酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

死ぬの怖い

ということで今夜も頼みはヱビス君である。

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小学生の頃、唐突に、リアルに深刻な死の恐怖にとらわれ、それが半年だの一年だの、というスパンを持っていた、ということがある。

という履歴は、自分だけかと思っていたら、意外とあるものだったのだ。本当に、これが永遠に続くのなら、安らぎや幸福は存在しえない、というほど深刻なレヴェルの恐怖だった。

(まああのころは泣きながら母にすがることができることもあったんだけど。こどもだから。)(大きくなってから母がよく笑い話にして話してくれたんだけど、家族で海に遊びに行ったら、みんなで楽しく遊んでいるのに、オレ一人波打ち際にたたずんでしくしく泣いていたんだという。「日本沈没する〜」とか何とか言って。小学校低学年の女児が。…「日本沈没」って怖い映画見たせいね〜、なんて笑われたんだけど。よくおぼえてないんだけど、鮮烈な怖さだけはおぼえている。寄せてはかえす波を見ていたら、己が立っている確かであるはずの大地がぐらぐらゆれて見えて、確かなもの、確かな足場というのがほんとうは何一つないというのだという絶対的な身体感覚としての恐怖だったのだ。)

そうしてそれは、おそらく例外なく好きな作家や詩人の中に見出されたりするものなんである。響きあうものを感ずる。

そういうタイプの心性、というのがあるのだ、と思う。三好達治。そうして、今、川上弘美の「七夜物語」に、その記述を発見し、少しじんとした感慨にふけった

自分も含め、どれも共通して小学校低学年のころ、というのがキモである。何かに目覚める時期なのだろう。自我、自己、主体、客体、世界、その認識のシステムに関し。

混沌の赤ん坊の意識から今まで、盲目的に身につけてきた認識システムを振り返るといきなり不安になる。絶対だと思って習ってきた認識方法のその「絶対」が絶対ではなかったという自己認識。初めての「自分とは何か」の疑問。主体、その認識の枠組みそのものへの疑問。

それが失われる、基盤を失ったときの、完全なる死、虚無へのリアルな恐怖。今まで考えたこともなかった、そのリアリティ。

…つきものが落ちたようにいつの間にかその感受性は封印されていた。それもいまのところ、いろんなひと、みな共通しているようだ。

あれが一生、というのはおそらく大人の生命力では耐えられないからなんじゃないかな。母の膝にすがって泣くことができなくなった人間には死と虚無の恐怖は耐えられない。あらゆる宗教や学問はその代替物である。