酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

忘年会

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プチ忘年会である。

まあ単に地元で旧い友人4人と飲んだだけなんだけど。久しぶりだったからね、とりあえずそう銘打って。

いや~、みんなの都合まとめて時間や店決めたリのあれこれやたらと面倒だし、寒いなとか頭痛いな調子悪いなとか、夜出かける前ってぐずぐず考えてしまうんだけど、行ってしまうとやはり実にいいもんだ。

地元の居心地のいい小さな店で、学生時代からの友人たちと好き放題にしゃべりながらでれでれ気ままに酒を飲むなんていうことは。

いかにも古き良き中央線沿線文化、アットホームでユルくてだらだらした気ままな店。オールドファッションなジャズとロック。山と積まれたCDに漫画本、ペタペタと映画のポスター。実に高校時代の友達の部屋感覚である。

殆ど常連客だけでもってるとこだから、メニューは有名無実、事実上「これありますか~、これできますかねい。」な感じの注文でね。

「飲み物はねえ、ここにあるものからということで、」
「この自家製ジンジャーエールってありますか。」
「ええと、できるかなア…。あ、実はそれ自家製じゃないんですよ、それでよければ。」

嘘かよ。

「…んでばまあ乾杯。」
「いろいろお疲れ。」

でれでれと飲み始める。

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ほんともう何年も会ってないはずの友人なのに、するんとあのころの気楽さに戻ってしまう。いや、あの時よりもずっと目の前のこだわりのない感じ、なんというんだろう、淡い年月の寂しさを湛えながら。それぞれの道を行ったそれぞれの現実を認め合いながら。

…なんだか久しぶりにたらふく笑った。

ひととき何もかもを笑い飛ばすことのできるシェルターにはいりこんだ気がしたよ。こののっそりした懐かしい居心地の良さ。やっぱりここに住んでいてよかったな、離れられないな、中央線遺伝子が組み込まれてもう一生この懐かしさからは逃れられないのだ。

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(ほっそりと華奢な少年だったトモダチたちがさ、なんだかもう腹の出てくるお年頃になったとか、なんだかきっとこれって冗談だよねえ。)(弟よ、そこはかとなくアタシの腹部を眺めながらそういうこと言うのはおやめなさい。)

…懐かしの灯油ストーブ点火の瞬間にも立ち会った。これはほんとうにあったかい。見ただけであったかいし実際とってもあったかい。

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「これ近づくとナイロンとか溶けますから~。」
いやまあそりゃそうでしょう。

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お通しが袋入りスナック菓子とかポップコーンとかで…
「これよしお、手を出すんじゃありませんよ。」
「こいつ手癖がわるいな、よしお。」

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「食べるものありますかねえ。」
「ええと、カレーとか、タコライスとか…」

カレーは人参たっぷりだ。

三々五々、常連さんたちが来店し始める。
(彼等例外なくタバコもくもく。これには閉口。これさえなければひたすら素晴らしいんだけどなあ。)

ふらっと訪れて、でれでれと飲んだりしゃべったりする。遊びに来た友達たちな感じで、何にしろやたらユルくて親密な空気。

麦酒追加頼んだら、話し込んでる店主の代わりに常連さんが持ってきてくれたりね。

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店主はウヰスキーに詳しいらしい。たくさん揃っていて、相談に応じて選んでくれる。「インペリアルだって?なんか偉そうじゃないか。」

私はウヰスキーは今ひとつおいしさがわかってないんだけど、入門できたら楽しそうだな。

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店の隅々まで、インテリア一つとっても何かとあれこれ楽しいのだ。ごっちゃりとCDやら本やら重なってて、おそうじするの大変そうだけどな!

何だか帰りたくなくて、随分遅くなってしまった。
テンション上げ過ぎて後からどっと疲れてしまったわい。

本当に欲しいもの

「ほんたうにあなたのほしいものは一体何ですか」

銀河鉄道の夜」でジョバンニが鳥捕りに聞きそびれた問いである。

幾度も幾度も、いつでも、この問いは私を問うた。

 

…キヨシロやアッコちゃんみたいにね、「欲しいものはたくさんある♬」が実はホントだったりもするんだけどさ。

きらめく星屑の指輪、寄せる波で拵えた椅子、世界じゅうの花集めつくるオーデコロン。

そうして、あなたの心の扉を開く鍵。

 

でもさ、今はとりあえず、薬が欲しい。「ほんたう」とはズレるとしても、これだってホントウだ。真理なんてものはいつだってズレたところにしか存在しない。

一粒飲むと、何の苦痛もなく、すうと優しい眠りが訪れて、そのままここに戻らなくてもいい。確実にね。…そういう薬。

もしできるなら、その最後のときは、ものすごく幸せな思い出ばかりで心がいっぱいになるような、脳内快楽ホルモン分泌が刺激される成分が含まれていてほしい。

今すぐに使う勇気はないけど、宝物にして、お守りにして、いつでも身に着けておく。泥酔した勢いで飲むんだな、きっと。

だけどほんとにさ、もしかして、これがあれば、こういうお守りがあれば、もう少し強くなれるかもしれないと思うんだ。こんなにどうしようもなく追いつめられなくても済むようになるんじゃないかと。

今のこの国で、一番需要があるのはこれなんじゃないかしらんなどとちらっと思ったりもするんだな。

死ぬということが。(世界の始まり・ナルニア国物語)

早朝、半ば目覚め、半ば眠りの中に置かれているとき。まだ目を開くことはなく、意識は目覚めつつある、そのときのことだ。

さまざまな思考が際限なく湧き出でて意識野を駆け巡る、論理が構築されたかと思うと破壊され、それはまたよりうつくしいかたちに再構築されてゆく。無限に深く広がってゆく世界構成を繰り返しながらたくさんのかんがえが一面に跋扈する。きらびやかなさまざまなかんがえの万華鏡の中に恍惚と遊んでいる。

ぐるぐると自在に駆け回る。面白いように考えが湧いて出るのがこのときで、恐ろしい絶望に捕まるのもこのときだ。

夜から昼へ、無から有へ、眠りから覚醒へ。始まりのとき、けれど完全に取り込まれる前のとき。まだ意識は多層で不安定で不定形、アイデンティティは時空に捕らわれきっていない。

…中学から大学まで、人生の、青春時代のコアを住んでいた阿佐ヶ谷の家、うっそうとした庭に囲まれた古い古い家屋。あの家の二階の部屋での目覚めの早朝、あのときのことをよく思い出す。秋である。るうるうと湧き出だすような虫の声のやわらかな海の中を浮上して覚醒していった。その、意識の変遷を私は愛した。無から有へと生まれてゆくとき。確かにあの時わたしはあらゆる世界と思考に通じていたから。

突然閃くようにして新しい論理の地平が開かれる。卒論や修論に行き詰ったときも、あれこれぐずぐず思い悩んでいた時も、さまざまな新しい考えがあぶくのようにぽかぽかと夢のあわいから次々生まれてきて、すべては有機交流電燈としてつながりほのかに明るみ明滅し、うつくしい世界の無限に自在な調和をしめしだしてくれた。

それはなんというか、至福の、あらゆるところに通じたメディアの時空であった。あらゆる世界の現象と論理に。それは、或いは、図書館。

今でも思い出す。阿佐ヶ谷の二階の私の部屋の、夏から秋にかけてのいくつもの朝が重なった風景。
深夜から早朝へのひととき、最初の小鳥が鳴きだすか鳴きださないかのとき、昧爽の私はまだ目を開いていないのに、意識はある。意識は眠る私をどこかから鳥瞰している、読者の目だ。

夜通し鳴き通したはずの虫の声がるうるうといきなり意識の前面に大きくせりあがり湧きあがってきて、わたしを包み、私は寂しく美しい音の雲に包まれて浮遊する感覚を得る。浮き上がってゆく、天井の方まで。

幽体離脱の感覚ってこういうのだな、などと考えている。

死ぬというのがこういう感覚ならば、本当に、この世に何にも恐れることはない。
あの至福の時空に戻るだけなんだ。あかるい、死から再生の可能性にみちたメディアの場所に。

 *** ***

C.S.ルイスの「ナルニア国物語」で、創造主アスランが、世界の始まりの歌を歌うシーンがある。

(ルイスはバリバリのクリスチャンで、あのシリーズはキリスト教の伝道あるいは洗脳童話であるという批判もされているくらいなんで、まあアスランキリスト教的な創造主イメージであると考えてよい。)

ナルニア国物語シリーズはひとつの世界の創世から滅亡までをうたった壮大な物語なんだが、その万物創世、始まりのときのシーン。

創造主の歌の響く間、その特別の「始まりのとき」のあいだ、万物ははじまり生まれ育つ生命の黎明期にある。多分創世記のあの七日間のイメージに重なるものだ。何もかもが生まれ育つ躍動に満ちた素晴らしい情景描写は圧巻だ。

で、それを思い出すのだ。始まり、終わる。そして、永遠が始まる壮大な一連の物語の全てを繋ぐものである、洋服ダンスの扉の向こう側に開かれた、あの霧の中の、あのメディアの時空、あの不思議で壮麗なシーン。不安定で不定形で、始まりの予感に、その歌声に、エナジイに満ち満ちたあのシーン。死と再生がすべてひとつの物語の中にあり、それはそのメディアの空間に繋がったものである。既に死を孕みながら再生への希望と喜びを孕んだ両義の場所。過去と未来をすべてインテグレードした四次元的時空だ。そしてメディアの場所。

 

死ぬということが、だから、あの無からの始まりにつながる物語のイメージとして捕らえられるものであるならば、ということなのだ、つまりね。

このシーンは個人的に随分思い入れがあるんだな。(いやまあナルニア国物語は随所に思い入れがあるんだけど。)ここでも触れてた。三好達治の詩の記事のときだな。

絶望と至福が。(いろいろ改訂版)

絶望と至福がこんな風に交互に極端にやってくるのではまいってしまう。
家の中でイマココに取り込まれ組み込まれ、戻る場所も行き場所もなく逃げることすらできずこの先に希望はない、と絶望していたはずなのに、外に出てひとりになったとたん、懐かしい街の思い出の中に解き放たれた瞬間、ふわりと呼吸が楽になって、これ以上ないほどの幸福感に満たされることができたりする。

まったくねえ。
血圧だって血糖値だって躁鬱だって、とにかく数値の乱高下は一番健康に悪いのだよ。

…で。

ふと、もしかしてこれは本来一つのものなのかもしれない、という考えが浮かぶ
至福と絶望の、この感覚が。感情が、精神が、魂が、その情動のかたちというものが。

表裏、ということか。
そうかもしれない、だがやっぱり違うような気もする。

…そうだ、ウン、これは全然違う。表裏ではない、多層なのだ、世界の基本は。十界互具。

熱いエネルギー、ただ純粋な「過剰」の塊に、周囲の風景が色や形を、名前を、意味を、物語を与える。それが、その論理が、その論理自身の内側の世界と共に、その外側のカオスの意味をも決定づけてゆく、レッテルを張りひとつの論理の中に色付けしてゆく。その数だけ世界ができる。無限の多元宇宙。

外側はカオス、名のないところ、虚無でありマトリックスである。それは安全な論理の世界の内側、コスモス界から見ればいみじい至福と恐怖の対象であり、すなわち至高と解放と恐怖である。日常コスモスは安全でわかる。だから隙間がない。エントロピーは増大し、滅ぶもの。歪み閉ざされ閉塞し疲弊し腐るもの。全体性を本来とする個人のトータルを押し込める理不尽となり絶望を呼ぶ。

ということで、民俗的知恵としての祝祭サイクル論理がある。

ケ(日常)はケがれ、ハレとして外部との祝祭空間をもち再生するサイクルをもつ。宗教的儀式はその役割を担っている。要するに、外部と内部の関係を管理するメディア機能をもっているのだ。

日常のコモンセンス、つまり「管理」から外れた変態的嗜好、痛みと快楽の区別がつかない、ひとつのものであるところにあるという奇妙な感覚の成立する基盤とそれはまったく構造を同じくしている、おそらく。…にんげんがこわれるとき、せかいのわくぐみがこれれるとき。そんな「外部」、そんなところに通じてゆく異形の力。その境界線に位置している、激しい場所。至福と解放、そして虚無の絶望、恐怖という「過剰」。怖れながら惹きよせられてゆく不思議なところ。世界の層の隙間のことである。

それを、その隙間に陥らないようにくびきをつけてコントロールする知恵が日常であり物語なのだ、おそらく。例えば宗教はその知恵を操ってバランスを取ろうとするツールである。その「日常」の物語、絶望と虚無を避け、至高を創造するための物語の機能、位置づけ。日常はまた至高と絶望、宗教の持つ飴と鞭の知恵によってコントロールされるものとなる。包み、包まれるもの。たやすく陥ってもいけないし閉ざされ失われてもいけない生命のダイナミクスそのもの。

とにかくね、自分の今を信用しないことが一番の原理だ。神の死んだ後、この現世を生きる智慧としては。

一つの層に閉じ込められないこと、…もちろんそんなの凡人には無理だ、けど、閉じ込められたときはその集合知(宗教的なるもの、哲学的なるもの、或いは、芸術的なるもの)が、論理としてその外側を教えようとしてくれる。自分を信用するな、すがれ、と、そのめくらめっぽうな手段をとって道標を示してくれる。それだけのことだ。それはメタ認知と呼んでもいいし、読者の視線といってもいいもの。

今までの人生を否定するような絶望を信じない。それは、その限られた時空の、限られた層のおいてのみ成り立っている。喉元にある熱さである。それは喉元をいつか過ぎるものとしてある。いくら逃れてもまたいつでも襲ってくるものだけど。

いつでもそれは反転するものだということをどこか意識のなかに、呪文のように設置しておかなくてはならない。理解できなくても、呪文のように、お守りのように、安全弁のようにしてもっていなくてはならない。

 

…宗教が、欲しいよオレ。
信じたいんだな、絶対のセーフティネットなところを。

孤独というもの

結局ひとりなんだなあ自分。

 

孤独というのは勝ち得るものだ、と春樹の小説にあった。 

さまざまな意味でこれは実にその通りだと思うんだけど。 

勝ち得たものでない孤独というレヴェルのものもやはりあって、それはもう襲いかかってくるものとしてあるものだから、どうしようもなく寂しいもんだなあとも思うんである。それはもう生きるのがやんなっちゃうくらい。 

少しね、意味が違うんだよ、ズレてるんだ、それが定義されるところの文脈が。がらんどうとかからっぽとか。それは白アリみたいに内側から蝕むもの。

 

勝ち得られない孤独という安らぎと尊厳の響きをひそめたそれを外部から暴力的に損なうものという図式からは逃れられないままに、内側からまさにその暴力によって別の孤独は、その寂しさは虚無の響きを帯びて精神を蝕んでゆく。

 「こころ」のKは寂しくってしかたなくて死んでしまったんだろな、とふと思う。人生の意味をまるごと見失う類の寂しさというのはある。エゴや裏切りを恨むということではなく、ただひたすら、寂しい。

 

仕方ないんだけどね、すべてはどっか自分で招いてるものだから。

人からは決して思うように思うものは得られない。寂しい。

それでもしかたないからこのまま生きられるだけなるべく楽しく生きるんだオレ。得たいと思った夢、人や何かを恋う、思うことができたことはたとえそれがどんなに寂しくもどかしくままならず切なく、或いは屈辱的であったとしても、それ自体、痺れるような幸福であることに間違いはないんだから。

 

なにしろ、しかたないからね。

安房直子、金子みすゞ

金子みすゞの詩を読んでいて、その寂しい優しさになだめられた。
この感じは、安房直子さんの効き目に少し似たところがある。

なんだろう。

ひやりとするような怖さも似ている。
優しさは寂しさと同一であり、あきらめと受容と同一である。

だがこれは救済なのだ。唯一の。
むごい不条理もすべてを受け入れあきらめ、すべてのかなしみにただ寄り添う。

それなのに、そのとき、不条理をも含め、世界まるごとそのままのうつくしさをうつくしさとして賛美することができる。

それは、論理だ。非人情ということ。
私はそう思う。或いは、法(ダルマ)。その非人情(漱石が「草枕」で言ってたやつね、確か。)のうつくしさを人情とのあわいにうまれる寂しいあきらめに似た深い深い優しさでくるみ込む言の葉の技術。

あくまでも、それは「外側」にある。システム化された人情の外側の非人情。それは社会的なるもの、制度、物語の内側にあるものとしての倫理や義理人情として流される「情」を離れた、その外側にあるもの、歪みも憎悪も入る余地のない、冷徹で何もかもそぎ落とされた骨組みとしての論理、ただただ、論理である。宇宙の成り立ち、世界のなりたち、現象、電脳のような、「ただそれだけ」のもの。

非常に女性的だ、と思う。
母性というのではない。ただ深く女性的なるものなのだ。或いは、アンチ・ファルス。

更に言えば、ファルスとしてのアイデンティティ、個の概念を離れるために、それは個からの解放であると同時に、個としての死に直結した論理である。怖さや寂しさはそこに由来する。だがそれは、個を「否定する」というのとは違うのだ。ただその外側も内側も、なにもかも等しく肯定する大きな法、論理である。

ここで、個的な特別な思い入れというアンバランスは非人情としては「否定される(はずのものである)が、理解される」。

純然たる論理学や哲学というよりは、言の葉の柔らかさによりそったあいまいな文学という分野の面目躍如たる場面である。救済、甘やかで切ない優しさはそこに由来する。個は、限りなくその存在を肯定されている。失うことをも含めて、それは失われない。(矛盾しているようだが。一度存在したものは永遠にその存在を失うことはない、過去が損なわれることは決してない、「なかったこと」というのはありえない、という論理のもとに。)

一つのアイデンティティとしての、キャラクタライジングされた既成の個の概念からの解放とは、ファルスからの解放とは、つまりは物語の登場人物であることからの解放である。それは読者の超越視線を持つことを意味するものだ。物語の存在とその中の登場人物であることを認め(存在を肯定する)、その上でまたそれを客観視する解放された超越者の視点を持つ構造を創造する手段。コミットしながら解放されている。物語行為(読み書き双方。書くことは世界を読むことであり、また読むことは世界を書き出だすことである。)が、そして芸術一般が、宗教と同様に救済の手立てであることの理由はこの世界構造の発見、その次元をくりあげて己の存在する世界構造をも(虚構)物語内部にあるものと同様であることを見出すような実感、寧ろその体感のような認識と感覚に由来する。

…苦しさが、ほんのりと優しくなだめられる、切なさと寂しさが救済と同義であるという構造は、しかしやはり不思議だ。大きな構造をとらえてみるとき、ホントはそれは全然不思議ではないんだけど。

やっぱり人間は、不思議なのだと思う。

 

安房直子さんの代表作ともいわれる(教科書に使われて知名度が高いってことなんだけど)「きつねの窓」という非常にうつくしい短編がある。

こないだ、いろいろの話のついでにぽろっとこの作者の話を思いだして、どうしても読んでもらいたくなって、会話の相手に、この一冊を差し上げた。気に入っていただけたようで私は嬉しかったんだが、(絶対気に入っていただけると思って差し上げたのだ。)ついでに自分も久しぶりに読み返して、やはり幾度でも新鮮に心に沁みるこの喪失のかなしみにみちた救いのない救済の響きを聴いた。聖書の言葉のようにして聴いた。僥倖であった。これもコーランに書いてあったんだろう。(運命である、という意味である。)

青のいろの使いかた。「なめとこ山のくま」的な、狩るもの狩られるもの、自然と動物との関係性、経済社会と個的な世界の価値関係の反転。(「代償」の意味の決定的な変換が仕込まれている。)流れる日々、日常の中に埋め込まれたイデア、喪失と救済のための、何人にも侵されることのない自分だけの「御大切」。永遠の過去の場所。

たくさんのテーマを、安房直子作品にさまざまに展開されるそれらをまたひとつひとつ掘り出して磨き上げて抱きしめ、またそっと心の奥に埋めなおす。そんな風にして、書きたい。誰も書いてないことを書いて残したい。

読み返すごとに、新しくよみがえる。言葉を咀嚼し磨き直し自分の中に現在させまたそっとしまいこむ。この行為は、読書の現場を重ねてゆく行為である。作品が都度新しく自分を重ねた形に昇華され消化されてゆくプロセスである。読み返し或いは思い出すごとに。

ちょっとね、そう思ったんだな。野望だな。もう少しだけ生きてくための。


「物語は、作品は、作者と読者とテクストの三位一体となって、三者のその境目は失われてゆくものとなるためにナラトロジックな構造をもっているのだ。どんどんと自分と一体化してゆく。自分は解放され自分にすべては取り込まれる。内側からも外側からも解放される大切な場所を持つことができる。」

この構造を証明するためのね。

猫と中央線

犬は人に付き、猫は場所に付くという。とすれば、私は完全に猫派である。

大体犬は苦手でなんである。子供の頃野犬集団に追いかけられたトラウマのせいかもしれぬ。
だが、家族親族、私以外は皆犬が好きらしい。犬派であるらしい。子供にはほぼ無関心な父でさえ、姉んちの愛らしいヨークシャーテリアは猫かわいがりする。(犬だが。)無垢でいちずで人間を愛する文化に取り込まれた狼の末裔、忠実な犬。

私だけきっとどこか徹底的に何かが欠けている。どっかの木の股からたまたま生まれた異形のモノなのではないかと、子供の頃から思っていた。実際、高校の頃など、よく座敷童とか自転車のかごにはいってるネコのようだとか青い血が流れてるでしょとかよくわからない評価を受けていた。

気がつくと教室の隅っこにただひっそりと存在している異界の生物な感じなのかね、思うに。(ひょっとしてさ、「ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフモノニ…」の理想形ではないか、これってもしや。)(そうして私は心の底からそれを望んでいたし望み続けている。)(いや褒められたいのは褒められたいけど。)(毀誉褒貶は全部セットだからな、疲れちゃうんだよ。)(「井戸のつるべじゃあるめえし、上げたり下げたりしてもらうめえぜえ。」)(…やっぱりちょっと寂しいかな。)

で、場所、ということ。
トポス。すでに単なる空間という概念を越え、時空の概念を完全に統合した世界構造に対する空間的アプローチを意味する言葉である。それ自体が構造として全体性と意味をもったところ。

ということで、個人的な場所への思いをトポスとして考えてみる。
個人的な思い出が増えるたびにその人も場所も、心の中に現象した風景として写し込まれ、その時だけの(永遠の現在の一枚として、インデックスとして取り込まれる。これは「標本」だ。存在を証明するための標本のカタログが人生の記録として増えてゆく。標本とは、知識であり、またそれは存在という内実、その実在へ至るための道標である。

昔から思っていた。例えば人を好きになることは、その人ではなく、自分がその人といる風景まるごとを愛することなのではないかということを。あくまでも、対象はそのひと自身、単体、アイデンティティを指すのではない、その風景を指すものである。己と対象とを含んだ風景という現象を、そのひとつの世界を「そのひと」として愛するのだ。

つまり、私はおそらく、ひとりの人間の個性というものを、その絶対的なアイデンティティとしては信じていない。それは自分のそれを信じていないからである。現象として、関係性として、或いは夢見られた物語として、それらすべてを統合したトポス、意味に満ちた場所として、そこからくる幸福感と意味と物語を、愛する。だからこそ人を愛することは、自分を愛することであり、世界を愛することなのだ、きっと。

よくね、恋をすると世界のすべてが輝いて見えるとかいうやつ。これもそのひとつの解釈としての表現なんじゃないかと思うよオレ。喜びや切なさや痛みや、とにかく、エナジイに満ちたところ、それが発生するところ。あらゆる意味と物語を発生させる力の、世界のアルケーとしての場所。

喜びや痛みや、そのような情動に満たされたエナジイにみちたその空間は、永遠につながる一瞬の切り込み、神話的時空に繋がるところ、あるいはそれは、アボリジニたちの言う「ドリーム・タイム」なのだ。神話的空間…だからこれがアレなんだよ、西田のその「永遠の現在」の構造。意味に満たされた完全な世界。

なんでこのことを思い出したかっていうとだな…えっとだな、中央線沿線が私のひとつのメインを成す故郷なんだけど。…つまりだな、私は幸せだったのだ。美しく晴れた11月、晩秋の明るい光に満たされた懐かしい日曜日の中央線に揺られていたとき、その場所だけに開かれた時空に包まれたとき。とても自由だった。過去の中で自由だった。

思い出したのだ、街の風景の中に沁み込んだいろんな人との思い出の重層が現在に重なってよみがえってくるような、その感覚とともに生きていた。生きてきたよかったと思い、その現在を今の目の前の人々の人生すべての豊かさに重ねて、世界は現在過去未来すべてを含んで光に満ちて豊かであった。永遠の現在。

 

猫ってみんなこんな風に場所に思いをもってるのかなあ、ひょっとして。

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