年末に録りためておいたのだ。Eテレ「100分de名著」。
お題がレヴィ・ストロースの「野生の思考」、解説者中沢新一、とくればこれはもう…いそいそと録画。
私は本でも漫画でも映画でも、楽しみなものほどなかなか最初のページを開くことができない、何だか緊張しちゃうのだ。好きなものは最後にとっときに、のタイプである。
で、なかなかみられなかった。
でもいつかある日には思い立たねばならぬのだ。生きてるうちにできることはやっておかねば。
よし、と思い切る。まとめてみるぞどっこいしょ。
夜中こっそり自室にて、ちまちまと編み作業しつつ視聴。やはり面白い、そして中沢新一は相変わらずスタイリッシュで毎回いちいちお洒落である。(第一回は録画し損ねた。くやしい。)この人は実は昔「毛糸だま」という編み物雑誌のモデルなんかしてたのだ。手編みのセーターとってもかっこよく着こなしたりしてね。
坂本龍一とか細野晴臣とか見てても思うけど、いつまでもかっこいいひとはかっこいい。かっこよく年をとる。その年齢に相応しいかっこよさの歴史を積み重ねてゆく。(ちなみに今でもこの雑誌持ってるぞオレ。)
これね。きれいな赤いセーターとてもよく似合う。
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で、番組内容である。
おもしろいな、って思ったのは、日本人の特性としての「野生の思考と最新テクノロジーのバランス感覚」、これをヨーロッパ人であるレヴィ・ストロースが見出し讃嘆していたということの指摘。
第四回、最終回。中沢新一は、彼のこの発見を、日本独自のポケモンやゆるキャラなんかに特徴的にあらわれている擬人化文化と結び付けてみせた。
奇妙な俗っぽさと陳腐さと不気味なほどピュアでまっすぐな幼児性を備えて花開いたこの国の不思議な文化。日陰者サブであったのは今は昔、今日では輝かしい市民権を得て、既にジャパンイメージのメインストリームの様相すら見せている、デフォルメ系のキャラ・アニメ文化。
彼は、この発想の思考基盤を、レヴィ・ストロースのいう自然との調和やポイエーシスの考え方に共通する感覚というか、観念、両者の通奏低音としての基盤であるとするところまで敷衍してみせたのだ。
うわ、と思った。ポケモンの快楽の解釈のひとつとしてこれはとってもおもしろい。外界から取り込むことのできる「力」、自然の力を、ポケモンというかたちで翻訳している、という。
つまり、より豊かに生きてゆくために、自然の恵みをいかに最大限に引き出し安全に利用するか、という文化の原初におかれた命題とパラレルな構造を持つメタファとしての「ポケモンゲット」の解釈を提示してみせたのだ。
自然界のあらゆる場所に様々な形、能力を以て隠れているモンスターというこの世の論理の外側の「魔」力、人がこれをどのような感覚で捕まえ飼いならし利用するのか、という、その命題。(ゲームをしたことがないのでその具体的な感覚は実はわかってないんですが、まあ理論的なとこからの予測。)
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私は、擬人化、ということについては昔から、なんか不思議だなあと思っていた、というか非常なる興味を抱いていた。
一体これってなんなんだろうどういうことだろう何故だろう?
人でないもの話もしないもの人格を持たないものを無理やり人間化する奇妙さ。何らかの人格を付与する行為。(そうやって人間的なるものとしての「翻訳」を施さなければ人間は「人間以外」を理解あるいは支配できないという感覚。)それを無理なく共有し受け入れている社会に対する違和感。
(「話をしないものの話」「言葉を持たないものの言葉」、という一見矛盾した命題は、非常に示唆的である。言葉のない深淵な世界への視野を開く。)(「言葉のない世界はどうして怖いのかしら?」というのは別役実の「そよそよ族」シリーズのコピーではなかったか?)
理由がストンとわかったような気がしたことがあるような気もするんだがそれがまたわからなくなったりしてきた謎なテーマなんである。
古今東西、神やモノ、広大な自然界の無意味な対象をすべて擬人化したかたちで理解しようとする文化は存在した。というか近代以前はそれがすべてであった。原初のアニミズムから発展した民話、童話、神話のスタイルである。近代の人間中心唯一神信仰の権威へ統合される以前の。
それらは、人間がときに過酷な自然の中で生きてゆくために育まれてきたバランス感覚、その知恵の総体としてある。
自然とうまくやって上手に生きてゆくこと、調和。
それは、自然を破壊せず捻じ曲げず、なるべく柔らかなクッション性のようなものの隙間を残した、いうなればより「自然な形」で無理なく人間の生活の便利のために利用しようとする、自然の力の人界への発露のかたちである。支配し奪い取る収奪、搾取ではなく、あふれ出てくるものをただ享受する贈与のかたち。それは、自然の力を「利用」というよりは「恵み」としてとらえる喜びのかたちである。ポイエーシス。豊穣のかたち。
今この時代、さしせまったエネルギー問題を解決しようとするために現れたエコロジーやロハスといった概念がある。だがこれら新規な意匠をまとったイマドキお洒落な思想は、「オートポイエーシス」という、古来のこの思想の表層における一片の発現、いうなれば目先を変えてみせただけのバリエーションのひとつだといってもよいのではないかと思う。
自然の恵みの発露としてのポイエーシスが、それ自身(運動それ自体)に影響し(これは人間→自然への影響を意味する。)再生産(それによる自然の変容、そしてさらなる進化を遂げ人間の側へと再び贈られる、繰り返される豊穣、「恵み」。)されてゆくという運動を含んだ視野を持つとき、それは、人間にとっては、自己を含みながら、それをより巨きな生命体の一部であるように感じさせる自我拡大(或いは自我枠の破壊と別な形での再構築)の仕掛けの構図、そのイメージを孕んだオートポイエーシスへと発展する。
揺らぎながら保ち続け継続する生命の営為を描き出す「スタイル」であるオートポイエーシスは、(ロハスやエコ、という新奇な意匠)より普遍的なレヴェルに存在し、あらゆる個別の思想を規定する基盤となる。…「野生の思考」という変幻自在なブリコラージュの思考スタイルである。
それは、自然そのままではなくそれを圧倒的に優先するでもなく、人間のための素材とし徹底支配、利用、強奪しようとすることでもない。テゲテゲと、まあお互いうまくやってきましょうや、といった共存のイメージをもっている。不都合があればちょこちょこっとその都度調整する。時代と場所に応じて節操なくその形を変え削り取り建てましする。(神話や言い伝えの些末な変容とヴァリエーション。)敬虔さや畏怖に近い信仰から小ずるさを孕んだ現世ご利益、或いはいたずら者のキツネやタヌキとの化かし合いや友情、それら親しみやなれ合いにも似た通俗までの振幅をもった思考領域の自在なフレキシビリティ。(おそらくこれは経済的な贈与理論にも通ずるのではないか。)
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…で、ポケモンがその擬人化の一つのヴァリエーションだとしたら。
このようなかたちで異界の力、自然の力を得ようとするスタイルが「現代の日本的なるもの」の特徴であるとするならば、ということなのである。或いは、土地の象徴を「ゆるキャラ」というあのかたちにして現前させるのであるとするならば。その親しみやすさ、一種の俗っぽさ、陳腐さ、愛らしいアイドルや仲間としての性格を付与された、或いは有能な手下として顕れてくる、この(超)自然の力の表徴というスタイルの意味するところは?
日本独自の特色としていうならば、それは「ユルさ」。
異国の文明文化何もかもをフレキシブルに取り入れながらも、それを独自のスタイルにアレンジして取り込んでゆく、したたかなライフスタイルは、この節操のなさ、ユルさ、のようなところにその根拠を求められるのではないだろうか。
そのバランス感覚は、馴れ合いや親しみ、幼児性をまっすぐに許容しながら最先端の技術や理論を手足のように使いこなす奇妙にアンバランスな「オタク」文化の特色である。それは、世界に冠たるテクニカルなスキルの卓越と極度の幼児性の両極の共存を可能とする。人間でないモノを何もかもを擬人化(いわゆる「二次元ヨメ」的なるもののイメージもこれに相当する。)し、「○○ちゃん」「○○たん」とし、時にはそれを性的な欲望の対象として「萌え」るその愛着、親しみ。モノではなくヒトとして、仲間として愛するものとして。
付喪神として、モノに個性を、魂を見るのは、古来日本人の特性なのではないか。身に着けた着物には魂が付着し、愛された持ち物にはその魂が付着し人格が生成される…ちと怖い世界ではあるが。人格、個性、という概念自体が現代のものとはまったく異なる定義から成っていた、極めてその外界との境界線の淡い危ういものだったのだ。
現代の人気漫画では、武器に、刀に、乗り物に、果ては個々の細胞や内臓、血液型にまで人格が付与され、贔屓のキャラクターなどを競う遊びがなされている。これは、もしやその流れを汲んでいるのではないか、などと思ったりするんだよね。八百万の神(妖怪)たち。
世界を、人間の支配や利益の対象でしかない、魂を持たない無機的な「モノ」としてというよりは、仲間として大切にする、愛すべき仲間として扱う。…そんな、世界との調和のための尊重の態度に、もしかしてそれは通ずるのかもしれない。
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自然の力を、神話化、擬人化した形で取り入れようとするという原理。
つまりこれが、ここでいう、現代に奇妙なかたちで適合してあらわれた「野生の思考」のひとつだということなのである。一つの正解をもち、定義と共通理解(一つの目的とその手段という「各論」)を前提とした論理構造をもつ「概念」としてではなく、さまざまの意味分野への拡大解釈のための揺らぎを持つ暗喩としての、「記号」。
それはまさに「概念」ではなく「記号」として対象を思考するひとつの「科学」のスタイルである。
記号はシニフィアンであり、暗喩と隠喩に満ち、それ自体は厳然とした一つの論理に片付けることができない。その意味する対象のシニフィエは定まるところなく揺らぐ広がりを持ち、解釈(文学の分野での言い方をするならば、テクストが読者によって読み込まれる読書の現場)を得てはじめて意味を生成しはじめる。抽象的な言葉の連なりから摘出される、そのときの、その時空に適応した具体が現れてくる変幻自在な可塑の論理。そしてけれど決してそれはきれいにそこにも収まりきることがなく、いつでも必然としてのアポリアを孕み、さらなるつじつま合わせの増築のなされる建築物としてのダイナミクスを孕んだ活性としての性質を持つ。…これが「野生の思考」ブリコラージュの論理なのだ。
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がっちりと構築された概念に根差した美学もいいんだろけどさ、いや確かにそれがなきゃ世界は成り立たないしつまんないだけどさ、節操がないってのが基本でな、いつでもそこ、「外側」を自覚する、その自在な思考が可能になる地点に立ち還るゆるみ、ていうかたちの知性、メタ認知っていうのかな、そういう自覚がなきゃ動きとれなくなって苦しいよな、って思うんだよな、オレ。