楽になるための「不謹慎」の私刑や懲罰は存在しない。)たとえそれがあんまり寂しいものだとしても、それを乗り越える救済が同時に存在するのだ。

痛みと赦しは共存する。(「1Q84」で、牛河がふかえりの眼差しに刺し貫かれたときの、あの傷ましい深い心を私は思い出す。)

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命題はこれだ。「世界は本来うつくしいもの。うつくしくないものは間違っている。」

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そして、宮沢賢治「学者アラムハラドの見た着物」のように。
(正しいことうつくしいことを求め自己犠牲をいとわない心すべてを素晴らしく思う、けれどほんとうに大切なものとはいったいなんなのかを考え続けることのいちばんの大切さを語る子どもの思いが、天(真理)に違いうつくしい天上の人々の衣の輝きをアラムハラドに見せるのだ。)

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ここで大切なのは「えらそう」な気持ちになった時、他者に対し「不注意になる」ことへの気づき…ただそれだけ。己が強者、多数派になった時、見えなくなるもの。

この気づきのシーンは本当に感動的だ。りらが、えらそうになりたくないのにえらそうな気持ちになってしまうことへ想いを語る。絵(カイ)もそのことについて一緒に考える。自分が優れている、えらそうな気持ちに嬉しがることで忙しくなると、見えなくなる世界の深い豊かさについて。その「うつくしさ」への思いについて。

…ここにはまたうつくしさに関する多様性、多義性というテーマがある。正しい基準はないのだ。多義がある。他の基準をもまた認め合うための。だがその向こう側に調和がある。

そして、親世代であるさよと仄田くんは夜の世界を忘れたけれど、そして二人は昼間の世界においてはその冒険を忘れ、分たれた大人へと育っていったけれど。

絵とりらは覚えていて、その移ろうこと忘れることをも含めた、その大切さをそのままに抱きしめて、結婚して子孫の繋がりを広げてゆく。深化し、それぞれの個を越えた共通の夜の世界を孕んで、膨らみ、豊かに永遠に語り継がれる寂しく美しく優しい物語たちの系譜。愛しさ。

寂しさは、世界の意味もひとの心も命も、何もかもがうつろうものであるということ。けれど大切なものすらもうつろい忘れられるものだとしても、それは「いけないこと」なんではない。生々流転。そしてまた、いったん存在した存在、意味、思いもまた決して否定されるものではない。それは夜の世界で幾度でも生きられ、永遠に探される真理として瀰漫する世界の豊かさの公然のヒミツ、なのだ、いわば。

絵は、りらを大切に思うその胸いっぱいの夜の世界のこの思いが、翌朝、日常に戻り、さまざまを重ねてゆくことによって「いっぱい」でなくなることを知りながら、せっかく発見した、「わかった」大切なことすら、そのすべてをおぼえてはいられないことを自覚しながら。

それでも、と思うのだ。
喜びとともに。決してそれら全て否定しない。大切に思った、このこと自体が至福の永遠として、既に絵の存在の中に重ねられ、重層としてかたちづくられているのだ、と多分知っているから。

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絵と同じように、胸いっぱいにこのひとときの世界を愛しながらわたくしは図書館を出て今の夏の夕暮れの現実世界へと戻ってゆく。この時だけの救済、かもしれない。だけど。それは私の魂に刻まれている。図書館オバケの魂。

絶対の「永遠」が、時空を越えたグリクレルの夜の世界にはいつでもある。求める子供のままの心の冒険。わからなさを含んだ全体性を全体性のままに、真理を探し求める世界の物語。魂とは、そのようなものなのかもしれない。

すべてが分析可能なものとなったデジタルワールドで論理を超えた論理である「ゴースト」を保ち続けようともがいた草薙素子の物語を私は思い出す。

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「お医者さんに、魂とは何ですか、と言われて、僕はよくこれを言いますよ。分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂というと。善とか悪とかもそうです。(小川洋子河合隼雄「生きるとは、自分の物語をつくること (新潮文庫)」)」